ベトナムの歴史
ベトナムの歴史(ベトナムのれきし、ベトナム語:Lịch sử Việt Nam/歷史越南)では、ベトナムの多数民族であるキン人を中心としたベトナムの歴史について扱う。中世以前の南ベトナムについてはチャンパ王国で詳しく扱う。
概要
[編集]ベトナムの国土は、南北に細長い国土によって、北部(紅河デルタ)、中部(中部高原、中部沿岸地域)、南部(メコンデルタ)に分けられ、ベトナムの歴史は、北部を中心として展開される。中部はチャンパと呼ばれた国家が存在していたが、1471年にベトナムの黎朝によって占領され、1832年に 阮朝に併合される。ベトナム南部は古くは扶南と呼ばれた地域であり、地理的には現在のベトナム国土には位置していたが、1757年に南進してきた広南阮氏によって現在のカンボジアへと追いやられる。
ベトナムの古代については、文字史料が乏しく、ベトナムと隣接する中国の秦の始皇帝の時代になって、ようやく史料にベトナムの情報が記載される。ベトナムは前漢の時代を起点に、約1000年間にわたって中国の支配を受けた後、中国からの独立を達成する。ベトナムでは、長年にわたり中国の支配が続いたこともあり、政治や社会制度は中国の影響が強かった。中国からの独立達成後、数々の王朝が現在のベトナム北部に成立しては滅亡を繰り返したが、1802年にベトナム全土が阮福暎によって初めて統一される。
だが、19世紀後半になると、ベトナムはフランスの植民地となり、独立運動や反乱が数多く起き、やがて共産主義者のホー・チ・ミンが指導者となる。1954年になって、フランスからの独立は果たしたもの、ベトナムは東西冷戦の影響を受け、ソ連・中国が支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)、アメリカが支援する南ベトナム共和国(南ベトナム)の南北に分断された。
その後、ベトナムでは、北ベトナム・北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)と南ベトナムとの間で戦争が起き(ベトナム戦争)、アメリカの撤退後、北ベトナムが南ベトナムを併合し、南北統一が達成される。
南北統一を達成したベトナムであったが、カンボジアとの戦争(カンボジア・ベトナム戦争)や難民(ボートピープル)の発生により、国際的に非難され、社会主義政策もうまくいかなくなる。そのため、ドイモイ(刷新)政策を打ち出し、経済改革を図った。一時経済は混乱したものの、1995年にはASEANにも加盟し、アジア通貨危機の発生によって一時落ち込んだが、その後経済成長を遂げた。
先史時代
[編集]

現在のベトナムでは、1965年8月、ランソン省のタンヴァン村の洞穴で、原人に似た骨が発見されており、その骨は約50万年前のものとされた[1]。また、1960年11月には、タインホア省で磨製石器が発見されており、ベトナムに旧石器時代の文化があった可能性がある[1]。
1968年には、ヴィンフック省ラムタオ県ソンヴィーで2万年前から2万5千年前の遺構が発掘されており、これはソンヴィー文化と名付けられている[2][3]。ソンヴィー文化は、剝片石器が中心であった[3][4]。なおソンヴィー文化については、紀元前3万5千年-3万年とする文献もある[4]。
1924年、フランスの考古学者がホアビン省で遺跡を発掘した[2]。発掘調査によって、石器による狩猟や採集が行われていたことがわかり、この時の文化をホアビン文化という[5]。ホアビン文化では、遺構が洞穴にあり、貝殻や、鹿や猪の骨や礫石器が見つかっている[2][6]。また、ホアビン文化では、キュウリや豆の種子が発見されており、ごく簡単な農業がおこなわれていた可能性がある[2]。ホアビン文化と類似する文化は、ベトナム以外の東南アジア、中国南部でも見られ、年代としては、フランス人側の考古学者は紀元前5000年から3000年、ベトナム人側の考古学者は紀元前1万2000年から紀元前8000年と推定している[2]。別の文献では1万1千年前から9500年前とする文献もある[7]。
ホアビン文化の次の時代の文化が、バクソン文化であり、これは紀元前5千年頃の文化である[2][8]。この頃になると磨製石器が見つかり、土器も作られるようになった[8]。狩猟技術も向上しており、大型の動物の骨も遺構から見つかっている[9]。
一方陸内部とは異なり、バクソン文化と同時代の文化で海岸部にはクインヴァン文化があった[10]。これは4700年ほど前の文化であり、貝を中心に採集生活を送っていた[10]。バクソン文化とは異なり、石器の作りは荒いものの、鋭い刃部を持った石器が見つかっている[10]。
紀元前3千年紀になると、青銅器時代を迎え、フングェン文化、ドンダウ文化が栄えていた[11]。それぞれの文化は学者によって時代範囲が異なるが、フングェン文化は紀元前2800年から紀元前2000年まで、ドンダウ文化は紀元前1800年から1100年までとなっている[11]。ヴィンフック省フングェンで発掘されたフングェン文化では、石器と青銅器が混在して見つかっている[12]。ドンダウ文化の頃になると、当時としてはかなり高品質な青銅器が発掘されており、土器もかなり頑丈なものが作られていることがわかっている[13]。
1924年、ベトナム北部のマー川のドンソン村で青銅器が発見される[12][14]。発掘品は青銅製の矢じり、装身具、中国の通貨や、青銅製の銅鼓が見つかった[12][14]。これらは紀元前800年から紀元前300年ごろのものであり、中国側の史料によると、この頃のベトナムでは、貉田(ラクディエン)と呼ばれる水田耕作を営む人々の共同体があり、貉王(ラクヴォン)、貉候(ラクハウ)、貉将(ラクトゥオン)と呼ばれる指導者がいたとされる[5]。

このドンソン文化と同じ時代の遺跡に、ベトナム中部沿岸地域にサーフィン文化という別の金属器文化が栄えていた[15]。このサーフィン文化は、装飾品が多数出土しており、これらの出土品はフィリピンのルソン島にまで広がっており、何らかの形で交易がおこなわれていた可能性がある[15][16]。もちろん装飾品以外に、槍やナイフなども見つかっている[17]。
文郎国時代から南越国時代
[編集]文郎国
[編集]本節では、歴史とは異なるが、考古学上の証拠は無い文郎国について記載する。
ベトナム人の祖先は、中国古代の炎帝神農の子孫である禄続が中国の南部に涇陽王として封じられ、現地民と交わったことから、ベトナム人の歴史が始まったと考えられている[18][19]。涇陽王の息子である貉龍君は、嫗姫と結婚し、100人の男児が生まれるが、貉龍君は嫗姫に対して離縁を言い渡し、100人の男児の内、50人は母親である嫗姫に付き従い、山へと向かった[18][20]。残る50人は父親である貉龍君に付き従い、その内の長子に雄王と名付けて、帝位につかせた[18][20]。雄王は、峰州を都にして、国名を文郎国とした[18][20]。この文郎国は、ベトナム最初の国家と言われているが、中国の歴史書によると、位置関係は、現在のベトナムではなく中国一帯に存在していたとされる[18]。しかし、北部の紅河デルタにあったとする説もある[18]。この文郎国は紀元前2880年に建国され、文郎国の歴代の王は、雄王を名乗った[19]。文郎国は、その後紀元前258年まで存続し、国王は18人いたとされる[18]。つまり、単純計算で国王1人の治世は145年も続いたということになる[19]。
実際のところ、ベトナム人(キン人)のそのルーツは、現在の中国浙江省の北部にあった越国出身とされ、越が紀元前300年代に滅亡した際、越の住民が南へと避難したのが、ベトナム人の始まりとする説もある[21]。ただ、これにも別の説もあり、結局のところわかっていない[21]。
甌雒・南越国時代
[編集]

紀元前3世紀末、文郎国の第18代目の国王雄王は、政治を顧みず、放蕩に耽っていた[22]。また、国家は自然災害などにも見舞われ、民衆は生活苦に陥り、紀元前258年に、安陽王の甌雒に滅ぼされた[22][19][23]。この甌雒は古螺城を築いたとされ、現在のハノイ郊外に残るコーロア城趾が古螺城の遺跡と言われる[23]。
その後、隣接する中国では、春秋戦国時代を経て、紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一した[24]。
そして、秦の始皇帝は、部下の趙佗に甌雒の侵略を命じた[25]。この頃から中国の歴史書を通じて、ベトナムの歴史が登場するようになる[19]。趙佗は紀元前208年に甌雒を滅亡させ、紀元前207年には秦から独立し、南越国を建国した[24][25]。趙佗は中国人であり、ベトナムは、社会や政治制度、漢字の導入など中国の影響を強く受けるようになる[24][25]。なお、ベトナム側は中国による支配された期間を北属期と呼称している[26]。趙佗はベトナム側の土地を交趾(現在の紅河デルタ地帯)と九真(現在の紅河デルタ地帯の南方タインホア地方)に分けて、当地を現地人に任せた[24]。この時点では、現在のベトナム中部以南は、支配領域に含まれていない[26]。
中国の秦が滅亡し、漢(前漢)が成立すると、紀元前196年、漢は陸賈を南越国に派遣し、漢の属国として印璽を贈った[24]。南越国は、趙佗死去後も存続したが、5代目皇帝の時代、紀元前111年に前漢によって滅ぼされた[23][24]。
中国による支配
[編集]前漢・後漢時代
[編集]南越国を滅ぼした中国・前漢の武帝は、現在のベトナム北部・中部に交趾、九真、日南(現在のフエ付近)の3郡を設置し、北緯18度線以北を支配した[15][27]。そして、紀元前111年に前漢は、これら3郡を自国領に取り込み交州と呼んだ[28]。
秦、前漢時代には、中国からの移民によって、鉄製農具や、牛による耕田技術や、灌漑技術がもたらされ、ベトナムの農業は、焼畑農業による原始的な農業から大幅に進歩した[29][30]。三国時代には、交趾に逃れてきた中国の知識人によって、儒教も伝わったとされる[29]。
紀元後25年、光武帝によって後漢が設立されると、光武帝は植民地支配を強化するようになる[31]。後漢時代の紀元後34年、交趾郡太守に蘇定が就任し、彼は重税を課すなどしたため、現地民からの反感が高まる[26][28]。ただ、これについてはそれまで杜撰だった税制度をきっちり制定して、実施したに過ぎないという見解もある[26]。

しかし、いずれにせよ、中国による支配に対して、ベトナムでは反乱が勃発するようになる[31]。この頃で、最も大規模な反乱だったのが、文郎国の雄王の末裔とされる徴側と徴貮の徴姉妹による反乱である[31][28]。紀元後40年春、彼女は反乱を起こし、徴側は3年間程国王にも即位し、独立を達成する[26][31][28]。これに対して、後漢の光武帝は、馬援を将軍として派遣し、43年に反乱を鎮圧した[26][32]。徴姉妹の最期については諸説あるが、姉妹は共に川に飛び込み自殺したとされる[31]。
後漢は、反乱を鎮圧後ベトナムの支配を継続したが、後漢末期は中国本土でも政治が混乱し、中国から現地ベトナムに対しての指示が行き届かなくなり、中国支配から脱却する領地もあれば、ベトナム現地の中国人官僚による汚職や悪政が行われた[33]。これに対して、後漢の霊帝は、現地ベトナム人を刺史に任命するなど、漢人と同等の権利を付与するなどして懐柔を図った[34][35]。だが、3世紀になってからも、ベトナムでは反乱が相次いでいた。248年には、趙氏貞による反乱が起こったが、これは呉の陸胤によって鎮圧された[36][37]。
前李王朝時代
[編集]
その後、中国が南北朝時代になると、ベトナムは梁の支配を受けるようになる[34][38]。梁もまた、重税を課すなどしたため、民衆の不満が爆発し、541年に李賁が反乱を起こす[34][38]。李賁は瞬く間に、ベトナムを支配し、544年に都をロンビエン(現在のハノイの一部)に定め、南越帝を名乗り、前李朝を建国する[34][38]。これに対して、545年に梁は軍を派遣し、李賁は敗北し、現在のハノイの北西部の森林地帯を拠点として、梁に対して戦いを挑むが、548年に病死する[34]。李賁死去後も、王朝は存続するものの、後継者争いによって内部から瓦解していき、602年に隋の攻撃を受け、滅亡する[34][39]。
唐から五代十国時代
[編集]中国の隋が滅亡後、618年唐が成立し、ベトナムは唐の支配下に置かれることになる[30][40]。唐はベトナムに安南都護府を設置し、支配を強めた[30][41]。なお、安南都護府には、日本人の阿倍仲麻呂も赴任し、ベトナムでの反乱鎮圧に関わっていた[25][41]。だが、ベトナムでは、なおも中国に対する反乱が数多く起こる。その代表的な人物と時期については、687年の李嗣先と丁建による反乱、722年の梅叔鸞の反乱、766年の馮興とその弟の馮駭による反乱がある[41]。いずれの反乱も唐によって平定されてしまうが、この中で最も大規模な反乱だったのが、梅叔鸞による反乱で、彼はベトナム中部と南部にあった林邑、真臘と連合し、唐に対して反乱を起こした[39][41]。梅叔鸞は、一時期現在のハノイを占領して、梅黒帝を自称した[40]。
860年代、現在の雲南に南詔という国が力をつけ、863年に南詔は、南シナ海の交易ルートを確保するため、ベトナムを攻撃した[39][42][43]。これに対して唐は、高駢を指揮官に任命し、南詔の撃退に成功する[44]。高駢は節度使に任命され、現地民からは、高王として敬われた[30][44][45]。彼は、現在のハノイに大羅城を築城した[45]。
900年になると唐の力も衰え、906年にハイズオンの領主・曲承裕が交州節度使を自称し、反旗を翻す[46][47]。力の衰えていた唐はこれをあっさりと認め、曲承裕が死去すると、その息子の曲顥が後継者となり、大羅城に入城し、彼もまた節度使を自称した[46][47][48]。なお、唐は907年に滅亡し、中国は五代十国時代へと突入する[46][48]。917年に、現在の広州で南漢が成立する[46]。これに対して、曲承美(曲承裕の息子)は、南漢を無視して、唐の後継国家である後梁に節度使の任命を要請する[46][47][48]。だが、ベトナムと地理的に近い南漢はこれを不快に思い、923年に後梁が滅びると、南漢は交州を攻撃し、曲承美を捕縛し、交州を支配下に置いた[46][47][48]。
南漢による交州の支配は、紅河デルタの中心部に過ぎず、それ以外の地域ヘは実効支配が及ばなかった[46]。そのため、タインホアを支配していた楊延芸(曲承の武将)は、931年、南漢が支配していた大羅城へと進軍し、南漢の撃退に成功し、楊延芸は節度使となる[46][47]。だが、楊延芸は、937年に部下の矯公羨によって殺害される[46][49]。
中国からの独立
[編集]呉朝
[編集]

楊延芸が殺害されると、938年に南漢が再度交州に侵攻し、楊延芸の娘婿である呉権が挙兵する[45][50]。そして、呉権は矯公羨を殺害し、 白藤江の戦いで南漢の撃退に成功し、王位に就くことになる[45][50]。これによってベトナムは、ようやく1000年に及ぶ中国支配からの独立を達成した[51][52]。呉権は王朝を古螺に置き、944年に死去する[51][52]。呉権の死去後、王朝では後継者争いが起き、内乱状態に突入する[52][53]。そして、12人の有力者が争うようになる[52][53]。これを十二使君の乱と呼んでいる[52][53]。
丁朝並びに前黎朝期
[編集]

十二使君の乱を制したのは、農民から支持が厚かった丁部領であり、968年に、皇帝(丁先皇)に即位し、丁朝を樹立する[51][54][55]。皇帝に即位した丁部領は、国名を大瞿越(ダイコヴィェト。大きな越の国という意味)とし、華閭(現在のニンビン省ホアルー市)に都を置き、中国の宋と朝貢関係を構築する[54][55]。大瞿越という国名は、1054年まで使用された[54]。
だが、丁部領は979年、部下に殺害されてしまい、後継者となったのはわずか6歳の丁璿であった[54][55][56]。そんな丁璿の摂政を務めたのが黎桓である[55][56]。この頃中国の宋が、丁部領が暗殺されたことを知るや否や、交州の奪回を目指して進軍してくる[56][57]。これに対して、黎桓は、宋の攻撃をうまく防ぎ、自身が皇帝に就いて黎朝が誕生した[55][56]。なお、黎朝は1428年に成立した黎朝と区別するため、前黎朝と呼ぶ[53]。
黎桓は、984年、南部のチャンパを攻撃し、インドラプラを占領して領土を拡張した[56]。黎桓は1005年に死去する[58]。黎桓死去後の1009年には、前黎朝の重臣が反乱を起こし、黎桓の女婿である李公蘊が皇帝となり、李朝が建国される[56][58][59]。こうして前黎朝はわずか3代の29年で滅亡した[56]。
李朝時代
[編集]

皇帝となった李公蘊は、首都を華閭から昇龍(現在のハノイ)に遷都し、3代目の皇帝聖宗の時代には、国号を大瞿越(ダイコヴィェト)から大越(ダイベト)に改めた[60][61]。だが、李朝の支配地域は紅河デルタ流域にしか及ばず、地方ではそれまで通り土豪勢力が割拠していた[57][60]。李朝の初代皇帝李公蘊は、元は僧侶であったため、仏教を手厚く保護し、寺院や仏塔が建立させた[62]。3代目皇帝の聖宗時代、チャンパを侵略し、クアンビン省とクアンチ省に当たる地域を割譲することに成功する[63][64]。4代目皇帝の仁宗時代の1075年には、中国の科挙が導入され、その後もベトナムの歴代王朝は形を変えつつも科挙によって官僚を採用した[30][62]。
4代目皇帝仁宗の時代には、国子監が作られ、これがベトナム最初の大学となった[65]。だが、この4代目皇帝仁宗時代になると、北部では宋からの圧力に悩まされ、南部でも紛争に悩まされる[65]。宋では、皇帝神宗から信頼の厚い王安石が、ベトナムの奪還を進言し、1074年宋は進軍準備を行う[60][63][65]。だが、李朝側は、宋の侵略の動きを察知し、将軍の李常傑が指揮を執り、宋に対して先制攻撃を仕掛け、中国領(現在の広西チワン族自治区)を侵略し大打撃を与えることに成功する[59][63][66]。なお、中国とベトナムは幾度も戦争をしているが、ベトナム側が、中国を侵略した例は後にも先にもこの時だけである[63]。
その後、宋はチャンパと同盟し、1075年末にベトナムに侵攻したが、李朝は1077年晩春、宋の撃退に成功し、勝利を収めた[60][66]。
その後、6代目皇帝英宗の時代の1164年、宋は、それまでのベトナムの交趾郡王という名称をやめて、安南国王と言う名前を使い、国名も安南国と呼称し、中国からも独立国家として認められることとなった[67][68]。なお、この李朝時代には、宋に対する遣使は50回以上もあったとされる[69]。
12世紀末になると、李朝の国力も衰え、又洪水や干ばつなどの自然災害に見舞われ、奴隷に身を落とす農民も多数生じる[70]。そして、皇帝の恵宗は、政治を顧みず愚鈍な皇帝だったため民心が離れてしまう[64][71]。そして、恵宗は、恵宗の外戚であった陳守度によって、恵宗の次女李昭皇に皇帝の位を禅譲させられた[71][72]。1226年には、昭皇も陳煚に禅譲させられ、李朝は滅亡する[70][72]。
陳朝から胡朝時代
[編集]
陳朝は、王位簒奪によって成立した経緯があった[72]。そこで、陳朝では、王位継承を確実に行うため、上皇の役職を設置し、上皇が死去した場合、皇帝が上皇に就任し、皇太子が皇帝に就任するという形式をとった[72][73]。また、皇族間の近親婚を奨励した[72]。
陳朝初代皇帝陳太宗時代の1257年末、モンゴルは、南宋攻撃のため、陳朝にモンゴル軍の領内通過を認めさせようとしたが、陳朝はこれを拒否し、モンゴル軍がベトナムを侵略してくる[64][74]。モンゴルは、陳朝の首都昇龍を陥落させ、皇帝の陳太宗は、都を捨てて退却する[64]。だが、退却の際、陳太宗は食糧を焼き払い、モンゴル軍は慣れない気候と食糧補給に悩まされ、1258年1月29日に撤退した[64][74][75]。
中国では、モンゴルが勢力を拡大し、1271年にモンゴルによる王朝元が成立する[73]。
1283年10月、三代目皇帝陳仁宗は、元の侵略を警戒し、陳興道を軍の指揮官に任命し、元の侵略に備えさせた[76]。そして、1285年1月、元はベトナムを侵攻し、ベトナムは敗走を重ね、またもや首都の昇龍は元の手に落ちた[75][76]。皇帝の陳仁宗は、南方のタインホアへと退却する[76]。これに対して、元は、チャンパから北進して、ベトナムを攻撃することにした[76]。だが、陳朝の軍は、陳興道指揮の下、元に対してゲリラ戦術を取り、紅河デルタの住民も食糧を隠匿し、元軍はまたもや食糧補給に悩まされ、撤退した[77][76][64]。

その後、1287年12月にも元は、3度目の侵略を行う[78]。今度は、食糧補給の経路を万全の状態にして侵攻を行った[79]。1288年1月、元は再び陳朝の都・昇龍を占領するが、陳朝の軍は、元の食糧の補給船団を襲撃し、元はまたもや補給に悩まされ、撤退を開始する[79][80]。そして、1288年3月から4月にかけて、陳興道が指揮する水軍が白藤江で元を待ち伏せて、元を打ち破り、3度目の撃退に成功する(白藤江の戦い)[78][79][81]。
元を撃退した、陳朝は、元に対して使節を送り、朝貢を行い、1289年には元軍の捕虜も返還した[79]。だが、陳朝は元には4度目の侵略の意図があると考え、捕虜の帰国船の船底に穴を開け、捕虜を水死させた[79]。
元による3度の侵攻を撃退した陳朝は14世紀前半には、陳朝の王女をチャンパの王と結婚させ、チャンパの領土を割譲し、領土を拡大した[82]。だが、第5代目皇帝の英宗の頃になると、国力が衰え始める[30]。その後の皇帝も悪政を行い、とうとう9代目皇帝の陳芸宗の時代には、外戚の胡季犛が実権を掌握した[82][83]。そして、胡季犛は1400年に皇位を簒奪し、国号を大虞国と定め、胡朝を樹立し、陳朝は事実上滅亡した[82][83]。だが、中国に成立していた明は、陳朝の再興を建前として、1406年11月、20万人の大軍で持って、ベトナムへと侵攻し、胡朝を滅ぼす[83][84]。
陳朝時代、字喃(チュノム)という漢字を発展させた文字が作られ、19世紀まで使われることになる[64]。これは漢字よりも難しい文字で、2005年時点ではほとんど使われていない[64]。また、陳朝時代には、ベトナム初の歴史書「大越史記」が記され、民族意識がこの頃より高まる[30][85][86]。
明による支配と後黎朝の成立
[編集]
中国の明は、胡朝を滅ぼしたことによって、ベトナムは再び中国の支配下に入る[87][88]。だが、明は重税を課したため、明に対して不満が鬱積する[89]。そして、黎利が1418年に大規模な反乱を起こし、10年にわたる明との戦いを経て、明に勝利し、皇帝の座に就き黎朝を樹立した[64][87][90]。なお、黎朝は、980年に成立した黎朝と区別するため、後黎朝と呼ばれる[91]。黎利は、トンキンに都を置き、国号を大越国とした[64][88][92]。後黎朝は、1428年から1789年まで存続し、長期政権であったかに思えるが、16世紀以降の黎朝皇帝は、政治的実権はほとんど持たず、重臣の鄭氏が掌握していた[88]。後黎朝は、明に対して、朝貢するが、その外交方針は面従腹背であった[64][91]。
初代皇帝となった黎利は、重臣を次々に粛清するなどして、支配が安定しなかった[93]。第5代目皇帝黎聖宗の時代になると、チャンパとの戦争が起き、黎聖宗自らがチャンパに遠征する[88][91][94]。そして、チャンパの都ヴィジャヤを占領し、クアンナム、クアンガイ、ビンディンのベトナム中部地域を併合し、チャンパは小国に転落する[88][91][94]。なお、ヴィジャヤには、広南承宣[注 1]が置かれた[95]。だが、黎聖宗が崩御すると、以降の皇帝は傑出した人物はおらず、指導力が衰えた後黎朝では、宮廷は腐敗し、民衆の生活は困窮したため、蜂起が頻発するようになる[94][96]。
莫朝の成立と鄭主の台頭
[編集]

後黎朝の政権中枢部では、5代目皇帝黎聖宗の時代は、軍人はタインホア出身者で占められていた[95]。だが、黎聖宗は、軍人勢力に対抗させる形をとるため、科挙に合格した官僚をナムサック出身者で固める[95]。黎聖宗の死去後、タインホア出身の軍人と、ナムサック出身の科挙官僚との対立が生じ、ナムサック出身者の莫登庸が、1527年に第10代皇帝恭皇を自殺させ、莫朝を樹立した[95][97]。黎朝の重臣である阮淦は、現在のラオスにて、黎氏の子孫である黎荘宗を皇帝として擁立し、明に救援を要請する[98][99][100]。莫登庸はこの状況を察知し、係争中であった中国との国境沿いにある土地を明に献上し、明からは、安南都統使という肩書を拝受し、引き続きベトナム北部を支配する[99][101]。1543年になり、黎荘宗を戴く阮淦は、ベトナム北部の莫朝に対して攻勢を仕掛けるが、彼は莫朝の降伏した将軍によって殺害される[99][101]。
広南国の隆盛
[編集]阮淦死去後、彼の息子である阮潢と、後黎朝の将軍鄭検と権力闘争が起こり、阮潢は、莫朝の勢力が盛んであるという虚偽の情報を鄭検に述べ、ベトナム中部のフエに転進する[102]。これが200年にわたるベトナムの南北戦争の始まりと、広南国(広南阮氏や広南阮政権とも言う)の樹立につながる[102][103][104]。一方、後黎朝の鄭松(鄭検の息子)は、タインホアを拠点として、莫氏に攻勢をかけ、1592年、昇龍城を陥落させ、皇帝に黎世宗を迎え入れ、黎朝の再興に成功する[99][102]。莫氏は、その後もカオバン地方を拠点としたが、1677年に滅亡したとされる[102][105]。
莫朝と言う共通の敵が無くなった鄭氏と広南阮氏との間では、1627年から1672年まで戦争が起きた[96][105]。結局両者は、北緯18度線付近を流れるザイン川(霊江)を境界として、北部をダンゴアイ、南部をダンチョンと呼称し、1世紀近く休戦状態が続いた[96][105][106]。
1672年での休戦について補足すると、16世紀、豊臣秀吉の朝鮮出兵によって、日本と明との間で貿易が途絶えると、ベトナムは中継貿易地として利用され、経済は活況を呈し、現在のホイアンには日本人町もできるほどだった[107]。だが、17世紀後半になると、日本は銀の輸出を制限したため、鄭主も、広南阮氏も戦争を続ける余裕がなくなったという事情があった[108]。
広南阮氏は、交易の利益が得られなくなったため、南方へと領土を拡大する[109]。これを南進と言い、広南阮氏はカンボジアを侵攻し、1698年に現在のサイゴンを掌握し、18世紀にはメコンデルタへの進出を本格化させ、1世紀をかけて、支配下に置くことに成功する[110][111]。
西山朝の勃興と滅亡
[編集]
広南阮氏は、重臣の張福巒による悪政や、内部の権力闘争、重税によって、次第に民衆の反感を買う[94][104][112][113]。そして、1771年春、現在のビンディン省のタイソン(西山)において、阮文岳、阮文恵、阮文侶の3兄弟が蜂起する[94][104][112][113]。なお、この阮3兄弟は、名字は同じであるが、広南阮氏とは血縁関係は全く無い[114]。
西山の阮3兄弟の反乱は勢いを増し、一方ベトナム北部の鄭主は、これを広南阮氏打倒の絶好の機会と捉え、広南阮氏の領土を侵略し、1775年に、広南阮氏の首都フエを占領することに成功する[115][116]。広南阮氏は、サイゴンに逃れたが、1777年に、西山阮氏によって滅ぼされる[115][116]。だが、広南阮氏の王族である阮福暎は生き残り、逃亡する[117]。
一方、西山阮氏は、1778年に阮文岳が皇帝を自称し(泰徳帝)、ここに西山朝が始まる[118]。西山朝は、1786年に、黎朝の再興を大義名分に掲げて、北部の鄭主に対する攻勢を仕掛け、鄭主を滅亡させることに成功した[118][119][120]。これに対して、黎朝の皇帝黎愍帝は、中国の広西省へと逃亡し、清にベトナムへの兵の派遣を要請した[120]。清朝の皇帝乾隆帝はこれに応じ、1788年末、約29万人の大軍をベトナムへと派遣した[119]。黎朝の再興を掲げた西山朝が優勢となっていたのにかかわらず、黎愍帝が清朝へ兵の派遣を要請した理由としては、鄭主の残党によって昇龍が攻撃されたことや、西山朝の将軍が反乱を起こすなど不安定な状況であったことが原因である[118]。
西山朝は、清の大軍には太刀打ちできず、昇龍は清朝が占領に成功し、黎愍帝は安南国王に封じられた[121]。だが、昇龍を占領した清朝は、派遣した軍の指揮官である孫士毅が政治の実権を握り、現地ベトナムで略奪を行ったため、民心は離れてしまう[121]。これを聞きつけた阮文恵は、1788年12月皇帝を自称し(光中帝)、清朝が占領するベトナム北部へと進軍し、1789年1月に、清朝の軍を敗走させる(ドンダーの戦い)[121][118]。阮文恵は、清朝に朝貢し、乾隆帝から黎愍帝に代わって安南国王に封じられる[104][116][121]。黎愍帝は、1790年に中国へと逃れ、ここに、黎朝は約400年の歴史に幕を閉じた[104][116][121]。
かつては農民の支持を得て、蜂起した西山阮3兄弟であったが、西山朝成立後は、農民に向けた施策を行わず、また、西山3兄弟も不和もあり[注 2]、王朝は不安定な状態に陥る[94]。
一方、広南阮氏で数少ない生き残りとなった阮福暎は、(西山朝成立前から)西山阮氏と幾度も戦闘になるが、その都度敗北し、逃亡するということを繰り返していた[104][114][118]。阮福暎は、フランスなどの外国の勢力を頼り、西山朝成立前の1788年9月には、サイゴンを占領する[105][122][123]。そして、優れた軍事指導者であった光中帝(阮文恵)が1792年に死去すると、阮福暎は勢いに乗り、1801年又は1802年には、クアンナム、ホイアンを占領する[105][115][122][123][124]。そして、とうとう1802年に西山朝を滅亡させ、阮福暎は、皇帝として即位し(嘉隆帝)、首都をフエに定め、阮朝が樹立された[94][120][123][125]。ベトナムは歴史上初めて全土統一がなされた[120]。
阮朝時代からフランスの植民地時代
[編集]

嘉隆帝は、清朝に朝貢し、国号を南越(ナムヴィエト)にしたい旨を申し出たが却下され、結局国号は越南となった[126]。ただ、阮朝は、外交の場では大南国と名乗り、2代目皇帝の明命帝時代は、大越南国を自称した[127]。初代皇帝嘉隆帝によって、ベトナム全土が統一されたとは言っても、実効支配が及んでいたのは中部に過ぎず、北部には北城総鎮を、南部には嘉定城総鎮を設置して統治を委任していた[128]。だが、二代目皇帝明命帝時代になると、1832年に北城総鎮、1833年に嘉定城総鎮を廃止し、ベトナム全土の支配が確立された[129]。だが、嘉定城総鎮の廃止によって、長官の息子である黎文傀が蜂起し、この蜂起の様子を見たシャム王国がカンボジアと連合し、ベトナム南部へと侵攻してくる[130]。阮朝はこれを食い止め、カンボジアにも軍隊を派遣して、シャム王国の軍を撃退し、1834年にカンボジアを占領する[115][130]。ベトナム側は、カンボジアに対して同化政策を取ったため、クメール人が反乱を起こし、ベトナムは戦費負担に耐え切れず、1845年にカンボジアから撤退する[115][130]。
ベトナムにおけるキリスト教と鎖国政策
[編集]ベトナムでは、1624年にイエズス会の宣教師がベトナムを訪れ、キリスト教を布教していた[131][132]。キリスト教は貧民階級で広く受け入れられ、阮朝初期には、40万人近くの信徒がいた[133]。阮朝の初代皇帝嘉隆帝は、西山朝との戦いの際、フランス宣教師ピニョー・ド・ベーヌと親交を深め、彼のおかげでフランスからの支援によって、ベトナム全土統一に貢献したという事情があったため、キリスト教の布教活動を容認していた[116][134]。だが、二代目皇帝明命帝時代になると、彼は儒教による統治を推進するため、そして、黎文傀の反乱にキリスト教徒がかかわっていたことが発覚すると、1833年1月6日にキリスト教禁教令を発令し、弾圧が進んだ[130][132][135][136]。ベトナムでは18世紀末ごろからアヘンが流入するようになり、ベトナムではアヘンを輸入するため、米と金銀を輸出、物価高に見舞われたため、明命帝は、外国との貿易を管理貿易とした[133][137]。
フランスによる植民地化
[編集]
中国ではイギリスとの間でアヘン戦争が勃発し、イギリスが勝利し多額の賠償金を清朝に課した[130][138]。これを受けて、三代目皇帝紹治帝は、ヨーロッパとの関係を考慮し、キリスト教の弾圧を中止する[130]。フランスは、アヘン戦争終結後、中国への本格進出を試み、ベトナムに中継拠点を欲していた[132]。
四代目皇帝嗣徳帝の時代になると、再びキリスト教徒の弾圧が行われ、1857年に宣教師を処刑するなど弾圧を行った[139][140][141]。これに対して、フランスのナポレオン3世は、スペインと同盟し、ベトナムへの遠征を決定する[136][139][140]。1858年8月、フランスは、ダナンの砲撃を行う[132][139][141]。これに対してベトナム側は懸命に抵抗し、フランス側は慣れない気候に苦しめられたことや、中国とも開戦したため、ダナンを占領できず、ダナンから一旦撤退して、南部へと軍を展開させる[132][139][141]。その後、1859年に、フランスはサイゴンを占領する[139][142]。その後、戦争は1862年6月にベトナムとフランスとの間に条約が締結され(第一次サイゴン条約)、ベトナム南部(コーチシナ)の東部3省(ビエンホア、ジャディン、ディントゥアン)がフランスの植民地となった[140][141][143]。第一次サイゴン条約ではその他に賠償金の支払い、ダナンとクアンイエン両港の開港が取り決められた[143]。
コーチシナ東部3省を獲得したフランス本国政府は、やがて治安の維持などの費用の工面に難儀したため、ベトナム側の要請に基づき、コーチシナ東部3省のベトナムへの返還に同意し、1864年には、返還条約に調印する[132]。だが、これに対して現地ベトナムのフランス人は、フランス本国政府の決定に反対し、1867年にコーチシナ西部3省(チャウドック、ヴィンロン、ハーティエン)を併合してしまう[132][140][143]。一時は返還条約調印に成功したベトナム側の政治家潘清簡は抗議の意を込めて自殺してしまう[132][143]。なお、コーチシナ西部3省を併合したのは、フランスは1863年にはカンボジアも領下に置いており、コーチシナ東部3省が飛び地となっていたという状況もあるとされる[143]。また、19世紀後半のコーチシナでは、フランスが反フランス運動家の土地や無主の土地を接収し、同地にフランス人が多数入植する[144]。だが、農業に不慣れなフランス人は、農地を総督府とコネがあるベトナム人に転売し、ベトナムには大地主が現れる[144][145]。土地所有ができなかったベトナム人の中には炭鉱夫などの労働者となり、劣悪な労働環境に従事し、彼らの中からやがて共産主義運動に身を投じる者が現れるようになる[146]。
コーチシナを確保したフランスは、これによってメコン川を通じて中国(雲南)との交易ができると考えていたが、不可能であることがわかると、今度はベトナム北部の紅河に食指を伸ばすようになる[134][141]。1872年春、フランスの武器商人が紅河を使用して、雲南に武器を輸送していたことがわかると、ベトナム側はこれを問題視した[147]。これに対して、フランスは、フランシス・ガルニエが指揮する海軍部隊を派遣し、ガルニエは期待に応え、瞬く間にハノイや紅河デルタに位置する主要都市を占領する[134][141][148][147]。だが、ガルニエは、まもなくベトナムに進出していた黒旗軍の攻撃によって、戦死する[148]。フランス本国では普仏戦争終戦直後であったため、とてもではないが、ベトナムに全面介入する余裕はなかったため、フランスは1874年3月15日に、ベトナムとの間で第二次サイゴン条約が締結し、紅河の運航権の獲得をすることで落ち着いた[141][148]。
フランス領インドシナの成立と植民地時代
[編集]
1882年4月、フランスはトンキンのフランス人旅行者の保護を名目として、軍人のアンリ・リヴィエールを派遣し、彼はハノイを占領する[131][141]。アンリ・リヴィエールはその後、黒旗軍と阮朝軍に敗死し、フランスではベトナムの植民地化に向けた強硬策が支持される[131][147]。フランスは大軍を派遣して、たちまちベトナムを占領し、第一次フエ条約の締結によってベトナム北部のフランス軍駐留が認められることになる[140][141][147]。ベトナム北部の宗主国を自認していた中国の清は、これを朝貢国に対する侵略行為とみなし、1884年、両国は戦争状態に陥る(清仏戦争)[140][141][149]。
戦争は清朝側の敗北に終わり、ベトナムは1884年6月、第二次フエ条約を締結し、ベトナムはベトナム北部の統治権もフランスへ委譲することとなり、フランスの植民地となった[140][149][150]。清は、1885年にフランスと天津条約を締結し、ベトナムから撤退することとなった[136][150]。
フランスの植民地となったベトナムでは、一応阮王朝は存続したものの、政治的実権は当然ながら無かった[151]。
第二次フエ条約を締結後の翌年、1885年7月、阮朝の皇帝咸宜帝は、フランスに対して反乱を起こすが敗北する[136][152][153]。そして、咸宜帝はアンナン山脈に潜伏して、勤王の詔勅を発令し、フランスへの抵抗を呼び掛けた[136][152][153]。これに対して、集落の知識人である文紳が呼応し、蜂起した[136][153]。だが、咸宜帝は、1888年に捕らえられ、反乱は鎮定された[149][153]。咸宜帝による反乱はすぐに終息したものの、フランスに対する反乱は頻発し、20世紀初頭にようやく落ち着くことになる[154]。
フランスに対する反乱がうまくいかなかった要因としては、反乱が各地で散発して起きていたこと、反乱勢力とフランスとの武器・装備の格差、その格差故に、反乱勢力はゲリラ戦を取らざるを得なかったが、フランス側は反乱とは無関係な村を焼き払うなどの強硬手段に出たため、民衆からの支持が得られなかったという事情もあった[155][154]。
1887年10月、フランスは、フランス領インドシナ総督府を設置し、ベトナム北部はトンキン保護領、中部はアンナン保護国、南部はコーチシナ直轄領(カンボジアを含む)に分割して統治した[141][156][157]。1889年にはラオスも加えられた[141]。
インドシナ総督府は、フランス語による、植民地官僚制度を編成することを目論み、まずは、ベトナム語の表記を字喃(チュノム)からローマ字表記に改めさせた[158][159]。そして、フランスはインドシナで人口の多数を占めていたベトナム人を官僚として重用した[159]。フランスは、総督府の官僚になるための教育機関として、ハノイにインドシナ大学を創設し、同大学を卒業した者は、総督府に勤務することになり、その中でもベトナム人は、ラオス人やカンボジア人よりも優遇された[160]。また、特に優秀と認められたベトナム人は、フランス本国で教育を受けられたが、これはフランスに協力的な人材を育成するためであった[136]。だが、フランス本国で教育を受けられたとしても、帰国後官吏になった場合、フランス人より出世することは無く、給料も安かった[153]。第一次世界大戦時は、約10万人のベトナム人が兵士としてヨーロッパ戦線に派遣された[161]。
インドシナ総督府によって、アヘンとアルコールが大量にもたらされ、これらをベトナムに半ば強制消費させて税金をかけた[146]。それ以外にも様々な税を課したが、結果的にインドシナ総督府の財政は潤い、ベトナムでは鉄道、道路、運河、港湾などの整備が行われた[136][146][162]。

フランスによる植民地支配が進むと、それまでの反仏運動は形を変えて行われるようになる[163]。その運動の中心的人物となったのが、ファン・ボイ・チャウである[164][165]。彼は、フランスからの独立と立憲君主制国家設立を目的として、1904年に維新会という革命運動組織を設立し、嘉隆帝の末裔のクォン・デを擁立する[163][166]。そして、この頃、アジアでは日露戦争で日本がロシアに勝利し、強国の仲間入りを果たしていた[163]。そこで、ファン・ボイ・チャウは日本に軍事援助を求めるため、1905年に日本へと渡る[163][167][168]。日本へとやってきたファン・ボイ・チャウは犬養毅と接触したが、当初目的の軍事援助は得られなかった[163][166]。軍事援助は得られなかったものの、日本が高度に文明化されていることに驚いたファン・ボイ・チャウはベトナムの若者を日本へ留学させて、独立運動を推進する「東遊運動」を提唱する[163][169]。日本へ留学したベトナム人青年は200人以上に達した[168][161]。だが、フランス政府は1907年この動きを察知したため、1909年、日本に対してベトナム人学生の国外追放を要請し、日本はこれを受諾し、日本国内のベトナム人学生を追放した[170][171]。
ファン・ボイ・チャウは、その後ベトナムの近隣国を転々とし、1912年に成立した中華民国に赴き、国民党に対して支援を打診し、承諾され、ベトナム光復会を設立し、武力による闘争を決意する[170][171]。だが、武力闘争は遅々として進まず、そうこうしている内に、ファン・ボイ・チャウは仲間に潜伏先を密告され、1925年に上海でフランスの官憲に逮捕された[170][172]。ファン・ボイ・チャウは裁判では一時終身刑の判決を受けたが、ベトナムでは民衆から支持が厚かったため、減刑され、フエで軟禁生活を送った(1940年死去)[170][172]。
ファン・ボイ・チャウと同じ時期に反仏運動を組織した人物としてファン・チュー・チンがおり、彼はフランス植民地の支配の枠内で改革を進める[173]。彼は、東遊運動に参加し、1906年に日本(東京)へと渡る[173]。彼は日本から帰国後、1907年ハノイで東京義塾を設立し、フランス語の教育、西洋思想の学習によって、ベトナムの儒教中心の古い思想を改めさせ、来るべき時代の人材育成を行った[136][163][169]。だが、この東京義塾は1908年にインドシナ総督府によって解散させられた[163][169][174]。その後、ファン・チュー・チンは反政府運動によって一時懲役刑に服するが、1911年にパリへと渡り、フランス政府に対してインドシナの統治政策の見直しを訴えかける[173]。なかなか成果が上がらなかったが、1920年代にフランス社会党が一時与党となると、ベトナムの統治政策に変化が生じると考え、1925年11月にベトナムへと帰国したものの、間もなく死去した[173][175]

実際に武装蜂起を起こした人物としては、グエン・タイ・ホックがいる[176]。彼はインドシナ大学修学時代、社会主義に興味を持ち、出版物を通じて、社会改革を訴えかける[176]。当初は非暴力による平和活動を訴求していたが、冤罪によって爆弾所持容疑によって逮捕されてからは、1927年にベトナム国民党を設立し、暴力による革命を主張する[176][177]。そして、1930年2月10日、グエン・タイ・ホックの国民党は武装蜂起し、これに呼応して、ベトナム全土で革命運動が波及するが、間もなくインドシナ総督府によって鎮圧され、グエン・タイ・ホックら15人は6月16日に処刑された[176][177]。
インドシナ共産党の成立と太平洋戦争
[編集]
このうち、革命運動で成果を挙げたのが、ホー・チ・ミン[注 3]である。ホー・チ・ミンは、1911年、フランスの船にコックとして乗り込み、各地を転々とした[179]。ホー・チ・ミンはまずはフランス社会党に入党する[180]。ホー・チ・ミンは、パリ講和会議に出席し、植民地ベトナムの自由や平等、政治犯の釈放などを訴えた請願書を提出した[181][180]。その後、1920年、ホー・チ・ミンはフランス共産党の結党に関与し、共産主義こそがベトナム独立につながると考えた[180]。ホー・チ・ミンはコミンテルンの幹部として、1924年に中国の広州へと渡る[180][181]。ホー・チ・ミンは広州ではベトナム青年同志会を組織し、人頭税の廃止、地代の軽減、政治犯の釈放を掲げた[161]。このベトナム青年同志会は、1930年2月には、他の共産党系組織を統合され、ベトナム共産党となる[161][182][183]。だが、このベトナム共産党は党の綱領には、ホー・チ・ミンの愛国主義的な綱領が反映されており、ラオス、カンボジアを包含した国際共産主義運動を呼び掛けるコミンテルンの意にそぐわないものであった[183][184]。そのため、コミンテルンの指示によってベトナム共産党は、1930年10月にインドシナ共産党に名称を変更させられ、初代書記長には、コミンテルンの路線に忠実なチャン・フーが就任し、ホー・チ・ミンは一時不遇をかこった[182][184][185]。
ベトナム共産党が成立した1930年は、世界恐慌がベトナムにも波及し、また農業では干ばつ被害による大凶作に見舞われた年でもあった[161][186]。この状況に対して、ベトナム共産党は、ゲアン省とハティン省の労働者と農民を中心として、武装闘争を起こさせた(ゲティン・ソヴィエト)[182][183]。だが、この武装闘争は、翌年、1931年5月には、フランス植民地政府によって鎮圧され、1932年までに逮捕された政治犯は1万人を超過した[187][188]。ホー・チ・ミンも欠席裁判で死刑判決を受け、1931年に香港でイギリスの官憲に逮捕されたこともある(支援者の手引きで脱走に成功)[186]。ゲティン・ソヴィエト運動の失敗による弾圧によって、インドシナ共産党は壊滅的被害を受ける[187]。
だが、ヨーロッパではナチスが台頭し、ファシズムが席巻するようになるとフランスでは、ファシズムへの対抗のため、社会民主主義と共産主義が協調するようになり、1936年5月にフランス社会党を中心とする人民戦線内閣が樹立され、フランス共産党も閣外から協力することになる[187][189]。フランス本国で社会党中心の人民戦線内閣が樹立されたため、インドシナの統治にも変化が生じ、政治犯の釈放や検閲の緩和が行われ、インドシナ共産党も合法的に活動ができるようになる[187][189]。
しかし、1938年4月には、フランスの人民戦線内閣は崩壊、1939年9月に勃発した第二次世界大戦によって、ベトナムでは共産主義者が大量に逮捕されることになる[189][190]。フランスの人民戦線内閣崩壊後、コミンテルンはファシズムの脅威に対抗するため、方針を転換し民族独立を重視するホー・チ・ミンを再び重用するようになる[182]。また、インドシナ共産党も1939年から1941年にかけて開催された党中央委員会にて、地主階級に対する闘争はいったん棚上げにして、フランスからの独立を目標とすることが合意された[191]。
前後するが、ベトナムの隣国中国では、1937年7月に日中戦争が勃発し、蔣介石の国民政府は首都を南京から重慶に移転させた[189][192]。これに対し、アメリカとイギリスは、東南アジア側から援助物資を送っていた[192]。これが援蒋ルートであり、補給路の一部はベトナムを経由していた[192]。一方、ヨーロッパ戦線では、1940年6月に、ベトナムの宗主国フランスが、ナチス・ドイツに降伏する[192][193]。フランスの降伏をきっかけとして、日本は援蒋ルートを断つため、ナチス・ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権と調整し、1940年9月にベトナム北部へと進駐する(北部仏印進駐)[192][193][194]。日本軍の進駐により、ベトナムは日本とフランスの二重支配を受けることになった[195][196]。この混乱に乗じて、1940年11月、ベトナム南部のインドシナ共産党は武装蜂起するが、フランスによって鎮圧されてしまう[178][197]。だが、同地で救国軍が結成され、インドシナ共産党はフランスと日本に対する闘争を行うこととなった[178][189]。
1941年、ソ連にいたホー・チ・ミンが中国を経由して、ベトナムへと帰国する[192][197]。ホー・チ・ミンは、中国との国境に近いパックボーの洞窟を拠点として、1941年5月にベトナム独立同盟会(ベトミン)を設立、ベトナム市民に対して革命運動の参加を呼びかけ、インドシナ共産党の最高指導者にホー・チ・ミンが就任する[190][192][198]。
一方、日本は石油資源を求めて、1941年7月、ベトナム南部へと進駐する(南部仏印進駐)[199][189]。南部仏印進駐によって、アメリカとイギリスは強い反発を示し、アメリカは日本に対して石油と鉄の禁輸を実施し、ハル・ノートによる最後通牒を経て、1941年12月、太平洋戦争が開戦する[189][200]。
第一次インドシナ戦争と南北分断
[編集]

太平洋戦争勃発後、ベトミンは勢力を拡大し、1942年末にはカオバンを掌握する[197]。そして、1944年12月には、ベトナム解放軍宣伝隊が設立され、これはベトナム人民軍の前身の組織となり、政治宣伝を行い、住民の組織化を行った[197]。1944年になると、ヨーロッパ戦線では、アメリカを主体とする連合軍が優勢となり、太平洋戦争の戦線も日本が不利となっていた[201]。ヨーロッパでは1944年に、シャルル・ド・ゴールを首班とする政権がロンドンに樹立され、日本側はこれによって、ベトナムでのフランス植民地政府から協力が得られなくなるという危惧を抱くようになる[196][201]。また、連合軍によってインドシナ半島への上陸作戦が現実味を帯びると、日本は1945年3月9日、インドシナのフランス植民地政府をクーデターによって打倒した(明号作戦)[197][201]。日本は阮朝のバオ・ダイ帝を擁立し、ベトナムの独立を宣言、その他インドシナの構成国であるカンボジア、ラオスも独立することになる[201]。もちろん、独立は表面上だけであり、インドシナ総督の地位は日本が独占していたため、政治的実権は日本が掌握していた[195][202]。
前後するが、1944年秋から1945年春にかけて、ベトナム北部を中心として飢饉に見舞われる[196]。飢饉が起きた理由や経緯としては、ベトナムでは日本が半ば強制的に米を買い付けていたこと、天候不順による凶作や、大雨による紅河の洪水、そして、連合軍の攻撃による米の輸送の途絶などが原因となり、餓死者が多数発生した[195][196][203]。餓死者の人数は、50万人から100万人や200万人とされる[196][204]。この時代は戦争の混乱によって記録が残っておらず、はっきりとした餓死者の人数はわかっていないが、いずれにせよかなりの人数が餓死したことは間違いない[196]。
この飢饉という状況を、ベトミンは有効活用し、反日、反仏の宣伝活動を展開し、1945年7月には、ベトナム北部、中部の大部分を掌握することに成功する[201]。そして、1945年8月10日、とうとう日本がポツダム宣言を受諾するという情報を聞きつけたホー・チ・ミンは、日本に対する総蜂起を宣言し、ベトナム全土で蜂起が波及した[195][205][206]。
その後、1945年9月2日、ホー・チ・ミンは、アメリカ独立宣言を引用した独立宣言を読み上げ、バオ・ダイ帝は退位し、阮朝は滅亡し、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国臨時政府大統領に就任する[202][205][207]。
だが、ベトナムの独立は果たされなかった。ベトナムでは日本軍の武装解除のため、北緯16度線を起点として、北部に中国軍(蒋介石の国民党軍)が、南部にはイギリス軍が進駐し、武装解除にあたる[208][209]。そして、フランスはベトナムの独立を認めず、イギリスの支援を受けて、1945年9月23日に、インドシナのフランス復帰を宣言、空挺部隊をメコンデルタに投入した[208][210]。ベトナムには、フランスと戦う余力は無く、交渉を通じて戦争回避に努めたものの、結局交渉は決裂し、ホー・チ・ミンは、ハノイを脱出して、北部の山岳地帯から救国宣言を発令した[210][211]。また、アメリカを欺くために、表面上はインドシナ共産党を解散させた[209][212]。こうして第一次インドシナ戦争が始まった[208]。
ベトナムは[注 4]、フランスに対して苦戦するが、ゲリラ戦術を取って苦しめる[209][211][213]。短期決戦での終結に失敗したフランスは、香港に亡命していた阮朝の元皇帝バオ・ダイを擁立し、1949年にベトナム国を樹立させる[211][213]。一方この頃中国では国共内戦によって共産党軍が勝利し、ベトナムは中国からの支援を獲得し、軍隊が増強される[212][213]。中国とソ連はベトナム民主共和国を国家として承認し、方やイギリスとアメリカはベトナム国を国家として承認し、ベトナムは東西冷戦へと組み込まれることとなった[211][213][214]。
もはやインドシナ共産党の看板を隠すことは無意味になったため、1951年にインドシナ共産党はベトナム労働党に名前を変えて、公然と活動を行う[213]。ベトナムは、ラオスやカンボジアの共産主義勢力を支援し、フランスは同地への支援を断つため、ディエンビエンフーに基地を構築し、ラオスとの連絡ルートを途絶させた[213]。これに対して、1954年3月、ディエンビエンフーの戦いが開戦し、ベトナムとフランス双方に多大な犠牲が出たが、ディエンビエンフーのフランス軍約1万6千人が降伏し、ベトナム側が勝利する[211][213][215]。
第一次インドシナ戦争終戦後、1954年7月、ジュネーヴでアメリカ、フランス、イギリス、ソ連、中国、そしてベトナム民主共和国、ベトナム国、ラオス、カンボジアが会議に参加し、ジュネーヴ協定が締結され、インドシナの処遇が決定した[210][216]。それによってベトナムは北緯17度線を境界線として分断され、2年後の1956年7月に、ベトナム全土での選挙の実施、選挙結果に応じて南北が統一されることが取り決められた[211][217]。だが、アメリカは協定を尊重するが、調印はしないことを表明した[210]。全国選挙が行われた場合、ホー・チ・ミンが勝利することが明らかだったためである[210]。なお、第一次インドシナ戦争終戦時点では、ホー・チ・ミン側のベトナムが国土の4分の3を支配していたため、ジュネーヴ協定はかなりの譲歩であった[218]。このジュネーヴ協定によって、第一次インドシナ戦争は終戦する[211]。
南北統一にむけて
[編集]ゴ・ディン・ジエム政権の南ベトナム
[編集]

ベトナムはホー・チ・ミンが指導者を務めるベトナム民主共和国と1955年10月に成立したベトナム共和国に分断された[219]。以降、ベトナム民主共和国を北ベトナム、ベトナム共和国を南ベトナムと記載する。南ベトナムでは、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエムが首相および大統領となる[215][219][220]。アメリカが南ベトナムに介入した理由としては、万が一ベトナムに共産党政権が樹立されると、その周辺地域に共産主義国家が広まるというドミノ理論によるものだった[221]。
アメリカは軍事顧問団を派遣するなどして、ゴ・ディン・ジエム政権の権力基盤を固めようとしたが、これはかえって、ジエムの独裁化を招いた[222]。 ゴ・ディン・ジエムは、反政府運動の指導者を容赦なく弾圧、共産主義者も粛清していった[223][224]。1959年までの、南ベトナムでのこれら逮捕者は累計で19万人にも及んだ[224]。ゴ・ディン・ジエムは、予定されていた南北統一選挙の実施を拒否し、また南北統一の主張者は容赦なく逮捕していった[225]。ゴ・ディン・ジエムは、カトリック教徒であったため、カトリック教徒を政府要職に任命し、仏教徒は弾圧した[219]。そして、アメリカからの潤沢な支援は、汚職を引き起こし、民心は離れていく[219]。

1963年6月11日、仏教徒の弾圧に対する抗議運動が起こり、仏僧のティック・クアン・ドックが焼身自殺で抗議し、6月16日になると70万人に上る民衆がデモを起こす[215][226]。これを受けて、アメリカはゴ・ディン・ジエムを見限り、ジエム政権は1963年11月の軍事クーデターによって倒された[215][226]。ジエム政権が倒れたものの、その後も度々政変が繰り返され、南ベトナムの政治情勢は安定しなかった[222]。
北ベトナム情勢とベトナム戦争
[編集]一方北ベトナムでは、分断前後の1953年1月より土地改革を実施する[225][227]。だが、その土地改革はフランスに協力した地主や豪農から土地を取り上げるという理不尽なもので、約80万人が南ベトナムへと移住した[217][225]。その後、土地改革が終わると北ベトナムでは合作社という集団農業組織が設立され、農民は合作社に参加するなど社会主義政策が推進される[217][228]。1958年以降は、企業の国営化を行い、中国、ソ連との関係を強化していった[228]。
そして、1956年7月に実施されるはずだった南北統一選挙が実施されなかったため、北ベトナムは武力による南北ベトナムの統一を目指すようになる[229]。1959年に、北ベトナムは南ベトナムに人員と物資の輸送を目的としたホーチミン・ルートを構築、そして、南ベトナムに対する武装闘争を行う組織として、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)を組織する[222][228][229]。北ベトナムが南北統一のために、このような方式をとった理由としては、朝鮮戦争で北朝鮮が北緯38度線を南下した際、アメリカ軍の全面介入を招いた前例があったため、南ベトナムの内部から崩壊させる方が得策であると考えた[222]。また、あくまでも南ベトナム解放民族戦線は、南ベトナムの反政府組織を装い、組織綱領には社会主義的な内容は含ませないようにしていた[224]。ホーチミン・ルートの構築は、アメリカのジョン・F・ケネディを刺激し、アメリカのベトナム情勢へのさらなる介入を招いた[230]。
南ベトナム解放民族戦線は、設立されてから間もなく、南ベトナム政府に対して武力闘争を行う[229]。これが第二次インドシナ戦争の始まりで1975年まで続いた[231]。
ゴ・ディン・ジエム政権を支援したアメリカ合衆国大統領のジョン・F・ケネディは、1963年11月のジエム政権崩壊の3週間後に暗殺されてしまい、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に昇格すると、彼はベトナム情勢に深く介入するようになる[232]。ジョンソンは1964年に1万6千人のアメリカ軍兵士を派遣する[233]。また、1964年8月にはトンキン湾事件が起こる[234]。これは、トンキン湾にいたアメリカ海軍の駆逐艦が北ベトナム海軍から2度にわたって砲撃を受けたというもので、これをきっかけとしてアメリカでは大統領が無制限に戦争遂行の権利を与える決議がなされた[234][230]。だが、実際には2度目の砲撃は無かったとされる[232][234]。トンキン湾事件の報復のため、1965年2月にはベトナム北部の都市を空爆し(北爆)、ベトナム戦争が始まる[234][222]。なお、ベトナム戦争は、ベトナム側は抗米救国戦争という[235]。なお、抗米救国戦争という場合は、南北に分断された1954年からを指す[235]。
北爆後、アメリカは地上戦闘部隊の派遣を本格化させる[234]。その人数は、1965年には19万人、1966年には37万2千人となり、最終的にベトナムに派遣されたアメリカ兵の人数は、1965年から1973年までで、累計で300万人を超えた[234][236]。
北ベトナムは中国とソ連の支援を受けて、アメリカ軍と戦った[233]。ソ連は地対空ミサイルを北ベトナムに供与し、中国は延べ32万人からなる人員を派遣した[230]。ソ連の地対空ミサイルは効果を発揮し、最終的にはアメリカ軍の爆撃機約1000機を撃墜することに成功する[233]。
南ベトナム側にはアメリカ軍に加えて、韓国軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍、タイ軍も参戦した[230][237]。アメリカはホーチミン・ルートを破壊するため、枯葉剤を投下するなどして、破壊に成功したが、奇形児が生まれるなど、人間を含む生態系に悪影響を及ぼした[233][234][238]。ホーチミン・ルートを破壊したものの、北ベトナムはラオスやカンボジア経由の輸送ルートを確立し、アメリカはこの両国を空爆し、戦線を拡大してしまう[233]。

ベトナム戦争の趨勢を決定づけたのが、1968年のテト攻勢である[239][240]。テト攻勢は、南ベトナムに対して攻勢を仕掛けて、南ベトナムの民衆を蜂起させるという目的があった[237]。1968年の旧正月の1月30日、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナムの主要都市に攻勢をかける[239][240][241]。この攻勢を仕掛けた目的としては、南ベトナムの市民が蜂起することを目的としていた[237]。サイゴンにあるアメリカ大使館は長時間にわたり共産主義勢力に占拠され、この様子はアメリカでもテレビで放映された[237][240]。テト攻勢そのものは、南ベトナムの民衆を蜂起させるという所期の目的は達成されず、失敗に終わった[237]。だが、テト攻勢はアメリカ国民にベトナム戦争がうまく行っていないことを印象付けさせ、アメリカでは徴兵拒否者や脱走兵が相次ぐことになる[214][239][241]。逮捕された南ベトナム解放民族戦線の兵士が射殺される映像も放映され、世界に衝撃を与える[241]。テト攻勢による南ベトナム解放民族戦線の被害は甚大であり、4万人もの死者が生じ、以降の攻勢は北ベトナム軍が担うことになった[237]。
テト攻勢後、アメリカ大統領リンドン・ジョンソンは、1968年の大統領選挙の不出馬と、北爆の中止を宣言し、北ベトナムとの和平交渉を行うようになる[239][241]。ジョンソン退任後、リチャード・ニクソンが大統領になると、ニクソンは少しでも有利な条件で和平を締結するために、北爆を再開し、ラオスやカンボジアを侵攻する[239][241][242]。
一方、南ベトナム解放民族戦線は、南ベトナム共和国臨時革命政府を樹立、南ベトナム政府の対抗勢力であることをアピールする[241]。
ベトナム戦争の和平については、1968年5月からパリにおいて開始され、1973年1月27日、数年に渡って議論された和平協定がパリで調印された(パリ協定)[237][242][243]。調印国はアメリカ、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム共和国臨時革命政府の4者で、アメリカ軍のベトナム撤退、南ベトナムでの総選挙実施と選挙の結果に基づく新政府の樹立が取り決められた[242]。パリ和平協定調印後、アメリカは2万4千人の軍事顧問を南ベトナムに駐留させて、それ以外の軍を撤退させた[243]。アメリカ本国では、議会もベトナム情勢の再介入の禁止を決議した[243]。
ベトナム戦争によって、アメリカ軍の死者は5万8022人、北ベトナム軍の死者は100万人以上、南ベトナム解放民族戦線の死者は数十万人、南ベトナムの民間人の死者は約43万人、行方不明者は30万人以上の犠牲が生じた[244][245][246]。
南北ベトナムの統一とベトナムの孤立
[編集]北ベトナムは南北ベトナムの統一を目論み、アメリカのベトナム再介入の可能性が低いと考え、1975年1月から南ベトナムの解放作戦を実施し、同年4月30日サイゴンはあっけなく陥落する[239][214]。
その後、1976年6月24日、ハノイに集結した南北ベトナムの議員は、国会を開催し、7月2日両ベトナムは統一され、ベトナム社会主義共和国が成立した[247]。同年12月、ベトナム労働党はベトナム共産党に改称する[247]。
前後するが、1975年4月30日のサイゴン陥落後、南ベトナムを中心に、北ベトナムによる弾圧や社会主義に対する不安のため国外へ脱出する者が相次いだ[245]。その人数は約60万人とも言われ、彼らは密航船を使って脱出したためボートピープルと呼ばれた[245][248]。
カンボジア・ベトナム戦争と中越戦争
[編集]
カンボジアでは、1970年3月に、親米右派政権のロン・ノルが国家元首のシハヌークに対してクーデターを起こし、4月には南ベトナム側としてベトナム戦争に参戦していた[231]。だが、1975年4月、カンボジアにおいてロン・ノル政権が崩壊し、クメール・ルージュのポル・ポト政権が樹立される[249]。ポル・ポトはベトナム戦争中、 表面上北ベトナムに協力していたものの、北ベトナムの支持者は容赦なく粛清していた[250]。ベトナム戦争終戦間近になると、ポル・ポトは度々ベトナムの国境を侵犯し、小競り合いを起こし、1977年末になると国境紛争が激化し、ポル・ポトはベトナムとの断交を宣言する[249][250][251][252]。また、カンボジアではベトナム系カンボジア人も多く暮らしており、彼らはカンボジアでは比較的裕福な暮らしをしており、ベトナム系カンボジア人は疎まれていた[253]。ベトナム側は1978年12月、ベトナム系カンボジア人の救済を目的として、反ポル・ポト派のヘン・サムリンを擁立し、カンボジアへと侵攻し、ポル・ポトをタイ国境付近まで退却させることに成功する[250][252][253]。
ベトナムは、1972年に中国がアメリカと接近したことにより、中国に対して不信感を抱き関係が悪化していた[254][255]。そして、中国の方もポル・ポトを支援しており、カンボジア侵攻後、中国はベトナムに対する制裁のため、1979年2月、ベトナム北部の国境を侵犯し、中越戦争が開戦される[249][251][256]。だが、ベトナム軍は実戦経験が豊富であり、ソ連製の最新の武器によって、中国軍の進軍を阻み、1か月ほどで中国軍は撤退した[249][256]。このカンボジア侵攻と、中越戦争を第三次インドシナ戦争と呼ぶ[214][247]。
1970年代以降の経済状況とドイモイ政策の導入
[編集]ベトナムは、カンボジア侵攻やボートピープルなどの難民の発生により、国際的に非難を浴び、各国から経済援助の打ち切りが通告され、経済は危機的状況に陥る[251]。
前後するが、1970年代後半のベトナムの経済について記載する。1976年12月に行われたベトナム共産党党大会で、農業の生産能力の拡大を目標として掲げた[247]。だが、冷害や干ばつに見舞われ、合作社を通じた集団農業は非効率的だった[247]。農作物の不作により、食糧品は輸入せざるを得なくなるが、それによって外貨は消費され、そして、外貨の消費は、工業製品の生産財の輸入制限へとつながり、工場の多くが休業状態に陥る[247]。1970年代末のベトナムの国民総所得は1975年を基準とするとマイナス10%から20%を記録した[247]。
ベトナム共産党は、この状況を改善するために更なる社会主義化、計画経済化の強化によって切り抜けようとした[247]。経済の停滞状況により、旧南ベトナムの国民の中には、ベトナムを離れることを選択した者が数多くおり、その人数は1978年から2年間で29万人に達した[247]。この悪状況に対して、農業では一部地域の合作社では、請負契約を締結し、余剰生産分については自由に売却できる制度が運用されるようになった[257]。1981年以降は、この請負制度が全合作社に導入されるようになる[257]。これによって、食糧事情は多少改善した[258]。
中国との関係が決裂したベトナムは、対外的にはソ連と東欧との結びつきを強めるが、社会主義による計画経済もうまく行かず、闇市やインフレに悩まされるようになる[259]。1980年代に突入すると、ソ連を始めとする東側諸国の経済は落ち込み、1985年ソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは、対立していた中国との関係改善を行った[258]。ソ連と中国との関係改善によって、ソ連のベトナムへの経済援助が削減されることが決定する[258]。ベトナムは、1985年には、価格・賃金・通貨改革を行うが、インフレを招き、ベトナム経済は破綻寸前となる[260][257]。
これによって、外交政策と経済政策の見直しが検討され、おりしも1986年7月に対中強硬派として知られたベトナム共産党のレ・ズアン書記長が死去し、経済改革で実績を挙げつつあったグエン・ヴァン・リンが書記長となると、市場経済の本格導入と中国との関係正常化へと舵が切られることになる[258]。いわゆるドイモイ(刷新)である[258][261]。ドイモイによって、農業を中心とした第一次産業を縮小して、第二次産業の拡大を図った[260][257]。農業についても1988年に、農家の経営を公認し、土地の長期使用権を認めた[260]。
1987年から1989年にかけては配給制度が停止され、1989年3月になると為替レートもベトナムの実力に合致したレートを導入した[注 5][260]。これら経済改革によって、当初経済は混乱し、1980年代後半から1990年代前半にかけてはハイパーインフレに見舞われた[263]。だが、GDP成長率は1991年には6%、1992年には8.6%、1995年には9.5%と着実に成果を挙げていった[262]。1997年に発生したアジア通貨危機で一時低成長に陥ったものの、その後2001年から2010年のGDP成長率は平均して7.26%、2011年から2019年までのGDP成長率は年平均6.3%を記録した[262][264]。
一方外交についても、全方位外交を心掛け、カンボジアとの関係改善に乗り出し、1989年にはカンボジアから撤兵し、1991年10月、パリ和平協定が調印される[260][265]。同年11月には、中国との国交も正常化され、西側諸国との関係改善が進み、1995年にはアメリカとの国交正常化並びにASEANの加盟を果たした[262][266]。2007年には、WTOへの加盟を果たし、2016年にはTPPに加盟する[266]。自由主義化が進んだベトナムであるが、国家の政治は、なおも共産党による一党独裁体制が堅持されている[266]。
2021年にはグエン・フー・チョンがベトナム共産党中央執行委員会書記長に3選された[267]。
2024年にはトー・ラムがベトナム共産党中央執行委員会書記長に選出された[268]。
領域の変遷
[編集]
チャンパについて
[編集]
ここまでベトナム北部を主体に記載したが、ベトナム中部にもかつて王国があった。ここまでで幾度か記述があったが、それがチャンパ王国で、同国の歴史は、文字で書かれた史料が石に刻まれた碑文や中国側の史料で断片的にしか残っておらず、その全容はあまりわかっていない[114][269][270]。また、碑文に刻まれている文字も摩耗して読めないものも多数存在している[270]。チャンパは統一国家ではなく、地域ごとに王がおり、13世紀時点の中国の史料によると、12の属国があったとされる[270]。
中国側の史料によると、192年に林邑という国が誕生し、現在のベトナム中部のフエを拠点とした王国であった[271][272]。林邑を建国したのは区連という人物で、区連が中国人であったか現地民であったかもわかっていない[273][272]。ただ、彼が当時の中国の王朝後漢に対して反乱を起こし、林邑を建国したことはわかっている[272]。林邑は3世紀には、北部へと勢力を拡張し、日南郡全域(現在のクアンビン省)を中国から奪う[274]。その後、4世紀にバドラヴァルマン王(范胡達)が台頭し、現在のクアンナム省・ダナン南方近郊のチャキエウ(ミーソン聖域)に首都を置いた[271][275]。4世紀になるとインドからやってくる者もいたため、文化面ではベトナム北部と異なりインドの影響を受けるようになる[271][276][277]。そして、インドの影響によってサンスクリット文字が伝わり、パドラヴァルマン王についてサンスクリット語で記された石碑も見つかっている[271][276][277]。7世紀ごろの碑文には、チャンパという国名が刻まれるようになる[278]。ただし、これらの碑文の表記は、チャンパプラ、チャンパディラ、チャンパの王などと記されており、ずばりチャンパと記載されているわけではない[275]。
605年になると、中国の王朝・隋が林邑を侵略し、林邑は隋とその次の王朝唐に対して朝貢するようになる[277]。
750年代後半になると、チャンパに環王国が成立する[279]。 だが、この環王国については、正体はわかっておらず、中国側が林邑とは別の国と誤認し、同一国家で合った可能性がある[280]。
8世紀には、林邑時代の中心だった地域に、王城チャンパプラが建設される[278]。チャンパプラを中心とするトゥボン川沿いの国は、アマラーヴァティーと呼ばれていた[278]。チャンパは統一国家であったわけではなく、アマラーヴァティー以外にも、南方にあるヴィジャヤ(現在のビンディン省)、カウターラ(現在のフーイエン省、カインホア省)、パーンドゥランガ(現在のニントゥアン省、ビントゥアン省)などの国に分かれていたとみられている[278]。
環王国はその後、877年に唐に朝貢し、以降中国からは占城と呼ばれるようになる[281][280]。
チャンパは、998年に黎桓が樹立した黎朝によって、首都のインドラプラが占領されたため南部のヴィジャヤ(ビンディン省)に遷都し、以降ヴィジャヤがチャンパの政治の中心となる[281][282][283]。一時期、黎桓の部下である劉継宗が占城王を自称していた[281]。
1069年にチャンパは李朝によって領土を一部失陥するが、1075年には、ハリヴァルマン4世という国王が、李朝の侵略を撃退する[277]。12世紀から13世紀前半には、チャンパは沈香をめぐって、アンコール王朝と戦争になり、1177年には、アンコール王朝の都を占領する[277][284]。だが、その後もアンコール王朝とは1220年代まで争いが続いた[284]。1278年には、元の使者がチャンパのもとにやってきて、朝貢を求めるがインドラヴァルマン6世はこれを拒否し、元の侵略に遭い、李朝と同盟し元と戦い、元の撃退に成功した[277][285]。元を撃退後は、元の威光を盾に交易を独占できると考えたチャンパは、結局は朝貢することになる[277][285]。
ベトナム北部が陳朝の時代になると、陳朝は農業改革によって豊かな農業国家となり、度々チャンパと戦争した[286]。チャンパは陳朝との戦争では幾度か陳朝の攻撃を退け、3度にわたり昇龍(ハノイ)を襲撃し、陳朝の皇帝陳睿宗を戦死させる[286][287]。だが、1390年にチャンパの国王制蓬峩が戦死すると総崩れになってしまう[286]。この制蓬峩という国王は、ベトナム側の史料でしか登場せず、チャンパのどの国王になるのかは確定していない[82]。
陳朝が滅亡し、黎朝が成立し、1471年に黎朝の聖宗がチャンパに攻撃を仕掛け、チャンパの都ヴィジャヤは黎朝に占領され、チャンパは事実上滅亡した[286][288]。事実上と記載したのは、黎朝の皇帝黎聖宗が、ヴィジャヤが支配していた北半分に広南承宣を置き、南半分はパーンドゥランガ王朝が成立し、自治が認められたためである[288][95]。その後も、一応自治が尊重され、日本とも交易がおこなわれていたようで、徳川家康がチャンパに宛てた手紙も残っている[289]。また、軍事行動もしていたようで、1594年には、マレーシアのスルタンのために、対ポルトガル戦の援軍も出すなどしていた[289]。パーンドゥランガ王朝は、1693年広南阮氏に併合され、順城鎮として存続し、阮朝の2代目皇帝明命帝時代になると、同化政策が進み、1832年には阮朝に併合される[105][290][289]。阮朝の支配を嫌った者はカンボジアへと逃亡した[289]。
扶南
[編集]
本節では、扶南と扶南があった地域について記載する。扶南は、地理的には現在のベトナム南部であるが、歴史としてはカンボジアの歴史に含まれるため[291]、簡潔に記載する。
ベトナム南部では紀元後150年頃に、ブナムと呼ばれる国家が存在していた[292]。中国の歴史書「南斉書」によると扶南と記されている[292][293]。ブナムというのはクメール語で「山」という意味である[292]。首都はヴィヤダプーラと言われており、現在のカンボジアのプレイベン州のメコン川沿いにあり、インドの影響を受けていた[292]。ブナムは外国との交易が盛んだったようで、ローマ金貨や後漢の鏡、インドの仏像が見つかっている[274][15]。ブナムは、6世紀に北方の真臘から攻撃され、その後7世紀に滅亡する[294][293]。真臘が支配するようになり、やがてアンコール朝となるが、1757年に広南阮氏が、南進してカンボジア王朝の領土を占領し、これがベトナム南部となった[284]。
年表
[編集]- 紀元前800年から紀元前300年 - ドンソン文化が栄える[12]。
- 紀元前207年 - 秦の趙佗が南越国を樹立する[24]。
- 紀元前111年 - 前漢の武帝がベトナム北部・中部に3郡を置き、北属期が開始される[28][26]。
- 紀元後40年-43年 - 徴姉妹が後漢に対して反乱を起こす[37]
- 541年 - 李賁が梁に対して反乱を起こし、544年に万春国(前李朝)を建国[39]
- 602年 - 万春国が中国の隋に滅ぼされる[39]
- 679年 - 中国の唐が安南都護府を設置する[39]
- 722年 - 梅叔鸞による反乱がおこり、梅黒帝を称したが、同年中に唐に滅ぼされた[41][40]。
- 864年 - 南詔の侵略に対して、唐の将軍高駢がこれを撃退し、ベトナムの節度使(静海軍節度使)になる[44]。
- 10世紀前半 - 曲氏が3代にわたりベトナムを事実上支配する[295]
- 938年 - 呉権が中国の南漢の軍を撃退し、中国からの独立を達成する[52]
- 966年 - 丁朝の成立[295]
- 980年 - 前黎朝の成立[295]
- 1009年 - 李公蘊が李朝を樹立[295]
- 1075年 - 李常傑が率いる李朝軍が北宋に侵攻[295]
- 1174年 - 李英宗が安南国王として冊封される[295]
- 1225年 - 陳朝の成立[295]
- 1257年 - モンゴル軍が陳朝を攻撃する[295]
- 1288年 - モンゴル軍に白藤江で大勝する[295]
- 1377年 - 陳朝の皇帝陳睿宗が、チャンパの制蓬峩によって戦死する[82][295]
- 1389年 - 陳朝が、チャンパの制蓬峩を敗死させる[295]
- 1400年 - 胡季犛が胡朝を樹立[295]
- 1407年 - 胡朝が明に滅ぼされる[295]
- 1428年 - 明を撃退した黎利が後黎朝を樹立[295]
- 1460年 - 黎聖宗が即位[295]
- 1479年 - 聖宗がチャンパに遠征しヴィジャヤを占領する[295]
- 1527年 - 莫登庸がクーデターで莫朝を樹立する[295]
- 1592年 - 鄭氏と阮氏が莫氏を昇龍から追放する(後黎朝の復活)[295]
- 1599年 - 鄭松が王を名乗る[295]
- 1627年 - 鄭阮戦争が始まる[295]
- 17世紀前半 - ホイアンに日本人町が設立され繁栄する[295]
- 1672年 - 鄭氏と広南阮氏が休戦状態になる[295]
- 1693年 - 阮氏がチャンパを属国化[295]
- 1771年 - 阮氏3兄弟が西山地方で反乱を起こす[295]
- 1779年 - 広南阮氏を滅ぼした阮氏3兄弟が、西山朝を樹立する[295]
- 1786年 - 西山軍が鄭氏を滅ぼす[295]
- 1789年 - 後黎朝が引き入れた清朝軍を西山軍が破り、後黎朝は滅亡する[295]
- 1802年 - 西山朝を倒した阮福暎がフエを都として阮朝を樹立する[295]
- 1804年 - 国号を越南(ベトナム)国にする[295]
- 1833年 - 阮朝とシャムがカンボジアを巡る戦争が起きる[295]
- 1841年 - 紹治帝の即位[295]
- 1845年 - 阮朝がシャムと和平を締結[295]
- 1847年 - 嗣徳帝の即位[295]
- 1862年 - 第一次サイゴン条約(南部3省をフランスに割譲)[295]
- 1883年 - 第一次フエ条約締結[295]
- 1884年 - 第二次フエ条約によって、フランスが阮朝を保護国化[295]
- 1885年 - 天津条約で清朝が阮朝の保護国化を認める[295]
- 1887年 - フランス領インドシナ連邦の成立[295]
- 1905年 - ファン・ボイ・チャウが日本に向かう、東遊運動の始まり[295]
- 1909年 - 日本政府が在ベトナムの留学生を国外追放、東遊運動の終焉[170]
- 1925年 - ファン・ボイ・チャウが上海で逮捕される[295]
- 1925年 - ホー・チ・ミンがベトナム青年革命同志会を結成[295]
- 1930年 - ホー・チ・ミンがベトナム共産党を設立、[295]
- 1940年 - 日本軍が、仏領インドシナ北部に進駐[295]
- 1941年 - ホー・チ・ミンがベトナム独立同盟(ベトミン)を結成[295]
- 1944年 - 大飢饉の発生[295]
- 1945年 - べトナミ民主共和国臨時政府が成立し、阮朝が滅亡する[295]
- 1946年 - 第一次インドシナ戦争の開戦[295]
- 1954年 - ディエンビエンフーの戦い、ジュネーヴ休戦協定[295]
- 1955年 - ゴ・ディン・ジエムを大統領とするベトナム共和国が成立。[295]
- 1960年 - 南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の設立[295]
- 1960年 - 北部でベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)の開始[295]
- 1963年 - 南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権がクーデターによって崩壊する[226]
- 1965年 - 北爆の開始[295]
- 1968年 - テト攻勢[295]
- 1969年 - 南ベトナム共和国臨時革命政府の樹立[295]
- 1973年 - パリ和平協定で平和的な南北統一を合意[295]
- 1975年 - 北ベトナムが武力によってサイゴン解放[296][295]
- 1976年 - ベトナム社会主義共和国の成立[295]
- 1978年 - カンボジア紛争(第三次インドシナ戦争)の開始[295]
- 1979年 - 中越戦争勃発、1か月ほどで中国撤退[256]
- 1986年 - ドイモイ(刷新)の開始[295]
- 1991年 - カンボジア紛争に関するパリ和平協定の締結、中国とも国交正常化[295][297]
- 1995年 - ASEANに加盟、アメリカとも国交正常化[295][297]
- 2007年 - 世界貿易機関(WTO)に加盟[295]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 小倉 1997, pp. 22–24.
- ^ a b c d e f 小倉 1997, pp. 24–26.
- ^ a b ハ & 菊池 1991, pp. 55–59.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 18–19.
- ^ a b 岡田 2024, pp. 24–25.
- ^ ハ & 菊池 1991, pp. 60–65.
- ^ ハ & 菊池 1991, pp. 69–74.
- ^ a b ハ & 菊池 1991, pp. 81–86.
- ^ ハ & 菊池 1991, pp. 86–90.
- ^ a b c ハ & 菊池 1991, pp. 91–97.
- ^ a b ハ & 菊池 1991, pp. 119–127.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 26–29.
- ^ ハ & 菊池 1991, pp. 136–143.
- ^ a b 三橋 2005, pp. 13–14.
- ^ a b c d 古田 2021, pp. 6–11.
- ^ 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. p22-24.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 26–31.
- ^ a b c d e f g 小倉 1997, pp. 14–16.
- ^ a b c d e 川島 2024, pp. 92–95.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 26–28.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 16–22.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 63–65.
- ^ a b c 石井 & 桜井 1999, pp. 37–40.
- ^ a b c d e f g 小倉 1997, pp. 30–33.
- ^ a b c d 三橋 2005, pp. 29–33.
- ^ a b c d e f g 川島 2024, pp. 95–101.
- ^ 小倉 1997, pp. 33–37.
- ^ a b c d e ファン & 今井他 2008, pp. 71–74.
- ^ a b 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 43–46.
- ^ a b c d e f g 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 46–51.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 41–45.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 75–77.
- ^ 小倉 1997, pp. 38–40.
- ^ a b c d e f 小倉 1997, pp. 46–48.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 78–80.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 83–84.
- ^ a b レイ & 石澤 2000, pp. 69–72.
- ^ a b c ファン & 今井他 2008, pp. 86–88.
- ^ a b c d e f 岡田 2024, pp. 39–41.
- ^ a b c ファン & 今井他 2008, pp. 92–95.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 48–50.
- ^ 小倉 1997, pp. 50–51.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 45–48.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 51–54.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 42–43.
- ^ a b c d e f g h i 小倉 1997, pp. 56–58.
- ^ a b c d e ファン & 今井他 2008, pp. 103–105.
- ^ a b c d 川島 2024, pp. 101–105.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 107–111.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 58–61.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 61–62.
- ^ a b c d e f ファン & 今井他 2008, pp. 153–156.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 48–50.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 66–69.
- ^ a b c d e ファン & 今井他 2008, pp. 157–160.
- ^ a b c d e f g 小倉 1997, pp. 69–71.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 48–51.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 161–163.
- ^ a b 川島 2024, pp. 113–116.
- ^ a b c d 三橋 2005, pp. 31–33.
- ^ 古田 2021, pp. 20–24.
- ^ a b 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 49–51.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 50–53.
- ^ a b c d e f g h i j k 三橋 2005, pp. 34–39.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 71–75.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 170–174.
- ^ 小倉 1997, pp. 75–77.
- ^ 岡田 2024, p. 55.
- ^ 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 37–42.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 185–190.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 77–79.
- ^ a b c d e 岡田 2024, pp. 57–59.
- ^ a b レイ & 石澤 2000, pp. 73–77.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 80–82.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 191–198.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 82–85.
- ^ 岡田 2024, pp. 59–62.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 199–206.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 85–89.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 180–183.
- ^ 川島 2024, pp. 117–122.
- ^ a b c d e 岡田 2024, pp. 68–71.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 112–115.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 223–225.
- ^ 岡田 2024, pp. 62–63.
- ^ 古田 2021, pp. 37.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 110–111.
- ^ a b c d e 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 51–54.
- ^ 岡田 2024, pp. 73–75.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 231–237.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 129–132.
- ^ 川島 2024, pp. 122–125.
- ^ 小倉 1997, pp. 126–128.
- ^ a b c d e f g レイ & 石澤 2000, pp. 77–82.
- ^ a b c d e 石井 & 桜井 1999, pp. 190–192.
- ^ a b c ファン & 今井他 2008, pp. 253–258.
- ^ 小倉 1997, pp. 170–173.
- ^ 小倉 1997, pp. 174–175.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 80–83.
- ^ 古田 2021, pp. 58–60.
- ^ a b 川島 2024, pp. 125–129.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 175–179.
- ^ 岡田 2024, pp. 84–86.
- ^ a b c d e f 三橋 2005, pp. 40–45.
- ^ a b c d e f 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 54–59.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 201–205.
- ^ 岡田 2024, pp. 86–89.
- ^ 岡田 2024, pp. 89–91.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 205–208.
- ^ 小倉 1997, pp. 197–200.
- ^ 古田 2015, pp. 23–25.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 182–186.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 273–276.
- ^ a b c 川島 2024, pp. 129–133.
- ^ a b c d e 古田 2021, pp. 77–81.
- ^ a b c d e f 石井 & 桜井 1999, pp. 208–212.
- ^ 小倉 1997, pp. 186–190.
- ^ a b c d e 岡田 2024, pp. 100–104.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 280–286.
- ^ a b c d 川島 2024, pp. 133–138.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 191–194.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 213–214.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 202–205.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 290–295.
- ^ 岡田 2024, pp. 104–106.
- ^ 小倉 1997, pp. 2–5.
- ^ 小倉 1997, pp. 5–6.
- ^ 岡田 2024, pp. 106–108.
- ^ 岡田 2024, pp. 111–113.
- ^ a b c d e f 岡田 2024, pp. 113–117.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 254–256.
- ^ a b c d e f g h 石井 & 桜井 1999, pp. 227–231.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 218–225.
- ^ a b c レイ & 石澤 2000, pp. 133–135.
- ^ 小倉 1997, pp. 231–235.
- ^ a b c d e f g h i 三橋 2005, pp. 52–57.
- ^ 岡田 2024, pp. 108–111.
- ^ 小倉 1997, pp. 235–237.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 237–240.
- ^ a b c d e f g 岡田 2024, pp. 120–122.
- ^ a b c d e f g h i j k l 古田 2021, pp. 99–101.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 464–469.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 240–244.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 315–319.
- ^ 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 105–106.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 289–295.
- ^ a b c d 石井 & 桜井 1999, pp. 303–307.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 250–253.
- ^ a b c 石井 & 桜井 1999, pp. 307–310.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 256–259.
- ^ 川島 2024, pp. 138–144.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 262–266.
- ^ a b c d e 古田 2021, pp. 115–119.
- ^ a b レイ & 石澤 2000, pp. 139–141.
- ^ 小倉 1997, pp. 277–282.
- ^ 小倉 1997, pp. 284–287.
- ^ 岡田 2024, pp. 122–125.
- ^ 小倉 1997, pp. 287–291.
- ^ a b 古田 2015, pp. 39–43.
- ^ 三橋 2005, pp. 62–63.
- ^ a b c d e 三橋 2005, pp. 70–74.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 310–315.
- ^ a b c d e f g h 岡田 2024, pp. 129–131.
- ^ 小倉 1997, pp. 282–284.
- ^ 古田 2015, pp. 51–54.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 321–324.
- ^ 小倉 1997, pp. 295–299.
- ^ a b 川島 2024, pp. 144–151.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 295–303.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 303–309.
- ^ a b 古田 2015, pp. 75–77.
- ^ a b 岡田 2024, pp. 132–134.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 309–313.
- ^ レイ & 石澤 2000, pp. 144.
- ^ 古田 2015, pp. 78–81.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 313–317.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 324–327.
- ^ a b c 小倉 1997, pp. 336–342.
- ^ 小倉 1997, pp. 318–323.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 134–136.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 323–329.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 136–139.
- ^ a b c 古田 2021, pp. 132–136.
- ^ a b 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 133–136.
- ^ 古田 2015, pp. 84–86.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 329–332.
- ^ a b c d 古田 2015, pp. 90–95.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 327–331.
- ^ a b c d e f g 石井 & 桜井 1999, pp. 331–336.
- ^ a b 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 145–148.
- ^ 古田 2015, pp. 109–115.
- ^ a b c d e f g 岡田 2024, pp. 139–142.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 332–336.
- ^ 古田 2015, pp. 107–109.
- ^ a b c d 三橋 2005, pp. 75–80.
- ^ a b c d e f 古田 2015, pp. 121–126.
- ^ a b c d e 古田 2015, pp. 115–120.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 336–341.
- ^ 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 161–163.
- ^ 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 156–158.
- ^ a b c d e 小倉 1997, pp. 342–346.
- ^ a b 岡田 2024, pp. 142–145.
- ^ 古田 2021, pp. 150–152.
- ^ 川島 2024, pp. 151–154.
- ^ a b 小倉 1997, pp. 346–350.
- ^ 古田 2015, pp. 126–132.
- ^ 三橋 2005, p. 81-86.
- ^ a b c 古田 2015, pp. 132–137.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 150–152.
- ^ a b c d e 三橋 2005, pp. 81–86.
- ^ a b c d e f g 石井 & 桜井 1999, pp. 341–346.
- ^ a b 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 183–184.
- ^ a b c d e f g 岡田 2024, pp. 152–159.
- ^ a b c d レイ & 石澤 2000, pp. 173–179.
- ^ a b c d 川島 2024, pp. 155–161.
- ^ 古田 2015, pp. 147–152.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 159–161.
- ^ 古田 2021, pp. 168–173.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 161–163.
- ^ 古田 2015, pp. 161–163.
- ^ 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 195–197.
- ^ a b c d e 古田 2021, pp. 189–192.
- ^ ファン & 今井他 2008, pp. 690–696.
- ^ a b c 石井 & 桜井 1999, pp. 450–455.
- ^ a b c 三橋 2005, pp. 87–92.
- ^ a b c ファン & 今井他 2008, pp. 701–705.
- ^ 古田 2015, pp. 157–160.
- ^ a b c 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 201–204.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 163–166.
- ^ a b c d 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 216–220.
- ^ a b 古田 2015, pp. 221–224.
- ^ a b 川島 2024, pp. 161–165.
- ^ a b c d e 岡田 2024, pp. 166–170.
- ^ a b c d e f g 三橋 2005, pp. 93–98.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 729–732.
- ^ 三橋 2005, pp. 99–104.
- ^ a b c d e f g 石井 & 桜井 1999, pp. 455–459.
- ^ 古田 2021, pp. 192–197.
- ^ a b c d e f 古田 2015, pp. 173–177.
- ^ a b c 川島 2024, pp. 165–167.
- ^ a b c d e f 岡田 2024, pp. 170–174.
- ^ a b c 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 223–228.
- ^ a b c 石井 & 桜井 1999, pp. 462–466.
- ^ 小倉 1997, pp. 351–357.
- ^ a b c 三橋 2005, pp. 105–110.
- ^ 岡田 2024, pp. 174–177.
- ^ a b c d e f g h i 石井 & 桜井 1999, pp. 467–471.
- ^ 川島 2024, pp. 174–178.
- ^ a b c d 古田 2015, pp. 178–181.
- ^ a b c 三橋 2005, pp. 113–114.
- ^ a b c 石井 & 桜井 1999, pp. 471–473.
- ^ a b 古田 2015, pp. 224–227.
- ^ a b 川島 2024, pp. 178–182.
- ^ 古田 2015, pp. 203–206.
- ^ 岡田 2024, pp. 182–184.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 184–189.
- ^ a b c d 石井 & 桜井 1999, pp. 473–476.
- ^ a b c d e 岡田 2024, pp. 192–196.
- ^ 岡田 2024, pp. 190–192.
- ^ a b c d e 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 243–247.
- ^ 川島 2024, pp. 190.
- ^ a b c d 石井 & 桜井 1999, pp. 476–479.
- ^ 川島 2024, pp. 221–222.
- ^ Báo Dân trí「ベトナム経済:復興と統合の半世紀」『Vietnam.vn - Nền tảng quảng bá Việt Nam』2025年4月5日。2025年11月7日閲覧。
- ^ 古田 2015, pp. 238–242.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 196–199.
- ^ “第13回ベトナム共産党大会、チョン書記長が異例の3期目継続”. 2024年4月23日閲覧。
- ^ “ベトナム 空席の最高指導者にトー・ラム国家主席を選出”. 2024年10月20日閲覧。
- ^ 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. p17-18.
- ^ a b c 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. p37-40.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 151–153.
- ^ a b c 土方 2001, pp. 42–44.
- ^ 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. p27-31.
- ^ a b 岡田 2024, pp. 31–33.
- ^ a b 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. p32-34.
- ^ a b ファン & 今井他 2008, pp. 97–100.
- ^ a b c d e f g 三橋 2005, pp. 18–21.
- ^ a b c d 岡田 2024, pp. 35–39.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 65–67.
- ^ a b 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. 44–46.
- ^ a b c 石井 & 桜井 1999, pp. 67–70.
- ^ レイ & 石澤 2000, pp. 26–28.
- ^ 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. 46–48.
- ^ a b c 岡田 2024, pp. 55–56.
- ^ a b 石井 & 桜井 1999, pp. 70–74.
- ^ a b c d 三橋 2005, pp. 22–23.
- ^ 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. 65–68.
- ^ a b 岡田 2024, pp. 77–80.
- ^ a b c d 桃木, 樋口 & 重枝 1999, pp. 69–73.
- ^ 石井 & 桜井 1999, pp. 75–78.
- ^ 桐山, 栗原 & 根本 2019, pp. 32–33.
- ^ a b c d 小倉 1997, pp. 149–151.
- ^ a b 三橋 2005, pp. 24–26.
- ^ 小倉 1997, pp. 157–161.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj 岡田 2024, pp. 200–205.
- ^ 川島 2024, pp. 167–173.
- ^ a b 古田 2021, pp. 240–242.
参考文献
[編集]- 岡田雅志『一冊でわかるベトナム史』河出書房新社〈世界と日本がわかる国ぐにの歴史〉、2024年8月。ISBN 978-4-309-81122-2。
- 土方美雄『北のベトナム、南のチャンパ : ベトナム・遠い過去への旅』新評論、2001年9月。ISBN 4-7948-0535-7。
- 三橋広夫『これならわかるベトナムの歴史Q&A』大月書店、2005年7月。ISBN 4-272-50208-5。
- 桃木至朗、樋口英夫、重枝豊『チャンパ : 歴史・末裔・建築』めこん〈めこん選書〉、1999年11月。ISBN 4-8396-0131-3。
- 石井米雄、桜井由躬雄『東南アジア史』 1(大陸部)、山川出版社〈新版世界各国史〉、1999年12月。ISBN 4-634-41350-7。
- レイ・タン・コイ『東南アジア史』石澤良昭訳(増補新版)、白水社〈文庫クセジュ〉、2000年4月。ISBN 4-560-05826-1。
- 鈴木峻『扶南・真臘・チャンパの歴史』めこん、2016年12月。ISBN 978-4-8396-0302-1。
- ハ・ヴァン・タン『ベトナムの考古文化』菊池誠一訳、六興出版〈人類史叢書〉、1991年4月。ISBN 4-8453-3043-1。
- 古田元夫『ベトナムの世界史 : 中華世界から東南アジア世界へ』(増補新装版)東京大学出版会〈UPコレクション〉、2015年9月。ISBN 978-4-13-006534-4。
- ファン・ゴク・リエン『ベトナムの歴史 : ベトナム中学校歴史教科書』今井昭夫,伊藤悦子, 小川有子, 坪井未来子、明石書店〈世界の教科書シリーズ〉、2008年8月。ISBN 978-4-7503-2843-0。
- 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 : 一億人国家のダイナミズム』中央公論社〈中公新書〉、1997年7月。ISBN 4-12-101372-7。
- 桐山昇、栗原浩英、根本敬『東南アジアの歴史 : 人・物・文化の交流史 : 世界に出会う各国=地域史』(新版)有斐閣〈有斐閣アルマ. Interest〉、2019年12月。ISBN 978-4-641-22139-0。
- 古田元夫『東南アジア史10講』岩波書店〈岩波新書 新赤版〉、2021年6月。ISBN 978-4-00-431883-5。
- 川島博之『日本人の知らないベトナムの真実』育鵬社〈扶桑社新書〉、2024年7月。ISBN 978-4-594-09771-4。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Viet-Nam(フランス語)
- Vietnam History(英語)
- フィールドワーク・ベトナム
