ブラウ作戦

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ブラウ作戦
Bundesarchiv Bild 146-1970-033-04, Russland, Kaukasus, Gebirgsjäger.jpg
1942年9月 中央カフカースチェベルダー英語版近郊で2cm対空砲を撃つドイツの山岳猟兵
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日:1942年6月28日 - 1942年11月24日
場所ソビエト連邦ロシア南部、カフカースクバン川ヴォロネジスターリングラードロストフ・ナ・ドヌ
結果:枢軸国の戦略的敗北
交戦勢力
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
ルーマニア王国の旗 ルーマニア王国
イタリア王国の旗 イタリア王国
ハンガリーの旗 ハンガリー王国
Flag of Independent State of Croatia.svg クロアチア独立国
スロバキア共和国の旗 スロバキア共和国
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指導者・指揮官
ナチス・ドイツの旗 アドルフ・ヒトラー
ナチス・ドイツの旗 フェードア・フォン・ボック
ナチス・ドイツの旗 マクシミリアン・フォン・ヴァイクス
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・リスト
ナチス・ドイツの旗 エーリッヒ・フォン・マンシュタイン
ナチス・ドイツの旗 エヴァルト・フォン・クライスト
ナチス・ドイツの旗 アレクサンダー・レーア
ナチス・ドイツの旗 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン
ソビエト連邦の旗 ゲオルギー・ジューコフ
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー
ソビエト連邦の旗 コンスタンチン・ロコソフスキー
ソビエト連邦の旗 セミョーン・チモシェンコ
ソビエト連邦の旗 ドミトリー・コズロフ
ソビエト連邦の旗 イワン・チュレネフ
ソビエト連邦の旗 セミョーン・ブジョーンヌイ
ソビエト連邦の旗 フィリップ・ゴリコフ
ソビエト連邦の旗 ロディオン・マリノフスキー
ソビエト連邦の旗 アンドレイ・エリョーメンコ
戦力
合計:1,300,000
  ドイツ兵 1,000,000
  同盟国 300,000
戦車 1900両
合計:2,700,000
  1,700,000
  予備兵 1,000,000
戦車 3720両
~ 航空機1671機
損害
1,013,000 2,226,416
死傷・行方不明 1,111,681
負傷者 1,114,735
独ソ戦

ブラウ作戦(ブラウさくせん、ドイツ語Unternehmen Blau)は、第二次世界大戦中の1942年のドイツ軍夏季攻勢計画の名前である。作戦地域は、ロシア南部で、ボルガ河西岸への到達と、コーカサスの征服を含んだ、野心的な作戦計画であった。ドイツ軍は、作戦計画に、色名をつけることが多かったが(ポーランド侵攻=白、低地諸国・フランス侵攻=黄)、「ブラウ」はドイツ語での意である。

背景と目的[編集]

1941年のバルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)は、失敗に終わり、ソビエト政権の打倒も、講和も達成出来なかった、1941年12月11日には、日本との同盟維持の為に、アメリカ合衆国にも、宣戦布告したため、ドイツは、米英ソ相手の長期戦に陥ってしまった。そのような状況のもとで、軍事情勢、戦争経済、周辺国への政治的影響を考慮して、ヒトラーと参謀本部の間で、練られたのが、1942年の夏季攻勢計画であるブラウ作戦である。作戦立案者は、前年受けた損害により、もはやドイツ軍は、1941年のような全戦線で攻勢に出る力を持っていないと認識し、戦争経済の観点から、ロシア南部を指向する案を計画した

参謀本部の原案は、ソ連経済のアキレス腱は、石油供給源が、ほとんどバクー油田に依存している事に着目し、この石油補給路を断つことにより、経済を麻痺させソ連の継戦能力を奪おうとするものであった。すなわち、スターリングラード近郊でボルガ河西岸に到達しボルガ河のタンカー運航を阻止し、次に、アストラハンを攻略し鉄道輸送による石油供給を断つ、というものであった。バクー油田の占領は、原案には、含まれていなかった。

しかし、ヒトラー(陸軍最高司令官も兼任)は、この原案には不同意で、自身で大幅に書きなおしたものが、実際の作戦計画となった。

作戦計画[編集]

作戦計画は、2段階になっており、第一段階で、ドン河西岸のソ連軍を撃破し渡河点を確保し、第二段階では、攻勢軸を2つにわけ、ひとつはスターリングラード周辺でボルガ河西岸に到達する事(のちのB軍集団)、もうひとつは、コーカサス半島をはるかに南下しバクー油田を占領する事(のちのA軍集団)が、目睫とされた。

ドイツ軍の将軍の間では、補給能力限界や4000m級の山岳が連なるカフカス山脈を超えてのバクーまでの進撃の困難さをあげ、この案には反対の者が多かったが、ヒトラーは、押し切った。


作戦開始時の両軍の兵力[編集]

経過[編集]

ソ連軍はドイツ軍の行動を当初モスクワへの攻勢と予想、B軍集団に対してヴォロネジで阻止を試みて激戦となったが、ドイツ軍はここを突破する。この時A軍集団もロストフ付近で激戦となったため、B軍集団の第4装甲軍から多数の装甲師団と自動車化歩兵師団が支援することとなった。そのため第6軍のみで先にスターリングラードを目指す事となる。その後ソ連軍は戦略的撤退を行い、A・B両軍集団は共に快進撃(特に第6軍は数週間で1,000キロ以上も進撃)し[1]、どの部隊も物資、燃料などの補給が追い付かなくなっていった。

ドイツ軍の進撃。1942年5月から1942年11月にかけての前線の推移
ブラウ作戦後、1942年11月から1943年3月にかけての前線の推移

A軍集団の戦闘[編集]

A軍集団は7月25日、ソ連海軍の拠点にあたるロストフを占領し、ソ連黒海艦隊を無力化して黒海の制海権を押さえる[2]と、カフカースへ向けて進撃し、8月9日には大規模な油田施設のあるマイコープを占領した。A軍集団は既に補給線が長く伸び、ハルダーが危惧したとおり補給が追いつかなくなっていった。そのため石油が不足していたので、グロズヌイやマイコープの油田の石油を確保する事をあてにしていたが、たどり着いたときにはソ連軍によって油田施設は破壊されていた。これが後に大きな影響を与える。

8月21日にはノヴォシーロフを占領。9月1日には一年以上も続いたセヴァストポリの戦いを終えた第11軍が、初期の予定よりだいぶ遅れて、A軍集団支援の為にケルチからタマン半島に上陸した。第11軍はカフカース南東部へ進撃するA軍集団を西部から援護攻撃して、補給改善のために黒海沿岸の港湾都市を占領し海からの補給を確保しようとした。9月6日にはタマン半島の南側の黒海に面する港湾都市ノヴォロシースクを占領。A軍集団も油田地帯であるクバン川流域の町を次々と占領していった。しかし油田施設はやはりソ連軍によって破壊され一つも確保できず、石油の早期確保を目指していたブラウ作戦の初期目標で達成されていたことといえば、ドイツ軍の山岳部隊が8月23日にカフカース山脈の最高峰のエルブルス山に登頂したことぐらいだった。これはニュース映画用のパフォーマンス程度の意味合いしかなく、軍事的には無意味だったためヒトラーの怒りを買う。ヒトラーはA軍集団の指揮権をリスト将軍から剥奪し、自ら指揮をとることとなった。この後、補給もままならない状態で乱発される進撃命令が将兵を苦しめる。

10月6日、ドイツ軍はマルゴベクに至るが、ソ連軍の抵抗と石油不足によって一時攻勢を停止せざるを得なくなる。この時ソ連軍はドイツ軍の爆撃を受けつつもアストラハンからの補給線を確保し、現地のパルチザンとも協力して抵抗を強めていた。ソ連軍の戦略的撤退は完了し、反撃の為の補給を受けつつあったのである。初期の作戦ではスターリングラードとアストラハンの両都市を制圧後、バクーを攻略する計画であったが、B軍集団のスターリングラードでの苦戦によって連携を欠いていた。またマイコープからバクーまでの行程はそれまでの平原とは違い、カフカース山脈の尾根が連なる山岳地帯であった。この地域の道路は他のソ連領内同様に整備されておらず、鉄道も破壊されており、補給もままならないためドイツ軍の進撃は滞った。このような地形は装甲部隊の進撃には適しておらず、逆にパルチザンやソ連軍にとって防衛には適していた。それでもドイツ軍は10月25日にテレク川の南で攻勢を再開し、オルジョニキーゼ付近まで進出したが、ついにグロズヌイから僅か60キロの所でついに石油が尽き、進撃を停止してしまった(結果的にはここが東部戦線におけるドイツ陸軍の最遠進出地となる)。

11月8日、ソ連軍がテレク川付近で攻勢を開始したため、ドイツ軍はバクー攻略をあきらめてカフカース西部まで撤退をはじめた。さらに11月22日には当戦線の背後にあたるスターリングラードのB軍集団が包囲されてしまった。これによりA軍集団は突出した形となり、ソ連軍はさらにカフカースのA軍集団も包囲しようと、側面を守っていた脆弱なイタリア軍歩兵師団を狙って攻勢を開始。12月28日にヒトラーは東部戦線の崩壊を避けるため、A軍集団にカフカースからの退却を命令する。フォン・クライスト将軍が撤退の指揮を任され、A軍集団は奇跡的に包囲網が完成する前にほぼ全部隊の撤退をすることに成功した。だが、長期戦に備えるためにカフカース油田地帯を確保してソ連の継戦能力を奪い、さらにトルコをカフカース方面の国境でも包囲して参戦させることを狙った、ブラウ作戦の本来の目的を達成することはできなかった。こうして戦力を消耗させたにも関わらずヒトラーの石油確保の目論みは完全に失敗し、ドイツ軍の石油事情は改善される事は無かった。

B軍集団の戦闘[編集]

B軍集団は、A軍集団支援の為引き抜かれていた第4装甲軍を取り戻してやっと攻勢を順調にしたが、すでに作戦は予定よりも三週間遅れていた。先に進んでいた第6軍は8月14日にドン川屈曲部のソ連軍を排除し、8月21日にはクレツスカヤ付近でドン川を渡りスターリングラード攻防戦が始まった。8月25日、スターリングラードの包囲が完成し、9月3日スターリングラードの南で第4装甲軍の一部がヴォルガ川西岸に到達。9月4日、ドイツ空軍機約1,000機が2週間に及ぶスターリングラードの爆撃を開始し、市内は瓦礫と化した。この時、ウクライナ各地からの難民が集まっていたスターリングラードの市民にもやっと避難令が出たが、もはやその実行は不可能であった。9月13日、市内に侵入したドイツ軍は一ヶ月以上も市街戦を続け、10月中旬頃にはヴォルガ河岸まであと150mの地域まで進出したが、ソビエト軍守備隊も1日に2,500人もの犠牲をはらいながら死守を続けていた。ドイツ側の消耗も激しく、たとえば第305歩兵師団のある連隊は戦闘可能な兵が1,200人から60人にまで減っていた。ドイツ軍兵士には砲弾恐怖症になるものも出た。さらに冬が近いにも関わらず兵士たちに冬用装備は無く、悪化する状況に第6軍指揮官フリードリヒ・パウルス大将は10月6日戦闘を停止させる。10月22日、ついに雪が降り始めた。

ヒトラーはスターリングラードをもう既に制圧したつもりであったため、11月8日に演説で「もはや船1隻たりともヴォルガ川をのぼることはできない」と豪語した。しかしこの演説から10日後、ソ連軍(約100万人)がついに包囲行動を開始、ドイツ軍の側面を守備していたルーマニア軍・ハンガリー軍の脆弱な部分を蹂躙し、22日には逆包囲網が完成した。ドイツ空軍は包囲するソ連軍を爆撃したが、ルーマニア軍・ハンガリー軍の装備は旧式の大砲や馬を中心とする歩兵師団であり、また第4装甲軍の戦車で稼動できていたのはこの時点でたった約100両で、T-34戦車を1,200両余りも投入したソ連軍に反撃する能力は残っていなかった。

冬の嵐作戦[編集]

ヒトラーは第6軍のスターリングラード死守を命じたが、ルーマニア軍の最高指揮官イオン・アントネスク元帥は脱出を主張。長い協議の末に救援作戦が決定され、ドン軍集団が編成され、マンシュタイン元帥に指揮が委ねられた。マンシュタイン元帥は12月11日、第6軍の救出作戦「冬の嵐作戦」を開始し、最後の予備兵力であったホート将軍の装甲軍団を送りこんで南西部から進撃していった。この方面のソ連軍の配備は手薄だったため進撃は順調で、スターリングラードに取り残された第6軍兵士は、最後の望みである救出部隊の戦闘音が近くなるのを喜んだ。先頭の部隊は照明弾を第6軍に向けて撃ち、第6軍の脱出は可能になるかと思われた。しかしヒトラーから死守命令を受けていた第6軍パウルス将軍は燃料不足を理由に脱出を拒否する。さらにソ連第2親衛軍がドン河畔で攻勢に出てからは激戦となり、救出部隊の進撃は停止する。救出部隊は戦力不足のため、損害も日に日に多くなっていた。12月24日、このままホート装甲軍団を失っては予備兵力がなくなり、東部戦線全体が崩壊すると危惧したマンシュタイン元帥はドン川南から全面的に退却を始める。これ以後、SS将校やヒトラーに脱出を認められた将官達は、兵士たちを残したまま輸送機でスターリングラードを去っていった。クリスマスを過ぎてから、ソ連軍はスターリングラードの包囲網をさらに狭め、状況はさらに悪化していく[3]

スターリングラードの戦い 1942年11月19日(青)から同年12月24日(緑:スターリングラード攻囲後)にかけての前線の推移

スターリングラードのドイツ軍の降伏[編集]

スターリングラードに取り残されたドイツ第六軍と第4装甲軍の一部と同盟国軍のルーマニア軍・ハンガリー軍(約33万人)は、ドイツ空軍の輸送機による補給で辛うじて命をつないでいた。既に兵士一人への1日の食料はパン50gとなっていた。運のいい負傷兵(約4万人)は輸送機で病院へ運ばれたが、ほとんどの兵士はチフス栄養失調凍傷等で命を落としていた。市内には1万人以上の市民が残っていたが、ドイツ兵達は彼らから食料を接収せざるを得なかった。兵士も市民も飢えに苦しみ、軍馬や犬、最後には人肉を食うしかなくなるケースすらあった。1月に入るとソ連軍による包囲網はさらに狭められ、ヒトムニク飛行場が攻撃され、70機以上の航空機が地上で破壊された。

1月8日、ソ連軍は第6軍に名誉ある降伏を求めたが、パウルス上級大将はヒトラーの命で拒否。翌々日にはソ連7個軍の攻勢が始まり、陣地は次々に突破されていった。1月14日、ヒトラーの下にビンリッヒ・ベーア大尉が送られて戦況を報告し降伏交渉の許可を求めるが、ヒトラーは断固としてそれを認めなかった。1月30日、ヒトラー政権誕生10周年の党大会でヘルマン・ゲーリングは「少し残酷に聞こえるかもしれないが、ノルウェー・アフリカ・スターリングラードでの兵士の死は大きな問題ではない。最終的には我が軍の勝利する地となるからだ。」と演説。ヨーゼフ・ゲッベルスも「この困難を乗り越えてこそ真の勝利者となれるのだ。」と述べ、スターリングラードでの敗退を決め付け、第6軍の兵士たちを見捨てた。そしてこの日、ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させる。ドイツ軍の歴史に降伏を選択した元帥はおらず、すなわち昇進は自決を意味する。しかし翌日、南部のパウルス元帥及び彼が率いるドイツ軍は降伏した。2月2日には北部のドイツ軍も降伏した。小規模な戦闘は3月まで続いた。

生き残りの10万人のドイツ兵は捕虜となったが、収容所までの移動により2万人が死亡する(歩けない者は見捨てられるか射殺だった)。このときソ連は各地で鉄道網が爆撃されていて食料補給さえまともにできず、軍は支給される食料の半分を捕虜にまわしていたというものの、それでも飢えとチフスによりさらに5万人が死亡した。シベリアカザフスタンに移送される際に1万3,000人(貨車に乗せられて、食事は三日に一度だった)が死亡。さらに移送先のラーゲリにおける炭・ウラン採掘という過酷な労働をさせられて次々に命を落とし、最終的には戦後まで生き残れたのは5,700人程度であった。

ブラウ作戦の結果と敗因・その後への影響[編集]

ブラウ作戦は立案時よりヒトラーが深く関与していた。「総統は作戦会議中、提示した作戦に反対する将軍たちに激怒し、地図のカフカースとスターリングラードに拳をつきつけて“この作戦を支持するか?”と聞いた」(フランツ・ハルダーの証言)。ヒトラーは自分の根拠のない直感と自論の“戦争経済”だけをもとに作戦を推し進め、ソ連軍を侮って自軍を過大評価していた。最初から失敗が決まっていた作戦だったとも言える。たとえば6月頃に諜報機関から“ウラル山脈周辺の工場から大量の戦車が貨物列車で送られている”という情報がもたらされていたが、ヒトラーはこれを黙殺している。

さらにヒトラーは乱命を繰り返した。苦戦するA軍集団を支援するためにB軍集団から装甲師団を引き抜いたため、スターリングラードにはまず第6軍のみが到達し、予定より三週間も遅れて第4装甲軍が着くのを待って突入が開始された。この間にスターリングラードには多くの陣地が作られ、撤退してきたソ連軍部隊が集結していた。A軍集団の指揮権を剥奪し、自ら指揮したことも部隊を混乱させている。最も悪い結果をもたらしたのはスターリングラード死守命令であり、第6軍のパウルス将軍もそれを遵守したため、第6軍は脱出も降伏も不可能となった。その結果、約30万のドイツ・ルーマニア・ハンガリー兵と約50万のソ連兵、そして一般市民を合わせて100万人以上が犠牲になっている。ドイツ軍は多くの精鋭師団を失い、東部戦線の主導権がソ連軍に移っていくという事態を招いた。さらにブルガリア、ルーマニアなどの同盟諸国からの信頼も失ってしまった。(もっともこの後、マンシュタイン元帥の指揮によって第三次ハリコフ攻防戦に勝利し、一時的にではあるが東部戦線を維持することはできた)

この作戦はドイツ軍にとって人的被害が極めて大きく、この後はそれまで兵役を免除されていた熟練工や工場労働者も前線に動員されるようになっていった。これは国内の軍需生産率が悪くなっていった原因のひとつであった。

脚注[編集]

  1. ^ 占領下のパリからドイツ第6軍に加わって進軍中の第23装甲師団に対してソ連が空から投下したビラには「第23装甲師団の兵士諸君、ソ連邦へようこそ。華やかなパリ生活はこれでおしまい。この土地がどんなところか戦友から聞かれたはずだが、やがて諸君みずからそれを体験されるだろう」と書かれていた。(『ライフ ソ連軍の大反攻』 P.117)
  2. ^ しかしトルコの中立によるダーダネルスボスポラス海峡の軍艦通航禁止と、イギリス海軍の妨害によって、ドイツの船舶で黒海に進出できるものは少なく、現地で接収したものを含めても、補給にはあまり貢献しなかった。
  3. ^ 伊藤裕之助「ドイツ第6軍 スターリングラードに消ゆ」(『PANZER』No.312、アルゴノート社、1999年2月、52頁)。

参考文献[編集]

  • ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ソ連軍の大反攻」』、タイム ライフ ブックス

外部リンク[編集]