ドイツ人民党

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ドイツの旗 ドイツ国政党
ドイツ人民党
Deutsche Volkspartei
German People's Party.svg
成立年月日 1918年12月15日
前身政党 国民自由党
解散年月日 1933年7月4日
後継政党 自由民主党
政治的思想・立場 中道右派
公式カラー 黒白赤
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ドイツ人民党ドイツ語: Deutsche Volkspartei、略称DVP)は、ヴァイマル共和政時代のドイツの政党。実業家を中心に支持され、政治スタンスとしては中道右派の政党だった。ドイツ国民党とも訳される[1]

党史[編集]

革命直後の1918年11月16日帝政時代のブルジョワ自由主義政党である国民自由党(Nationalliberale Partei、略称NLP)や進歩人民党ドイツ語版(Fortschrittliche Volkspartei略称FVP)の党員たちの間で新党ドイツ民主党(Deutsche Demokratische Partei、略称DDP)結成の呼びかけが行われた[2]

しかし新党結成をめぐってグスタフ・シュトレーゼマンの存在が問題となった。シュトレーゼマンは戦時中に無制限潜水艦作戦など対外強硬策を唱道し、軍部のルーデンドルフの政治干渉にも賛成する立場を取ったため、自由主義者の間での彼の評判は悪くなっていた。民主党の設立メンバーのうち特にヒャルマル・シャハトアルフレート・ヴェーバーがシュトレーゼマンの新党参加に反対した[3]

この「仲間外れ」の扱いに怒ったシュトレーゼマンは、1918年12月15日の国民自由党中央委員会において必要な多数の支持を得て国民自由党を「ドイツ人民党(Deutsche Volkspartei、略称DVP)」に改組することを決議した。これにより自由主義勢力の分裂は決定的となり、自由主義右派は人民党、自由主義左派は民主党へ参加することになった[3]。ただし人民党参加者はシュトレーゼマンより右寄りであることが多く、そのためシュトレーゼマンが外務大臣となって融和的な対外政策を行っていた際、自党内でしばしば困難な立場に立たされ、党外の左派に支持を求めねばならない局面が多かった[4]

人民党は「実業界の親玉の政党」と俗称されたように議員の多数が大企業や銀行の取締役会や監査役会の理事で占められていたが、政党政治においては大企業や銀行から一定の自立性を有した[5]。また人民党はヴァイマル共和政に明確に反対しなかったが、帝政色も多分に有していた[6]。皇位復活については未決定という立場を取った[7]

1919年1月の国民議会選挙では人民党の獲得議席は19議席獲得にとどまった。第一党となった社民党、第二党の中央党、第三党の民主党による連立政権「ヴァイマル連合ドイツ語版」が形成され、人民党は野党となった[8]。同年7月のヴァイマル憲法の投票には反対票を投じた[9]

1920年6月の国会総選挙では与党「ヴァイマル連合」は議席を落とす一方、人民党が65議席に躍進した[10]。この選挙の結果、社民党首班政権は崩壊し、後任の内閣には人民党を入閣させることになった。社民党には人民党への拒否感が強かったので、社民党が政権を出て、中央党、民主党、人民党の連立によるフェーレンバッハ内閣が誕生する運びとなった[11]。1921年3月のロンドン会議で決まった巨額の賠償金についてフェーレンバッハ内閣は受諾不可能として辞職。賠償金を受諾した後任のヴィルト内閣には人民党は参加せず、代わりに社民党が復帰した[12]

しかし大統領フリードリヒ・エーベルトもヴィルトも政権安定のためには人民党を政権に入れる必要があると判断し、人民党の再入閣を呼びかけた。人民党の方でも党首シュトレーゼマンがヴァイマル共和制の情勢を安定させる必要性を説いて党内右派を抑えることに努め、再び人民党が入閣することになった[13]。社民党が人民党の入閣に反発して政権離脱したためヴィルト内閣は瓦解したが、代わって中央党、民主党、人民党、バイエルン人民党の連立によるヴィルヘルム・クーノ内閣が成立した[14]。これ以降1930年から始まる「大統領内閣」まで人民党は常に与党にあった。

1923年1月にフランス軍によるルール占領があり、それに対してクーノ内閣は「消極的抵抗」路線を取ったが、それにより極度のハイパーインフレーションが発生した。夏までにはクーノ内閣は完全に行き詰り、代わってシュトレーゼマンを首相とする人民党首班内閣が誕生し、共産党国家人民党の左右両極を除く全政党の支持を受けた。この内閣は3か月しか続かなかったが、ルール地方の「消極的抵抗」の中止とレンテン・マルクによるマルクの安定という功績を残した[15]

その後シュトレーゼマンは、1923年から1929年の死去まで第1次・第2次マルクス内閣、第1次・第2次ルター内閣、第3次・第4次マルクス内閣と6つの内閣で一貫して外務大臣を務めた[16]。シュトレーゼマンはヴェルサイユ条約の遵守を旨とする「履行政策」を推進し、西方諸国との親善関係を増進させ、1926年にはノーベル平和賞を受賞した[17]。国内的にはシュトレーゼマンは社民党を含めた大連合政権を重視したが、社民党との連合は固執した訳ではなく、独立社民党との合併により左派色を強めていた社民党が連合のパートナーに足る安定性をかくならば、その代わりに国家人民党を入閣させることも計算に入れた[5]

1929年にシュトレーゼマンが死ぬと党は徐々に右寄りに回帰していった。1930年初めには社会民主党と失業者政策で争い、ヘルマン・ミュラー大連立内閣の倒閣に動いた。1930年9月の総選挙では最も得票率を凋落させた政党となった。15議席も失って30議席に落ち込んだ。1932年の選挙ではさらに大幅に得票率を減らし、わずかに7議席を持つ政党となった。急速に政界での影響力を弱め、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)が政権を掌握した1933年7月4日には解散させられた[18]

第二次世界大戦の後、旧ドイツ人民党の勢力は自由民主党の創設に加わった。

国会(ライヒスターク)選挙結果[編集]

選挙日 得票 得票率 獲得議席 (総議席) 順位
1919年1月19日 1,345,638票 4.4% 19議席(421議席) 第6党
1920年6月6日 3,919,446票 13.9% 62議席(459議席) 第4党
1924年5月4日 2,694,381票 9.2% 45議席(472議席) 第5党
1924年12月7日 3,049,064票 10.1% 51議席(493議席) 第4党
1928年5月20日 2,679,703票 8.7% 45議席(491議席) 第5党
1930年9月14日 1,577,365票 4.7 % 30議席(577議席) 第6党
1932年7月31日 436,002票 1.2% 7議席(608議席) 第7党
1932年11月6日 660,889票 1.9% 11議席(584議席) 第7党
1933年3月5日 432,312票 1.1% 2議席(647議席) 第7党

出典[編集]

参考文献[編集]