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ヴィルヘルム・グレーナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・グレーナー
Wilhelm Groener
グレーナーの肖像写真 (1928年)
生年月日 (1867-11-22) 1867年11月22日
出生地 北ドイツ連邦
ヴュルテンベルク王国ルートヴィヒスブルク
没年月日 (1939-05-03) 1939年5月3日(71歳没)
死没地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン自由州ポツダム
前職 陸軍軍人 (陸軍中将)
所属政党 無所属
称号 一級鉄十字章
プール・ル・メリット勲章
ドイツ国
第14代 内務大臣
内閣 第1次ブリューニング内閣
第2次ブリューニング内閣
在任期間 1931年10月9日 - 1932年5月30日
大統領 パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツ国
第3代 国防大臣
内閣 第4次マルクス内閣
第2次ミュラー内閣
第1次ブリューニング内閣
第2次ブリューニング内閣
在任期間 1928年1月20日 - 1932年5月13日
大統領 パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツ国
第3代・第4代 交通大臣
内閣 第1次ミュラー内閣
フェーレンバッハ内閣
第1次ヴィルト内閣
第2次ヴィルト内閣
クーノ内閣
第1次シュトレーゼマン内閣
第2次シュトレーゼマン内閣
第1次マルクス内閣
第2次マルクス内閣
在任期間 1920年5月2日 - 1924年10月11日
大統領 フリードリヒ・エーベルト
在任期間 1919年7月3日 - 1919年7月7日
皇帝 ヴィルヘルム2世
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軍歴
グレーナーの肖像写真 (1915年)
所属組織

ドイツ帝国陸軍

ヴァイマル共和国陸軍
軍歴 1884年 - 1919年
最終階級 陸軍中将
戦闘第一次世界大戦
ドイツ革命
除隊後 政治家
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カール・エドゥアルト・ヴィルヘルム・グレーナードイツ語: Karl Eduard Wilhelm Groener, 1867年11月22日 - 1939年5月3日)は、ドイツ陸軍軍人政治家ヴュルテンベルク出身の共和国派の軍人で、プロイセン最後の参謀本部総長を務め、ヴァイマル共和国時代には内務相、国防相などの閣僚職を歴任した。

概要

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プロイセン王国参謀本部次長で、軍部独裁体制の事実上のトップを務めていたエーリヒ・ルーデンドルフ将軍と対立した後、グレーナーは野戦司令部に配属された。しかし、1918年10月にルーデンドルフが解任されると、グレーナーはその後継者として、第一次世界大戦の戦後処理を任された。1918年ドイツ革命においては、共産主義者の政権奪取を阻止するため、社会民主党の新大統領フリードリヒ・エーベルトと協力して、彼の指揮の下、陸軍はドイツ全土の反乱を鎮圧した。

グレーナーは、貴族的で君主主義的な軍を、新しい共和制に統合しようとした。1919年夏に軍を退役したグレーナーは、ヴァイマル共和国政府のいくつかの政権で運輸大臣、内務大臣、国防大臣等の閣僚職を歴任した。1932年ナチ党との協定を進めていたクルト・フォン・シュライヒャー将軍によって政府から追い出され、失意のうちに死去した。

来歴

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初期の経歴

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1867年11月22日、ドイツ南西部・ヴュルテンベルク王国ルートヴィヒスブルクに、連隊主計官で連隊長のカール・エドゥアルド・グレーナーとその妻アウグステ(旧姓ボレグ)の子として生まれる[1]1884年アビトゥーア合格後に、ヴュルテンベルク王国陸軍ドイツ語版第121歩兵連隊「アルト・ヴュルテンベルク」(第3ヴュルテンベルク連隊)ドイツ語版に士官候補生として入隊。1886年に中尉に昇進し、1890年から1893年まで大隊副官を務めた。1893年から1896年まで、ベルリンの陸軍士官学校に通い、首席で卒業した[1]。任官試験に合格後陸軍大学で学び、1897年プロイセン参謀本部に配属され、以後17年間を鉄道兵站の専門家として過ごすことになる。1898年に大尉に昇進し、また同年に、シュヴェービッシュ・グミュントでヘレーン・ガイヤーと結婚し、娘をもうける[2]1902年から1904年まではエルザス=ロートリンゲンメッツ駐屯の第98歩兵連隊の連隊長を務め、1904年から再び参謀本部に異動となった。1906年に少佐に昇進し、1908年から1910年までは第13軍団(王立ヴュルテンベルク軍団)ドイツ語版1910年にはシュトゥットガルトの参謀将校を務め、1910年からは第125歩兵連隊ドイツ語版の大隊長となる。1912年に中佐に昇進し、再び参謀本部へ戻る。

第一次世界大戦

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第一次世界大戦の開始とともに、グレーナーは陸軍最高司令部(OHL)の野戦鉄道局(FECH)の長官に就任した。第一次世界大戦でも戦線移動に伴う膨大な鉄道輸送業務の責任者として、彼の鉄道網の拡張と配備ルートの計画は、1891年から1906年までプロイセン陸軍参謀総長であったアルフレート・フォン・シュリーフェン将軍の配備計画に基づいている[2]。なお鉄道局でグレーナーの部下として働いたフリードリヒ・フォン・ベッティヒャードイツ語版大尉は、後々までグレーナーの側近として頭角を表すことになる。一連の活躍により、グレーナーは1915年6月に異例にも、少将に昇進した。同年9月11日には、プール・ル・メリット勲章を受勲され、生まれ故郷であるルートヴィヒスブルクの名誉市民にも選ばれた。またベルリン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ドイツ語版哲学部およびシュトゥットガルト大学工学部から名誉博士号を授与されている[3]

ルーデンドルフ独裁

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1916年

彼の組織的な能力により、同年12月、グレーナーはルーマニアからの食糧輸送を担当することになった。1916年には、プロイセン参謀総長及び陸軍最高司令部部長にパウル・フォン・ヒンデンブルクが、参謀次長にはエーリヒ・ルーデンドルフが就任し、戦争、外交、政治の実権を握る、軍部独裁体制(ルーデンドルフ独裁)が成立した。グレーナーは参謀将校の一員として新体制に深く関わった。グレーナーは、同年5月に新しく創設された戦時食糧庁の長官に就任し、同年11月1日に中将に昇進した。同時にプロイセン王国陸軍省次官及び副大臣にも就任し、戦争局も統括した。この職責で帝国議会に勤労奉仕法案を提出した。

1917年7月、経済における戦時体制の構築を図り、国家統制型の企業運営を提案したところ、産業、政府、軍部の一部からの反発を受け、グレーナーを追放するため陰謀も企てられた[4]。陰謀の結果かどうかは不明だが、同年8月に、第33師団[要リンク修正]の司令官として前線勤務となり、その功績により、王冠と剣付き赤鷲勲章第二等ドイツ語版を授与された[5]。同年12月23日には第25予備軍団ドイツ語版の司令官に、翌年2月27日第1軍団[要リンク修正]の司令官に任命された。

ウクライナの統治

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グレーナーは1918年3月ウクライナ占領時に第1軍団を指揮していた。しかし3月28日、キエフ軍集団司令官ヘルマン・フォン・アイヒホルン元帥の参謀長に任命され、ウクライナにおけるドイツ占領政策の実行役として活躍した[6]。グレーナーはウクライナがロシアとの経済的結びつきがなければ、国家としては成り立たないと見ており、ウクライナの独立には消極的であった。グレーナーは戦争終結まではウクライナをドイツの「食糧庫」として利用し、戦後はロシアとの関係に配慮して返還すべきと考えていた。しかし、司令官のアイヒホルンはむしろウクライナの独立に肯定的であり、コサック出身のパヴロ・スコロパツキー将軍(元ロシア帝国陸軍中将)を筆頭とするウクライナ国を建設し、同国のウクライナ化を推進した。同国にはウクライナ人で構成されたウクライナ中央評議会が存在したが、事実上の行政は、アイヒホルンとグレーナー中心のドイツ軍部による軍政であった。グレーナーはその中でもウクライナ政府の監督と再編成など、組織的・政治的課題に対処する役割が与えられた[1]

ウクライナは十月革命の結果、動乱が続いていたため、グレーナーは将校たちにユダヤ人によるボリシェビズムの脅威という反ユダヤ主義的な陰謀説を広めた。グレーナーはドイツ革命が勃発した後、妻に下記の内容の手紙を執筆している。

ユダヤ人に関しては絶対に人々に警告しなければならない。ユダヤ人はロシアが帝政時代から、我々に対し敵対的であり、その必要があった。彼らは、秩序の担い手、反動の担い手、革命を打破する我々を恐れている。そうであるからにして、我々に対し扇動することは、彼らの利益になるのである。

グレーナーはユダヤ人がロシア、ドイツの革命の黒幕であると手紙で記している[7]。また第一次世界大戦における、イギリスとの戦争を、世界市場での覇権をめぐる争いだと解釈した[8]

ドイツ革命

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グレーナーとヘレネ夫人(1917年)

1918年10月29日、ドイツの敗戦を目前にしてルーデンドルフが参謀次長を辞すると、グレーナーは後任の次長に就任し、名目上の最高司令官である参謀総長ヒンデンブルクの下で全ドイツ軍の撤収と復員の責任を負うことになる。同年11月、グレーナーはベルギースパにある大本営で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に対し、「軍隊はもはや陛下を支持していない」と突きつけた。ヴィルヘルム2世はドイツ皇帝の地位は放棄することを認めたが、プロイセン国王には留まり続けようと試みだが、グレーナーは反対し、11月9日に首相のマックス・フォン・バーデンとの電話会談で、皇帝の退位が間もなく行われることと、それを公表しても問題ないことを伝えた。そして同日、マックスがその後発表した皇帝退位宣言により、ヴィルヘルム2世は退位した。その同じ日、ベルリンでドイツ共和国宣言が行われ、グレーナーはドイツ軍を西部戦線から撤退させ、本国での復員を進めた。

11月にドイツ革命が発生すると、グレーナーは革命のボルシェヴィキ化を防ぐため、フリードリヒ・エーベルト率いる穏健派のドイツ社会民主党(SPD)が主導する臨時人民代表委員会ドイツ語版に支持を表明し、11月10日のエーベルトとの電話会談では、軍が政府に従うことを約束した。(エーベルト=グレーナー協定ドイツ語版)の成立である。これにより、エーベルト暫定首相は、強力な後ろ盾を得て、政権を安定化を実現することができだが、同時に軍部が国家内国家として独立した地位を築くきっかけでもあった。軍部に多かった君主制の支持者は後々まで、グレーナーを「裏切り者」と非難したが、彼は「革命という事態の中では、新しいドイツにプロイセンの伝統を活かす最善の道だった」と反論した。グレーナーも当初は君主制を支持しており、帝政は維持するべきと主張していた。またエーベルトが皇帝の退位ドイツ語版英語版を示唆すると、グレーナーは憤慨していた。

1919年6月のヴェルサイユ条約締結もグレーナーは承認した。グレーナーは、条約を承認しなかった場合、弱体化したドイツ軍は連合軍に太刀打ちできず、連合国による占領を防ぐことができないと予見していた[9]。同月、ヒンデンブルクの辞任を受けて参謀総長に就任した。

ヴァイマル共和政での経歴

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グレーナー内相(1932年)

1919年9月30日、グレーナーはエーベルトの反対を押し切って軍を辞し、短い引退期間ののち政界に転身する。どの政党にも属さなかったが、エーベルトの要請で1920年6月に、フェーレンバッハ内閣に無所属の交通大臣として初入閣してから、1923年まで四次の内閣でその職を務めた。彼の主な功績は、帝国鉄道の再建とヴェルサイユ条約の規定によって妨げられた航空交通の振興であった。1923年のクーノ内閣の退陣に伴い、グレーナーは政界を離れ、『Das Testament des Grafen Schlieffen』などの軍事・政治論文を執筆した。彼の研究対象は、シュリーフェン元帥やフリードリヒ大王で、どちらも先見の明と社会的志向を持つ指導者として評価されていた。また、政界引退後も政治指導層と緊密な関係を維持し続けた。なおグレーナーが政界に進出している間、側近の一人としてグレーナーを支えたのが、参謀本部鉄道局以来の部下で、国防省統計部長の地位にいるベッティヒャー将軍である[10]

1928年1月にヴィルヘルム・マルクス内閣のオットー・ゲスラー国防相が秘密軍備計画で辞職に追い込まれると、同年1月20日、エーベルトに代わり大統領に就任したヒンデンブルクは、彼の後任としてグレーナーを再入閣させた。国防大臣として、グレーナーは新生極右政党ナチ党突撃隊(SA)とその下部組織である親衛隊(SS)を国家の統制下に組み入れ、超党派的な国防スポーツ連盟に統合しようと画策していた。しかし、1931年ブリューニング内閣で内務大臣を兼任すると、1932年5月に各州の内務省の強い要望で、SAの活動を禁止すると、ナチ党の与党への取り込みを図る国防次官クルト・フォン・シュライヒャー将軍と対立した。また、ドイツ元皇太子のヴィルヘルムも同年4月14日にグレーナーに抗議した[11]。1932年5月10日の第62回帝国議会で、グレーナーはSA禁止令を正当化した。この演説には、ナチ党の代議士たちから激しい抗議があった。しかし、グレーナーは、軍部に勢力を持ちヒンデンブルク大統領の側近でもあるシュライヒャーの要求には逆らえず国防相を辞任。直後のブリューニング内閣退陣で内相の座も失った。シュライヒャーが立ち上げた新首相フランツ・フォン・パーペンは、直ちにSAを復帰させた。

晩年

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グレーナーの墓

1934年ポツダムのボルンシュテットに移り住み、そこで回想録『Lebenserinnerungen』を執筆した。その後は公の場に出ることもなく、1939年5月3日に同地で死去した。グレーナーはナチ党政権下で冷遇視されており、メディアは彼の死を報じたが、コメントは禁じられた。陸軍令により、ドイツ国防軍将校は葬儀への参加を禁じられたが、クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト将軍だけが、正装でシュタインドルフ南西墓地での葬儀に出席した。

家族

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グレーナーは二度結婚し、あわせて一男一女をもうけた。最初の妻ヘレネ(1926年死去)が1900年に産んだ娘ドロテア・グレーナー=ゲイヤー(1900 ‐1986)は、1948年に婦人運動団体の会長になり、男女同権運動で活躍した。

脚注

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  1. 1 2 3 Biografie Wilhelm Groener (German)”. Bayerische Staatsbibliothek. 2013年6月26日閲覧。
  2. 1 2 Biografie Wilhelm Groener (German)”. Deutsches Historisches Museum. 2014年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月22日閲覧。
  3. Trude Maurer (2015), «… und wir gehören auch dazu.» Universität und ‹Volksgemeinschaft› im Ersten Weltkrieg., Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, p. 1115, ISBN 978-3-525-33603-8
  4. Dorothea Groener-Geyer: General Groener. Soldat und Staatsmann. Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 1955, S. 352.
  5. Dorothea Groener-Geyer: General Groener. Soldat und Staatsmann. Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 1955, S. 352.
  6. Winfried Baumgart: General Groener und die deutsche Besatzungspolitik in der Ukraine 1918. In: Geschichte in Wissenschaft und Unterricht. Jahrgang 21, Heft 6, 1970, S. 325–340, hier S. 327.
  7. Brian Crim: „Our most serious enemy“: the specter of Judeo-Bolshevism in the German military community 1914‒1923. In: Central European History. Band 44, Heft 4. S. 624–641, hier S. 635.
  8. Hürter: Wilhelm Groener. S. 22.
  9. Heinrich August Winkler: Der lange Weg nach Westen. Deutsche Geschichte 1806–1933. Bonn 2002, S. 400.
  10. Walter Riccius: Institution der Luftattachés. Deutsche Luftattachés von Beginn bis 1945. Dr. Köster Verlag, Berlin 2024, ISBN 978-3-96831-061-9, S. 44 ff.
  11. Bernd Ulrich: Letzter Abwehrversuch, Deutschlandfunk, 13. April 2007

外部リンク

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公職
先代
ヨーゼフ・ヴィルト
ドイツ国の旗 内務大臣
1931年 - 1932年
次代
ヴィルヘルム・フライヘル・フォン・ガイル
先代
オットー・ゲスラー
ドイツ国の旗 国防大臣
1928年 - 1932年
次代
クルト・フォン・シュライヒャー
先代
グスタフ・バウアー
ドイツ国の旗 交通大臣
1920年 - 1923年
次代
ルドルフ・エーザー
軍職
先代
パウル・フォン・ヒンデンブルク
陸軍参謀総長
1919年
次代
ハンス・フォン・ゼークト
ドイツ陸軍兵務局長