ジョセフ・グルー

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ジョセフ・クラーク・グルー
JosephGrew.jpg
Joseph Clark Grew
生誕 (1880-05-27) 1880年5月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 (1965-05-25) 1965年5月25日(満84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 駐日アメリカ合衆国大使
国務長官代理

ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国の外交官。日米開戦時の駐日アメリカ合衆国大使。日米開戦回避に努めた。開戦(1941年12月)後日本国内に抑留され、日本の外交官との交換により帰国(1942年6月)。帰国後は国務次官となり、占領政策立案・終戦交渉に尽力した。終戦と同時に国務次官を辞任し、私人として講演活動などを通じ、日米両国の親善に尽した。吉田茂は、グルーは「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と高く評価した[1]他方、グルーの日本理解には限界があった[2]、あるいは彼は政治的にきわめて保守的であったことを指摘する見方もある[3]

生い立ち・学歴[編集]

 グルーは、マサチューセッツ州ボストン市西部のバックベイ (Back Bay)地区[4]に、エドワード・スタージスおよびアニー・クロフォード・グルーの四番目の子として生まれた。2人の兄(ヘンリーおよびランドルフ)と姉(エレノア)がいた。グルー家は祖先がイギリスから渡米したボストンの名門で、貿易・綿取り引き業・金融業などで財をなし、同じく名門のパークマン家やスタージス家などとつながっていた。

 1892年秋、人格・指導力・社会奉仕の精神の育成を目指す全寮制のグロトン校[5]に入学した。同校卒業後、ボストンの由緒ある家庭の男子が通常進学したハーバード大学に入学した。入学後は、大学新聞『クリムゾン』の編集員として活躍すると共に、スポーツにも熱心であった。最も熱を入れたのが、「フライ・クラブ(Fly Club)」[6]であった。グルーは後に「クラブでの活動と社交が自分にとっての大学生活のハイライトであった」と述べている[7]。第32代大統領のフランクリン・D・ルーズベルトはグロトンとハーバードでグルーの2年後輩であったが、両人が当時親しく交流していたという記録はない。

 グルー家は、植民地時代初期にイギリスからマサチューセッツに移住した「ピューリタン」(カルヴィン主義の流れを汲む会衆派・長老派)とは異なるより自由主義的な監督派(エピスコパル)に属していたが、勤勉・責任・奉仕など、ニューイングランドに流れる倫理観を培われ、生涯を通じてそれを保った。グルーは幼少時に猩紅熱にかかり、片耳難聴になった。このことは外交官の経歴を全うするうえでハンディキャップとなった。大学卒業後、1902年6月から18ヶ月の世界旅行に出た。中国(アモイ)で虎を狩猟するなどの体験の後、日本経由で帰国した。

外交官時代—1932年以前[編集]

修業時代[8][編集]

 グルーが大学を卒業した頃、「職業的外交官」の地位が確立しておらず、政治的功労者が大使・公使・領事などに任命されていた。書記官たち初任者の昇進も保障されてはいなかった。グルーは、カイロのアメリカ総領事書記生に就く道を選ぶ(1904年7月、同年11月よりカイロ総領事代理)。

 1905年10月、アリス・ペリーと結婚。アリスは日本を開国したマシュー・ペリー提督の兄、オリヴァーのひ孫にあたった。慶応義塾大学で英文学を教えていた父トマス・ペリーに同行し来日し、3年間日本で過ごした。

 その後グルーはT・ローズヴェルト大統領の口利きで、メキシコ大使館三等書記官(1906年3月)・ロシア大使館三等書記官(1907年5月)に採用された。1908年6月ドイツ大使館2等書記官、1911年1月オーストリア=ハンガリー大使館1等書記官を経て、1916年9月末〜12月後半ドイツ代理大使を務めた。この頃一時は政権の交代があり(共和党ロバート・タフト大統領から民主党ウッドロー・ウィルソン大統領へ)、民主党支持者のはげしい猟官の影響を受けることが予想されたが、知人等の支援があり、留任できた。そして、ひっきりなしの歓待やヨーロッパの宮廷外交の壮麗さを満喫し、外交官としてのスタイルを身に付けた。

 第一次世界大戦中はアメリカ国内にあり、国務省西欧部長など歴任。1918年10月、エドワード・ハウス大佐に同行してパリへ。パリ講和会議期間中および終了後、アメリカ全権団書記官を務めた(1919年1 月〜12月)。

 1920年5月〜1921年10月、デンマーク公使、1921年10月〜1924年4月、スイス公使。この間1922年11月〜1923年7月、ローザンヌ会議へのアメリカ代表団に加わり、オスマン帝国に代わる新生トルコ共和国の基礎造り(関税自主権の回復・ギリシャとトルコの住民交換など)に貢献した(ローザンヌ条約、1923年8月6日締結)[9]

国務次官(第1期)[編集]

 1924年2 月、国際連盟でのアメリカ合衆国を代表する任務を終え、本国に戻った時、グルーは自分が国務次官に任命されたという電報を受け取った。グルーは予想される責任と困難さを思って躊躇したが、「喜ばしいものである」と日記に記し、就任を受託した[10]

 この頃、ロジャーズ法[11]が成立し、外交官制度の改革の試みが始まっていた。外交職と領事職の間の格差を失くすことが改革の目指すところであった。その作業を進める上で、グルーのようなキャリアの持ち主が適任であると見込まれたのである。しかしグルーは、改革の必要性は認めていたが、外交職と領事職の統合には熱心ではなかった。彼は外交職を守ることにより熱心であった。外交官には特別な素養と経験が必要とされ、昇進率の差に見られるような両者の間の格差は個人の能力の差によるものと信じていた。グルーの在任中なされた昇進や任命は、彼にとっては正当化されるものであったが、たとえば1927年の人事リストには9人の大公使および国務次官補が指名されていたが、東部エリート大学出身者への偏りが目立ち、領事職は1人も含まれていなかった。これに対し、強い批判が出た。同事件—「1927年のスキャンダル」と呼ばれたーは、明らかにグルーの失敗であった[12]。このことならびに国務長官フランク・ケロッグ(Frank Kellogg)との不和が取り沙汰され、グルーの転出は予期された。

駐トルコ大使[編集]

 1927年5月、グルーはトルコ大使に任命され、9月に就任した。この人事に関して、議会では外交官の自己昇進であるとの批判が起こった。ケロッグ長官は、職責と能力でグルーを推薦したと型通りの援護を行ったが、グルーは秘書官に宛てた書簡で、「私はコンスタンチノープルを望んだ訳ではない。私の印象では、政権は私が去ることを望んでいるのだ」と記した[13]

 しかし、新生トルコへの最初のアメリカ大使として、グルーはケマル・アタテュルク大統領およびイスメット・イネニュ首相の指導の下、トルコが近代的国家へと歩む過程を目の当たりに見る機会に恵まれたのであった。彼は、アメリカ合衆国が個別にトルコと通商航海条約おおよび居住営業条約を結ぶことに尽力したのであった(それぞれ1929年および1931年に締結、1932年5月に批准成立)。

駐日大使—穏健派への期待[編集]

アメリカ、対日道徳的圧力を強める[編集]

 1931年秋、グルーは駐日大使を務める意向を打診された。同年代の職業外交官として、主要都市の大使になる最初の者であることを意識し、彼はその任を引き受けた。3月13日、トルコを離れ、新しい任地に向かった。1932年6月6日、横浜港に到着し、6月14日、天皇に謁見した。

 グルーの日本着任の前年、満州事変(1931年9月18日)が起こり、日本のアジア大陸進出が顕著となった。アメリカ合衆国国務長官スティムソンは1932年1月7日、日本による満州の軍事制圧は、パリ不戦条約[14]に違反するとする声明(スティムソン・ドクトリン)を公表した。日本の行為を不服とした中華民国の提訴を受けて、国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とする日支紛争調査委員会(リットン調査団)を派遣した。調査団は同年10月2日に報告書を公表し、「日本の軍事行動は正当な自衛措置と認めることはできない」と結論付けた[15]

 1932年から1933年にかけて、本国では共和党から民主党に政権が代わった。グルーは共和党支持であったので通常ならば更迭されるところであり、慣例に従って辞表を提出したが、年金資格が得られる翌年まで上級外交官職に留まりたいという希望を併せて伝えた。その結果、グルーは駐日大使に留まることとなった[16]

 この頃グルーは、日本国内においては広田弘毅等の穏健派が軍部を抑えることを期待し、日本が国際連盟に留まることを望んでいた。しかし1933年2月、リットン報告書は国際連盟総会で承認された。松岡洋右全権はあらかじめ用意していた宣言書を読み上げ、国際連盟総会から退場した。翌月、日本政府は連盟からの脱退を決め、正式に通告した。

 松岡洋右が宣言書を読み上げた日、グルーは日記に次のように記したー「今日、内閣は、国際連盟を脱退することを決議した。・・・私自身の推測は間違っていた。ごく最近まで私は日本がこれをやると思っていなかった。しかし、これは満州国をいそいで承認したことその他、今まで日本がやってきたあらゆることの線に、ちゃんと沿っているのである。日本の政策は一つの『既成事実』に次ぐに他の既成事実をもって、世界を相手にしようというのである。軍はいまだに優勢で、いまだに恐怖政治の独裁制を構えている」(1933年2月20日)。

広田外相就任[編集]

 1933年9月、広田弘毅が外相に就任した。グルーは、広田の「政策の礎石は日米関係の改善である。彼の態度は、彼が本気であることを私に確信させる」として、彼を中心とする日本の穏健派が日本が極端な行動に走ることを阻止すると期待していた。しかし、1934年4月17日の「天羽声明」[17]を境にして、穏健派に対するグルーの期待はさらに弱まっていった。

 他方、情報が錯綜し、本省は天羽声明の公式の訳文を求めてきたが、グルーは、同声明は外相の許可を得ていないので公式の訳文はないと返答する一方、日本は九ケ国条約を遵守し、中国に特殊権益を求めず、中国の貿易を阻害しないというのが天皇の方針であると本省に伝えた。これは天羽声明の内容と異なるものであった。天羽声明が、日本政府の誰によっても「公然と否定」されていないことも明らかとなり、本省は困惑し、駐日大使館の能力に疑問が持たれた[18]

無条約時代[編集]

 5ヶ月の休暇の後グルーは、1935年12月17日に帰任した。ベルギー大使に代わって、グルーは外交団主席になることとなった。それは、様々の宮中行事への参列を意味した。

 翌年早々日本がロンドン軍縮会議本会議を脱退したことなどを知り[19]、グルーの対日態度は強硬なものになった。日米の友好関係を心から望むグルーとしては、東アジアにおけるアメリカの権益や通商の自由を妨げる日本の行動については、日本人にアメリカ人の考えをきっちりとわからせるべきである、と考えるに至った。そのため、上院外交委員長キー・ピットマンが議会において、日本の侵略政策はアメリカにとって危険であるという内容の好戦的な演説を行った際、日記に「(このような演説は)日本人に、物を考えるために立ち止まらせる役に立つことは確かだと思う」と書き、それを支持した(1936年2月11日付日記)。

 1936年11月25日、日本がドイツと日独防共協定[20]を結んだ。グルーは日記に「対外関係に関する限り、1937年は日本にとってよくない年である。(中略)国際連盟から脱退したことによって始められた日本の孤立を、完全なものにした」と書いた(1937年1月1日)。

2・26事件[編集]

 1936年2月26日、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが下士官兵を率いて起こした未遂のクーデターが起こった。前夜グルーは斎藤実内大臣夫妻、鈴木貫太郎侍従長夫妻を大使館の晩餐に招き、トーキーを楽しんだ。暗殺を知り、翌日グルーは首相の自宅へ弔問した。

 後継に広田弘毅が選ばれ、組閣に取りかかった。グルーは日記に「(彼は)合衆国との友好関係を欲し、その方向に出来るだけの努力を払うことと思う」と、広田への期待が大きいことを記した。しかし広田内閣は、翌年1月に総辞職し、林銑十郎内閣が成立した(1937年2月)。

盧溝橋事件[編集]

 1937年7月7日、 盧溝橋事件[21]が起こり、日中戦争が勃発した。グルーは当初は、事件は日本による“謀略工作”の結果だとする説に対しては懐疑的だったが、次第に事件の発端は日本側に責任があるという見方に変わっていった。しかし彼は、アメリカの政策の主要目標は、厳正中立を維持し、極東の混乱した事態の局外に立つことでなければならないと考え、この段階でも、対日圧迫策は無駄であり、そのうえ危険で破壊的であると見ていた[22]

 1937年10月5日、ルーズベルト大統領は、世界に無法状態を生み出す国家は隔離されるべきであるとする「隔離演説」と呼ばれることになる演説を行った。交渉を通じての紛争解決を望んでいたグルーは落胆した[23]

 1937年11月7日、日本軍が上海に上陸し、12月1日、南京を占領するに至っても、グルーは日米友好は可能という信念はゆらがなかった。しかし、アメリカによる調停によって和平を実現することには、さらに悲観的になっていく兆しを彼は見逃すことはなかった。

駐日大使—強硬路線へ[編集]

パネー号事件[編集]

 1937年12月12日、日本海軍機が揚子江上において、米国アジア艦隊所属の警備船「パネー号(Panay)」を攻撃して沈没させ、その際に機銃掃射を行ったとされる、パネー号事件が生じた。日本側は、事件は故意の敵対行為ではなく、一連の偶発事件の結果だと主張した。日本側は広田弘毅外相が大使館に赴き、謝罪する一方、ワシントンの斎藤博駐米大使へハル国務長官への謝罪を訓令した。斎藤大使は訓令を待たずにラジオ放送枠を買い取って、全国中継で謝罪を表明した。12月24日、広田弘毅外相は日本政府の正式回答文書をグルー大使に手交した[24]

 1938年2月、日本軍は重慶を爆撃した。近衛文麿首相は帝国議会で、日本は「支那の領土並びに主権および支那における列国の正当なる権益を尊重する方針にはいささかもかわるところはない」と演説した。グルーの本国への報告は、この演説を真に受けたもののように思われた。すなわち日本軍の行動は単なる軍事的逸脱ではなく、経済圏確保が目的であるしたのであった。これに対し、国務省の極東専門家は、グルーが日本寄り過ぎるという批判的なコメントを出した[25]

斎藤博駐米大使の遺骨の送還[編集]

 1939年2月26日、斎藤博駐米大使がワシントンにおいて病没した。同大使は1934年に着任して以来、パネー号事件(1937年12月)に際し、直接ラジオの全国中継で平和的解決を訴えるなど、日米関係の改善に努めたことで知られていた。アメリカ政府は同大使の死を惜しみ、また元駐日大使エドガー・バンクロフトの死に際し、日本政府が軽巡洋艦「多摩」によって同大使の遺体を送り届けたことへの返礼の意味を込めて、巡洋艦「アストリア」に遺骨を載せて日本に送り届けた。グルーはこのような「米国政府のジェスチャーが良い結果」が生まれることを望むと日記に記した(1939年4月3日)。同4月17日、横浜・山下桟橋において受領式が行われ、グルーは夫人と共に列席した。

「馬の口から一直線に」演説[編集]

 グルーは1939年夏、休暇で本国に帰った。出発に先立ち、「経済、財政、商業、感情のどの点から見ても合衆国は、もし日本が米国と同様に付き合うならば世界中のどの国よりも日本のよい友人である得るのだ。どの点から見ても日米戦争は、まさに愚の骨頂である」と日記に記したであった(1939年5月15日)。しかし、本国において、アメリカの世論が日本に対して厳しくなっていることを知った。

 帰任後、日米協会において、グルーは「馬の口から一直線に」(「最も確かな筋から得た」の意味)と題する演説を行った(1939年10月19日)。その中で彼は、アメリカ国民は「他国民の宗主権を尊重し、米国の宗主権も同様に尊重されんことを欲しています。(中略)米国民は商業上の機会均等ということを信じています。おそらく米国ほどこの原則を時々発動させた国家は」ないことを強調した。それは明らかに、日本は中国の宗主権を侵し、機会均等の原則を踏みにじっていると、批判したものだった(1939年10月19日)。

 グルーの演説に対する日本で反響は大きかった。『読売新聞』(1939/10/20号)は「重大発言、我対支行動是正求む」という見出しを付け、大使が任地で行うには異例に強硬であったことを暗示した。

野村外相との会談[編集]

  グルーは、1939年11月4日から12月28日にかけて、野村吉三郎外相と三回会談した。この一連の会談は、日米関係の改善のため積極的な措置を取るべきは日本側であると説得するグルーの努力の「クライマックス」であった。しかし進展はなく、目立った成果のないものであった[26]

有田外相との会談[編集]

 1940年6月10日から同年7月11日にかけて、グルーは有田八郎外相と五回にわたり会談した[27]。前回の野村との会談にまして国務省はグルーに強い指示を与えていたので、グルーは有田に対し明確に、日本は二つの道、すなわち(1) 秩序、正義、自由貿易、国際協力、領土保全、それに国家主権を尊重していくこと、(2)武力、他国への内政干渉、貿易制限、特権的地位、そして自給自足経済への道のいずれかを選ばなければならないことを悟らせる使命を負った。

青信号メッセージ[編集]

 グルーは1940年9月12日発の通信において、より明確に強硬的な対日路線に転じた。この時期以前の通信が融和的政策を求め、強硬的な政策の推進は直接両国の衝突を招く危険性があるので回避されるべきであるー「赤信号」である―とされて来たのに比し、強硬路線を容認する通信は、以後「青信号」と呼ばれることになる。その中でグルーは、「力あるいは 力の示威」によってしか略奪国の行動を阻止することができないとし、報復措置を徐々に段階的に強化することによって、日本による太平洋の現状変革を抑止するという政策を勧告した。グルーは、8年にわたる日本勤務で、この電報はおそらくもっとも重要な交信であると、自ら考えた[28]

日米戦争回避のための努力[編集]

「枢軸国はこの戦争に勝たない」[編集]

 1941年になり、グルーの姿勢はより強硬になった。彼は日記に「愛好するわが同国人といえども、宥和政策が完全に絶望的であることを理解するだろう。そんな時は過ぎたのだ。(中略)捨てておけばこの癌[日本の急進論者]は及ぶかぎり至るところに侵入し、ついにその惨害は阻止することが出来なくなる。」(1941年1月1日)

首脳会談の提案[編集]

 1941年8月18日、グルーは近衛首相の命を受けた豊田貞二郎外相と会談した。豊田は首脳会談実現の働きかけを行った。1941年9月6日、グルーは近衛首相に招かれ、秘密会談を持った。近衛は首脳会談に向けて、三国同盟を事実上無効にする、ドイツ軍がアメリカを攻撃した場合も日本は対米参戦しない、直ちに南北仏印から撤退などを約束した。

 これを受けて、グルーは1941年9月22日、頂上会談の実現を直接大統領に訴えた。9月29日、ハル宛報告の中で、「日本政府が最近とみに増大し、真剣さを加えてきた努力をもって、近衛公爵と大統領との会見を遅滞なく準備しようとしていることが分かる。・・・大使は、如何なる建設的方法をも援助したいと思い、・・・日本政府をして合衆国政府が日米間に相互的な了解なり取り決めなりを持ちきたらすために重要だと思う手段や政策を取らしめることに努力したい。」と書いた。しかし、首脳会談にたいする国務省の態度は、冷淡なものから、否定的なものに変わっていった。10月2日付のハルの回答は会談を否定したものであり、第三次近衛内閣に関する限り、最終的なものであった[29]

天皇宛の親書[編集]

 1941年11月3日、東郷茂徳外相は野村との恊働を意図して、来栖三郎を特使としてワシントンに派遣することを決める。翌日来栖、グルーを訪問。なにも新しい解決策をもっていくわけではないと話され、グルーは失望した。

 1941年12月7日、グルーは短波放送で、大統領が天皇に親書を送ったことを知った。しかし、国務省からは、何も言ってこなかった。夕刻、ハル長官から、超緊急電が来た。親書は正午に日本の郵便局に届いていたのに、午後10時30分まで配達されなかった。グルーは深夜、親書を東郷外相に手渡した。日が変わって12月8日午前零時15分を回っていた。午前1時に外相邸を辞去。この頃ワシントンは12月7日午前11時、駐米日本大使館では宣戦布告の暗号解読と清書に手間取っていた[30]

開戦、抑留、交換船での帰国[編集]

 日米戦争開戦後、グルーおよびアメリカ大使館員は大使館内に抑留を強いられたが、翌年6月、アフリカ・モザンビークでの日本の外交団との交換のため、出航した。8月、リオデジャネイロ経由でワシントンに着いた。

国務次官(第2期)[編集]

全国講演[編集]

 帰国後の約2年間、グルーは国務長官顧問の肩書きを与えられ、全国を演説して回った。演説の骨子は当初は日本軍指導者がいかに残虐であるかということ述べ、アメリカ国民の戦闘意欲の増進に努めるものであった。

 1942年、帰国直後のグルー演説の一部を収録した『東京報告—アメリカ国民に与えるメッセージ』(Report from Tokyo/ A Message to he American People)が刊行された。その中には、「私は日本を知っている。そこに10年住んでいたからだ。日本人を親しく知っている。日本人は倒れない。(中略)彼らはベルトの穴を一つきつく閉め直して、食事を米一杯から半杯に減らし、最後の最後まで戦うだろう」と、日本国民はあたかも恐るべき戦闘マシーンであるかのように描いた箇所もある[31]

 演説活動に邁進する一方、駐日大使時代に綴った日記の抜粋からなる『滞日十年』の刊行の準備にかかっていた。同書—原題Ten Years in Japan—は1944年に刊行され、前書と同様、ベストセラーになった(以下の『滞日十年』参照)。

 戦況が圧倒的に日本にとって不利になった1943年夏頃から、グルーの関心は、いかにして勝つかではなく、どのように戦争を終わらせるかに移っていった。1943年12月29日、イリノイ教育協会における「極東における戦争と戦後問題」と題された演説で、彼は、日本は神道が基礎となっている社会であり、平和的な指導者に恵まれれば、神道は「負債」にはならない、むしろ「財産」になると述べる一方、「もし日本国民が戦争の亡者どもを罰し、軍事政権を転覆するために革命を起こすのであれば、私たちも、日本人にみずからの政体を選ぶ権利を与えなければならない」と述べた。天皇制存置を望む彼の対日戦後構想を示すものであった[32]

天皇制存置に向けて[編集]

 1943年10月、国務省内に「部局間極東地域委員会」(Interdivisional Area Committee on the Far East)が設置され、極東における戦後処理に関する諸問題が検討された。同委員会は「知日派」と呼ばれた人びとが、主要なメンバーであった[33]。先に見た、グルーがイリノイ教育協会で行う予定の演説原稿を彼らは前もって読む機会があった。国内世論では天皇懲罰論が強く、国務省幹部の間でも天皇制を否定する考えが支配的であった時に、日本人は「自らの政体を選ぶ権利」があるとグルーは説いたのであった。それは、天皇制の部分的利用の有用性を主張する同委員会のヒュー・ボートン(Hugh Borton)[34]等の意見に通ずるものであった。

国務次官就任—「女王蜂演説」[編集]

 1944年5月1日、グルーは国務省極東局長に就任した。グルーの就任は「部局間極東地域委員会」の意見が支持されるのに大きな力となった。

 1944年12月20日, グルーはさらに上級の国務次官に就任した。12月12日のアメリカ合衆国議会上院での指名のための聴聞会で、グルーは厳しい質問にさらされたが、グルーは、天皇の日本社会における位置は「女王蜂」のそれに例えられる、「もし、群れから女王蜂を取り除けば、巣全体が崩壊するであろう」、天皇は戦後の日本の「唯一の安定」要因であると答えた[35]

三人委員会[編集]

 1944年12月19日, 戦争遂行と戦後処理について意見を調整する国務長官、陸軍長官、海軍長官から構成される委員会(The Committee of the Three, 三人委員会)が設置された。長官が不在の場合は長官代理として次官が出席する決まりであった。国務長官エドワード・R・ステティニアスが他の業務に追われて頻繁に不在のため、グルーが同委員会に出席することが多くなった。

最後の説得—「対日声明に天皇制存置を」[編集]

 1945年5月28日、大統領が日本に降伏を呼びかける声明を発することがあるならば、降伏の条件として、天皇制存置を認める文言を含むことをトルーマンに進言する[36]。声明案は詳しく検討され、「原則において同意された」が、「明らかにされないある軍事的理由から、今ただちに行うことは好ましくない」と判断された[37]

 6月12日、グルー国務次官、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官による三者協議において、グルーは占領は必要としながらも、より平和的かつ民主的政策を採用するため日本のよりよい勢力の支持をとりつける可能性を強調さらに説得を試みた。6月16日、朝夕二回大統領と会い、日本人は自身の将来の政治的構造を自ら決めることが許されると、対日声明早期実施を促す最後の説得を試みた。これに対しトルーマン大統領は6月18日、声明は三巨頭会談まで待つと言明。グルーは落胆した。

 1945年7月1日、ステティニアスが辞任し、7月3日、新国務長官にジェームズ・F・バーンズが就任した。大統領一行がポツダムに向かった7月6日、まだ省内にいたバーンズに、天皇制存置条項をポツダム宣言に入れることを働きかけたメモを手渡した。

 7月11日、グルーはラジオ演説で、無条件降伏が日本国民の根絶でも奴隷化でもないということを痛切に呼びかけた。あとは、スティムソンに期待するしかなくなった。

 広島(1945年8月6日)と長崎(同年8月9日)に原子爆弾が投下された。その後、日本はポツダム宣言を受諾した。ポツダム宣言第12項は原案とは違ったものに変えられていた[38]。天皇の詔書放送がなされ、戦争が終結した。同日、グルーは国務省に辞表を提出した。戦争終結前、既に戦後を見越して、グルーに対し、政治顧問として対日占領に対する協力要請がなされたが、彼は「いかなる状況下にあっても、支配者として日本に帰るつもりはない」と述べ、断ったのであった[39]

退任後[編集]

議会公聴会・極東国際軍事裁判[編集]

 1945年11月26〜29日, アメリカ合衆国議会において「真珠湾攻撃に関する合同調査委員会公聴会」が催された。グルーは召喚され、日記の提出を求められたが、「私の日記は個人的文書であります。自分の考えを整理するためのある種のスケッチブックとして用いました。多くの文章が不正確であり、誤りを導きかねないものなのです」と述べ、提出を拒んだ[40]

 1946年4月より始まった日本の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判にも、グルーは関わりを持った。彼は、平沼騏一郎広田弘毅重光葵の3人は「全く戦争には反対であり、これを避けようと努力した」ことを陳述することを欲したが、同裁判所は同年11月18日、グルーの召喚を求めないことを決めた[41]

『動乱期』の刊行・ 反共の闘士[編集]

 グルーは1948年6月28日, 米国対日評議会名誉会長に就任。財閥解体を押しとどめ、公職追放者の復権をよびかけた。

 グルーは1949年3月17日、反共主義団体の全米自由ヨーロッパ委員会が設立された時、その理事長に就任した。そして、1953年10月、共産中国の国連加盟に反対する請願運動の発起人となり、「百万人委員会」を支援。1962年3月、委員長に就任。

 1952年11月、11,ホートン・ミフリン社より、公文書からの抜粋を中心にした回顧録『動乱期』(The Turbulent Era)』(全二巻、1500頁)が出版された。同書で、グルーは、もし自分の意見が政権に聞き入れられていたなら、歴史は大きく変わっていただろうという主張を繰り返した[42]

「真の日本の友」[編集]

 『滞日十年』の印税を原資に、樺山愛輔等が中心となって行われた募金をもとに、日本の高校卒業生をアメリカの大学に送ることを目的として「グルー基金」が設立され、1953年夏、第一期生4人がアメリカに向けて出発した。

 機会ある毎に、日本との結びつきを大切にした。1953年9月、皇太子がボストンを訪れた際、日米協会主催の記念昼食会に列席した。

 1965年5月25日、マサチューセッツ州マンチェスター・バイ・ザ・シーの自宅で歿した。84歳。6月18日、東京ユニオン教会にて追悼式が執り行われた。

外交官としての特質[編集]

グルーの外交観[編集]

 グルーの外交観は基本的には現実主義に根付いたものであった。第一次世界大戦以降のアメリカ外交は、従来の国威・国益を目指したアプローチに代わって、国際協調主義・軍縮・民族自決・集団安全保障・開放的な国際経済体制を追求するウッドロー・ウィルソンの構想いわゆる「ニューディプロマシー」が基調となった。パリ不戦条約(1928年8月27日パリで採択・署名された。条約を提唱したフランス外相およびアメリカ合衆国国務長官にちなんでケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる)は、その好個の例である。組織化された闘争(戦争)ではなく、組織化された共通の平和の達成が理想とされた。

 しかしこのような理想主義をジョージ・ケナンは「法理論的・道徳家的(legalistic-moralistic)」と呼び、国内において個人間の関係に適用される法律観念を政府間にも適用させようとする努力であることは認めても、「ある体系的な法律的規則および制約を受諾することによって、国際社会における各国政府の無秩序でかつ危険な野心を抑制することが可能であるという信念」に影響される、いいかえれば極めて観念的であることを指摘した[43]

 グルーは、アメリカの政策の主要目標は、厳正中立を維持し―中国における機会を平等にし、門戸を開放し―、日本の国際法違反を阻止することにあると見なしことにおいて、新しい外交のアプローチを支持しているように思われた。彼は軍事的手段を取ることには否定的であった。その反面、彼は「平和主義(pacifism)」に関しても懐疑的であった。

 日本に対して経済的報復手段(制裁)を取ることに反対しながら―それは最終的に戦争へと導くことを彼は懸念していたー、アメリカのアジアにおける国益の擁護を強く主張するグルーの態度は矛盾しているように思われた。彼はしばしば、1930年代後半のドイツの再軍備・ラインラント進駐・オーストリアおよびチェコスロバキア併合を承認し、それらを阻止するための強硬な措置を取らなかったイギリスなどと同様、「宥和主義」(appeasement)を支持している批判された。しかしグルーは、国際的原則(条約)の遵守をいかなる国家の義務と定め、アメリカの国益の正当性をライバル国に認識させるあることを求めることにおいて、自分のアプローチは決して宥和的ではない、むしろ「積極的宥和 (constructive conciliation)」として弁護した。「両国民、特に日米の指導的地位にある者たちが互いの「信条」と言えるものを理解し、話し合いをもって表面的な衝突の回避の道を探ることーそうすることが、アメリカの国策の根本原則であるーが肝要である」ことを、彼は深く信じていたのである(1941年9月30日付国務長官宛報告)。

グルーの日本観[編集]

 誠意にもとづく折衝によって相手国と派遣国との交流を深め、両国との間に対立が生じるならば和解に導くことを外交の目的と見なしていたグルーは、彼自ら日本の政治・社会・文化について、理解するよう努めた。彼は日本についての情報源を大使館のスタッフの報告および邦字新聞の要約から得ることが多かったが、彼は自らの交友関係に依拠する場合も多かった。グルーが特に親しかったのは、「上流階級・国家の指導者層」の人びとで、外務省関係を除けば、天皇の側近、重臣、大企業経営者、少数の海軍将官、文化人たちであった[44]。グルーが日本について強く印象付けられたことは、第一に、遍く行き渡る天皇に対する敬愛の念の強さであった。彼は1935年5月22日の日記に、「日本人が抱く君主への信仰の力は、外国人が一般的に感知し得る以上に、はるかに強いものだ」と記している。第二に、日本国民が名誉を重んじる民族であるということであった。彼らがまた美と繊細さを重視する文化を創造してきたことにも注目した。しかし、同じ国民に、狂信的愛国主義と残忍さに走る傾向があることにも気付いていた。そのバランスが崩れることを、グルーは危惧したのであった。

 「私は日本と日本人を相当によく知っている。日本人は長い歴史を通じて災難と不安に馴らされて来た強壮な人々で、どの国民よりも『やるか死ぬか』の精神を深くたたき込まれている。」「必要とあらば、米だけで戦争することが出来る」とグルーは日記に書いた(1938年12月5日)。6ヶ月後、「どの点から見ても日米戦争は、まさに愚の骨頂である」とも記した(1939年5月15日付日記)。それから2年も経たないうちに、日米両国は戦争状態に入る。そのような日本は、「過去に私が知っている日本」では、なくなったのである(1940年10月1日付日記)。

 グルーの依拠した日本の情報源は、「穏健派」と称せられる人びとであった。特に西園寺公望牧野伸顕樺山愛輔松平恒雄吉田茂等に深い信頼を寄せていた。その中でも樺山愛輔は、高度の政治判断が求められる情報を、グルーのもとに届けた。グルーの著書『滞日十年』(後述)の中で、樺山は頻繁に登場する。しかし「著名なる日本の自由主義者」「貴重な情報提供者」などと記され、彼の実名は伏せられた。

 「穏健派」の枠を出て、交際を広げるのは―たとえば農民・労働者・一般都市住民など―言葉の制約などの理由で、困難であった。しかし、先に述べ2点については、グルーは自分が正しいと確信していた。彼は「穏健派」が軍部および過激論者の主唱により、日本の拡張を抑制することを望んだ。とはいえ、グルーが「穏健派」を実際以上に美化し、彼らの政治的実力を過大に評価しがちであったことは否定できない[45]

『滞日十年』[編集]

 グルーは1942年8月に帰国し、翌年末までに、250回におよぶ演説を全国を通じて行った。グルーは平行して、日記の刊行準備を始めた。グルーは10年間の大使期間中に、公式書簡や会談の記録、演説や新聞の切り抜き等とは別に、「大判タイプライター用紙にタイプされた13巻」に及ぶ日記をしたためていた。本書(原題:Ten Years in Japan)は、それを元に、「重複するものや、現在発表し得ないもの」および恒久的・歴史的価値を持たないと判断された事項を除いたものである。また「名前が知られると一身上の後累を被るような」危惧がある場合は、格別の配慮を払ったとグルーは「序言」に記している。彼はまた、本書が「滑らかに流れる年代順の読み物」になることを意図して、公的記録や詳細なーしばしば煩雑になるー注釈等は省いたのであった。

 本書は、1944年5月15日、サイモン・シュスター社から刊行された。高い評判をかちえ、『ニューヨーク・タイムズ』紙によれば、6月、7月と続けてベストセラーリストの第2位になった。40近い書評が書かれたが、その多くは好意的であった。しかし本書も、先に刊行された『東京報告』の場合と同様に、国務省あるいは戦時情報局の思惑が入り、戦争目的よび戦後対日政策を世論に訴える」面があったことは否定できない[46]

 本書には、グルーが知るに至った日本の美術や慣行についての言及が数多くある。また公式記録には載らない、アメリカ大使館周辺で起こったこと、ならびにグルーが非公式に行った訪問の結果得られたことがらが、詳しくしたためられている。たとえば、1934年秋、ベーブ・ルースを含むアメリカ大リーグ野球チームが訪日した。グルーは一行を迎えた。「私はゴルフ場で会っただれにでも彼を紹介した。そのたびごとに、ベーブは「お会い出来て嬉しく思います」(”Pleased to know you”)と言ったという。全日本が彼に首ったけになったことは、いうまでもない。ベーブは私が逆立ちしても及ばぬほど効果的な大使である。」(強調—引用者)(1934年11月6日)。

 1937年春、ヘレン・ケラーが来訪した時、グルーは「公的の身分は何も持たず、ただ自らの努力よって完全な盲聾唖というハンディキャップを克服し、一生を盲人のための建設的事業に捧げた婦人があり、その人は彼女の福音と助力を日本にひろげるためにやってきた。このことは、私が滞在5年間に見たいかなることよりも、深く日本人の心に訴えるのである。・・・演壇上には首相、外相、内相、府知事等、この国の最上層の人びとが何人か見受けられた。高官はそれぞれミス・ケラーの業績をたたえた短い演説をした。彼女は謝辞を述べ、美しい日本の香炉を贈られた」と記したのであった(1937年4月17日)。

 同様に、生後間もない飼い犬が皇居の濠に落ち、警官が助けの手を貸さないでいると通りすがりのタクシー運転手と男の子が助け上げたことがあった。昭和天皇ですらそのことを知っていたとグルーは日記に書いた(1934年1月19日)。他に、本書を読み、歌舞伎を見、ゴルフに興じる大使の姿から、アメリカの読者は「平和を愛する」日本人が多くいることを、グルーの記述からうかがい知ったに違いない。

年表[編集]

  • 1880年5月 ボストンに生まれる
  • 1902年6月 ハーバード大学卒業。18カ月の世界旅行に出発
  • 1904年7月 カイロ総領事館書記生
  • 1905年10月 アリス・ペリーと結婚
  • 1911年1月 オーストリア=ハンガリー大使館1等書記官
  • 1920年5月 駐デンマーク公使
  • 1921年10月 駐スイス公使
  • 1922年11月〜1923年7月 ローザンヌ講和会議アメリカ合衆国代表
  • 1924年4月 国務次官
  • 1927年5月 駐トルコ大使
  • 1932年6月 駐日大使
  • 1933年3月 駐日大使留任
  • 1937年4月 ヘレン・ケラー訪日
  • 1937年12月 パネー号事件
  • 1939年10月 日米協会演説
  • 1940年9月 青信号メッセージ
  • 1941年12月〜1942年6月 アメリカ大使館内に抑留
  • 1942年8月 駐米大使野村吉三郎・駐米特命全権大使来栖三郎らとの交換により帰国
  • 1944年5月 国務省極東局長[47]
  • 1944年6月 『滞日十年』、ニューヨークタイムズベストセラーリスト第2位に
  • 1944年12月 国務次官
  • 1944年12月 三人委員会に国務長官代理として出席
  • 1945年8月 国務次官辞任
  • 1948年10月 『滞日十年』日本語訳出版
  • 1952年11月 『動乱期』全2巻出版
  • 1953年8月 グルー基金第一期生渡米
  • 1959年8月 アリス夫人歿
  • 1960年9月 勲一等旭日大綬章を受章(日米修好百年を記念して渡米した皇太子夫妻が勲章を持参した)[48]
  • 1965年5月 マサチューセッツ州マンチェスタ―にて死去

著書[編集]

  • Report from Tokyo (1942)、『東京報告』(細入藤太郎訳、日本橋書店、1945年)
  • Ten Years in Japan (1944)、『滞日十年 (上・下)』(石川欣一訳、毎日新聞社、1948年/改訂版:筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2011年)
  • Turbulent Era: A Diplomatic Record of Forty Years, 1904–1945. Books for Libraries Press, 1952.

参考文献[編集]

  • ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』(近藤晋一・飯田藤次・有賀貞氏訳、新版・岩波現代文庫、2000年)
  • 吉田茂『回想十年 第1巻』(新潮社、1957年/中公文庫、1998年、新版2014年)
  • ウォルド・H・ハインリックス『日米外交とグルー』(麻田貞雄訳、原書房、1969年)
    • 増訂版『グルー大使と日米外交』(グルー基金、2000年)
  • 入江昭『日米戦争』(中央公論社、1978年)
  • 中村政則 『象徴天皇制への道―米国大使グルーとその周辺』(岩波新書、1989年)
  • ヒュー・ボートン『戦後日本の設計者—ボートン回想録』(五百旗頭真監修・五味俊樹訳、朝日新聞社、1998年)
  • 廣部泉『グルー―真の日本の友—』(ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2011年)
  • 太田尚樹『駐日米国大使ジョセフ・グルーの昭和史』(PHP研究所、2013年)
  • 藤田宏郎「ヘンリー・L・スチムソンとポツダム宣言 」(甲南大学『甲南法学』51(3)、2011年、1-37頁)
  • 山下祐志「アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11)—ポツダム宣言の発出—」(『宇部高等教育専門学校研究報告』第41号、1995年、9-108頁)

外部リンク[編集]

公益財団法人グルー・バンクロフト基金

ポツダム宣言(日本語訳文)(英語) - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室

脚注[編集]

  1. ^ 吉田茂『回想十年』第1巻、57頁。太田尚樹は「日本人の美点と欠点をこれほど見事に見抜いていた米国大使はいなかったのではないか。(中略)日本人のアイデンティティに温かい視線でみつめてくれたグルーには感謝あるのみ」と記している(「あとがき」)。
  2. ^ 麻田貞雄は、「グルーは日本の政治状況を「穏健派」対「軍部過激派」という二元的な枠組みのなかでとらえ、日本の政策を “時計の振り子”のように両派の間を定期的に揺れ動くものとしたため、しばしば判断をあやまることになった」と記している。(「解題」、12頁)。
  3. ^ ハインリックスは、「誠意にもとづく折衝によって対立を和解に導くこと―これがグルーの外交観であった。ただひとつ例外は、共産主義諸国と外国を結ぶことに彼はなんら価値を認めなかった。共産主義は外交を不可能にしたというのがロシア革命のときから引退の日まで、グルーが堅持した見解であった」と書いている(351-2頁)。
  4. ^ バックベイはチャールズ川の小湾であったところを、19世紀初頭から干拓・造成され、ヴィクトリア朝様式のブラウンストーン(褐色砂岩)を使った個人住宅や由緒ある公共建築の並ぶ高級住宅地区となった。
  5. ^ 1884年開校、グルー入校当時は男子校であったが、現在は男女共学。
  6. ^ 大学非公認の社交クラブ。
  7. ^ 廣部、2頁。
  8. ^ 同上、6-31頁。
  9. ^ グルー等の尽力にもかかわらず、アメリカ議会上院は同条約の批准を認めなかった。
  10. ^ 廣部、31頁。
  11. ^ ジョン・ジェイコブ・ロジャーズ合衆国連邦下院議員(マサチューセッツ州選出)の提案により、1924年7月成立。外交職(派遣国の意思を表明し、接受国と交渉にあたる、接受国についての情報を収集し報告する機能を持つ)と領事職(自国民・自国企業等への行政事務・手続き、相手国国民へのサービス[ビザの発給・文化交流など]に関わる)の統合、新規採用における競争的試験の実施、能力による昇進、65歳定年の実施などを定めた。 http://www.afsa.org/beginning-rogers-act-1924 (アクセス2017/2/11)
  12. ^ 廣部、52頁。
  13. ^ 同上。
  14. ^ 1928年8月27日パリで採択・署名された。条約を提唱したフランス外相およびアメリカ合衆国国務長官にちなんでケロッグ=ブリアン条約とも呼ばれる。いかなる国際紛争も平和的手段のみで解決をはかることが規定された。戦争の違法化を推進した点で重要な意味を持つ。
  15. ^ 日本国内からはこの報告書に対し大いなる不満が噴出した。そのことについてグルーは次のように記した―「リットン報告書に対する反応は、かねて期待されていた通りで、観察に対する一般的非難と独善的義憤の爆裂とですが、観察を否定しようとする真剣な試みはなされず、単に真正面からそれが正確でないというだけです。かかる公衆的空騒ぎは、正気な、そして穏健な考え方をする人たちには見受けられません」(1932年10月8日付スティムソン宛書簡)。グルーの「日記」・公的書簡・覚書等からの引用は『滞日十年』によった。同書に含まれていないものは、参考文献からの孫引きによる。
  16. ^ 廣部、74頁。
  17. ^ 外務省情報部長天羽英二の「日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であり、列強による中国援助は、日中の特殊関係を考慮すれば『主義としてこれに反対せざるを得ない』とする談話。満州事変以来日本の大陸政策を警戒していた欧米諸国からは、日本が「東亜モンロー主義」を宣言したと解釈され、強い反発と警戒を生むこととなった。
  18. ^ 廣部、85頁。
  19. ^ 日本はこれ以後いわゆる「無条約時代」に入る。日本は、1934年、ワシントン海軍軍縮条約(1921〜22年開催、建艦制限[保有比率])を破棄、1936年のロンドン海軍軍縮条約(1930年補助艦保有量の制限を定めた)の失効に伴い、日本は「巨大」戦艦の建造に向かった。
  20. ^ 共産主義の脅威からの共同防衛を約したもの。1937年、イタリアが参加し三国防共協定となった。
  21. ^ 1937年7月7日夜、中国・北京郊外の盧溝橋付近で、演習中の日本軍一中隊に対して射撃がなされたことを契機に、日本軍と中国国民革命軍との衝突に発展した事件。日中戦争の発端となった。
  22. ^ ハインリックス、131、134頁。
  23. ^ グルーは日記に次のように記した。「我が国は分岐点に差し掛かっている。平和愛好国には逆説的見えるかもしれないが、平和でなく戦争の可能性のある道を選んでいるように思える。我々の基本的かつ根本的考えは、極東の混乱に巻き込まれるのを避けることである。[それなのに]我々は直接巻き込まれるかもしれない道を選んでしまった。(廣部、105頁に引用。)
  24. ^ 日本政府の正式回答文書は、アメリカ政府の要求を全面的に受け入れ、完全で十分なる賠償の支払いを実行すること、今後日本軍が中国におけるアメリカ国民の生命財産を攻撃しないこと、日本の軍または官憲が不法な干渉を加えないと保障すること、パナイ号撃沈関係者にたいし必要なる処分を実施したことが述べられていた。アメリカ当局のいう故意爆撃に対しては、あくまでも誤認爆撃であると主張した。翌1938年4月22日に、日本政府は221万4007ドル36セントを支払った。
  25. ^ 廣部、112頁。
  26. ^ ハインリックス、213-18頁。
  27. ^ 同上、236頁。
  28. ^ 同上、248頁。
  29. ^ 同上、305頁。
  30. ^ 廣部、191頁。
  31. ^ 同上、224頁。グルーの演説活動が、国務省戦時情報局の対日心理・宣伝戦の政策の枠内にあったことは十分にうかがわれる。中村政則は、『東京報告』に収められている演説は全てグルーが書いたものではなく、約6割は代筆されたものであると、指摘している(21-24頁)。
  32. ^ 同上、229頁。
  33. ^ 議長はジョージ・H・ブレイクスリー(George H. Blakeslee)、メンバーとしてヒュー・ボートン(Hugh Borton)、ユージーン・H・ドゥーマン(Eugene H. Dooman)、アール・R・ディックオーバー(Erle R. Dickover)等が連なっていた。 いずれも外交官として豊富な滞日経験を有するか、日本の歴史・文化について精通する研究者であった。
  34. ^ ボートンは1926−28年日本においてアメリカ・フレンズ奉仕団の作業に従事、1935-36年「徳川時代の農民一揆」の研究のため東京帝国大学に在籍、オランダ・ライデン大学で博士号取得。国務省に招かれる前はコロンビア大学日本史助教授であった。戦後、コロンビア大学東アジア研究所長を経て、ハヴァフォード大学学長を務めた(1957-1967年)。
  35. ^ 廣部、244-5頁。
  36. ^ その第12項において、「われわれの諸目的が達成せられ、かつ日本国民を代表する平和的傾向を有し、責任ある政府が確実に樹立されたときは、連合国の占領軍は、ただちに日本国より撤収されるものとする。このような政府は・・・現皇室の下における立憲君主制を含みうるものとする」というものだった。(中村、138頁)
  37. ^ 公式議事録によれば、1945年5月1日の委員会において「日本における天皇の立場から生じる問題や、軍事作戦に対する新兵器の想定される効果」が検討されたとある。この記述が真実ならば、グルーはこの日はじめて原子爆弾について知ったことになる。5月8日、原爆に関する暫定委員会が組織されたが、グルーはその一員にはならなかった。(廣部、252頁)
  38. ^ 「現皇室の下における立憲君主制を含みうる」という文言はなくなっていた。
  39. ^ 廣部、283頁。
  40. ^ 同上、303頁。
  41. ^ 同上、306〜7頁。
  42. ^ 同上、316頁。
  43. ^ ケナン、144頁。
  44. ^ 太田、57頁。
  45. ^ 中村、99頁。
  46. ^ 同上、70頁。
  47. ^ United States Department of State (1961) (英語). Foreign relations of the United States diplomatic papers, The Conferences at Cairo and Tehran, 1943. pp. p.XXXII. http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1943CairoTehran.p0036&id=FRUS.FRUS1943CairoTehran. 
  48. ^ 読売新聞社編『昭和史の天皇 3 本土決戦とポツダム宣言』中公文庫 p.345 (2012年)
公職
先代:
スタンリー・クール・ホーンベック
アメリカ合衆国国務省極東局長
1944年5月 - 12月
次代:
ジョセフ・ウィリアム・バランタイン
先代:
エドワード・ステティニアス
アメリカ合衆国国務次官
1944年12月20日 - 1945年8月15日
次代:
ディーン・アチソン