ハリー・S・トルーマン

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ハリー・S・トルーマン
Harry S. Truman
HarryTruman.jpg
ハリー・S・トルーマン

任期 1945年4月12日 – 1953年1月20日
副大統領 空席 (1945-1949)
アルバン・バークリー (1949-1953)

任期 1945年1月20日 – 1945年4月12日
元首 フランクリン・ルーズベルト

任期 1935年1月3日 – 1945年1月17日

出生 1884年5月8日
ミズーリ州ラマー
死去 1972年12月26日(1972-12-26)(88歳)
ミズーリ州カンザスシティ
政党 民主党
配偶者 ベス・ウォレス・トルーマン
子女 メアリー・マーガレット・トルーマン
署名 Harry S Truman Signature.svg

ハリー・S・トルーマン英語: Harry S. Truman, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の政治家。上院議員、第34代副大統領、第33代大統領を歴任。フランクリン・ルーズベルト大統領の死を受けて1945年副大統領から大統領に昇格。

第二次世界大戦の終了から冷戦の始まり、国際連合CIANSAペンタゴン(国防総省)の創設および朝鮮戦争などに関与した。

白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)への加入歴もあるが[1]全米有色人種地位向上協会で演説を行い、公民権運動を支援した初めての大統領である[2]日本への原子爆弾投下について、投下書類(投下命令書)を承認した。[3]。(ただし、トルーマンによる正式な承認は記録されていない[4]。)米国内では、第二次大戦の終結や、ルーズベルトのニューディール路線を引き継いだことなどから、概ね高く評価されているとされる。

一方で、主に進歩主義の学者などは、第二次大戦中の原子爆弾の投下命令や、トルーマン・ドクトリンなどに対しては、冷戦の幕開けによって、大戦終結も軍拡を進めアメリカの軍事大国化(軍産複合体)を推し進め、後のマッカーシズムに至る、反共主義的パラノイアの土台を敷いたなどと批判している[5]

生い立ち[編集]

1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。

第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加し士官となり、フランスで大戦の休戦時まで、大尉として砲兵部隊を指揮した。戦争終結後、インデペンデンスに戻り長年の恋人ベス・ウォーレスと1919年に結婚した。間もなく一人娘のマーガレットをもうけた。

トルーマンは最初の選挙戦に於いてクー・クラックス・クランの支援を得るため同団体に加入した。しかしクー・クラックス・クランが提示したカトリック教徒ユダヤ人の雇用の禁止に同意せず、脱退した。衣類販売業を共同で行った戦友であり、クラーク・クリフォードとともに後のトルーマンのイスラエル建国の承認に大きく役割を果たすユダヤ人のエドワード・ヤコブセンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。

カウンティ・ジャッジ[編集]

1922年にトルーマンは、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受け、ジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく、他の2人のカウンティ・ジャッジとともに郡政府の責任者となる行政官)に選任された。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。

カウンティ・ジャッジとしての主な業績の一つは道路の改良であった。トルーマンは計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。

政治経歴[編集]

1934年にトム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。

上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。

再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、第二次世界大戦に突入したアメリカにおいて、トルーマンの知名度は全国的に上昇した。

1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上した。当初トルーマンは副大統領としての指名を望まなかったが、ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにした。ルーズベルトは戦時指導者として高い評価を受けて先例のない4選を果たし、それに伴いトルーマンは副大統領に就任した。

しかし、重い障害を持ちながら戦争中を通じて世界中を飛び回り、体調が悪い中で戦争終結に向けてヤルタ会談に参加するなど、心身に負担をかけ続けたルーズベルトが1945年4月12日に急死しトルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期は82日間であった。スターリンは前任者のF・D・ルーズベルトと対極的な、威厳も貫禄もない粗雑な小物が突如として大統領の地位を獲得したことに愕然とし、アメリカへの不信を募らせることになった。

大統領職[編集]

the buck stops here」(直訳は「バック(ポーカーで用いられる親の印)はここで止まる」、意味は「ここが終点だ=ここが決定の場だ」)という言葉を好み、執務室の机にこの言葉を記した置物を置いていた。

第二次世界大戦[編集]

大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。7月26日にはアメリカ・イギリス中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには、日ソ中立条約を結んでるソ連抜きで太平洋戦争に勝利したい意図があった。

戦争に勝てないと判断した日本政府は、7月12日、ソ連にいる日本特命全権大使佐藤尚武)宛に、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを伝えるよう打電した。そのパープル暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。トルーマンは、日本政府が和平の動きに出たことを知っていたことになる。 ポツダム入りした米陸海空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち、「ソ連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありうる。日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分」との結論を出した。

しかしトルーマンはその結論を信用しなかった。トルーマンは、7月17日にソ連のヨシフ・スターリンと事前打ち合わせをした際、スターリンからソ連が(ヤルタ会談での密約通り)8月15日対日宣戦布告すると聞かされた[6]。その日トルーマンが妻に書いた手紙では、「戦争はこれで一年以内に終わるであろう」と安堵の気持ちを述べていた。ところがトルーマンは、7月21日トリニティ実験の原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじさを知ると態度を一変した。東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになった。

1945年4月の時点で、原子爆弾の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原子爆弾投下命令を最終決定した。共和党の大物の面々が、日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに、原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。

この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「アメリカが世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。

トルーマンが原爆投下を決定した背景として、マンハッタン計画に当たって使用したアメリカ史上でも最高の、国家予算の20%(日本の国家予算の3倍)にも及ぶ、当時で19億ドルもの予算を議会に事後承諾させ、更に今後も核開発に予算を計上させるための成果が必要だった事、実戦での評価(実験)、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとするほか、人種的偏見があったとする説もある。後述において原爆投下への批判がある

陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。こうしてトルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化し、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している。

トルーマンは原爆投下について1958年のCBSのインタビューで「まったく心が痛まなかった」と語っている。 トルーマンは公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマンが日本へ計18発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン・ポスト紙にスクープされている。ただし、トルーマンは原爆投下前のポツダム会談時点で書いた日記において原爆の残虐性に言及し、婦女子被害を避けるため、東京市京都市を攻撃目標から外すよう指示したと記している[7]

トルーマンは、広島市への原子爆弾投下後に「オッペンハイマーはここにいる間中、いつも『自分の手は血まみれだ』と私に言い続けてきた」「これ以上日本の子ども達を殺すなど、恐ろしいことだ!・・・頭痛がする。肉体的にか、それとも精神的にか?・・・両方だ」とも述べている。そして、2発目の長崎市への原子爆弾投下後の8月10日の閣議で「再び10万人もの人々を抹殺してしまうということを考えるだけでぞっとする」として、「大統領の許可なしに今後の使用は停止される」と決定した[8]

それは、トルーマン自身への批判を回避するための詭弁なのか、あるいは真意だったのかは、今となっては不明である。また、原爆使用の停止決定についても、使用の可能性を完全に否定したものではなく、戦後のインタビューで「日本に他の原爆が準備されて使用可能だったか」という問いに「イエス。(投下対象都市の)リストに載っていた他の二つの都市(新潟小倉)は破壊される運命にあった」と回答している[9]

対ソ・対中政策[編集]

第二次世界大戦終結後の共通の敵の不在が、米ソの利害の対立につながると悟ったトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。また、アメリカ軍の統合に関する大統領令を出した。

アメリカは蒋介石政権崩壊・共産主義拡大防止対策を行い、トルーマン政権のアジア政策も対中政策を最も重要視し、国共内戦の調停を成立させることによって中国の「大国化」を達成しようとした。したがって、トルーマン政権の対中政策は、「ローズヴェルトの戦後構想」を基調とするものとして始まったといえる。12月15日、対中戦後政策に関する包括的な公式声明を発した。この声明は⑴中国共産党を含めた国民党主導下の統一政府樹立、⑵中共軍の国民党軍への編入、⑶安定政権の基礎づくりのため、土地改革をはじめとする社会改革への着手の諸点を要求し、さらに⑷以上が実行されない場合、アメリカは対中援助の拒否権を使用することを宣明した。

しかしルーズベルトが大きな支持を与え親密な関係を保っていた中華民国蒋介石との折り合いが悪く、蒋介石は後に国共内戦を始めてしまう。トルーマンは8月10日に蒋介石にその行動を非難するメッセージを送り、国内問題の早急な平和的解決への努力を要請し再度、国共聞の政治的解決こそが中国の再建という大事業を可能にさせるのであり、「中国全土に広がる内戦の危機の脅威を速やかに除去することができるならばアメリカは中国の工業および農業改革の復興を援助する計画を実行に移すことになろう」と警告を発したがそれもなんら効力を発揮することなし国民党の軍事攻勢は続けられた。さらに12月18日「対中政策」を発表し、アメリカは中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助するだけであるとして、マーシャル将軍の召喚と中国の内戦に関わる一切の行為からのアメリカの撤退を表明したのであり、アチソンによれば「中国で内戦が再開されたならば国民政府とは関係を維持しつつ、合衆国兵力を中国から撤収し、物質的援助を停止することを考慮する」とし、「もしソ連が中国共産党を支持することになった場合には合衆国は政策を大幅に再検討することが必要になろう」というものであった[10]。1947年に入るとマーシャル・ミッションの失敗によって、中国の「大国化」が事実上失敗したことが明らかになりつつあった。アメリカは失敗の原因として蒋介石の率いる国民党政権の無能や腐敗を指摘し、中国問題に距離をおき、後に蒋介石率いる中国国民党への支援を事実上断ち切った。その代わりに、国務省は中国の代わりとなる国家を探し始め、アジアの経済発展における日本の重要性が強調されるようになる。その結果、ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる中国共産党国共内戦に勝利し、1949年中華人民共和国が設立され、蒋介石は台湾に遷都することとなった。1950年1月5日にはアチソン・ラインに基づいて台湾不干渉声明を発表していたが、朝鮮戦争開戦から2日後の同年6月27日に台湾海峡を防衛するとして第七艦隊を派遣した。

再選[編集]

朝鮮戦争時、極東情勢について演説・マッカーサー解任の必要を述べるトルーマン、世界通信より
朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン

1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。

トルーマンの敗北が広く予想されたが、トルーマンは猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。

朝鮮戦争[編集]

二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーによる仁川上陸とその後の国連軍の攻勢を受けて戦争は終結するかと思われたが、その後の中華人民共和国の本格参戦を受けて戦況は停滞した。

かねてからトルーマンとそりが合わず度々対立していたマッカーサーは、戦況の停滞を打開すべく1950年11月に中華人民共和国本土への核攻撃を主張したが、トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任した。

それは後にシビリアンコントロールの模範例として称賛されることもあったが、結果的にトルーマンの支持率に大きく影響した。朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、ベトナムフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。

ブレア・ハウス[編集]

他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られている。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスとなった。

トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの急進的なナショナリスト、グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。トレソーラは警官三名を銃撃したが射殺された。銃撃を受けた警官の一名は病院で死亡した。コラッツオは負傷したが身柄を確保され、裁判後に服役した。

内閣[編集]

職名 氏名 任期
アメリカ合衆国大統領 ハリー・S・トルーマン 1945 - 1953
副大統領 無し 1945 - 1949
  アルバン・W・バークリー 1949 - 1953
国務長官 エドワード・ステティニアス 1945
  ジェームズ・F・バーンズ 1945 - 1947
  ジョージ・C・マーシャル 1947 - 1949
  ディーン・アチソン 1949 - 1953
財務長官 ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア 1945
  フレデリック・ヴィンソン 1945 - 1946
  ジョン・スナイダー 1946 - 1953
陸軍長官 ヘンリー・スティムソン 1945
  ロバート・ポーター・パターソン 1945-1947
  ケネス・クレイボーン・ロイヤル 1947
国防長官 ジェームズ・V・フォレスタル 1947-1949
  ルイス・A・ジョンソン 1949 - 1950
  ジョージ・C・マーシャル 1950 - 1951
  ロバート・A・ラヴット 1951 - 1953
司法長官 フランシス・ビドル 1945
  トム・C・クラーク 1945 - 1949
  J・ハワード・マクグラース 1949 - 1952
  ジェームズ・P・マクグラネリー 1952 - 1953
郵政公社総裁 フランク・C・ウォーカー 1945
  ロバート・E・ヘネガン 1945 - 1947
  ジェシー・M・ドナルドソン 1947 - 1953
海軍長官 ジェームズ・V・フォレスタル 1945 - 1947
内務長官 ハロルド・L・アイクス 1945 - 1946
  ジュリウス・A・クルーグ 1946 - 1949
  オスカー・L・チャップマン 1949 - 1953
農務長官 クロード・レイモンド・ウィッカード 1945
  クリントン・プレスバ・アンダーソン 1945 - 1948
  チャールズ・フランクリン・ブラナン 1948 - 1953
商務長官 ヘンリー・A・ウォレス 1945 - 1946
  W・アヴェレル・ハリマン 1946 - 1948
  チャールズ・W・ソウヤー 1948 - 1953
労働長官 フランシス・パーキンス 1945
  ルイス・B・シュウェレンバック 1945 - 1948
  モーリス・J・トービン 1948 - 1953


大統領職後[編集]

ジョンソン大統領と共にメディケア・ビルの署名を行うトルーマン夫妻、1965年7月30日

トルーマンはワシントンD.C.からミズーリ州インデペンデンスの自宅に戻った後、数多くの講演を行い、回想録を執筆した。だが1964年、自宅バスルームでの転倒事故で半身不随になり、大統領図書館で毎日の仕事を継続することが困難となった。1972年12月26日午前7時50分(日本時間午後10時50分)ミズーリ州カンザスシティにて死去(88歳没)した。遺体は28日に大統領図書館の庭に埋葬された。当時アメリカはベトナム戦争ウォーターゲート事件で揺れ動いていたが、トルーマンは偉大な元大統領としての評判を受けた。ポップ・グループの「シカゴ」は死を悼み、トルーマンに関する歌を書いた。

ニミッツ級航空母艦の8番艦ハリー・S・トルーマン(USS Harry S. Truman, CVN-75) は彼にちなんで命名された。

原爆投下に対する批判[編集]

トルーマンが反対を押し切って原爆投下を決定した事に対して、当時のアメリカ一般国民の支持率は85%だったが、トルーマンと政治的に対立する立場だった共和党や和平派からは酷評があったという。

原爆投下に対する批判のコメントについては『日本への原子爆弾投下#アメリカ側の原爆投下に対するコメント』を参照。

ハーバート・フーヴァー[11]ドワイト・アイゼンハワーは(どちらも共和党)共に否定的なコメントをしたとされる[12]。アイゼンハワーが原爆投下に反対した理由は『第一は、日本は降伏する準備ができていたので、あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第二に、アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかったからだ』という理由である(この話とは反対だが、アイゼンハワーは大統領任期中の1953年に、自身の政権下で被爆地広島に原子力発電所を造る案が浮上した際に「原爆を投下したことへの罪悪感を示すことになる」という理由で反対している[13]。)

大統領主席補佐官でアメリカ海軍提督だったウィリアム・リーヒの回想録には、天皇の地位保全さえ認めれば日本は降伏する用意がある事、日本がソ連への仲介を依頼していた事[14]を意図的に無視したことを批判している[15]

海軍長官のジェームズ・フォレスタルも、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルも無警告の原爆投下には反対をしていた。海軍作戦本部長のアーネスト・J・キングも反対をしていた[16]

ジョセフ・グルー国務次官以下のアメリカ合衆国国務省職員は、無条件降伏は戦争を長引かせ、相手を徹底抗戦させ、いたずらに被害を増やすとしてポツダム宣言の内容明記し、一般人の反米感情を考慮して原爆投下に反対していた。

連合国の元帥であるダグラス・マッカーサーは日本がソ連を和平仲介した時点で、日本には抗戦の意志がないと見なしたものの、自分の許可なしで原爆投下を命令したニュースを聞き、トルーマンに激怒したと言う[17]

オリバー・ストーンはトルーマン政権内では多くの軍幹部が、空襲を受けて疲弊し、降伏寸前だった日本に原爆を使っても意味がないと進言していたが、それでも耳を貸さなかったのは、対日参戦へと動いていたソ連を牽引するためと批判している[18][19]

オリバー・ストーンとともに手掛けたピーター・カズニック歴史学教授は年配の世代の人たちはトルーマン大統領は英雄だったと信じているのは「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」という「原爆神話」を信じているためであり、同教授が講演で、第二次世界大戦当時の7人の米軍最高幹部のうちの6人までが原爆投下は不要か道徳的ではないと言っていたと話すと、これを聞いた退役軍人らは衝撃を受けると述べた[20]。またカズニックは前述のウィリアム・リーヒ同様に、トルーマンが日本がソ連に和平仲介したことを意図的に無視したことを批判している[21]

トルーマン政権時代の外交政策、核政策を専門とするスタンフォード大学の歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は「太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない」という内容の論文を1995年に掲載しており、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の一つだったと説明している。また同教授は被爆したアメリカ兵捕虜について扱っている。原爆投下の直前、アメリカはイギリス情報部から「広島にアメリカ人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視され、アメリカ戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎にはアメリカ人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電されたが、投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人のアメリカ人捕虜は助かった。アメリカ政府が被爆死したアメリカ兵捕虜の事を秘密にしていた理由について、同教授は「アメリカ国民の大半が支持した原爆投下でアメリカ兵が殺されていたとなれば、世論は批判に変わり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」と述べている[22]

1997年に歴史家でアメリカ原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー(英語版参照)は『原爆投下とトルーマン』を発表[23]、「この数年公開された外交文書と当時のアメリカ政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した。」とも発言している。

森林学者のフロイド・シュモー原爆投下のニュースを聴きナチス・ドイツユダヤ人虐殺にも匹敵する蛮行であると怒り悲しみ、大統領に抗議電報を打った。被災者のための家屋建設支援についてはその日の内に決断し、1口1ドルの寄付を募り米国各地を回り始めた[24]

ルーズベルトの死で、急遽副大統領から大統領に昇格したトルーマンには「大統領の器ではない」と言う声や、渡邊恒雄は原爆の非人道性と残虐性に対する想像力が欠如していたと指摘している[25]

一方、トルーマンも原爆の残虐性などを十分に認識していたとする見方もある。ポツダム会談の時期にトルーマンが書き残していた日記には、たとえ日本人がどんなに暴虐でも原爆で攻撃するのは残酷であるから、婦女子の被害を避けるため原爆攻撃目標は軍事拠点に限定し、東京と京都は目標から除くようスティムソン陸軍長官に指示したことが述べられていた[7]

家族[編集]

結婚式にて(1919年6月28日撮影)

トルーマンと妻ベスの間には娘マーガレット・トルーマンがいる。マーガレットは長じてクリフトン・ダニエルと結婚し、クリフトン・トルーマン・ダニエル1957年-)ら4人の子供を授かった。クリフトンは2012年8月トルーマンの孫として来日[26]、同4日広島市平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花した。

  • Robert H. Ferrell(ed.), Dear Bess: the Letters from Harry to Bess Truman, 1910-1959. (Norton, 1983).

その他の家族・親族[編集]

  • ジョン・ヴィヴィアン・トルーマン(1886年-1965年) - 長兄。
  • メリー・ジェーン・トルーマン(1889年-1978年)- 妹。

ミドルネームについて[編集]

Harry S. Truman signature.png

トルーマンはミドルネームではなくイニシャルだけを持っていた。フル・スペルのミドルネームの代わりにイニシャルだけを付けることはミズーリを含む南部の州でしばしば行われていたという。トルーマンは、イニシャルが彼の祖父アンダーソン・シップ・トルーマンとソロモン・ヤングの名前の折衷であると語った。彼は「S」はイニシャルではなく「エス」というミドルネームだとジョークを言い、それにはピリオドを付けないのだとしたが、すべての公文書、彼の大統領図書館もピリオドの付いた名前を使用している。ハリー・S・トルーマン図書館は、トルーマンの生涯を通じての様々な場面で、彼が「S」の後にピリオドを付けた署名を行った多数の明白な例が存在すると公に述べている。

その他[編集]

フリーメイソンのエプロンを着けたトルーマン(左から3人目)

著作[編集]

  • 『トルーマン回顧録』1・2(堀江芳孝訳、恒文社、1966年/新装版、1992年)

脚注・参考資料[編集]

  1. ^ McCullough, David. [1992] Truman. New York: Simon & Schuster.
  2. ^ President Truman (1947). “President Truman's Address to the NAACP, June 28, 1947” 
  3. ^ NHK総合 『その時歴史が動いた』No.333「模擬原爆パンプキン~秘められた原爆投下訓練~」2008年8月27日放映
  4. ^ 投下命令については、陸軍戦略空軍司令官のカール・スパーツから陸軍長官のヘンリー・スティムソンと陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルに承認の依頼が上がり、スティムソンとマーシャルはそれをトルーマンに見せたとされているが記録はないという。長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、pp.322-325
  5. ^ Goldstein, Robert Justin [2006] Prelude to McCarthyism: The Making of a Blacklist http://www.archives.gov/publications/prologue/2006/fall/agloso.html
  6. ^ この会談の際にトルーマンがスターリンに謝意に近い言葉を発したかどうかは米ソの記録で異なっており、ソ連側の記録にのみ「この件で満足の意をあらわし」たとある。これについて長谷川毅はソ連側が記録を改竄したと記している(『暗闘(上)』pp.285 -286)
  7. ^ a b 浄法寺朝美 『日本防空史』 原書房、1981年、382頁。
  8. ^ 長谷川毅『暗闘(下)』中公文庫、2011年、p71。この内容は商務長官のヘンリー・A・ウォレスによるという。
  9. ^ 『暗闘(下)』中公文庫、2011年、p72
  10. ^ 西川博史「アメリカの対日政策の転換と中国の動向 (長岡新吉教授 退官記念号 I)」、『經濟學研究』第43巻第4号、北海道大学、1994年、 73-92頁、 NAID 110004464653
  11. ^ フーヴァーはトルーマンの指示で戦後の日本などを視察した際にフランクリン・ルーズベルトを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していた。
  12. ^ Eisenhower, Dwight D. [1963] The White House Years; Mandate For Change: 1953–1956. New York, NY: Doubleday & Company.
  13. ^ 【原爆から8年後、米政府に「広島原発」案 「罪悪感示す」アイゼンハワー大統領が反対 】(2011年8月6日 朝刊)
  14. ^ 日本は7月7日になって特使をソ連に派遣する方針が天皇の裁可を得、12日に近衛文麿の派遣が決定してモスクワの日本大使館に伝えられた。モスクワではこれを受けた佐藤駐ソ大使がモロトフ外相に会おうとしたが、ポツダム宣言準備を理由に会えず、代わって外務人民副委員のロゾフスキーから「特使の派遣目的や具体的内容がない」ことを理由に「いかなる回答も出せない」と伝えられていた
  15. ^ Leahy, William D. [1950] I Was There. New York, McGraw-Hill
  16. ^ 、『昭和二十年』鳥居民。
  17. ^ Alperovitz, Gar [1995] The Decision to Use the Atomic Bomb and the Architecture of an American Myth, HarperCollins
  18. ^ ストーンはベトナム戦争の従軍体験から映画「プラトーン」を製作した40歳ごろまでは歴史の「原爆正当論」にとらわれており、自分の娘の高校教科書の広島・長崎についての記述が原爆投下を正当化するひどいものとも述べた。
  19. ^ 『言』 原爆投下肯定論 歴史のうそ 見抜くべきだ(2013年8月7日)
  20. ^ 1995年に、スミソニアン博物館が企画した原爆投下機エノラ・ゲイと広島・長崎の被爆資料を並べて展示する原爆展は、退役軍人らの猛反対で中止になったが、20年後の2015年に原爆投下をめぐる言説に挑戦するような作品に好意的な反応が寄せられるのは、20年前に猛反対した世代の多くは亡くなり、原爆投下決定をめぐる議論は沈静化したためと同教授は述べている。
  21. ^ (インタビュー 核といのちを考える)米国で原爆神話に挑む ピーター・カズニックさん(2015年6月2日)
  22. ^ 1983年8月6日(朝日新聞)
  23. ^ Prompt and Utter Destruction: Truman and the Use of Atomic Bombs Against Japan. Chapel Hill and London: University of North Carolina Press, 1997.邦訳「原爆投下とトルーマン」彩流社
  24. ^ 中国新聞・ヒロシマ平和メディアセンター 「検証 ヒロシマ 1945-95 1救援・援助」
  25. ^ 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)
  26. ^ クリフトンは公職になく、この来日はあくまで私人としてのものである。ダニエルは広島と長崎を訪問したい気持ちがあったが「被爆者や遺族から非難される。私は行くべきでない」と考えていたという。
  27. ^ http://www.lodgestpatrick.co.nz/famous2.php#M

文献情報[編集]

  • 「冷戦レトリックの形成過程-トルーマン大統領のレトリック戦略を中心に-」西川秀和(早稲田大学モノグラフ14)[1][2]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

公職
先代:
フランクリン・ルーズベルト
アメリカ合衆国大統領
1945年4月12日 - 1953年1月20日
次代:
ドワイト・D・アイゼンハワー
先代:
ヘンリー・A・ウォレス
アメリカ合衆国副大統領
1945年1月20日 - 1945年4月12日
空位
次代の在位者
アルバン・W・バークリー
アメリカ合衆国上院
先代:
ロスコー・C・パターソン
ミズーリ州選出上院議員(第1部)
1935年1月3日 - 1945年1月3日
同職:ベネット・チャンプ・クラーク, フォレスト・C・ドネル
次代:
フランク・P・ブリッグス
党職
先代:
フランクリン・ルーズベルト
民主党大統領候補
1948年
次代:
アドレー・スティーブンソン
先代:
ヘンリー・A・ウォレス
民主党副大統領候補
1944年
次代:
アルバン・W・バークリー
名誉職
先代:
ハーバート・フーヴァー
最長寿のアメリカ合衆国大統領
1964年10月20日 - 1972年12月26日
次代:
リンドン・ジョンソン