アンゲラ・メルケル

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ドイツの旗 ドイツの政治家
アンゲラ・メルケル
Angela Dorothea Merkel
AM Juli 2010 - 3zu4.jpg
アンゲラ・ドロテア・メルケル
生年月日 1954年7月17日(59歳)
出生地 西ドイツの旗 西ドイツ ハンブルク
所属政党 ドイツキリスト教民主同盟
配偶者 ウルリッヒ・メルケル(1977年 - 1982年)
ヨアヒム・ザウアー(1998年 - )
サイン Angela Merkel Signature.svg
公式サイト Angela Merkel

ドイツの旗 第8代連邦首相
内閣 メルケル内閣
任期 2005年11月22日 -
連邦大統領 ホルスト・ケーラー
クリスティアン・ヴルフ
ヨアヒム・ガウク

ドイツの旗 環境・自然保護・原子力安全担当大臣
内閣 第5次ヘルムート・コール内閣
任期 1994年11月15日 - 1998年10月27日

ドイツの旗 婦人・青年担当大臣
内閣 第4次コール内閣
任期 1991年1月18日 - 1994年11月15日

選挙区 メクレンブルク=フォアポンメルン州
当選回数 4回
任期 1990年 -

その他の職歴
ドイツの旗 第7代キリスト教民主同盟党首
(2000年4月 - )
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アンゲラ・ドロテア・メルケルAngela Dorothea Merkel, 出生名:アンゲラ・ドロテア・カスナー/Angela Dorothea Kasner, 1954年7月17日 - )は、ドイツ政治家2000年よりキリスト教民主同盟 (CDU) 党首。第8代ドイツ連邦共和国首相。ドイツでは女性としては初の大政党党首・首相である。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

家系はポーランド系帝政ドイツ時代の1896年ポズナン(ドイツ語ポーゼン)で生まれたポーランド人である祖父ルドヴィク・カズミェルチャクが第一次世界大戦ドイツ軍に徴兵され、戦後に除隊したのちベルリンに定住、グダンスク(ドイツ語ダンツィヒ)出身のカシューブ人ヘルリント・イェンツシュと結婚、長男のホルストが4歳のときの1930年に姓を「カズミェルチャク」(Kazmierczak)から「カスナー」(Kasner)に変更した[1][2][3]。この祖父ルドヴィク(ドイツ語の発音ではルートヴィヒ)はルター派プロテスタントだった。アンゲラはハンブルクで生まれた。父ホルストがベルリン=ブランデンブルク福音主義教会(現ベルリン=ブランデンブルク=シュレージシェ・オーバーラウジッツ福音主義教会)の牧師として東ドイツに赴任することになり、生後数週間のアンゲラは1954年に両親と共に東ドイツへ移住する[4]。母はラテン語英語の教師であった。東ドイツでは教会は反政府勢力の拠点であったが、カスナーは政府に「進歩的勢力」と見られていた会派の所属で危険視されておらず、西側へ旅行できる特権も与えられていた。東ドイツで弟1人と妹2人が生まれる。

科学者[編集]

学校時代は付き合いは良いが、目立たない生徒であったという。成績は優秀で、中学校時代の全科目の平均評価は1.0(日本でいえば「オール5」)であり、特にロシア語[5]数学に優れていた。家が宗教家のため加入義務はなかったが、ドイツ社会主義統一党 (SED) の下部組織である自由ドイツ青年団 (FDJ) に属していた。1973年にカールマルクス・ライプツィヒ大学(現ライプツィヒ大学)に入学、物理学を専攻する。彼女はこのころポーランドへの長期自転車旅行に出かけている[6]

在学中の1977年に同じ学部の学生だったウルリッヒ・メルケルと結婚。現在の姓は彼に由来するものである。しかしこの結婚生活は4年で終わった。1978年、優良の成績で学士号を取得、東ベルリンにある科学アカデミーに就職し、理論物理学を研究する。ここで現在の夫ヨアヒム・ザウアーと出会うが、2人が結婚するのはずっと後の1998年である。1986年、博士論文を提出して博士号 (Dr. rer. nat.) を取得。分析化学に配置転換となる。同年初めて西ドイツを旅行。これは審査で国家に忠実とみなされた者にのみ許される権利だった。この頃の彼女に政治活動は見られず、SED党員でもなく反政府活動もしていなかった。

政界へ[編集]

東ドイツ首相ロタール・デメジエール(左)と副報道官当時のメルケル(1990年8月)

1989年の「ベルリンの壁」崩壊時、先行きが不安になった科学アカデミーを辞職、「民主主義の出発」の結党メンバーになる。同党では報道官を務めた。1990年に東ドイツで行われた最初にして最後の自由選挙でこの党はCDU(西ドイツのCDUとは別組織)と政党連合を組んでいたため、東ドイツ最後のロタール・デメジエール政権で副報道官に就任した。ドイツ再統一直前に西ドイツCDU党大会に出席し、党首で西ドイツ首相のヘルムート・コールに初めて出会う。10月3日の統一後CDUに入党し、1990年12月2日の連邦議会選挙で故郷メクレンブルク=フォアポンメルン州から出馬して初当選。

初当選議員ながら、第4次コール政権の女性・青少年問題相に抜擢され、1991年1月18日に就任。ブランデンブルク州の党支部代表を目指すが、党内基盤が全くなかったため敗北。しかしシュタージへの協力という過去が明るみに出たデメジエールの辞任を受け、後任のCDUの連邦代表代理に就任した。次いで1993年には、ついにメクレンブルク=フォアポンメルン州の党支部代表に就任した。1994年10月の連邦議会選挙により成立した第5次コール政権では環境・自然保護・原発保安担当大臣に就任。前任者クラウス・テプファーの環境保護政策は経済優先のCDU党内や連立相手の自由民主党 (FDP) に受けが悪かったが、メルケルは就任3か月目にテプファー以来の事務次官を更迭してこれに応えた。なお東ドイツ時代の知人は彼女がその性向から同盟90/緑の党に参加すると思っていたので、CDUへの入党に驚いたという。ちなみに彼女の母は統一後は社会民主党 (SPD) の熱心な支持者になり、牧師である父もCDU支持者ではないという。

1998年の連邦議会選挙で歴史的な大敗を喫したコール政権が終幕を迎え、CDUは野党に転じる。コールを継いでCDU党首に就任したヴォルフガング・ショイブレの提案により、彼女は同党幹事長に就任。1999年11月に同党のコール政権時代のヤミ献金が発覚すると、メルケルはいち早く『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に寄稿してコール元首相を批判、彼から距離を取ることを党員に訴えた(現在ではコール元首相と和解している)。2000年2月にヤミ献金問題によりショイブレCDU党首が辞任すると、4月の党大会で承認されCDU党首に就任した。

CDU党首時代[編集]

CDU党首とCDU/CSU連邦議会議員団長というショイブレのポストは党首がメルケルに、議員団長がフリードリッヒ・メルツCDU財務担当にと別々に引き継がれたように、旧東独出身のプロテスタント、女性であり、しかも離婚歴のあるメルケルはCDUではリベラル派とみなされ、保守本流からは懐疑の目で見られていた。トップのヤミ献金疑惑にショックを受けたCDUの地方党員・一般党員が、保守本流からは外れるメルケルを党首に押し上げた。実際のところ、州首相の経験もなく、連邦議会議員団長でもなかったメルケルは連邦首相への通例のコースからは外れており、党内権力基盤も弱かった。「コールのお嬢さん」({{{2}}}) と呼ばれていたのがその証拠の一つで、内閣の旧東独出身者と女性の割合を増やすための数合わせに過ぎないとコール政権時代は見られていた。

しかし、メルケルはその後着々と権力基盤を確実にしていく。2000年の時点で保守本流を代表し将来の首相候補と嘱望されていたのは、1999年にSPDの強かった「赤いヘッセン州」でハンス・アイヒェル州首相を破ったローラント・コッホであったが、コッホが率いるヘッセン州CDU支部自体が2000年にヤミ献金問題の直撃を受け、全国レベルで保守陣営を代表できなくなった。2002年の総選挙では、姉妹政党であるキリスト教社会同盟 (CSU) のエドムント・シュトイバー党首兼バイエルン州首相が保守陣営の首相候補となる。1月11日に行われたその協議の際、メルケルは首相候補を諦める代わりに、総選挙後に連邦議会議員団長のポストを得るという密約があったといわれている。この総選挙は野党連合の惜敗に終わり、シュトイバーの初のバイエルン出身首相という野望は潰えたが、メルケルは選挙後にメルツCDU/CSU連邦議会議員団長からその地位を奪い取る。

国政でのSPDと同盟90/緑の党の連立与党の不人気にも助けられて、州政レベルでCDUはその後確実に政権を奪っていき、2004年ホルスト・ケーラー連邦大統領の擁立にも成功する。メルケルは以前のように一般党員、地方党員だけではなく、旧西独出身の保守本流の政治家達も一目置かざるを得ないやり手の政治家に成長した。さらに2005年に入り、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州ノルトライン=ヴェストファーレン州での州議会選挙のCDU勝利により、シュレーダー首相の賭けで前倒し実施されることになった2005年の連邦議会選挙を、CDU/CSUの首相候補かつ初の女性首相候補、初の東独出身候補として戦うことになった。この頃にはかつてのあだ名「コール(石炭 (Kohle) と発音が近い)のお嬢さん」と引っかけて「鉄のお嬢さん」(Eisernes Mädchen) と呼ばれるようになった。これには「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャー元英国首相に比しての意味合いもある。2人には科学者出身、保守系、女性政治家という複数の共通項があるためである。また"Eisernes Mädchen" のもう一つの意味は中世の拷問用具である「鉄の処女」であり、メルケルが選挙戦で掲げていたラディカルなネオリベラル改革を左派陣営が揶揄して、こう呼んだ。

首相就任[編集]

2005年9月18日に行われた総選挙では、メルケル率いるCDU/CSU連合はゲアハルト・シュレーダー首相率いるSPD・緑の党連合に僅差で勝利した。しかし改選前より議席を22も減らしたために、FDPと合わせても過半数には届かず、緑の党との連立協議も不調に終わったことから、SPDとの連立以外に現実的な選択肢がなくなった。SPDと政権運営についての折衝が始まると、10月10日にはCDU/CSU・SPDの3党による大連立を組むことで合意したが、CDUとSPDの最終議席配分がわずか4議席差だったことから連立協議は難航した。最大の争点は誰が首相になるかで、CDUは比較第一党として「メルケル首班」を譲らず、SPDは「2年経ったらシュレーダーと交代」案を持ち出して政権に執着した。結局CDUが単独で首班を取るのと引き換えに、16ある閣僚ポストのうち半数の8をSPDに譲るという妥協が成立。11月22日、メルケルは第8代連邦首相に就任した。51歳での就任は2012年現在、歴代最年少である。また二大政党が大連立を組むのは1966年 - 1969年クルト・ゲオルク・キージンガー政権以来となった。

メルケル政権は発足当初から積極的な対露・対米外交を展開して高支持率を出し、2006年3月の3州議会選挙でも勝利して、連立政権はひとまず順調にスタートを切った。ドイツは引き続きフランス東ヨーロッパ諸国、特にロシアとの友好関係を継続、将来的にはトルコ欧州連合 (EU) 加盟を支援するが、前政権ほど積極的ではなかった。さらには中道左派の社民主義政党であるSPDと中道右派の保守政党であるCDU/CSUでは政策綱領が大きく異なっていることは否めず、また財務大臣などの重要閣僚ポストをSPDへ譲ったこともあって、先送りされているメルケル政権の看板政策の中心で政治公約である雇用促進によるドイツ国内の雇用、年金制度の大幅な改革によるメルケル改革の実現、健康保険制度改革や法人税率改革などの内政面の課題の帰趨は不透明な状態で、今後どこまで両党が政策合意を重ねてゆけるかが注目された。

2006年末、任期後半の目標として連邦制改革、官僚主義の打破、科学研究の振興、エネルギー政策、財政建て直し、家族政策(少子化対策)、労働・市場政策、そして最重要課題である健康保険制度改革の8点を掲げた。メルケルの政策には果断さはなく対処的なものではあるが、就任当初はその政策実行力を不安視されたものの、国民のみならず経済界や国外からも安定した支持を得ている。なおメルケルは、国民への政策説明に世界の国家指導者で初めてビデオ・ポッドキャストを使用している。

2007年前半のEU議長国、6月のドイツ・ハイリゲンダムでの主要国首脳会議(サミット)議長も無難にこなし、また二酸化炭素排出量削減など環境保護政策でもイニシアチヴを発揮している。同年8月29日に首相就任後初めて来日、また9月23日にはドイツの首相として初めてダライ・ラマ14世を首相官邸に招いて会談し(会見したのはCDU党首時代以来2回目)、中華人民共和国政府の抗議を受けた。シュレーダー政権同様中国重視に変わりはないが、より人権重視の姿勢を見せており、EUの対中武器輸出解禁には反対の姿勢を示している。

2008年にはイスラエルを訪問し、イスラエル議会で演説をした。それまでイスラエル議会で演説した外国人は、大統領など国家で最高の地位にある人物のみであり、メルケルは首相という立場で演説をした初めてのケースとなった。演説はメルケルの母国語であるドイツ語で行われ、中にはドイツ語を聞くのは耐えられないとして議場を離れた議員もいたが、少数派だった[7]

首相2期目[編集]

2009年9月27日の総選挙でCDU/CSUが勝利。SPDとの大連立を解消し、新たにFDPと連立政権を樹立することで合意。10月28日に第2期政権が発足した。メルケル政権は、支持率60%を長らく維持していたが、2010年ギリシャ財政破綻問題で、ドイツが多額の財政支援を行わなくてはならなくなったことで、支持率が40%台程まで急落した。

2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により、ドイツ国内でも脱原発の機運が上昇。原発推進派として稼働年数を延長する政策を採ってきた首相も、この動きを見て3月14日に計画の凍結を表明した[8]。しかし、国内の原発不信は拡大していき、地方議会選挙で緑の党が躍進するなど与党が相次いで敗北。5月30日には「2022年までに国内17基すべての原発を閉鎖する」という方針を示し[9]、新たなエネルギー政策へと舵を切った。

首相3期目[編集]

2013年9月22日に行われた総選挙では、CDU/CSUは議席を伸ばし第1会派の座を維持したものの過半数には届かなかった。一方で、支持が低迷していた連立相手のFDPは惨敗し、全議席を失ってしまった。このため、CDU/CSUとSPDで3か月にわたる協議の末再び大連立を組むことになり、12月17日に第三次メルケル内閣が発足した。

人物[編集]

家族[編集]

メルケルの夫ヨアヒム・ザウアー

今の夫はフンボルト大学ベルリン教授で量子化学者のヨアヒム・ザウアー。ザウアーは2005年のメルケルの首相就任に際しても公の場に現れなかったため、彼がリヒャルト・ワーグナーを好んでいることにかけて「オペラ座の怪人」(Das Phantom der Oper) とあだ名された。2007年のハイリゲンダム・サミットには姿を現し、首脳伴侶の行事に黒一点参加した。

尊敬する人物[編集]

エカチェリーナ2世を尊敬しており、オフィスに彼女の絵が飾られている。

衣装に関するエピソード[編集]

2006年4月、休暇先で水着に着替えている後ろ姿をパパラッチされ、イギリスの大衆紙『ザ・サン』などに掲載された。2008年4月には、訪問先のノルウェーでオペラ鑑賞した際、豊満な乳房を大胆に露出した衣装をまとい、話題となった[10]。2009年の総選挙ではこの時の衣装を選挙ポスターに使う候補も存在した[11]

各国首脳とのエピソード[編集]

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と。足下にいるのはプーチンの愛犬であるコニー。2007年1月ソチにて。
アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領と。2007年1月ホワイトハウスにて。

少女時代に犬に噛まれたことがある。2007年にソチでロシアのウラジーミル・プーチン大統領と会談中、プーチンの愛犬コニーが乱入して彼女の足下に座った。

同年のハイリゲンダム・サミットでは、アメリカジョージ・W・ブッシュ大統領に肩を触れられた際、驚いて肩をいからせるリアクションを取った(アメリカでは面識のある異性の肩に手をかける行為は親しみの表現として容認されている)。

サッカー[編集]

かなりのサッカー好きであり、自国開催となった2006 FIFAワールドカップでは全試合をスタジアムで観戦している。2008年のUEFA欧州選手権でもオーストリアまで駆けつけて観戦したことから、「本職を疎かにしている」と野党から批判されたこともある。また、クロアチア戦でファウルで退場処分となったバスティアン・シュヴァインシュタイガーを次の試合の観戦に同席させ、説教をしたこともある。2010 FIFAワールドカップではG20会場でデビッド・キャメロン英首相とドイツ対イングランド戦をテレビ観戦。その際、イングランド側のゴールがノーゴールと見なされた、いわゆる「世紀の誤審」と呼ばれるゴールに際しては、「明らかにゴール。ごめんなさい」とキャメロン首相に言葉をかけた[12]。準々決勝のドイツ対アルゼンチン戦では急遽ケープタウンに駆けつけてジェイコブ・ズマ南アフリカ大統領とともに観戦した[13]

表彰[編集]

語録[編集]

大連立与党SPDのクルト・ベック党首(右)と(2007年9月29日)
  • 「私は体育の授業の間ずっと飛び込み台の板の上に立っていて、45分経ってようやく飛び込むタイプの人間です」(2000年)
  • 多文化主義は見事に失敗した」(2004年)
  • 「窓ですね! こんなに頑丈で美しい窓を作れる国はないですから」(2004年、「ドイツと聞いて連想するものは?」と聞かれ)
  • 「赤緑連立(SPD+同盟90/緑の党)が治めていない一日一日が、ドイツにとってのいい日です」(2005年)
  • 「ドイツに仕えます」(首相候補に指名されての第一声)
  • 女子代表はもう世界一になりました。女に出来て男に出来ない理由などないと思います」(翌年のワールドカップを控えて、2005年末の国民向け挨拶で)
  • ミュンヘンの人が『ベルリンへ行こう!』と叫ぶのは、何か素晴らしいことだと思う」(ワールドカップ中の2006年6月、ミュンヘンドイツ代表スウェーデン代表を下し、歓喜するファンが「決勝戦の行われるベルリンへ行こう!」と叫んでいるのを受けて。聞きようによっては、この前年メルケル内閣への入閣を拒否したシュトイバーへの嫌味とも取れる)
  • ヨーロッパキリスト教クラブでないというのは正しい。しかしヨーロッパが人権と市民権を基本とするというのもまた事実です。そしてここドイツでは、人権と市民権をキリスト教的人間像に重ねているのです」(2006年のCDU党大会で)
  • 「中国は我々のように知的財産権を尊重することを学ばねばならない。なぜならそれを簡単にコピーすることは窃盗だからです」(2006年)
  • 「私の愛車はフォルクスワーゲンです」(2007年2月12日付の『フィナンシャル・タイムズ』紙ドイツ語版でドイツの野党議員の発言が切っ掛けに巻き起こった日本車賛美論争で発言)
  • 「私は時にリベラル、時に保守、時にキリスト教社会主義です。それこそがCDUをなしているのです」(2009年9月、ARDの番組にての発言)
  • 「国家は破綻するはずがないという噂があります。この噂は正しくありません」(銀行家との会合での発言。『デア・シュピーゲル』誌、2009年第5号)
  • 「あなた方ハンガリー人は、ドイツ人の自由への意志に翼を与えました。あなた方の勇気が、ベルリンの壁を崩壊させる決定的な一撃となったのです」(2009年8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニック20周年記念演説の一節)
  • 「『さあ、多文化社会を推進し、共存、共栄しよう』と唱えるやり方は完全に失敗した」(2010年10月16日、自党の青年部会議における発言。)

脚注[編集]

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  1. ^ http://www.sueddeutsche.de/politik/familiegeschichte-der-kanzlerin-merkel-hat-polnische-wurzeln-1.1623363
  2. ^ http://www.montrealgazette.com/news/Polands+prime+minister+helps+Angela+Merkel+correctly+Polish/8102411/story.html
  3. ^ http://www.spiegel.de/international/germany/all-in-the-family-poles-pleased-to-learn-of-polish-heritage-of-angela-merkel-a-889207.html
  4. ^ ベルリンの壁が建設される1961年までは、東西ドイツ間の移住は比較的容易であった。(フランク・リースナー著 菅野智明監修 生田幸子訳『私は東ドイツに生まれた』2012年 東洋書店 P171)
  5. ^ 東ドイツで必修科目だったロシア語に堪能であることは、東ドイツに滞在経験もあり、ドイツ語が達者なウラジーミル・プーチン・現ロシア大統領との関係にも好影響を与えているとみられる[要出典]
  6. ^ http://www.spiegel.de/international/germany/all-in-the-family-poles-pleased-to-learn-of-polish-heritage-of-angela-merkel-a-889207.html
  7. ^ 熊谷 徹オフィシャルウェブサイト
  8. ^ メルケル独首相、国内原発の稼働延長を凍結 福島原発事故を受けフランス通信社、2011年3月15日。
  9. ^ ドイツの脱原発政策、各国の反応」フランス通信社、2011年5月31日。
  10. ^ Frau Kanzlerin zeigt Dekolletee
  11. ^ メルケル首相の「胸の谷間」、自党女性候補が借用 ドイツ総選挙」フランス通信社、2009年8月11日。2009年10月23日閲覧。
  12. ^ 【W杯】大誤審にメルケル首相がキャメロン首相に「明らかなゴール。ごめんなさい」G20抜けだし観戦 産経ニュース、2010年6月28日
  13. ^ 「12番目の選手」…サッカー大好きメルケル独首相、現地観戦へ サーチナ、2010年7月1日

外部リンク[編集]


公職
先代:
ゲアハルト・シュレーダー
ドイツ連邦共和国首相
2005年 -
次代:
現職
先代:
クラウス・テプファー
ドイツ連邦共和国環境相
1994年 - 1998年
次代:
ユルゲン・トリッティン
先代:
ハンネローレ・レンシュ
ドイツ連邦共和国家族相
1991年 - 1994年
次代:
クラウディア・ノルテ
党職
先代:
ヴォルフガング・ショイブレ
ドイツキリスト教民主同盟党首
2000年 -
次代:
現職