ヨーゼフ・ゲッベルス

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ナチス・ドイツの旗 ドイツ国の政治家
ヨーゼフ・ゲッベルス
Paul Joseph Goebbels
Bundesarchiv Bild 146-1968-101-20A, Joseph Goebbels.jpg
生年月日 1897年10月29日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
Flag of Prussia (1892-1918).svg プロイセン王国
Flagge Herzogtum Sachsen-Coburg-Gotha (1826-1911).svg ライン州ドイツ語版ライトドイツ語版
没年月日 (1945-05-01) 1945年5月1日(満47歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
Flag of Prussia (1918–1933).svg プロイセン州ベルリン
出身校 ボン大学
フライブルク大学
ヴュルツブルク大学
ミュンヘン大学
ハイデルベルク大学
所属政党 ドイツ民族自由党国家社会主義ドイツ労働者党
称号 哲学博士号(ハイデルベルク大学)
黄金ナチ党員バッジ
配偶者 マクダ・ゲッベルス
サイン Joseph Goebbels Signature.svg

在任期間 1945年4月30日 - 5月1日[1]
大統領 カール・デーニッツ

内閣 ヒトラー内閣
在任期間 1933年3月13日 - 1945年4月30日[2]

選挙区 2区(西ベルリン地区)
在任期間 1928年5月20日 - 1945年5月1日[3]

Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義ドイツ労働者党
大ベルリン大管区指導者
在任期間 1928年10月1日 - 1945年5月1日[4]

Reichsadler der Deutsches Reich (1933–1945).svg 国家社会主義ドイツ労働者党
宣伝全国指導者ドイツ語版
在任期間 1929年1月9日 - 1945年5月1日
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パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスPaul Joseph Goebbels De-Paul Joseph Goebbels.oga 発音[ヘルプ/ファイル]1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツ政治家

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラーの政権掌握とナチ党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、直後に家族とともに自殺した。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1897年10月29日ドイツ帝国プロイセン王国ライン州ドイツ語版に属する人口3万人の小都市ライトドイツ語版のオーデンキルヒェナー通り(Odenkirchener Straße)186番地で生まれた[5]。ライトはミュンヘン=グラートバッハ(現在のメンヒェングラートバッハ)と川を挟んで隣り合う双子都市で、主要産業はミュンヘングラートバッハと同じく織物だった[6]。宗教はローマ・カトリックが支配的であり、ゲッベルスの両親も敬虔なカトリックであった[7]

父のフリードリヒ・ゲッベルス (Friedrich Goebbels) は、貧しい職工の家に生まれ、工場の事務職を経て業務支配人まで出世した人物であった。ゲッベルス家は2階建ての持ち家を有していたが、父の給料は一般の職工とそれほど変わりがなく、家計はどちらかといえば貧しかった[7]

母のマリア・カタリナ(Maria Katharina, 旧姓オーデンハウゼン (Odenhausen))はオランダ人鍛冶屋の娘でフリードリヒとの結婚前にドイツ国籍を取得した女性であった。ゲッベルスは常に母カタリナを尊敬していたが、彼女が元オランダ人である事実はひた隠しにしていた[8]

ゲッベルスは夫妻の三男であり、兄にハンスドイツ語版とコンラート (Konrad) 、姉にエリーザベト (Elisabeth)、妹にマリア (Maria) がいる[9]。両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれていた[10]

ゲッベルスは、4歳の時に右下腿部に小児麻痺を患い、手術することとなった。そのためゲッベルスの発育は著しく遅れ、左右で足の長さが異なり、歩行がやや不自由な身体障害者となった。ゲッベルスは生涯にわたって整形医療具に萎えた足を包み、それを後ろに引きずるように歩くことを余儀なくされた[11][12]。他の子供らが興じていたダンス・スポーツ・遊びにも少年ゲッベルスは一切参加できなかった[12]。このことは、成人してからも身長がドイツ人としては小柄な165cmしかなかった[13]こととともに、ゲッベルスの決定的なコンプレックスとなり、彼の人格形成に大きな影響を与えた。後にゲッベルスは自作の小説『ミヒャエル』の中で自らを投影した主人公ミヒャエル・フォーアマンを通じてこの時の心情をこう告白している。「他の少年たちが走ったり、はしゃいだり、飛び跳ねたりするのを見るたび、彼は自分にこんな仕打ちをした神を恨んだ。それから自分と同じではない他の子供たちを憎んだ。さらにこんな不具合者をなおも愛そうとする自分の母を嘲笑した」[12]

ギムナジウム在学中のゲッベルス(1916年)

友達と遊ぶことのできないゲッベルスは学校から帰ると屋根裏の自分の部屋に閉じこもって読書ばかりするようになった。特に縮刷廉価版のマイアー百科事典ドイツ語版を愛読して、幅広い知識を身につけたという。ゲッベルスの学校の成績は常に優秀であった。父フリードリヒも息子ならば「ドクトル(博士号)」取得は不可能ではないとみて、貧しい家計をやりくりして彼を1908年からギムナジウムへ通わせることにした[14]。肉体的劣等感をばねに、さらに勉学に励んだゲッベルスの成績はギムナジウムでも首位を占めることが多かった。しかし彼は人から好かれるタイプではなく、担任の教師からも嫌われていたので教師の歓心を得ようと同級生の告げ口をすることが多かったという[15]

1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると学校は愛国心の熱狂に包まれ、多くの学生たちが出征を希望した。ゲッベルスも従軍を希望し、兵員募集に応じて兵役検査を受けたが、担当の軍医は障害者などまともに相手にせず、一瞥しただけで検査にかける事も無く兵役不適格者と認定した。その日ゲッベルスは部屋で夜通し泣きじゃくったという[16]。多くの同級生が出征していくなか、ゲッベルスはギムナジウムに取り残されて勉学を続けることとなった。兄二人は出征し、西部戦線で戦った。兄ハンスは1916年にフランス軍の捕虜となっている[17]

1917年にギムナジウムを卒業し、大学進学資格を得た。卒業成績はラテン語国語宗教が「優」であった。ギリシア語フランス語歴史地理数学物理もそれに次ぐ「良」であった[18]

大学時代[編集]

大学生時代のゲッベルス(1919年)

ギムナジウムを出た後、親の仕送りや家庭教師のアルバイトでやりくりして耐乏生活を送りながらボン大学に在学し、歴史と文学を専攻したが、まもなく生活困難になり、1917年9月にはカトリックの慈善団体アルベルトゥス・マグヌス協会に奨学金の貸与を申請し、許可されている。この際にゲッベルスは面接官の神父から「君は神を信じていないな」と言われたという逸話があるが、その逸話には根拠はないとされている[19]。しかし後に反カトリックとなったゲッベルスはこの時の奨学金を長く返済しようとしなかった。1930年に協会は当時国会議員になっていた彼を相手取って訴訟を起こして取り戻している[20]

ボン大学では歴史と文学を中心に学び、特にゲーテの劇作を熱心に研究した。ドイツでは二つか三つの大学を転々として勉学するのが普通であるが、彼は他の学生より多めに大学を転々としている。1918年夏にはフライブルク大学へ移り、授業料を免除されて古代ギリシャやローマの影響を研究する考古学者・古典芸術研究家ヴィンケルマンの研究にあたった。さらに冬にはヴュルツブルク大学へ移って古代史と近代史を学んだ[21]

この時期に起きた第一次世界大戦の敗戦やドイツ革命による混乱については、1918年11月13日に友人フリッツ・プラング(Fritz Prang)に宛てた手紙で次のように書いた。「君もまた野蛮な大衆の声よりも知識人階級の指導が要望される時が再びやってくると思わないか。我々はそういう時が一刻も早く訪れることを待望しようじゃないか。そしてその日に備えて我々の知識を辛抱強く鍛えようではないか。現下のような祖国の暗黒時代に生きることは全く辛いことだ。しかしこの辛さに耐えて生き抜くことが後日、我々に大きな利益をもたらさないと誰が言えよう。なるほどドイツは戦争に負けた。だがしかし我らの愛する祖国が、いつの日か勝利者の地位にとって代わることがないと誰が言えよう」[22]

1919年夏には再びフライブルク大学へ戻ったが、この頃からカトリックへの信仰心が薄れたとみられ、カトリック学生同盟から離れている。また1919年冬にはミュンヘン大学に移るが、ますますカトリック教会との関係を断ちたがるようになり、奨学金を受けた生徒の義務だった協会への勉学報告書の提出も怠るようになった。敬虔な父からも心配され、迷いを捨ててひたすら神へ祈りをささげるよう求める手紙を送られている[23]

1920年にハイデルベルク大学へ移り、歴史、言語学、美術、文学を学んだ[24]。また1921年春から4か月かけて博士論文『劇作家としてのウィルヘルム・フォン・シュッツドイツ語版。ロマン派戯曲史への寄与(Wilhelm von Schütz als Dramatiker. Ein Beitrag zur Geschichte des Dramas der Romantischen Schule)』を執筆し、これにより1922年4月21日にハイデルベルク大学より博士号(Dr. phil.)を授与された[25]。この学位授与はゲッベルスの知識人としてのプライドを大いに満足させた[26]。なおこの論文は美学的関心が主であり、政治的傾向はほとんど見受けられないが、ゲッベルスは宣伝大臣となった後、自分が学生時代から政治に関心を持っていたかのように糊塗するために論文のタイトルを『初期ロマンチシズムの精神的、政治的傾向』に改めさせている[27]

大学時代には左翼的な思想を持っていたと見られる。フライブルク大学在学中にリヒャルト・フリスゲス(Richard Flisges)という共産主義者の復員兵と知り合った関係で彼からマルクスエンゲルスの著作、ヴィルヘルム2世とドイツ軍国主義を批判するラーテナウの著作、ロシアびいきのフリスゲスが好きなドストエフスキーの著作などを借りて読むようになり、それらから思想的影響を受けた。反戦とワイマール憲法支持を唱えるリベラル紙『ベルリナー・ターゲブラットドイツ語版』の熱心な読者にもなり、同紙に50通も投稿を行っているが、投稿が紙面に採用してもらえたことはなかった[28]

また大学在学中のゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けたフリードリヒ・グンドルフドイツ語版教授はユダヤ人であり、博士論文の執筆指導教員マックス・フォン・ヴァルトベルクドイツ語版男爵も片親がユダヤ人の半ユダヤ人だった[29]。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人のエルゼ・ヤンケ (Else Janke) という女性と恋愛関係にあった[30]。1919年に友人に宛てて送った手紙の中にも「きみも知っての通り、僕はこの行き過ぎた反ユダヤ主義者たちが嫌いではないかもしれない。確かにユダヤ人は、僕の特別な友人だとは言えないけれども、罵倒や非難、さらに迫害によってユダヤ人を始末してはいけないと思う。たとえそのやり方が許されるとしても、それは高潔ではないし、人間性に悖る」と書かれている[31]

知識人のプライドと失業と反ユダヤ主義[編集]

1922年のゲッベルス

1922年に大学を卒業したが、職が見つからず、一時ライトの両親の家に戻ることとなった。その後、ドレスナー銀行ケルン支店にようやく仕事を見つけたが、不況によりわずか9か月で解雇されている。この銀行に勤務していた頃に1923年の大インフレを経験しており、ドイツ経済の惨状を目の当たりにした。ゲッベルス自身もますます貧困に苦しむこととなった。彼は反資本主義の思想を持つようになり、これが高じて反ユダヤ主義の思想を徐々に芽生えさせた。資本主義経済を牛耳る「国際金融ユダヤ人」に対して「生存のための戦い」を挑む以外に「より良い世界」への道は開けないというユダヤ陰謀論を唱え始めるようになった[30]

家族への恥ずかしさのあまり、リストラ後もしばらくケルンへ通うふりをしている。しかしやがて路頭に迷って家族に失業を打ち明けるしかなくなった[32]。失業中は少年時代の頃のように再び部屋にこもりがちになった。家族からは「貧しい家計をやりくりして勉強させてやったのに」と白眼視された[33]

彼は、新聞社のジャーナリストか放送局の文芸部員に再就職しようとしたが、いずれの会社からも採用を拒否された。この時、彼の採用を拒否した会社の中にはユダヤ系企業もあった。彼の目には知識人である自分に生活の糧を与えようとしないこの世界は「ユダヤ化されている」と映り、ユダヤ人への憎しみを強めることとなった[32]

恋人のエルゼもこの時期からゲッベルスの反ユダヤ主義の高まりを感じるようになった。ゲッベルスは彼女に「ユダヤ人がドイツの文学を支配しているので、せっかく骨を折って書き上げた傑作も突き返される」「ユダヤ人でなければ、文壇にも、劇壇にも、映画界にも、ジャーナリズムの世界にも入れないようになっている」といった愚痴をよく聞かせるようになったという[34]

ゲッベルスの日記には次のような焦燥が書かれている。「この居候生活の惨めなこと。僕にはふさわしくないこんな生活をどうしたら終わらせることができるのか。それを考えると頭が痛い。何一つ成功してくれない。いや成功することが許されないのだ。贔屓と経歴だけが物を言うこの世界で数のうちに入れてもらうためには、自分の意見とか、信念を主張する勇気とか、個性とか、性格と言われる物を真っ先に全部捨てなければならないのだから。僕はまだ何者でもない。大いなるゼロだ。」[32]

政治活動開始[編集]

ゲッベルスが政治家としての第一歩を踏み出したのは1924年のことであった。友人フリッツ・プラングに誘われて様々な社会主義者あるいは国家社会主義者の政治集会に参加し、演説などをするようになったのである[35]

こうした活動の中の1924年8月、小右翼政党ドイツ民族自由党所属のプロイセン州議会議員フリードリヒ・ヴィーガースハウスドイツ語版の知遇を得て、ヴィーガースハウスがエルバーフェルトで発行していた新聞『民族的自由 (Völkische Freiheit)』の編集員の地位を月収100マルクの給料で手に入れた。しばしばドイツ民族自由党のための演説にも駆り出された[36]。さらに同年10月4日には同紙の編集長を任せられている[37]

しかしブルジョワ保守的なヴィーガースハウスやドイツ民族自由党と社会主義的な思想を持つゲッベルスとでは剃りが合わなかった。また『民族的自由』紙は小規模すぎて、社会への影響力が皆無であったし、ゲッベルスの見るところでは支持者も頭が鈍いのが多いので、彼らに向けて演説したり、物を書いたりするのが億劫になっていった。家族への手紙の中でゲッベルスは「どさ回りの一座にいる名優のような気分だ」という愚痴をこぼしている[38]

ゲッベルスは1924年末頃から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のカール・カウフマンと親密になり、ナチ党で働かせてもらえないか頼み込むようになった[39]。逆にヴィーガースハウスとは疎遠になり、1925年1月に『民族的自由』編集長職から解雇された[40]。ゲッベルスは1925年1月17日号をもって『民族的自由』紙を廃刊した[41]

国家社会主義ドイツ労働者党闘争時代[編集]

ナチス左派[編集]

この時期のゲッベルスの上司グレゴール・シュトラッサー

その後カウフマンの口利きでナチ党幹部オットー・シュトラッサーの面接を受ける機会を得た。面接で「なぜ我が党に移りたいのか」と問うたオットーに対して、ゲッベルスは「ドイツ民族自由党は未来がないと思います。なぜなら党指導部が民衆について全くの無知だからです。党指導部は社会主義を恐れています。しかし私の信ずるところでは一種の社会主義と国家主義を統合した思想こそがドイツを救うのです。貴方のお兄さんグレゴールさんは社会主義の理念と国家主義の情熱を統合していらっしゃる。われら国家社会主義者が奉じねばならぬのはまさにグレゴールさんの思想です。」と述べた。オットーはゲッベルスの演説力に感心し(特にゲッベルスの美しい声に惹かれたという)、党の大きな力になると考え、彼の採用を決定した[42]

1925年2月22日に非公式ながら入党した(正式な入党は1926年3月22日で党員番号は8762。後に特別な党員番号22が与えられた)[43]

1925年3月にエルバーフェルトにナチ党の「ラインラント北部大管区」を設立させることに携わったゲッベルスは、カウフマンやエーリヒ・コッホヴィクトール・ルッツェなどとともに同大管区の役員に選ばれた。大管区指導者はカウフマンであり、ゲッベルスは書記局長だった。またこのポストは北部および西部のナチ党指導者グレゴール・シュトラッサーの秘書を兼務するものであった。給料は200マルクでヴィーガースハウスの下にいた頃の2倍になった[44][45]

ゲッベルスは、数々の演説をこなして急速に頭角を現し、シュトラッサー兄弟に次ぐ北西ナチ党のリーダーの座を確立していった。シュトラッサー兄弟とともに南部ミュンヘンの党本部への敵対行動を強めた。党首アドルフ・ヒトラーの指導体制は一応認めつつもユリウス・シュトライヒャーヘルマン・エッサーら「ミュンヘンのごろつき」をヒトラーの側近から排除することを主張し、西部や北部の社会主義的・左派的な方針でもってナチ党全体を運営させようと画策した。ゲッベルスはミュンヘンの党本部からシュトラッサー兄弟に次ぐ「党内左翼偏向勢力」(ナチス左派)の領袖と見なされていくこととなった。1925年8月21日付けのゲッベルスの日記には「ヒトラーを倒してグレゴールに党の主導権を握らせるべきだ」とまで書かれている[46]

1925年9月10日には北西ドイツの大管区指導者たちを集めて「北西ドイツ大管区活動協同体(Arbeitsgemeinschaft der nord- und nordwestdeutschen Gaue der NSDAP)」(略称NSAG)の創設に携わった[47]。グレゴールが指導者、ゲッベルスが事務局長(geschäftsführer)に就任した。これはヒトラーのミュンヘン党本部(特に党宣伝部長のエッサー)へ対抗するものであった[48]。しかしこれは北西ドイツ大管区の緩やかな統合組織でしかなく、当初より不統一と内部対立が露呈した。その内部対立の中でもゲッベルスはオットーとともに極端な社会主義的路線をとり、「まず社会主義的救済。それから嵐のような国民の解放がやってくる」と主張した[49]。対する南部ドイツの大管区はミュンヘン党中央のヒトラーの下に中央集権で強固に固まっていた。北西ナチスが南部ナチスの権力に常に及ばなかったのはこうした状況のためだった[50]

1925年10月にグレゴールが発行していた機関紙『国家社会主義通信(Nationalsozialistische Briefe)』の編集を任せられている[51]。同紙でのゲッベルスの言論は国家主義よりも社会主義にアクセントを置く物が多かった[52]。例えばソビエト連邦との同盟を盛んに唱えたり、インド中国を「反抗的な持たざる国」と定義してこれらの国とのイデオロギー的連帯を訴えた[52]

この頃のゲッベルスはソ連について次のような好意的評価をしていた。「ソヴィエト体制はボルシェヴィストだとか、マルキストだとか、インターナショナルだとかでは長続きしない。それはナショナルだから、ロシア的だから存続しているのだ。ロシア皇帝はかつてロシア人民の情熱と本能をその深みで捕らえたことはなかった。レーニン、彼はそれを成し遂げた」「ロシアが目覚めたなら全世界は一国家が引き起こす奇跡を目のあたりに見ることになるだろう」[52]。ただしその一方で「共産主義は真の社会主義のグロテスクな歪曲にすぎない。我々が、我々だけがドイツにおける真正の、いやヨーロッパで唯一の社会主義者になりうるのだ」とも論じている[53]

ヒトラーとの出会い[編集]

1927年のヒトラー

ミュンヘン党本部と対立を深めながらもゲッベルスはヒトラーとの面会・和解も願っており、1925年10月12日付けの日記には「僕は一度ミュンヘンへ行かねばならない。一度二時間だけでもヒトラーと二人きりで話せれば、すべて氷解するはずだろうに。」と書いている。そして実際に1925年11月4日にミュンヘンを訪れ、ヒトラーと初めての会見を行った。ゲッベルスは初対面でヒトラーに魅了され、11月6日の日記にはこう書いている[54][55][56]

僕は車でヒトラーの所へ行く。彼はちょうど食事時だろうと思っていたら、さっと立ちあがってもう僕たちの前に来ている。僕の手を握った。まるで古くからの友人のように。あの大きな青い瞳。星のようだ。彼は僕に会えてうれしいという。僕はすっかり喜んだ。(中略)彼はさらに半時間演説した。機知、アイロニー、ユーモア、嘲罵、真摯、激情、情熱を持って。王者たるすべてをこの男は持っている。生まれついての護民官。未来の独裁者。

ヒトラーもシュトラッサー兄弟を味方にできる見込みがない以上、北部や西部のナチ党を掌握するためにはゲッベルスを味方につけることが重要と認識していた。そのためヒトラーは彼に大変気をかけていた。1925年のクリスマスにヒトラーは「模範的な貴方の闘いに」という賛辞とともに『我が闘争』をゲッベルスに贈っているほどである[57]

しかしヒトラーとの出会いによってゲッベルスのナチス左派的傾向がただちに減少したわけではなく、彼はこの後も引き続きシュトラッサー兄弟と親密な関係を保ち、またその思想は相変わらず社会主義的な色彩を強く見せる国家主義だった。この時期にゲッベルスによって書かれた『国家社会主義者入門』にはこのような問答が載っている[58]

<>国家的という概念と社会主義的という概念は矛盾し合わないか?
<>否、逆だ!本当に国家主義的な人間は社会主義的に考える。そして本当の社会主義者は国家主義者だ!
<>何故労働者党か?
<>実直に仕事をするドイツ人はいずれも、ドイツの労働者だからだ!

反ヒトラー派に[編集]

シュトラッサー兄弟は国家社会主義理論の強化を目指しており、党綱領を改正して詳述化することを考えていた。その新綱領案はシュトラッサー兄弟やゲッベルス、カウフマンらによって練られ、1925年12月末に完成された。これはあくまで現行党綱領を詳述化した物であって綱領の根本原理を修正した物ではなかったが、ヒトラーは党首である自分に相談もなく北西ナチスが勝手に新綱領案を作ったことに激怒した。またヒトラーが考えるところでは党綱領は融通自在に解釈できるよう簡潔・抽象的でなければならず、綱領の詳述化は運動の戦術の自由を縛ってしまうものに他ならなかった[59]

グレゴールは、この新綱領案への承認を求めるために翌1926年1月25日にハノーファーにおいて北西ナチスの大管区指導者たちを招集した(ハノーファー会議)。この会議にヒトラーは出席せず、ゴットフリート・フェーダーを代理で送っている。ヒトラー本人が出席しなかったこともあって、会議は終始グレゴール優位に進んだ。フェーダーは「ヒトラーも私もこの綱領案を認めるつもりはない」と主張したものの彼とロベルト・ライを除く全員が綱領案に賛成した[60]

また会議では共産党が提案していた皇室財産没収法案に賛成すべきか否かも議題となった。この件をめぐってはヒトラーが反対していたが、ナチス左派を代表するグレゴールは没収に賛成していた。ゲッベルスも没収賛成の立場から演説した[61]。フェーダーは「この法案はユダヤ人のペテンであるとヒトラーは主張している」と訴えたものの、野次り倒された。そこへゲッベルスが立ち上がってミュンヘン党指導部を批判するとともに「プチブル主義者アドルフ・ヒトラーは党から追放すべきである」と提案したと伝わる[60]。一方ヒトラー追放動議を出したのはゲッベルスではなくベルンハルト・ルストとする説もある[61]。いずれにしてもヒトラー追放動議はグレゴールが「党内秩序を乱すもの」「行き過ぎた意見」として却下している[62]

続く2月14日に今度はヒトラーが自分の影響力が強いバンベルクで反撃の会議を招集した(バンベルク会議)。グレゴールとゲッベルスも出席を命じられた[62]。ここでヒトラーは「皇室財産没収を主張する者は銀行や取引所に巣くっているユダヤ人の財産は没収しようとしない嘘付きである」と断じたうえで「旧諸侯には彼らの権利に属さない物は何一つ渡してはならない。だが、旧諸侯に属する物を不当に奪うこともまた許されない。党は私有財産制と正義を擁護するからだ」と論じた。さらに新綱領案についても一条ずつ批判を加えていき、最後には「(現行党綱領は)我々の信仰、我々の世界観の創立証書である。これに揺さぶりをかけることは、我々の理念を信じて死んでいった人々に対する裏切りを意味する」と結んだ[63]

ヒトラーがブルジョワとの融和を重視し、国家社会主義から保守主義に転じたと感じたゲッベルスは、すっかりヒトラーに幻滅して、2月15日の日記でヒトラーを罵っている。「ヒトラーの演説は二時間。僕はへとへとになった。何というやつだ。反動なのか?全く始末に負えないぐらぐらした奴だ。ロシア問題は全くの的外れ。イタリアイギリスは我々の宿命的な盟邦であるだって?ひどい。我々の課題はボルシェヴィズムの粉砕であるだって?ボルシェヴィズムはユダヤ人のこしらえ物であるだって?皇族への補償。法は法である。私有財産制の問題には触れない。ひどい!綱領はこれで結構だ!フェーダーがうなずく。ライがうなずく。シュトライヒャーがうなずく。『こんな連中の中に自分がいるのは心が痛む。』(ゲーテの"ファウスト"からの言葉)短い討論。シュトラッサーが発言する。途切れがちに震えながら不手際に。善良で正直なシュトラッサー…。ああ、我々は向こう側のあの豚どもになんと力及ばざることか。僕には一言も発しえなかった。まるで頭を打ちのめされたようだ」[64][65]、「僕の人生で最大の失望のひとつだ。僕はもうヒトラーの全幅の期待は持てない。恐ろしいことだ。頼るものがなくなるということは。疲れ果てた。」[66][67]

ヒトラーの懐柔[編集]

しかしゲッベルスの才能を買っていたヒトラーは、この会議後、ゲッベルスが自分から離れぬよう気をかけた。1926年3月終わりにはヒトラーから電信を受けて4月8日にミュンヘンのビュルガーブロイケラーの集会で演説することになった。ゲッベルスはこの時のミュンヘン訪問について日記にこう書いている。「ヒトラーから電話があった。挨拶したいということだった。カフェから電話する。15分で彼はここに着く。背が高くて健康的で、闘志満々のヒトラー。僕は彼が好きだ。バンベルクのことがあったので、彼の親切はどうも面映い。彼は午後のため自分の車を回してくれる。」「車でビュルガーブロイへ。ヒトラーはすでに来ている。心臓が破れんばかりに高鳴る。ホールに入る。歓声で迎えられる。超満員。シュトライヒャーが口火を切る。それから僕は二時間半しゃべりにしゃべった。聴衆、狂乱、絶叫。終わるとヒトラーが僕を抱きしめてきた。彼の眼には涙が光っていた。とても熱いものが込み上げてきた。」(1926年4月13日付け)[68][69]。「昨日ヒトラーと会う。すぐ食事に誘われた。彼は若い魅力的な女性を連れていた。楽しい夜。僕は車で一人で帰らねばならなかった。今朝10時、ヒトラーに誘われる。僕は花を持っていった。とても喜んでくれる。それから二時間、東西の問題を討議する。彼の議論には感嘆せずにはいられないが、ヒトラーはロシア問題を十分に理解しているとは思えない。僕もいくつかの点を考え直さねばならない。」(1926年4月16日付け)[70][71]

ヒトラーは巧妙にゲッベルスの心を支配していった。ゲッベルスの中でヒトラーの存在が大きくなるにつれてゲッベルスは急進的な社会主義思想を修正するようになり、ヒトラーの保守主義に理解を示すようになった。またゲッベルスはミュンヘンでの歓待ぶりに比べてエルバーフェルトでは自分はまったく尊重されていないとも感じるようになっていた。ゲッベルスの日記にはこのように記述してある。「ここ(エルバーフェルト)では誰も僕を気にしない。まるで僕が何も仕事をしていないかのようだ。」「シュトラッサーの所へ行く。彼は僕がミュンヘンと妥協しかけているんじゃないかと疑っている。そんなばかばかしい考えは捨ててしまえと言っておいた。」(6月10日付)[72]。「管区全体がカウフマンの怠慢のために腐りきっている。どうしてこのような暴徒の集団がドイツを解放できるのか。僕の唯一の望みはヒトラーが僕をこのヤクザ集団から救い出し、ミュンヘンへ連れて行ってくれることだ。」(6月12日付)[73][74]

ベルリン大管区指導者[編集]

1932年、ベルリンルストガルテンで演説するゲッベルス。
同上

その後、すっかりシュトラッサー兄弟やカウフマンと疎遠になったゲッベルスは、ヒトラーからミュンヘンへ招集される日を心待ちにしていた。しかし1926年10月末、ヒトラーがゲッベルスに下した辞令は「ベルリンブランデンブルク大管区指導者」であった(なおグレゴールにはこの際に「宣伝全国指導者」の職が与えられた)。当時のベルリンは「赤いベルリン」と揶揄されるほど共産主義者や革命主義者が多かった。ベルリンのナチ党員はわずか1000人に過ぎず、しかも北部はシュトラッサー兄弟の本拠であったのでナチ党員にも革命主義者が多かった。でありながらシュトラッサー兄弟も大管区指導者エルンスト・シュランゲドイツ語版もベルリンのナチ党をまとめきれず、ベルリン突撃隊指導者クルト・ダリューゲや既に離党したはずのハインツ・ハウエンシュタインドイツ語版などが独自に指揮権を行使しているような混沌とした状況だった[75]。ヒトラーとしては社会主義的傾向の強いゲッベルスを置くことでベルリンの革命志向の党員たちを納得させ、一つにまとめさせることを期待したとみられる[76]。ベルリン行きはナチ党内では貧乏くじと見られていたが、ゲッベルスは引き受けることにした。ベルリン着任後、ヒトラーの全権委任と自らの権力を盾に喧嘩ばかりしているベルリン・ナチ党員の間に割って入り、統率権を押し通した[77]

ゲッベルスは赴任当時のベルリンの党組織の惨状について後の著書『ベルリンの戦い』(1932年)の中でこう書いている。「当時ベルリンで党と称していた物は、全くそう呼ぶに値しなかった。それは何百人かの国家社会主義的な考え方をしている人間がただ入り乱れてとぐろを巻いている集まりで、その一人一人が国家社会主義について、自己流で私的な意見を持っていた。そしてその意見というのは、普通国家社会主義ということで理解されている物とはほとんど関わりがなかった。各グループでの殴り合いは日常茶飯事だった。ありがたいことに世間はそれに注意は払わなかった。運動自体が数から言って問題にもならなかったからである。こんな党に行動力はない。政治闘争への投入は不可能だった。統一的な形を与え、共同の意志を吹き込んで、新しい、熱い衝動を与えねばならなかった。」[78]

ゲッベルスは不良党員の追放から開始し、ベルリンの1000人の党員のうち400人を追放した。ベルリン大管区の赤字財政を立て直すために残った党員たちに毎月3マルクの負担金を課した(失業中の者はその半額)。自らの演説会も有料にした。大管区指導者事務所もポツダム街の地下室からリュッツォー街のアパートの二階へ移し、政党の事務所らしく変えた[79][80]

ゲッベルスは党の宣伝ポスターのデザインに気を使った。当時は予算の問題から黒字ばかりの味気ないポスターが多かったが、ゲッベルスは借金をしてでも印刷屋に刺激的なポスターを作成させた。そのためナチ党ポスターはベルリンの人々の人目を引くようになった。またゲッベルスは政治ポスターに大きな赤い文字の見出しでぎょっとするような訳の分からぬ文句を書く手法を好んだ[81]

アメリカ皇帝 ベルリンにて演説す

気になった通行人は次々と立ち止まって続きを読んだ。これの内容はドーズ案ヤング案をアメリカ資本主義の産物であると攻撃する物で、さらに何日のどこの集会でヨーゼフ・ゲッベルス博士が演説する旨の広告が付けられていた[81]。また他人から浴びせられる罵倒さえもうまく利用した。ある新聞が「ナチは山賊」と批判してこの言葉が広まるとゲッベルスは自ら「山賊首領ヨーゼフ・ゲッベルス」などという刺激的な肩書をポスターに付けて人々の関心を集めた[82]

殴り合いはニュースになりやすいことから突撃隊ドイツ共産党の戦闘部隊赤色戦線戦士同盟の殴り合いも積極的に行わせ、負傷した突撃隊員を積極的に宣伝の材料にした。1927年2月には共産党が党大会の会場として使っていたファールス会場ドイツ語版を借りてナチ党の党集会を行うという挑発行為を行い、これに激怒した共産党が赤色戦線戦士同盟に殴りこみを行わせたことで「ファールス会場の戦い」と呼ばれる大乱闘に発展している[82][83]。ちなみにこの頃のゲッベルスは、かつて好感さえ寄せていたドイツ共産党を「血をわけた赤いごろつきども」という愛憎相半ばした感情で見るようになっていた。

ナチ党を取り締まろうとする警察にも批判を強め、特にユダヤ人のベルリン副警視総監ベルンハルト・ヴァイスを徹底的に攻撃した。彼をユダヤ人名である「イジドール」の名前で呼び、この名前がベルリン市民に広まってヴァイスは「イジドール・ヴァイス」と巷で呼ばれるようになり、ナチ党員以外の市民からも多くの場でからかいのネタにされた[83][84][85]

警察とナチ党の対立は深刻化し、1927年5月5日、警察から大ベルリン地区におけるナチ党の党活動が禁止された[86]。以降ゲッベルスは党集会をピクニックやハイキングなどと偽装して開催することを余儀なくされた。次いで警察はゲッベルスはじめナチ党幹部(国会議員は除くとされた)個人の公の場での演説もプロイセン州全域において禁止した。この強烈な弾圧についてゲッベルスは著書『ベルリンの戦い』の中でこう書いている。「僕としては公開の場で演説を禁止されたことが一番こたえた。当時の僕は演説すること以外に党の同志との接触手段をもたなかったからだ。口で話す言葉は常に文字に印刷した言葉より重要である。特にその頃の我々の印刷設備はお粗末なもので、言論を十分に印刷して流すことはできなかった。」。ゲッベルスは国会議員のナチ党員が演説中に客席から立ちあがって発言を行うといった偽装で演説をしようとしたが、警察にばれて告発されて罰金を課されている[84]

1927年7月4日に『デア・アングリフ』紙を発刊して、紙面における言論活動に転じた[87]。『フェルキッシャー・ベオバハター』紙はじめ他のナチ党新聞と同じく反ユダヤ主義と反共主義を基調としたが、他のナチ党新聞と比べると資本家攻撃が多いのが特徴的でゲッベルスのナチス左派の性向が見受けられる[88]。1927年10月29日、ゲッベルスの誕生日にあわせて警察は事前許可を取るという条件付きで彼に演説することを許可した[89][90]

国会議員に当選[編集]

国会へ向かうナチ党国会議員ヨーゼフ・ゲッベルスとヘルマン・ゲーリング。1930年10月

ゲッベルスは1928年5月の国会選挙にナチ党の候補として出馬することになった。しかし依然として党の急進派には反議会主義の立場から国会選挙に参加することに反対する者が多かったので、ゲッベルスは選挙参加は日和見主義に走ったことを意味しない旨を訴えて党員の説得にあたった[91]。それが4月30日付けの『デア・アングリフ』に掲載されたゲッベルスの豊富だった。「我々が国会に入るのは、民主主義の兵器庫の中で民主主義自身の武器を我らの物とするためである。我々が国会議員になるのは、ヴァイマル的な物の考え方を、その考え方そのものの助けで麻痺させるためである。(中略)我々は友人として乗り込むのでも中立者としてやって来るわけでもない。我々は敵として乗り込むのだ。羊の群れが狼に襲い掛かるように我々は乗り込むのだ。」[92]

ナチ党はこの選挙で70万票を得、12議席を獲得した。ゲッベルスは当選者の一人であった(他にナチ党からはヘルマン・ゲーリング、グレゴール・シュトラッサー、ヴィルヘルム・フリックフランツ・フォン・エップ、ゴットフリート・フェーダー等が当選)[93]。当選後の5月21日にゲッベルスは『デア・アングリフ』で次のように語った。「私は国会議員ではない。私はIDI(国会議員不可侵権)とIDF(無料乗車権)の所有者にすぎない。IDIの所有者とは、この民主的共和政府の下にあっても、時には真実を語ることを許されている人間のことである。彼は頭で考えたことをそのまま口に出して言うことを許されている点で他の人間と異なる。彼は糞の山は糞の山と正直に言い、それを遠回しに政府などとは呼ばない。」[94]「たとえば『シュトレーゼマン氏(時の首相)がフリーメイソンであり、あるユダヤ人夫人と結婚しているというのは事実に合致しているでしょうか』という質問ができる」[89]「これはほんの序の口にすぎない。これから我々がどんな面白いショーをお見せするか、大いにご期待を請う。ショーは始まったばかりだ」[95]

しかしこの選挙は全体としては中道政党や保守・右翼政党が伸び悩んで左翼政党の大勝に終わった。オットー・シュトラッサーは「『国家社会主義の救済使命』が大衆的反響を見出さなかった。とりわけプロレタリア層への浸透が図られなかった」と嘆いた[96]。一方ヒトラーは中道政党が軒並み没落し、社民党や共産党のような左翼政党が議席を伸ばしたことは労働者層が現体制に不満を持っている表れと見て前向きに評価した[97]

ゲッベルスも今回の選挙で左翼に投票した労働者層をナチ党に取り込むことができるか否かが鍵であると心得、1928年夏中、労働者層向けの訴えかけを盛んに行った。「資本主義国の労働者はもはや生きた人間でも、独創者でも、創造者でもない。彼は機械に変えられてしまっている。一つの数字であり、良識も目的も持たない工場内のロボットである」「国家社会主義のみが彼に尊厳をもたらし、彼の生活を有意義なものにする」こうした左翼と見間違うような論文を次々と『デア・アングリフ』に掲載していった[98]

党宣伝全国指導者[編集]

1929年1月9日には第3代宣伝全国指導者(ナチ党宣伝部長、初代はグレゴール・シュトラッサー、二代はヒトラー)となり、党の最高指導部に列した[99][100]

ゲッベルスは宣伝・運動の面においては左翼政党の方がはるかに優れているとの認識に立ち、彼らのやり方を手本とすることをためらわなかった。シュプレヒコール、楽隊行進、職場での宣伝活動、街頭細胞システム、大衆示威行為、戸別訪問などを左翼政党から引き出し、これらをヒトラーがミュンヘンで確立した運動スタイルと和合させた。敵から限りなく学んで吸収するスタイルはかつての保守派には見られない国家社会主義独自のスタイルといえた[101]

1929年6月にはドイツの新しい賠償支払い方式ヤング案が成立した。ゲッベルスはヤング案を激しく批判し、『デア・アングリフ』で次のように宣言した。「君ら(政府)が何に署名しようと、我々としてはそれに拘束されるつもりはない」「我々は厳かに手を挙げる。汚れなき手を、歴史の前に。そして誓う。この手が屈辱的条約を破る日まで、我々は決して気を緩めはしないと」[102]

反ヤング案でヒトラーやゲッベルスと共闘した国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルク

ヤング案についてはナチ党の他にも保守政党ドイツ国家人民党や退役軍人組織鉄兜団などが強く反発していた。ヒトラーと国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクの会談が行われ、その結果、ナチ党・国家人民党・鉄兜団の三者は反ヤング案・反政府で共闘することとなった[99]。ゲッベルスはそれまでフーゲンベルクのことを「反動の手合」と呼んで攻撃を繰り返してきたが、ヒトラーのこの決定に対して異議は唱えなかった。フーゲンベルクは無数のメディアを支配する大実業家であるため、ゲッベルスとしても一時的に相乗りするのは悪くないと考えていた。とはいえ保守政党と組むのはゲッベルスの性に合わないところでもあり、彼は『デア・アングリフ』で次のように念を押している。「我が党と同じ手段をとっている他の政党があるが、それらは世界観から見て我々とは深淵で隔てられているのであって、手段を同じくするからと言ってゴールまで同じではない」[102]

いずれにしてもこの連携のおかげでゲッベルスはフーゲンベルクから巨額の資金と彼の支配するメディア群の提供を受けることができた。ゲッベルスはそれを使って大々的なヤング案反対運動を行ってナチ党の存在を世に知らしめた。ヤング案をめぐる国民投票は1929年12月22日に行われたが、ヤング案反対票はわずかに580万票だった(可決には2000万票が必要)。だがゲッベルスにとってそれはどうでもよかった。これが負け戦なのは百も承知であり、大事なのはこれによって普通なら数百万マルクはかかるであろうナチ党の宣伝をただで行うことができたことだった[103]。実際に国民投票の一月前の11月17日に行われたベルリン市議会選挙でナチ党は20%を上回る議席を手に入れている[104]

ゲッベルスは国会議員不可侵権を有していたが、1929年12月にナチ党議員団が一丸となって国会から出ていく事件があり、この際に一時的に不可侵権を失い、1928年10月に突撃隊員を使ってベルリンのユダヤ人商店街を襲撃させた件で起訴された。ゲッベルスは裁判で検事や判事を散々に罵倒したが、結局2000マルクの罰金刑に処された。この事件がきっかけとなり、リベラル派の間でナチ党に対する警戒感が徐々に高まりはじめた[105]

1930年1月14日に突撃隊ホルスト・ヴェッセルが共産党の赤色戦線戦士同盟隊員アルベルト・ヘーラードイツ語版に銃撃されるという事件が発生した。彼は2月23日に死亡した。思想対立というより痴情のもつれによる事件とみられるが、ヴェッセルはかつて『デア・アングリフ』紙に政治詩を投稿していたため(『ホルスト・ヴェッセルの歌』)、事件はゲッベルスの関心を引いた[106]。ゲッベルスは事件を次のように総括した。「ヴェッセルは国家社会主義党員だった故に殺された。国家社会主義党員は全て迫害され、死の危険に晒されている。共和国政府は彼らを弾圧し、スパイ工作を行っている。国家社会主義党は敵に囲まれている。その中でも最大の敵はユダヤ国際資本である」[107]。ゲッベルスはヴェッセルを徹底的に英雄化するキャンペーンを行い、彼がいまだ生存している2月7日の段階で早くもスポーツ宮殿での党集会において『ホルスト・ヴェッセルの歌』を歌せている[108]。この『ホルスト・ヴェッセルの歌』のメロディーはどこか讃美歌に似た風であり、極めて効果的だった。ゲッベルスは直感的にこの歌がナチ党のあらゆる儀式を神聖化すると見抜いたという[106]。後に『ホルスト・ヴェッセルの歌』はナチ党党歌となり、さらに第二国歌となる[108]

党内危機をめぐって[編集]

1930年夏にはナチ党内で大きな内紛が2つあった[109]。一つはナチス左派の中でも特に急進的なオットー・シュトラッサーにまつわるものである。保守勢力である国家人民党や鉄兜団との連携に不満を募らせていたオットーは、党首ヒトラーの「保守偏向」や「ブルジョワ的生活」を本格的に批判するようになり、オットーとヒトラーの関係はいよいよ抜き差しならぬものとなった。オットーの兄グレゴールは党首ヒトラーに表立って逆らう事はしなかったが、オットーは断固抵抗の構えを見せた。1930年5月21日にヒトラー自らベルリンを訪れてオットーと7時間に渡る討論を行い、懐柔しようとしたが、オットーは土地の国有化・共同農場・利潤の公平分配・ブルジョワ化反対といった社会主義政策を党の方針に掲げ、保守・右翼政党との連携は断ち切るべきことを要求した[110][111]

もはや如何ともしがたいと判断したヒトラーは、オットーの除名を決意し、6月20日にゲッベルスにオットー追放を指示した[112]。かつては同じナチス左派としてオットーと親しい関係にあったゲッベルスだが、追放には何らのためらいも見せなかった[104]。ゲッベルスは、6月30日にもベルリンのハーゼンハイデで大管区党員集会を招集し、「規律に服さない者は党から追放される」と宣言した。オットーとその支持者たちは会場に来場して反論しようとしたが、ベルリン親衛隊司令官クルト・ダリューゲらに阻まれて来場できなかった[113]。ついで7月2日の党役員会議でゲッベルスはオットーの除名を決議した。7月4日にはオットー自らも新聞紙面で離党を宣言し、他の党内社会主義者にも離党を促したが、追従者は少なく24名だけだった[114]

ヒトラーと党内での待遇改善を求める突撃隊の関係も悪化していた。1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求した突撃隊司令官フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンの要求をヒトラーが拒否する事件があり、不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職した。さらにベルリンの突撃隊員ヴァルター・シュテンネスSA大尉が突撃隊員の貧困に比して党幹部の裕福な暮らしに激怒した。ベルリン大管区指導者であったゲッベルスがシュテンネスの攻撃対象にされ、8月27日にはシュテンネスが部下たちを率いてゲッベルスの演説を妨害する事件が発生した。その翌日にはシュテンネス一派はミュンヘン党本部に対してゲッベルスのベルリン大管区指導者職解任を要求した。ヒトラーは却下した。不服としたシュテンネス一派は8月30日にヘーデマン街 (Hedemannstraße) の管区本部を襲撃した。ゲッベルスはダリューゲ率いる親衛隊部隊を出動させ、鎮圧しようとしたが、失敗。ゲッベルスはこれまで散々バカにしてきた警察に助けを求めざるを得なくなり、警察の介入でようやく鎮圧した。9月1日、ヒトラー自らがベルリンへ赴き、シュテンネスと会見して選挙前に騒動を起こすことはやめるよう説得してひとまず争いを収めた(シュテンネスの反乱ドイツ語版[115]

ナチ党の躍進[編集]

1930年10月、ヴァイマール。ヒトラーの前での突撃隊の行進を見学するゲッベルス。隣はテューリンゲン州内相ヴィルヘルム・フリック

1930年9月14日の国会選挙はゲッベルスが宣伝全国指導者としてナチ党の宣伝戦全般を指揮した。ヤング案闘争に始まるフーゲンベルクとの連携により1年半かけて整備した党のプロパガンダ組織・体制に自信を持っていたゲッベルスは、「現有12議席を40議席にする」と宣言した。これについて各紙は一度に得票を三倍にした政党などかつて存在したことがないと嘲笑した[104]

ゲッベルスは他の政党の何倍にもあたる数の党集会を組織することを心掛けた。野外演奏会や突撃隊の行進などを行って人々の関心を引き付けた。またこれまで一般的でなかった政治宣伝映画に目を付け、アメリカの20世紀フォックス社の技術提供を受けて、当時のドイツの技術力では困難だった野外でのサウンド映画を可能にして政治宣伝映画を盛んに放映した。宣伝内容も反ユダヤ主義など意見の分かれる問題は大きく取り扱わず、ヤング案反対や公的生活に特殊利害が蔓延してることへの批判など全国民から幅広く共感を得やすい問題を一点集中で取り扱うようにした[116]

その結果、得票640万票〔得票率18パーセント〕)を得て107議席を掌握。一気にドイツ社民党に次ぐ第2党に躍り出るという大勝利を収めた[115]。選挙翌日にはマスコミ各紙がベルリンのナチ党事務所に殺到した。これまでナチ党機関紙以外のマスコミがナチ党事務所に取材に来ることなどほとんどなかった。ゲッベルスは記者の質問に対して「戦いは始まったばかりである。実際はまだ始められてもいない。私は今しがた来たるべき戦いへの指令を出したばかりである」と短く答えただけで退出している[117]

ナチ党が勢いに乗じて再び一揆を起こすのではないかと話題になったが、ヒトラーは9月25日にライプツィヒのドイツ大審院(ナチ党運動に参加して反逆罪に問われた陸軍将校3人が裁判にかけられていた)に証人として出廷した際に「合法的手段で政権獲得を目指す」と宣言した[118][119]。ゲッベルスとしては順法路線を党員に納得させなければならず、次のように述べた。「憲法の枠内でいかなる政治目的の達成も可能である。そして革命的であるべきなのは目的である。方法ではない。バリケード上で戦っても目的が反動的でありえるのだ。逆に憲法の枠内で戦っても目的が革命的であることは十分可能である」[118]

だが順法路線は革命主義者が多い突撃隊員から反発と失望を招いた。ヒトラーは突撃隊と親衛隊に共産党との街頭闘争禁止を通達したばかりか、1931年3月28日にブリューニング首相によって出されたナチス弾圧の大統領緊急令「政治的過激運動撲滅のための命令」(集会・制服の禁止や検閲、新聞発禁など)にすら順法することを宣言し、違反した者は党を除名すると予告した[120]。これに反発したシュテンネスらベルリン突撃隊は、4月1日に秘密会議を開いて順法路線に反対する決議を出すとともに翌4月2日にベルリンの党管区本部や支部本部襲撃を開始した。ヒトラーはただちにベルリン大管区指導者のゲッベルスに鎮圧の全権を任せた。ゲッベルスは再びダリューゲの親衛隊部隊を動員。今度は独力で鎮圧することに成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した[121]

1931年のゲッベルスとマグダの結婚式

1931年12月12日には2年前に実業家ギュンター・クヴァントと離婚していたマグダ・クヴァントと結婚した。ヒトラーも出席して仲人を務めた[122]

1932年に入るとヒンデンブルクの任期切れから大統領選が注目を集めるようになった。現役大統領ヒンデンブルクに勝てる見込みは薄く、またヒンデンブルクとの関係を悪化させたくなかったためヒトラーは当初出馬をためらったが、ゲッベルスが党の運動を盛り上がらせるチャンスであるとヒトラーを説得した結果、1932年2月19日になってヒトラーは出馬宣言をした[123][124]。この選挙戦でゲッベルスは部下たちに「これからの数か月間我々の仕事の中心は選挙宣伝だ。技術全体が徹底的に洗練されねばならない。現代的な方法のみが我らを勝利に導く」と檄を飛ばした。ヒトラーのために飛行機をチャーターしてヒトラーの演説する範囲や回数を大幅に増やすとともに、選りすぐりの党機関紙記者をヒトラーの側につかせ、従軍記者スタイルで記事を書かせた。そしてそれを党機関紙に「ヒトラー、ドイツ全土に姿を現す」と報じさせて衆目を集めた。結果、3月13日の第一次選挙と4月10日の決選選挙において現役大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクに敗れはしたが善戦をした[125]

1932年4月のプロイセン州州議会選挙は、直前に中央政府首相ブリューニングと社民党のプロイセン州首相オットー・ブラウンらが計略によって突撃隊と親衛隊の禁止命令を出したため、ナチ党にとっては官憲の弾圧の中での選挙戦となったが、ナチ党は9議席から一気に162議席に伸ばし、プロイセン州議会の第一党となった。これをもってプロイセン州におけるブラウンの左翼政治の基盤は崩れさった[126]

5月にはヒトラーと大統領側近シュライヒャー将軍の策動でブリューニング首相も辞職に追い込まれた。6月1日にシュライヒャー将軍が推薦した保守派のフランツ・フォン・パーペンが首相に就任し、ナチ党取り込みを図ろうとしたが、ナチ党はパーペン内閣には協力しなかったので、6月4日に国会は解散された[127]

その選挙戦でもゲッベルスは党のプロパガンダ組織と弁士をフル回転させた。日記の中でその忙しさを次のように語っている。「我々はドイツ中を汽車、自動車、飛行機でくまなく駆け巡った。集会が始まるわずか30分前の到着はざらで、間に合わなかった時もしばしばだった。我々は演壇に足を書けるやいなや話し始めるのだ」[128]。ゲッベルスは7月9日にルストガルテンで10万人の聴衆を前に行った演説でパーペン批判の口火を切った。「私はドイツ人に要求する。過去15年間の恥辱と汚名をよく考えてほしい。1920年の政治的屈辱を思い出したまえ。この数週間で何か変化があっただろうか。まったくない。閣僚の顔触れが変わっただけだ。経済状態も相変わらずだ。新政府はまだ労働政策に取り組まない。悲惨は極まり、飢えた人々は当てもなくさまよっている」[129]

1932年7月31日に投票が行われ、ナチ党は608議席中230議席(得票数1373万票〔投票総数の37.4パーセント〕)を獲得し、国会において第1党となった。ドイツの歴史においてこれほどの得票率と議席を獲得した党はかつて存在したことがなかった。ゲッベルスは政権獲得の時が来たと判断した[129]

政権獲得に向けて[編集]

ヒトラーも首相ポストを要求するようになったが、パーペンやヒンデンブルクは副首相に甘んじるよう求めたため決裂した。しかも政府は8月13日のヒンデンブルクとヒトラーの会談について、ヒトラーが横っ面をはられっぱなしだったかのように見える内容の内閣発表を出してヒトラーに恥をかかせた。ゲッベルスは専門の宣伝分野で恥をかかされたことに激怒し、すぐに反駁を行ったものの手遅れだった。党の受けた打撃は深かった[130]

ヒンデンブルクやパーペンに腹を立てたヒトラーは、招集されたばかりの9月12日の国会でパーペン内閣不信任案を可決させ、国会はただちに解散されることになった[131]

しかし度重なる選挙戦によりナチ党の財政は破たん状態になっており、まともな選挙運動が打てなくなっていた。9月16日のゲッベルスの日記には次のようにある。「選挙キャンペーンはますます困難になっていくだろう。党金庫はすでに空っぽだ。前の選挙で我々の蓄えはすっかりなくなってしまった。」「敵も我々が息切れするのを待っている」[130]。ゲッベルスは金策のために集会の数を減らしたり、フーゲンベルクの国家人民党の集会に相乗りするなど節約に努めざるを得なくなった[132]

またヒンデンブルクから首相任命を拒否されたことが知れ渡っていたのでナチ党への期待感も薄まっていた。その現象についてゲッベルスは後にこう書いている。「その前の選挙で票を入れた人たちは党が権力に付けばすぐにもお返しがあると思い込んでいた。ところが党はそれまでより権力から遠のいたように見えたので離れていった」[133]

さらに選挙の直前の11月初めにおこったベルリン市交通局ドイツ語版労働者のストライキにゲッベルスはヒトラーの許可を得て、ナチ党員を参加させた。ゲッベルスは共産党とも協力してこのストライキを大ストライキにしてベルリンの交通網を完全にマヒさせた。この時はヒトラーも新聞でこのストライキを擁護していた。

しかしこの件はかえって悪影響し、11月6日の国会選挙では票を200万票と36議席を失い、196議席(得票数1174万票〔投票総数の33.1パーセント〕)に減退した(ただし第1党の地位は保った)。この件についてゲッベルスは1932年8月13日にヒンデンブルク大統領官邸で行われたヒトラーとヒンデンブルク大統領、パーペンらとの会談、また中央党の接触が悪宣伝に利用されたことの二つにあると総括した。すなわち国民に不人気な保守派とリベラルが接近してきたことでナチ党まで誤解されたことに原因があるとするものであった。そして自分に問題はないので反省の必要はないと『ゲッベルス日記』の中に書いている[134]

国民啓蒙・宣伝大臣[編集]

宣伝省次官ヴァルター・フンク(後の経済相)を宣伝大臣執務室に迎えたゲッベルス。1937年

1933年1月30日、ついにナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。その日のゲッベルスの日記にも「まるで夢のようだ。ヴィルヘルム街ドイツ語版(ドイツ中央政府官庁街)は僕らの物だ」という感動した様子が書かれている。

3月5日の国会選挙でナチ党はさらなる勝利(ナチ党は647議席中288議席を獲得。投票総数の44パーセント)を得た。3月14日、ヴィルヘルム街にあるかつての王室の邸宅オルデンスパレードイツ語版に「国民啓蒙・宣伝省」が置かれ、ゲッベルスがその大臣に任じられた[135]

1933年5月には公私立の図書館からユダヤ人の書いた書物などを次々と押収して広場に集めさせて焼き払った(焚書)。ハインリヒ・マンなどの反ナチ派の本、またカール・マルクスジークムント・フロイトハインリヒ・ハイネといったユダヤ人達の本が焼かれた[136]。ちなみにハインリヒ・ハイネは「本を焼く所では、終いには人間をも焼く」と予言していた[137]

1933年8月20日、ベルリン第10回放送展で「国民ラジオ」がはじめて公開され、ゲッベルスは「19世紀は新聞であったが、20世紀はラジオである」と公言した。ゲッベルスは民を扇動するうえでラジオは欠かせないことをよく理解していた。ラジオのフル生産を指示し、外国放送は聞けない「国民ラジオ」を全国28の工場で大量生産させ、安価な76マルクで購入できるようにした。目的はともかくラジオをドイツ国民に普及させたことはゲッベルスの功績とされている[138]

1933年9月25日には全国文化院法が公布され、宣伝相たるゲッベルスの下に帝国著述院ドイツ語版帝国新聞院ドイツ語版帝国ラジオ院ドイツ語版帝国音楽院帝国演劇院ドイツ語版帝国映画院ドイツ語版帝国造形芸術院の7つの帝国文化院が創設され、ドイツのあらゆる精神的創造者は該当する帝国文化院に加入することを義務付けられ、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相による監視と検閲を受けた。ユダヤ人は文化面からどんどん排除されていった[139][140]

またゲッベルスはほかの省庁の権能を自らの宣伝省に集めて行った。内務省から検閲権や公休日の取り締まり権を奪い、経済省からは広告監督権や産業博覧会・貿易博覧会開催権を奪い、郵政省からは旅行案内業務を奪い、外務省からは対外的PR権を奪った[141]

エルンスト・レームとゲッベルスは比較的親密な間柄であった。レームの死の2週間前までゲッベルスとレームは活発に接触していた[142]。しかしながら1934年6月30日からはじまったレーム以下突撃隊幹部の粛清「長いナイフの夜」の際にはゲッベルスはヒトラーにぴったりと寄り添って同行し、ヒトラーとともにミュンヘンへ飛び、ヒトラーが粛清を行っている時にも何も異議を唱えることはなかった。7月10日のラジオ演説でゲッベルスは6月30日の粛清を「病的な野心家の一味の反乱を電撃的に鎮圧した」として正当化し、外国の「センセーショナルな虚偽報道」を「ドイツ国民は吐気と嫌悪の情をもって背を向ける」と批判している[143]

ヒンデンブルク大統領の死去後の1934年8月19日、大統領職を廃し、ヒトラーが国家元首の権能を兼ねることへの国民投票が行われた。すでに報道機関を完全に抑えていたゲッベルスの大々的なヒトラーの賛美キャンペーンの下、賛成票は88.9%にも達した。

1936年のベルリンオリンピックの際にはゲッベルスは演出の総指揮を取り、一大宣伝ショーとして大きな成功を収めた。ゲッベルスが発案したわけではないが、現在の形式の聖火リレーはこのベルリンオリンピックから始まっている。同年8月2日の日記にはオリンピックを「ヘンデルハレルヤ(メサイア (ヘンデル))。偉大な、感動的な祭典」と記し、続けて「首相官邸で長い間総統と無駄話。彼は日本を賞賛し、ロシアには厳しい。その通りだ。」と書いている[144]

映画会社ウーファを視察するヒトラーとゲッベルス。1935年

1937年には、ドイツの映画会社最大手ウーファをナチ党で買収し、事実上ゲッベルスが所管することとなった(さらに1942年には完全国営化)。『ロスチャイルド家』など反ユダヤ主義プロパガンダ映画から『ミュンヒハウゼン』など娯楽映画に至るまで次々と映画を制作させた。

1937年には、昨年に日独防共協定を結び同盟国となった日本の映画製作者の川喜多長政と、ドイツの映画製作者アルノルト・ファンクによる合作で、原節子早川雪洲ルート・エヴェラードイツ語版などが主演する映画『新しき土』(ドイツ語題『Die Tochter des Samurai(侍の娘)』)を制作することを許可し、またその制作を支援した。ゲッベルスの日記もこの映画について触れている。「独日合作映画『サムライの娘』の封切。映画の撮り方は素晴らしい。日本の生活や考え方を理解するのに良いし、筋もまずまずだ。しかし我慢できないほどに長い。それが残念だ。」[145]

「退廃芸術展」を見学するゲッベルス。1937年

1937年7月にゲッベルスは、アドルフ・ツィーグラードイツ語版に指示して、ナチ党政権が「退廃芸術」として批判していたモダンアート表現主義抽象絵画の作品を集めさせ、7月19日に見せしめとしての「退廃芸術展覧会」を開かせた。アドルフ・ツィーグラーは「ドイツ国民よ。来たれ。そして自ら判断せよ」と開幕演説している。シャガールクレーキルヒナーノルデゴッホピカソブラックセザンヌなどの絵が晒された[146]。展覧会には誇張するために狂人の絵も展示されていた。このうちキルヒナーは自分の作品を退廃芸術に指定され、この展覧会に晒されたことに強いショックを受け、自殺している。

1938年11月7日に駐パリのドイツ大使館でユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパンがドイツ大使館員を暗殺した事件を受けて、11月9日夜にドイツ全土で発生した反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」はゲッベルスが突撃隊を動員して行ったものだといわれる。しかしドイツ経済への打撃は大きく、事件後、航空省で行われた事件処理の会議で四カ年計画全権責任者としてドイツ経済に最終的責任を負うヘルマン・ゲーリングから批判を受けている。この件でゲッベルスはユダヤ人問題からの撤退を余儀なくされたという。代わりにゲーリングがユダヤ人問題の全権責任者となった[147]

1939年3月にはヒトラーの50歳の誕生日に『人間ヒトラー』という本を出版して献上することを計画していたが、ヒトラーから止められた。ヒトラーは国民に自分の私生活に関心を持って欲しくなかったらしく、また自分の伝記の作者としてふさわしいと考えていたのはゲッベルスではなかったといわれる[148]

第二次世界大戦[編集]

1939年9月に第二次世界大戦開戦した際には、既にゲッベルスの権力に陰りが見え始めていた。所管していた国外宣伝権は開戦後にヨアヒム・フォン・リッベントロップの外務省へと戻され、さらに国内宣伝も新聞については党新聞部長オットー・ディートリヒがヒトラーからの信任を背景にして掌握しつつあった。

それでもゲッベルスは自分の管轄に残されたラジオや映画を使って国内宣伝に影響力を行使しようとした。1940年2月、軍の宣伝中隊が撮影したポーランド侵攻の映像を映画『ポーランド作戦』にして封切った。この映画はベルリンだけで3日間で32万人を動員し、興行的に大ヒットした[149]。1941年初めにはエミール・ヤニングス主演の英国批判映画『世界に告ぐドイツ語版』(ボーア人が南アフリカに作ったトランスヴァール共和国に金が出るや否や英国が戦争を吹っかけて南アフリカ連邦を作った事件を題材にしている)を支援。同映画は3月に封切った。独ソ戦開戦直後の1941年6月22日午前5時30分頃、ゲッベルスがラジオで総統声明を国民に向けて読み上げている。

しかしこうした努力もゲッベルスの権力の低下を改善することにはなかなか繋がらなかった。ディートリヒは新聞でゲッベルスのラジオ演説と食い違うことを平然と書き、ゲッベルスを苛立たせた。リッベントロップとの摩擦も増え、日記には彼らとのケンカの記事が散見されるようになる。結局、ゲッベルスがディートリヒに対して拒否権を獲得したのは1944年6月になってのことだった[150]

しかし戦況が悪化してくると絶え間なく国民に対するプロパガンダを展開する必要性が増し、ゲッベルスの存在が再度重要性を増した。1943年1月にスターリングラードの戦いに敗れた後の2月18日にベルリンのスポーツ宮殿においてかの有名な「総力戦布告演説」を行った。

ドイツ国民同胞諸君! 党員諸君! スターリングラードの英雄たちに対する思い出は、諸君とドイツ国民を前にした今日の私の演説においても、私と我々みんなにとっての痛切な義務でなければならない。国家社会主義で教育され、訓練されたドイツ国民は完全な真実を堪えることができる! 国民は国がいかに困難な状況にあるかを知っている。今はすべてがどうしてそうなったかを問う時ではない。ドイツ国民は戦争の過酷で無慈悲な顔をのぞき見た。ドイツ国民は今や総統と苦楽を共にする決意を固めている。我々の側には誠実で信頼のおける盟友がいる。イタリア国民は我々とともに迷うことなく勝利への歩みを続けるだろう。東アジアでは勇敢な日本国民がアングロサクソンの戦争勢力に打撃また打撃を加えている。我々の勝利の確実さには何の疑いもない。だが真実のために私は諸君に一連の質問をしてみたい。それゆえ聴衆諸君。諸君はこの瞬間外国に対して国民を代表しているのだ。私は諸君に10の質問をしたい。

イギリス人は、ドイツ国民は勝利への信念を失ったと主張している。私は諸君に尋ねる。諸君は総統とともに我々とともに、ドイツの武力の最終的な全面的な勝利を信じているか?
聴衆(ヤー!(=イエス))
第二に、イギリス人はドイツ国民が戦いに疲れたと主張している。私は諸君に尋ねる。諸君は総統とともに、勝利が我々の手中に帰するまで、激しい決意をもって、そして迷うことなく、この戦いを続ける用意があるか?
聴衆(ヤー!)
第三にイギリス人は、ドイツ国民がますます増大する戦時労働を引き受ける気はもうないと主張している。私は諸君に尋ねる。諸君とドイツ国民は、もし総統に非常時にそれを命じるならば、10時間、12時間、必要なら日に14時間働く決意を固めているか?
聴衆(ヤー!)
第四にイギリス人は、ドイツ国民は政府の全面的な戦時処置に逆らっていると主張している。ドイツ国民は総力戦を望んではおらず、降伏を欲していると主張している。私は諸君にたずねる。諸君は総力戦を欲するか?諸君は必要ならば我々が今日想像できる以上にラジカルになることを欲するか?
聴衆(ヤー!)
(略)
さて今、私は最後の第十を尋ねる。諸君は、国家社会主義の綱領が規定しているように、他ならぬ戦時においてこそ同じ権利と同じ義務が支配することを、戦争の重荷が貴賎の別なく、貧富の差なく、平等に与えられることを望むか?
聴衆(ヤー!)
私は諸君に10の質問を尋ねた。そして諸君は私に答えをくれた。諸君は国民の一部だ。諸君を通じて国民の意思決定が世界の前に宣言されたのだ![151]

この演説にはサクラや演出手法等が駆使され、ゲッベルス自身は「自分の演説活動全体の最高成果になるだろう」と考えており、演説後は「巨大な反響」、「全世界に最大の共感」と自画自賛した。演説は1時間以上におよび、演説前から体重が3kgも減少したという[152]

大戦後期から末期にドイツ軍が本格的に劣勢に転じた後、ヒトラーはすっかり国民の前に姿を現さず、引きこもるようになった。他の政府幹部たちも似たり寄ったりであった。しかしゲッベルスは引きこもることなく、精力的に働き続けた。ヨーゼフは空襲にあった都市の被災者の慰問に頻繁に訪れて励まし、演説さえほとんどしなくなったヒトラーに代わって国民に戦意を鼓舞する演説を行い、連合国軍に対して最後まで抵抗するようラジオで国民に呼びかけた[153]

また空襲を受けた都市のために救援隊を組織したり、徴兵されなかった中年・少年男性を集めて国民防衛隊「人狼」を設立したりして国民の人気を集めた。自らの宣伝省が爆撃によって破壊された時はかなりのショックを受けたと日記に記している。また、空襲を受けたベルリン市民を直接激励するようにヒトラーに何度も進言したが、受け入れられることはなかった。

1944年11月12日、国民突撃隊を閲兵するゲッベルス

1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の時には、たまたま首都ベルリンにいた唯一人のナチ最高幹部として反乱の鎮圧に大きな役割を果たした。その結果、同年7月25日にヒトラーから総力戦全国指導者(ドイツ語:Generalbevollmächtigter für den totalen Kriegseinsatz。戦時国家総動員総監国家総力戦総監という訳もある)に任命され、内政全般に大きな発言力を得る。しかし健康状態は悪化して白髪となり、胃潰瘍や腎臓結石、不眠に悩まされた[154]。1945年1月30日にはベルリン防衛総監を兼任して首都防衛の最高責任者となる。しかしゲッベルスはを信用せず、首都の防衛の主力には多大なる犠牲を顧みず、装備も錬度も劣る国民突撃隊を投入した。

1945年1月には最後の「国民の映画」(ドイツ語: Film der Nation)である『コルベルク』が封切られた。ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍によってプロイセン王国が蹂躙されたとき、コルベルク英語版というポンメルンの小都市が強大なフランス軍に立ち向かったという史実を映画化したものだった。ゲッベルスがこの映画の撮影を監督ファイト・ハーランドイツ語版に依頼したのは1943年6月のことだった。ゲッベルスは国防軍や国家・党機関に援助と助力を要請し、通常の映画の8倍の資金が投じられた[155]。このときゲッベルスは「この映画が公開される時にはそれは、軍事的・政治的状況にぴったり当てはまるだろう」と記しているが、1945年の戦況はまさに「我々の今日の状況と不気味な関係」がみられるほどになっていた[155]。公開に当たっては「銃後と前線が一つになった国民はどんな敵にも打ち勝てる」という「コルベルク精神」を国民に植え付けることを意識された。フランス大西洋岸のラ・ロシェルで孤立して戦っているドイツ軍陣地にパラシュートで映画を届けさせて、ベルリンとの同時封切にするという芸当を実現させた。しかしそのコルベルクはこの頃すでにソ連の占領下に落ちていた。もちろんその事実はゲッベルスによって隠されていた[156]

首相就任と自殺[編集]

ソ連軍によるベルリン包囲網が狭まるにつれて政府指導者やナチ党幹部の多くはベルリンから脱出したものの、ゲッベルスはヒトラーの側に残る道を選んだ。2月には兄ハンスに過去の手紙や著作を焼却するよう依頼した一方で、公開することを意識した日記はマイクロフィルムで撮影し、複数のコピーを作成した[157]ベルリンの戦いのさなか、妻と6人の子と共にヒトラーの総統地下壕に移り住む。マクダは当初子供達を救いたいと主張していたが、やがてゲッベルスの意見に同意した[158]。地下壕入りしたゲッベルスは宣伝省の仕事に見向きもせず、自らの日記を整理することのみに集中していた[159]。4月29日、ゲッベルスは党官房長マルティン・ボルマンとともに、ヒトラーとエヴァ・ブラウン結婚の立会人となり、その後の二人の死を見届ける。4月30日、ヒトラーの政治的遺書英語版の指名により首相に就任した。しかしゲッベルスはヒトラーの政治的遺書を受け、「総統は私にベルリンを去って、新しい政府に首班として参加するよう命じた。私は初めて、総統に従うことを断乎として拒否する」として、「無条件に死に至るまで彼(ヒトラー)の味方になる」ため、「無用な生を、総統の傍らで終える」ことを表明している[160]。その資格においてソ連軍と条件付降伏交渉を行うが、ソ連軍からは無条件降伏を求められ、決裂した。

5月1日、六人の子供達を死なせた後、ゲッベルスとマクダは死を選び、ゲッベルスの血筋は途絶えた。死の経緯については様々な説が伝えられているが、首相官邸の中庭で死亡したことは確実である。その後二人の遺体はガソリンを用いて焼却されたが、火が消えても黒こげのままで放置された[161]。それ以降のゲッベルス一家の遺体の行方は長らくわからなかったが、冷戦終結によるグラスノスチによって、1970年にヒトラー夫妻の遺体と共に掘り起こされて完全に火葬された上、エルベ川に散骨された事が明らかとなった。

家庭生活[編集]

ゲッベルスと家族、ハラルトは撮影に同席できなかったため、空軍士官候補生の姿の写真が後から合成された

1931年12月19日、ゲッベルスはマクダ・クヴァントと結婚する。マクダの前夫は実業家のギュンター・クヴァントで、一男ハラルトドイツ語版があった。そのハラルトも養子としてゲッベルス家に迎えられたが、ゲッベルスはハラルトにも分け隔てなく愛情を注いでいたという。これによりナチス幹部との血縁関係を得たギュンター・グヴァントは、強制収容所から徴収した労働者を自身の工場で酷使するなどして巨万の富を築いた[4]クヴァント家は現在、BMWファルタなどを所有するドイツで最も富裕な一族となっている)。ハラルトはドイツ空軍に入隊し、1944年にイタリアで重傷を負ってイギリス軍の捕虜となり、ゲッベルスの家庭で唯一戦後まで生き残った。ハラルトは戦後に機械工学を修め、1954年に実父の死去によってファルタなどの大企業を受け継いだが、1967年に乗機の墜落事故で死亡した。ゲッベルスとマクダ夫人は生涯で六人の子供をもうけた。上から長女ヘルガ(1932年生)、二女ヒルデ(1934年生)、長男ヘルムート(1935年生)、三女ホルデ(1937年生)、四女ヘッダ(1938年生)、五女ハイデ(1940年生)である。一見模範的なドイツ家庭を作り上げてそれを宣伝した。

ゲッベルスの家庭はナチ党の高官たちが集う憩いの場でもあったが、宣伝では模範的だった家庭も、実際にはゲッベルスの奔放な女性関係によりしばしば危機に瀕した。ゲッベルスは、ナルシスト特有の自信と映画界での権力を背景に多くの女優に関係を迫っていた。

1938年のチェコ出身の女優リダ・バーロヴァとの関係は、双方ともに本気の恋愛関係となり、マクダ夫人との離婚、バーロヴァとの結婚を決意するまでに至った。総統ヒトラーはこれに激怒したが、ゲッベルスは「宣伝大臣を辞任して同盟国である駐日本大使となり、バーロヴァとともにドイツを去りたい」とまで申し出た。しかしヒトラーはこれを許さず、ゲッベルスにはバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるというスキャンダルに発展した。マクダ夫人はこれに感謝し、ヒトラーに大変な信頼を寄せることとなる。

ベルリン郊外、ヴァンドリッツドイツ語版ボーゲン湖ドイツ語版湖畔にあったゲッベルスの邸宅は、戦後、ソ連軍接収後に、東ドイツが周囲に建物群を増築し、自由ドイツ青年団の教育施設となった。1990年に東ドイツ国家が消滅すると、ベルリン市の管轄に移った。1999年に空き家となるとネオナチの聖地化するのを恐れ、建物を閉鎖して管理していたが、財政難により売却することになった[# 1]。しかし2013年現在も買い手がついていない[# 2]

人物[編集]

「ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのように痩せていて、ゲッベルスのように背が高い理想的アーリア人種」という風刺画
  • 映画愛好家のゲッベルスは『ニーベルンゲンの歌』と『戦艦ポチョムキン』のファンだった[162]。監督のラングエイゼンシュテインのどちらもユダヤ人であり、ゲッベルスにヒトラーの好きな『ヴィルヘルム・テル』の映画化を頼まれたラングは速やかにフランスに亡命し、エイゼンシュテインは「我々は、我々の戦艦ポチョムキンを作らなければならない」というゲッベルスの発言に憤激したことは有名である。
  • 足の長さが違い、そのため歩行時は片方をややひきずる状態で歩いた。この事は戦時下で流行った「嘘は足を引きずって歩く」(本来は「嘘の足は短い」で、「嘘はすぐバレる」ということを意味していた)というジョークにもなった。彼の身体的特徴や辣腕ぶりをネタにしたジョークは非常に多い。
  • 青年時代のアルベルト・シュペーアは、ヒトラーの演説には引き込まれたのに対して、聴衆を逆上させるゲッベルスの演説手法には違和感を覚えたという。
  • 1943年にはボルマン・ラマースカイテルらの三人委員会(ゲッベルスは聖三王というあだ名をつけた)に対抗するため、軍需相となっていたシュペーアやライフンクらとゲッベルスは共同戦線を結成しているが、1年後には喧嘩別れとなった。ハインリヒ・ヒムラーとは概して疎遠であったが、共同戦線崩壊後には接近を試みている[163]
  • 現在のCMでも用いられている、『メッセージ開始後3秒間にジングル音などで人の気をひきつけ、その後本題を流す』という技法はゲッベルスが開発した。

ゲッベルスの宣伝思想と行動[編集]

ポツダムで演説するヨーゼフ・ゲッベルス。1942年

ゲッベルスは「宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのがよい宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝である」「重要なのは宣伝水準ではなく、それが目的を達することである」とし[164]、その目的は「大衆の獲得」であり、「その目的に役立つなら、どんな手段でもよいのだ」と語っている[165]。彼は「日々の経験から効果的な手法を学んだ」としているが、彼が述べる宣伝概念にはヒトラーの『我が闘争』からの踏襲が見られる[165]。実際彼には宣伝手法自体やその出自にこだわりはなく、「ボルシェヴィスト(ボリシェヴィキ)からは宣伝の点で、大いに学ぶところがある」と評しただけでなく[166]、宣伝大臣として最初に映画界に伝達したことは「右翼の『戦艦ポチョムキン』を作るように」ということであった[167]

ベルリンで宣伝活動を行っていた当時は、ベルリン市民を「群衆の集合」ととらえ、ベルリン市民の思考に合わせた奇抜で独創的な宣伝を多く行った。図案家のハンス・ヘルベルト・シュヴァイツァードイツ語版(筆名・ミエルニル)はこの時期に効果的なプロパガンダプラカードを作成し、ゲッベルスから「神の恩寵」と賞賛されている[168]

宣伝大臣となって最初の重大任務が国会の開会式であり、彼は荘重な演出を行ってヒンデンブルク大統領ら保守派をも感動させた(ポツダムの日)。さらに5月1日の「国民労働の日」祭典や非ドイツ的な図書の焚書、ベルリンオリンピックなどでは荘厳な演出をおこなったが、映画『意志の勝利』で有名な1934年のニュルンベルク党大会にはあまり熱心ではなく、日記にも記載していない[169]。彼が専門領域と考えていたのは「映画」であり、シナリオや俳優の起用などに深く介入した[170]

なお、「もちろん普通の国民は戦争を望まない。」に始まる、戦争遂行のためのプロパガンダ手法を端的に表した名言は、ゲッベルスではなく空軍大臣・国家元帥ヘルマン・ゲーリングの発言である。

宣伝手法・考えを巡る強敵との相克[編集]

ナチスといえば、ニュルンベルク党大会での演出やパレードなど華麗・華美な宣伝という印象が多く流布しているが、政治宣伝部門を担当していたゲッベルスが本当に望んでいた手法は全く別のものであった[疑問点 ]。 ニュルンベルク党大会については

  1. 党内で半ば盟友関係だったシュペーアがデザイン担当に深く関わっていた
  2. 最高指導者であるヒトラーの好みを考慮
  3. 当のゲッベルスがハリウッド映画の華美・壮観な演出に憧れ魅了されていた[疑問点 ]

等の事情があったと言われる。

ゲッベルス自身は、前述の政治イベント等とは違い「気楽に楽しめる娯楽の中に宣伝を刷り込ませ、相手に宣伝と気づかれないように宣伝を行う」「宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる」「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」を政治宣伝のあるべき姿と心掛けていた。これらの手法・考えは、当時のドイツやソ連、そして後年幾つか登場する全体主義国家(他、カルト団体など)よりも、むしろ民主主義国家(政治だけでなく商業でも)で本領を発揮し易いもので、事実、ナチスドイツを産み育てたヴァイマル共和政ヴァイマル憲法は当時の世界の中で最高水準の民主制制度を備えていた。マインドコントロール#洗脳との相違も参照の事。

壮大な規模の大パレードやマスゲームで優越感をくすぐり、攻撃対象を痛烈に罵倒し罵る宣伝は支持者への即効性が望める反面、ある程度以上の知性を持つ大衆、或は外国から畏怖や違和感を抱かせる逆宣伝効果が多大にある(敵対勢力に簡単に逆用されてしまう)事をゲッベルスは理解し始めていた[いつ?]

大手映画会社が作成した映画『ヒトラー青年クヴェックスドイツ語版』(普段から生真面目過ぎて仲間から馬鹿にされているクヴェックスという少年が、生死をかけて潜伏スパイを摘発し、最後に少年団仲間に看取られながら通りの真ん中で最期を遂げる内容)を試写して「あからさまに政治宣伝色が強すぎる」と激怒し、お蔵入りさせるといった出来事まで起きている[疑問点 ]

ヒトラーのお気に入りとして登場する映画監督のレニ・リーフェンシュタールは、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、彼女が芸術性を第一に考えて製作したプロパガンダ映画作品の殆どはまさに前述のゲッベルスのポリシーに反するものばかりで、やがては国内映画制作の指導指揮権一部競合を巡る両者の根深い対立へと繋がっていく[疑問点 ]

これらについては、1992年にBBCが製作したドキュメンタリー映像作品「メディアと権力」第一部『大衆操作の天才・ゲッベルス』[171]で詳しい。

ゲッベルスとリーフェンシュタール[編集]

ゲッベルスとレニ・リーフェンシュタールの最も初めの接点となったのは、彼女の出演作『死の銀嶺ドイツ語版』を1929年12月1日、当時の恋人エリカと観た時だった。この時ゲッベルスは日記に「とても美しい」「すばらしい娘!」と賞賛の言葉を残している[172]。しかしリーフェンシュタールが映画監督となり、1933年にヒトラーの指名によりナチ党大会映画を撮ることになったことで(『信念の勝利』)、ゲッベルスと彼女は複雑な関係となる。

リーフェンシュタールはその回顧録において、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、1934年のニュルンベルク党大会の撮影を行っていた彼女とスタッフをゲッベルスのスタッフが妨害したという記述を残している。しかし実際そのような行為が行われたという記録は彼女の回顧録以外に存在しない。また完成した映画『意志の勝利』を見たゲッベルスは「国家政治的・芸術的に特に価値あり」と認め、「国民の映画賞」をこの映画に授けて顕彰した[173]。またリーフェンシュタールはベルリンオリンピックの時にもゲッベルスが「なし得る限りの妨害」をし、ヒトラーがオリンピック映画の管轄を宣伝省から直轄の部署に移動させたと記述しているが、実際にはそのような措置はとられていない[174]

記録・著作[編集]

ゲッベルスは多くの記録を残しているが、日記を刊行したという体裁の『カイザーホーフから首相官邸へ[175]』(戦前の邦訳では『勝利の日記[176]』)も、実際の日記とは異なるいくつかの修正が加えられている[177]。たとえば公刊本ではヒトラーを終始「Führer」と称しているが、実際の日記では1934年まで「Chef」と呼んでいる[178]

語録[編集]

栄典[編集]

勲章[編集]

その他[編集]

  • チャップリンの映画『独裁者』でトメニアの独裁者ヒンケル(役:チャップリン)を補佐するガービッチ内務大臣(役:ヘンリー・ダニエル英語版は、ゲッベルスのパロディである。映画でのガービッチ(通常は「内務大臣」とされているが、映画の最後の場面で「内務大臣兼宣伝大臣」と紹介される)は、喜劇的に誇張された他の登場人物とは違い、冷徹で頭脳明晰な上に狂信的な反ユダヤ主義者・反民主主義者という、ヒンケル以上に怖ろしい人物として描かれている。
  • TVアニメ「あひるのクワック」には独裁者ドルフに仕える宣伝大臣ゲッペが登場する。日本で児童向けのアニメにゲッベルスをモデルとした登場人物がいることは大変珍しい例である。
  • ゲッベルスは、後世の映画の中に自分が登場することを夢見ていた。痩身の短躯で神経質で屈折したパーソナリティの彼のイメージは病的なナチスの世界を描くのに欠かせない役者であった。
  • 日本語ではしばしば「ゲッルス」と表記されるが、これは正しくない。現在、少数であるが「ゲベルス」という表記も見受けられる。第二次世界大戦前の日本では「ゴェッベルス」と表記されたこともあった。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ Miller & Schulz 2012, p. 339.
  2. ^ Miller & Schulz 2012, p. 290.
  3. ^ Miller & Schulz 2012, p. 283.
  4. ^ Miller & Schulz 2012, p. 284.
  5. ^ Miller & Schulz 2012, p. 271, リース 1971, p. 15
  6. ^ ゲッベルス 1974, p. 10.
  7. ^ a b リース 1971, p. 15.
  8. ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 12.
  9. ^ Miller & Schulz 2012, p. 345.
  10. ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 15.
  11. ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 11-12.
  12. ^ a b c クノップ 2001, p. 34.
  13. ^ Rothmeier, Ines (2009). Analyse Rhetorischer Stilmittel Der Faschistischen Rede Am Beispiel Der Sportpalastrede. Grin Verlag. p. 6. ISBN 978-3-6402-8368-2. 
  14. ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 13.
  15. ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 14.
  16. ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 14-15, リース 1971, p. 17-18
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  18. ^ 平井正 1991, pp. 7.
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参考文献[編集]

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  • ゲッベルス述「理論と実践に於けるボルシェヴィズム」大東文化協会研究部訳(『人民戦線に対するナチスの宣戦』青年教育普及会、1937年)
  • ゲッベルス『伯林奪取』下村昌夫訳(永田書店、1940年)
  • ゲッベルス『宣伝の偉力』高野瀏訳編(青磁社、1941年)
  • ゲッベルス述「戦争は偉大な教育者である」金平太郎訳(『ナチスの戦争論』東方書院、1942年)
  • ゲッベルス(西城信訳)『ゲッベルスの日記』(番町書房、1974年)
  • ヨーゼフ・ゲッベルス(桃井真訳)『大崩壊—ゲッベルス最後の日記—』(講談社、1984年)
  • ゲッベルス「ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命」池田浩士訳(『ドイツの運命――ドイツ・ナチズム文学集成(1)』柏書房、2001年)
  • レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 上』(河出書房新社、2005年)ISBN 978-4309224404
  • レオン・ゴールデンソーン著『ニュルンベルク・インタビュー 下』(河出書房新社、2005年)ISBN 978-4309224411
  • 武田知弘『ナチスの発明』(彩図者、2006年)ISBN 4-88392-568-4
  • トーランド, ジョン 『アドルフ・ヒトラー 上』 永井淳訳、集英社1979a
  • バーデ『ナチス独逸の議会改革 全体議会建設の指導者ゲェベルス博士』安武納訳(天佑書房、1942年)
  • 桧山良昭 『ナチス突撃隊』 白金書房1976年ASIN B000J9F2ZA
  • 平井正 『ゲッベルス—メディア時代の政治宣伝—』 中央公論新社中公新書〉、1991年ASIN B00I7PNLQK
  • フェスト, ヨアヒム 『ヒトラー 上』 赤羽竜夫訳、河出書房新社、1975aASIN B000J9D51I
  • フェスト, ヨアヒム 『ヒトラー 下』 赤羽竜夫訳、河出書房新社、1975bASIN B000J9D518
  • マンヴェル, ロジャー、フレンケル, ハンリヒ 『第三帝国と宣伝—ゲッベルスの生涯—』 樽井近義・佐原進訳、東京創元社1962年
  • フェーリクス・メラー、瀬川裕司他3名訳『映画大臣 ゲッベルスとナチ時代の映画』(白水社、2009年)
  • リース, クルト 『ゲッベルス—ヒトラー帝国の演出者』 樽井近義・佐原進訳、図書出版社1971年
  • 宮田光雄『ナチ・ドイツの精神構造』(岩波書店、1994年)ISBN 978-4000015394
  • 前川道介『炎と闇の帝国—ゲッベルスとその妻マクダ—』(白水社、1995年)
  • モムゼン, ハンス 『ヴァイマール共和国史―民主主義の崩壊とナチスの台頭』 関口宏道訳、水声社、2001年ISBN 978-4891764494
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関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
アドルフ・ヒトラー
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国首相
1945年
次代:
ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
(臨時政府首相代行)
先代:
(創設)
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国国民啓蒙・宣伝大臣
1933年 - 1945年
次代:
ヴェルナー・ナウマン
党職
先代:
アドルフ・ヒトラー
ナチス・ドイツの旗 国家社会主義ドイツ労働者党
宣伝全国指導者

1930年 - 1945年
次代:
(党消滅)