ジミー・カーター

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ジミー・カーター
Jimmy Carter ノーベル賞受賞者
JimmyCarterPortrait.jpg

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第39代大統領
任期 1977年1月20日1981年1月20日
副大統領 ウォルター・モンデール

出生 (1924-10-01) 1924年10月1日(92歳)
アメリカ合衆国の旗 ジョージア州プレーンズ
政党 民主党
配偶者 エレノア・ロザリン・スミス
署名 Jimmy Carter signature.gif
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2002年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した

ジェームス・アール・"ジミー"・カーター・ジュニアJames Earl "Jimmy" Carter, Jr., 1924年10月1日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。ジョージア州上院議員ジョージア州知事、第39代アメリカ合衆国大統領を歴任。2002年ノーベル平和賞受賞。身長175cm。バプテスト派キリスト教信者。

牧師でもあり、長らく南部バプテスト連盟系列の教会の信徒だったが、南部バプテストが神学的・政治的に保守化を強めたことから2000年には脱退し、その後進歩派の「新バプテスト連盟」(New Baptist Covenant、新バプテスト契約)の創始者のひとりになっている。

経歴[編集]

カーターは、ジョージア州プレーンズの町で生まれた(初の病院生まれの大統領である)。アーチェリーの近くで成長した。ジョージアサウスウェスタン大学およびジョージア工科大学学士の学士号を取得。

第二次世界大戦終結後の1946年海軍兵学校に入校。同年ロザリン・スミスと結婚。カーターは大西洋および太平洋の艦隊で潜水艦に勤務し、その後ハイマン・G・リッコーヴァー提督によってアメリカ海軍原子力潜水艦の開発推進プログラムの担当者に選ばれた。1952年12月12日、カナダのチョーク・リバー研究所の試験原子炉NRXで原子炉が暴走、燃料棒が溶融する原子力事故が発生した。カーターはアメリカ海軍の技術者として事故処理にあたり、被曝もしている。1953年、父親の死に伴い大尉として海軍を退役。当初は低所得者向け公営住宅に暮らすが、妻と共に公共図書館で自学してピーナッツ栽培に取り組み、成功を収める。

政治経歴[編集]

地方政治[編集]

教育委員を始めとする地域の評議員を経験したカーターは、1961年にジョージア州上院議員に立候補。当初は落選とされたが、選挙不正を提訴して認められ当選となる。再選の後、1966年の州知事選民主党予備選に立候補。3位に終わったが、上位候補がリベラル保守の両極である中で、カーターの穏健的な立場が注目され頭角を現した。1970年の州知事選で当選。1971年から1975年までジョージア州知事を務めた。州知事としては人種差別撤廃、行政改革、校区の貧富の差による教育格差の是正などに取り組む。

1976年の大統領選挙[編集]

フォード大統領と討論するカーター

1976年の大統領選挙に民主党候補として出馬。当初は「ジミーって誰のこと」と揶揄されるほど知名度が低かったが、ウォーターゲート事件により疲弊した政治の刷新を求めるアメリカ国民にクリーンなイメージをアピール。選挙戦では世論調査会社を活用し、各州が抱える問題の情報を収集、それに対応するメディア戦略をとった。その結果、現職のジェラルド・R・フォード大統領を破り、一般投票の50.1%を獲得し勝利した。ただし、投票率は戦後最低であった。

大統領職[編集]

キャンプデービッドでメナヘム・ベギンアンワル・アッ=サーダートとともに
SALTIIに調印するカーターとソ連のレオニード・ブレジネフ書記長

就任式のあと、議事堂からホワイトハウスまで歩いて就任パレードを行った初の大統領である。このパレードが非常に好評であったため、その後多くの大統領がこれに倣っている。

世論調査のデータを盲信する傾向があり、ホワイトハウスに専属の調査員を常駐させるなど力を入れた。しかし、集計ミスの結果(「国民はアメリカの将来を悲観視している」というデータ)を真に受けて緊急テレビ会見を行い、支持率を急落させたこともあった。

内外政策の度重なる失敗、特にイランアメリカ大使館人質事件への対応の拙さにより国民の支持を失い、1980年の大統領選挙で共和党候補で元カリフォルニア州知事ロナルド・レーガンに選挙人投票で10倍近い差を、一般投票でも10パーセント近い差をつけられ敗北。1期で政権の座を去った。

なお、アメリカ大使館人質事件では、カーターがホワイトハウスを去ったその日に人質が解放されたことから、海外のマスコミを中心に「選挙後まで人質を拘束させ続けるためにレーガン陣営が秘密の取り引きを結んだ」という報道が見られた。

国内政策[編集]

就任後に施行したいくつかの経済政策の失敗と、1979年イラン革命に前後した石油危機などから、カーター政権中は高インフレと不況が国内を覆うことになった。任期中に外交において様々な問題が降りかかったこともあり、これらの国内問題を解決することはできなかった。1979年3月28日には、スリーマイル島原子力発電所事故もおこっている。なお、エネルギーの生産と調整に関与する内閣レベルの組織であるエネルギー省の設立(1977年)と、教育行政を管掌する教育省の設立(1979年)を行った。エネルギー省の設立は在任前後に起きたオイルショックを受けてのことである。なお、かつて教育行政は保健教育福祉省(現・保健福祉省)によって行われていた。

カーター時代の経済政策で後に影響を与えたものの一つに、1978年10月に成立した航空規制緩和法英語版(Airline Deregulation Act)が挙げられる。この規制緩和によって路線の参入規制や運賃設定の規制が撤廃された結果、サウスウエスト航空などの格安航空会社が台頭する一方、パンアメリカン航空イースタン航空など従来の大手航空会社の経営が悪化して倒産し、激しい競争から生き残るために航空会社同士の合併が進んだ結果、2013年にはアメリカン航空ユナイテッド航空デルタ航空とサウスウエスト航空でアメリカ国内の航空市場シェア87%を占める寡占状態となった[1]。また、投資コスト抑制のための機材の老朽化や経験不足のパイロットが増えたことなどから、大事故が何件も発生することになったという指摘もある[2]

外交政策[編集]

人権外交[編集]

冷戦のさなか「人権外交」を標榜し、中東において長年対立していたエジプトイスラエルの間の和平協定「キャンプデービッド合意」を締結させるなど、中東における平和外交を推進した。なお1977年3月16日マサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした(しかしながら、この発言が在米ユダヤ人の反感を買い、先に述べた1980年の大統領選挙の敗北の一因となった)。

他にも、ニクソン政権時代から推進されてきたデタント路線を、SALT IIの締結などでさらに推し進めた。またパナマ運河パナマへの返還などを実現させた。

弱腰外交[編集]

しかし、CIAの規模削減による情報収集能力の低下や、急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっかけになり、イラン革命やその後のイランアメリカ大使館人質事件及び人質救出作戦「イーグルクロー作戦」の失敗、アフガニスタン紛争を許したことなどから、共和党などから「弱腰外交の推進者」と叩かれることになった。

イランにおけるアメリカ人の人質が解放されたのは、事件から実に444日後の1981年1月20日であり、皮肉にもこの日はカーターが後継のレーガンに政権を譲り、ホワイトハウスから去った日でもあった。

対中韓政策[編集]

中華人民共和国政策では、前々任者のリチャード・ニクソン大統領の中国への接近政策を受け継ぎ、反対が強かった中華民国との断交を決断。共産主義国家である中国を訪問し、1979年1月1日に国交を樹立した。同月に鄧小平が訪米し、カーターと会談している。

大韓民国に対しては、選挙公約で在韓米軍の撤退を掲げていた[3]。また、韓国政府が極秘裏に核兵器開発計画を進めていたこともあって批判的な姿勢を取り、朴正煕率いる軍事政権との関係は険悪だったとされる[4](このような背景から、朴正煕暗殺事件アメリカ中央情報局(CIA)が関与したとの意見が存在するが、真相は不明である)。

政権[編集]

職名 氏名 任期
大統領 ジミー・カーター 1977 - 1981
副大統領 ウォルター・F・モンデール 1977 - 1981
国務長官 サイラス・ヴァンス 1977 - 1980
  エドマンド・マスキー 1980 - 1981
財務長官 マイケル・ブルーメンソール 1977 - 1979
  ウィリアム・ミラー 1979 - 1981
国防長官 ハロルド・ブラウン 1977 - 1981
司法長官 グリフィン・ベル 1977 - 1979
  ベンジャミン・R・シヴィレッティ 1979 - 1981
内務長官 セシル・D・アンドルス 1977 - 1981
商務長官 ジュアニータ・M・クレップス 1977 - 1979
  フィリップ・M・クルズニック 1979 - 1981
労働長官 レイ・マーシャル 1977 - 1981
農務長官 ロバート・セルマー・バーグランド 1977 - 1981
保健教育福祉長官 ジョセフ・アンソニー・カリファノ 1977 - 1979
保健福祉長官 パトリシア・ロバーツ・ハリス 1979 - 1981
教育長官 シャーリー・マウント・ハフステッドラー 1979 - 1981
住宅都市開発長官 パトリシア・ロバーツ・ハリス 1977 - 1979
  モーリス・エドウィン・ランドリュー 1979 - 1981
運輸長官 ブロック・アダムズ 1977 - 1979
  ニール・E・ゴールドシュミット 1979 - 1981
エネルギー長官 ジェームズ・R・シュレシンジャー 1977 - 1979
  チャールズ・W・ダンカン 1979 - 1981

大統領退任後[編集]

積極的な外交活動[編集]

歴代大統領とともに(右端がカーター)

大統領任期中は、「人権外交」を標榜しながら大した成果を上げられず、またイラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻を許したが、大統領職を退いてからは1981年にカーターセンターを設立し、積極的な外交活動で知られている。

これらの功績により、「数十年間にわたり、国際紛争の平和的解決への努力を続け、民主主義と人権を拡大させたとともに、経済・社会開発にも尽力した」ことを評価され、2002年にノーベル平和賞を受賞した。反面、「史上最強の元大統領」、「最初から『元大統領』ならよかったのに」と、賞賛と半ば皮肉をこめて国内外のマスコミに呼ばれた。

イスラエル批判の本を出版[編集]

2006年11月、"Palestine peace not apartheid"(日本語版:『カーター、パレスチナを語る―アパルトヘイトではなく平和を』)を出版した。ユダヤ・ロビーといわれる圧力団体が大きな力をもって存在し、政治、経済などを主としてあらゆる分野の主要ポストに多数ユダヤ系が見られたり、アメリカの全人口のたった2%にすぎないが、イスラエル在住のユダヤ人を少し上回る数のユダヤ人が居住するアメリカにおいて、政治家によるイスラエル批判というのはタブーに等しく、発売後かなりの大反響を巻き起こし、ベストセラーとなった。カーターはその大統領就任の経緯からしても、他の歴代大統領たちと比較してイスラエルやユダヤ人社会に過剰に配慮しなくてはならない理由はなかったが、ユダヤ人の多くは民主党の支持者であり、さすがに任期中は公然とパレスチナの味方をすることはとてもできず、この出版で真実を吐露することとなった。この本においてカーターは「ハマースなどパレスチナ側にも非があるが、問題発生から60年、ここまで問題をこじらせたのはイスラエルである」と言い切る。イスラエル建国60周年にあたる2008年に日本でも出版された。

慈善活動[編集]

貧困層への住宅建設とコミュニティ設立を中心に活動しているNGO「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」の活動を支援しており、同NGOが行っているボランティア活動に同行したり、テレビCMに出演している[8]

USSジミー・カーター[編集]

潜水艦の乗組員として勤務した経験のあるただ1人の大統領として、海軍は潜水艦にカーターの名を命名した。ジミー・カーター (USS Jimmy Carter, SSN-23) は、命名時にまだ生存している人名を付けられた少数のアメリカ海軍艦船のうちの一隻として、1998年4月27日に命名された。

癌の公表[編集]

  • 2015年8月12日、肝臓癌で転移していることを発表した。以後はジョージア州の病院で治療を受けるという[9]
  • 2015年8月21日、カーター自らが記者会見を行い、脳に癌が転移していることを発表した。以後は定期的に放射線治療を受けるという。

自伝[編集]

トピック[編集]

  • カーターは連邦議会議員の経験はなく、大統領就任前はジョージア州知事、ジョージア州議会上院議員をそれぞれ1期ずつ務めたのみで、大統領選出馬時も当初は全米的な知名度が皆無に等しかった。大統領選出馬を決断し、実母に報告した際は、彼の母親ですら「どこの会長(プレジデント)に立候補するって?」と訝ったという[10]
  • 1977年、大統領だったカーターはジョン・F・ケネディ暗殺事件の再調査を命じ、下院に「暗殺問題調査特別委員会英語版」を設置した。しかし、疑義の多いウォーレン委員会の結論を覆せるだけの証拠を発見できず、リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行説を否定する結論は出されたものの、何者かによる陰謀の存在を立証するには至らなかった。なお、暗殺問題調査特別委員会の調査資料の核心部分は2029年の公開まで封印される。
  • 1979年4月に故郷ジョージア州で釣りをしていた際、乗っていたボートにウサギが近づいてきたため追い払うという出来事が発生し、マスコミ等によって格好のネタにされた(ジミー・カーターウサギ事件)。
  • 1979年6月に来日。この時に夫人と共に六本木焼き鳥店や狛江市内の蕎麦屋へ来店している。表面上は「ふらりと」、「お忍びで」訪れているように報道されたが、実際には大使館側の予約であること、その場に居た客も「仕込み」のサクラであることが判っている。同様の演出はその後の大統領来日の際にも行われている。
  • カーターは1990年梵鐘が縁で広島県甲奴郡甲奴町(現三次市)に訪問。1994年には同町にジミー・カーター・シビックセンターが落成、カーターも再訪した[11]。また同町内の球場はカーター記念球場と命名されている。
  • 2007年2月11日に授賞式が行われた「第49回グラミー賞」で、オーディオブック「Our Endangered Values:America's Moral Crisis」が最優秀朗読アルバム賞を受賞した。
  • 自伝に“Why not the best?”(なぜベストをつくさないのか)がある。これは海軍で原子力潜水艦開発計画に従事していたとき、上司のハイマン・G・リッコーヴァー提督に突きつけられた言葉から来ている。
  • 大統領職を退いてからは、生まれ故郷のジョージア州プレーンズで暮らしている。プレーンズの町はピーナッツの名産地であり、自身もピーナッツ栽培農家であったカーターは、毎年秋に開かれるピーナッツフェスティバルに参加しており、町の名士として活動している[12]。なお、同町出身で妻でもあるロザリンの実家もピーナッツ栽培を家業としていた。
  • 2012年ハーバート・フーヴァーの31年7カ月の記録を更新し、退任後最長寿の元大統領となった。また、民主党選出の歴代大統領経験者では最高齢である。なお、共和党選出の大統領を含めた場合は、フォード(死去時93歳165日)、レーガン(同93歳120日)、ジョージ・H・W・ブッシュ(存命、92歳でカーターより111日年長)に次ぐ4番目に高齢の大統領経験者となる。
  • ホワイトハウスの流儀に馴染めず、来客の朝食もパン食だけということが多く、人気がなかった。

脚注[編集]

  1. ^ New American Airlines Means 'Big 4' Control US Skies(CNBC 2013年2月14日)
  2. ^ 予防時報別冊 防災温故知新「米国の航空規制緩和と安全」(日本損害保険協会)
  3. ^ <トランプ流安保どこへ>カーター政権と類似 「思いやり予算」の背景 沖縄タイムズ、2016年11月14日
  4. ^ 金桂元が後年、雑誌のインタビューで発言
  5. ^ “北朝鮮、自衛のため米国に対する核先制攻撃権を行使する=KCNA” (日本語). Reuters. (2013年3月7日). http://jp.reuters.com/article/JPNKorea/idJPTYE92604U20130307 2013年3月7日閲覧。 
  6. ^ “カーター元米大統領:男性連れ平壌出発 金総書記と会談せず” (日本語). 毎日新聞. (2010年8月27日). http://mainichi.jp/select/world/news/20100827dde007030019000c.html 2010年8月27日閲覧。 
  7. ^ http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/110114/mds1101140053000-n1.htm
  8. ^ ハビタット・フォー・ヒューマニティ
  9. ^ カーター元米大統領、がんの転移を公表 肝臓手術後に発覚 - CNN JAPAN(2015年8月13日閲覧)
  10. ^ 村田晃嗣『レーガン』(中公新書)143頁。
  11. ^ カーター元大統領 2002ノーベル平和賞 受賞 甲奴町からお祝いメッセージ三次市ジミー・カーターシビックセンターHP
  12. ^ 週刊myfood クローズアップインタビュー 第十七回:ジョージア州ピーナッツ生産地視察ツアー報告!myfood.jp 2010/10/28

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
レスター・マッドクス
ジョージア州知事
1971年 - 1975年
次代:
ジョージ・バスビー
先代:
ジェラルド・R・フォード
アメリカ合衆国大統領
1977年 - 1981年
次代:
ロナルド・レーガン