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ハイマン・G・リッコーヴァー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハイマン・G・リッコーヴァー
Hyman George Rickover
1955年撮影
渾名 原子力海軍の父
生誕 1900年1月27日
ロシア帝国ポーランド マクフ・マゾビエツキ
死没 (1986-07-08) 1986年7月8日(86歳没)
バージニア州 アーリントン
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
軍歴 1918 -1982
最終階級 海軍大将
指揮 海軍原子力推進機関部長
AM-9 フィンチ艇長
戦闘 第二次世界大戦
冷戦
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ハイマン・ジョージ・リッコーヴァー(Hyman George Rickover、1900年1月27日 - 1986年7月8日)は、アメリカ合衆国海軍軍人。最終階級は海軍大将

原子力潜水艦の開発・配備を推進し、「原子力海軍の父(Father of the Nuclear Navy)」と称された。1918年から1982年まで計63年にわたる現役勤務年数は、米海軍、ひいては米軍(陸軍・海軍・空軍海兵隊沿岸警備隊)全体で史上最長記録である[1][2][3]議会名誉黄金勲章を2度授与され(1958年、1982年)、大統領自由勲章を授与された(1980年)。

経歴

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若年期

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ロシア帝国統治下ポーランドのウォムジャ県マクフ・マゾビエツキの正統派ユダヤ人家庭の出身。父はアブラハム(英語ではエイブラハム)、母はラケル(英語ではレイチェル)。

激化するユダヤ人迫害(ポグロム)から逃れるため、リッコーヴァー家は1906年に米国に移住した。なお、マクフ・マゾビエツキに残留したユダヤ人の多くがポグロムや後のホロコーストの犠牲になっている。

一家は最初マンハッタンのイーストサイドに居を定め、2年後シカゴのユダヤ人街ローンデールに居を移した。そこで、エイブラハムは仕立て屋として仕事を得た。 リッコーヴァー少年の初めての仕事は9歳のときで、時給3セントで隣人が機械を操作する間ライトを持っておくというものだった。

その後、食品配達の仕事をしつつ、14歳でグラマー・スクールを卒業した。

シカゴのジョン・マーシャル・ハイ・スクールに在学中はウエスタン・ユニオン社のフルタイムの電報配達夫として仕事をこなした。この頃、アドルフ・J・サバス下院議員の知遇を得た。サバス議員はマッコーヴァーと同じ東欧(チェコ)出身のユダヤ人であった。

1918年に同校を優等で卒業すると、サバスの推薦[4]海軍兵学校を受験し、見事合格した。

戦間期・第二次世界大戦期

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1922年6月2日、海軍兵学校を卒業(507人中107番)し、少尉に任官。1922年9月5日、駆逐艦「ラ・ヴァレット」乗組。1923年6月21日、戦隊内で初の機関科士官(Engineer Officer)となる。

海軍大学院に1年間在学した後、コロンビア大学大学院に派遣され、電気工学を専攻。1930年、コロンビア大学より電気工学のM.Sc.を取得し、戦艦「ネバダ」乗組。

1933年ペンシルベニア州フィラデルフィアの海軍資材部検査官事務所勤務中に、ヘルマン・バウアー独海軍大将の著した"Des Unterseeboot" を英訳した。同書は現代においても米海軍において潜水艦についての基本的な教科書になっている。

1937年6月、掃海艇「USSフィンチ(AM-9)」乗組。

同年7月1日、海軍少佐昇進。フィリピンのカビテ海軍工廠に配属された直後、1939年8月15日にワシントンD.C.の海軍技術局(Bureau of Engineering)の電気部門の次長となる。1942年4月10日に米国が第二次世界大戦に参戦すると、真珠湾に転勤となった。

戦争末期には電気部門での研究により、1954年1月11日の『タイム』誌の表紙を飾っている。

「原子力海軍の父」として

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1946年に、潜水艦の動力に核分裂エネルギーを利用する計画が立ち上がった。同年、海軍艦船局長に就任した戦時の上司、アール・ミルズ提督の推薦もあってマンハッタン計画の中心地のひとつであったオークリッジ勤務となった。

マンハッタン計画において知り合ったロス・ガンフィリップ・アベルソンら物理学者と交友を進めるにつれて、彼は艦艇の推進動力としての原子力の利点を確信するようになり、海軍艦船局に新設された核動力部の部長に就任すると、オークリッジ国立研究所の責任者アルビン・M・ワインバーグとともに研究開発を進めていった。

1949年2月にはアメリカ原子力委員会原子炉開発部勤務となり、その後海軍反応炉部の責任者として海軍の艦艇用原子炉の開発を統括してミルズに報告した。このことは、後に彼が原子力潜水艦「ノーチラス」の開発を任される大きな理由となった。

リッコーヴァーを原子力潜水艦の開発責任者に据えるかどうかは、ひとえにミルズ提督の決断にかかっていた。マンハッタン計画を指揮したレズリー・グローヴス陸軍中将によれば、ミルズは極めて果断な人物に任せることを望んでおり、リッコーヴァーが「一緒に仕事をするのが難しい人物」として非常に不人気であることを知りつつも、いかなる困難が起ころうとも海軍が信じて任せうる人物はリッコーヴァーを措いて他にないと判断していたという[5]。リッコーヴァーは、原子炉の設計に必要となる物理学的データがまだ不完全である中で高い信頼性を備えた原子炉を全幅28フィート(約8.5メートル)の潜水艦の船体に収めるという難題に取り組み[6]、遂にノーチラスに搭載される原子炉のプロトタイプとなるS1Wを完成させた。「ノーチラス」は1954年に進水・就役した。

その後、1958年に中将、1973年に大将に昇進した。

ユニークな性格(横柄で傲慢)、重度のワーカーホリック、政治的人脈、責任感、原子力機関に対する深い見識といった理由により、米軍全体で最長となる63年(1918年-1982年)の間、現役に留まった。

レーガン政権下で1981年に就任したジョン・リーマン海軍長官は、リッコーヴァーの築いた「カルト」が海軍にとって悪影響であると判断し、彼の排除を試みた。ゼネラル・ダイナミクス絡みの汚職疑惑も追い風となり、1982年をもって強制退役に追い込まれた。

退職直後の1985年、重度の脳卒中となり、ベゼスタ海軍病院で亡くなった。

人物

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  • ユダヤ教正統派から聖公会に改宗したとされる。
  • コロンビア大学在学中に後の妻ルース・D・マスターズと出会う。ルースがフランス留学(ソルボンヌ大学博士課程)から帰った後、1931年に正式に結婚した。ユダヤ人以外と結婚したので、正統派ユダヤ人の両親からは勘当されてしまった。
  • 後に大統領となるジミー・カーターを部下に持ち、1953年にカーターが家業のピーナッツ農園を継ぐために大尉で退役するまで、彼を鍛え上げた。このときの経験を、カーターは自伝『なぜベストをつくさないのか Why not the Best?』に記している。

栄誉

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脚注

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  1. Rickover. Books.google.com 2014年12月12日閲覧。
  2. Admiral Hyman G. Rickover - Biography”. History.navy.mil. 2014年12月12日閲覧。
  3. Hyman George Rickover, Admiral, United States Navy”. Arlingtoncemetery.net. 2014年12月12日閲覧。
  4. ウェストポイントやアナポリスは連邦議会議員の推薦がないと受験できない。
  5. Groves, Leslie R.; Edward Teller (1983). Now it can be told. New York, N.Y: Da Capo Press. p. 388. ISBN 978-0-306-80189-1
  6. Blair, Clay (1954). The Atomic Submarine and Admiral Rickover. p. 134

関連項目

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外部リンク

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