パリ大学

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パリ大学
Université de Paris
ラテン語: Universitas magistrorum et scholarium Parisiensis
モットー Hic et ubique terrarum (ラテン語)
Ici et partout sur la terreフランス語
Here and anywhere on Earth英語
“この場と地上の何処でも”
種別 ギルドないし法人 (ca. 1150-1793), 公立 (1896-1970), 公立 (2018)
設立年 Circa 1150-1793, 1896-1970, 2018-
所在地 フランスの旗 フランス
カルチエ・ラタン及びパリ市内及びパリ近郊
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パリ大学(パリだいがく、仏:Université de Paris)は、かつてフランス共和国パリに存在した公立大学

1970年以降は第1から第13まで単科大学として運営されてきたが、2008年から一部の大学の離脱や統合計画が実現し始め、第4第6が合併しソルボンヌ大学に、第9PSL研究大学に、2019年には第5第7が合併しパリ大学に、2020年には第11パリ=サクレー大学に統合され、新しい体制が整えられた。

これまでに多くのノーベル賞受賞者を輩出し、法学政治学科学物理学神学などの分野で優秀な学者を輩出している。また、芸術教育機関としても名高く、ロンドンニューヨークの大学との交流が盛んである。

概説[編集]

パリ大学の起源は12世紀半ばであり、1970年に第1から第13大学までの独立した大学群に編制された。

1257年、フランスの神学者で聖ルイの宮廷付司祭ロベール・ド・ソルボンが、神学部の貧しい学生用にソルボンヌ学寮 (ないしカレッジCollège de Sorbonne 又は Maison de Sorbonne) を設立して以降、パリ大学は通称「ソルボンヌ (Sorbonne)」または「ラ・ソルボンヌ (La Sorbonne)」と呼ばれるが、大学が必ずしもソルボンの思想に基づいているわけではない。現在の13校の中で第1から第4大学までがソルボンの意思を受け継ぐ伝統的な教育を行っており、そのうち3校(第1、第3と第4大学)はソルボンヌを冠としている。

フランスの高等教育行政区画では、ソルボンヌに本部を置くパリ大学区ないし教育区 (l'académie de Paris) に含まれており、パリ教育区長はイル・ド・フランス圏教育区長を兼任している[1]。ちなみに、分割前のパリ大学学長ないし総学長には、ジャンヌ・ダルクの異端審問にあたった中心のピエール・コーションも就いていた。

教育課程は3段階に構成され、第1課程(3年)と第2課程(2年、医学系は4年)の前半(1~2年)が日本の教養専門課程に該当し、第2課程の後半と第3課程(3年)が大学院に該当する。

第1大学は初期雇用契約導入(2006年)や大統領ニコラ・サルコジの改革方針(2007年)に反対するバリケードストライキが行なわれるなど、21世紀に入っても学生運動が盛ん、且つその拠点とされる大学である。

沿革[編集]

パリ大学は、ボローニャ大学オックスブリッジサラマンカ大学モンペリエ大学トゥールーズ大学などと共に、12〜13世紀に設立されたヨーロッパ最古の部類に入る中世大学の一つで、その起源は1150年 - 1170年までさかのぼる。

  • 1896年、新制パリ大学が発足
  • 1970年、1968年の高等教育基本法(フォール法, fr)によって現在の大学制度が成立した。学部は廃止されて、応用数学、英米文学などの専門的な研究・教育単位であるユニテ(unité、ユニット)に再編され、パリ大学も、1大学区1大学制から、20前後のユニテからなる13の独立した大学に改組された。
    パリ第3大学(新ソルボンヌ、Sorbonne Nouvelle)は、この高等教育基本法に基づいて1970年に新制大学の1つとして設立された大学である。ユニテは1大学に一つのみではなく、複数の大学に重複している。
  • 1984年、高等教育法が制定された。これは1968年法の精神を推し進めると同時に,大学の使命として,研究の振興・雇用政策(職業化),社会的・文化的不平等の緩和を強調している。また,これまで大学とは別の体系をなし、実学を学ぶ高等専門大学(グランゼコール)などをこの法律の適用対象に含めている。
  • 2008年にパリ第9大学(ドフィーヌ)が離脱し、他大学とPSL研究大学(Université PSL)を創設。
  • 2018年1月1日に、パリ第4大学とパリ第6大学が統合し、ソルボンヌ大学(Sorbonne Université)を創設。
  • 2019年にパリ第5とパリ7大学が離脱・統合しパリ大学(Université de Paris)を創設。
  • 2020年1月にパリ第11大学(パリ南)が他大学とパリサクレー大学(Université Paris Saclay)を創設。

パリ大学の構成校[編集]

パリ第1大学(パンテオン・ソルボンヌ)・パリ第2大学(パンテオン・アサス)、パリ5区パンテオン広場からの眺め

構成校[編集]

関係者[編集]

出身者[編集]

旧パリ大学や後進各校の出身者[編集]

各校別の出身者[編集]

パリ第1大学
パリ第2大学
パリ第3大学
パリ第4大学
パリ第5大学
パリ第6大学
パリ第7大学
パリ第8大学
パリ第9大学
パリ第10大学
パリ第11大学
パリ第12大学
パリ第13大学
高等研究実習院
関連学校・廃止校

その他[編集]

  • 中嶋宏WHO第4代事務局長。パリ大学薬理学研究員
  • 舛添要一:政治家、東大助教授、日本のタレント。パリ大学現代国際関係史研究所(fr)客員研究員

パリ大学が舞台となった作品や設定等[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 中世から1793年までの旧制パリ大学 (Ancienne université de Paris) の構成は、リベラル・アーツの Faculté des arts de Paris (avant 1793)、3つの上級学部である Faculté de droit de Paris (avant 1793)Faculté de médecine de Paris (avant 1793)Faculté de théologie catholique de Paris (avant 1793) となる。

    時代を下り、フランス革命期の1793年にこの旧制パリ大学は廃止になる。
    また、同時代にわたりコレージュ学寮カレッジの意)としてコレージュ・ド・ナヴァル (Collège de Navarre) やコレージュ・ド・ソルボンヌ (Collège de Sorbonne) なども存立していたが、同様にフランス革命期に廃止になる。

    皇帝ナポレオン・ボナパルトによるフランス第一帝政期の1808年、パリ大学は新しく5つの学部が割拠独立する形で構成され、1885年まで続いた。

    構成は、Faculté de droit de ParisFaculté des lettres de ParisFaculté de médecine de ParisFaculté des sciences de ParisFaculté de théologie catholique de Paris となる。
    さらに Faculté de théologie protestante de Paris が1877年に新たに設けられたが、これは1905年に廃止になった。

    1896年7月10日、これらは新制パリ大学 (Nouvelle université de Paris) として再度"パリ大学"の名称を冠して統合された。この新制パリ大学は1970年まで続いた。
  2. ^ 校名は、パリ5区パンテオン広場 (Place du Panthéon) 界隈と、パリ6区アサス通り (Rue d'Assas) 界隈に校舎があることから名付けられた。また、旧パリ大学の法学部及び経済学部はパリ第2大学が継承しているとされている (フランス語版 Université Panthéon-Assas 及び Faculté de droit de Paris を参照)。人文学部系統の主たる継承は旧パリ第4大学(パリ・ソルボンヌ)になる。
  3. ^ パリ大学の附属校(ないし学寮カレッジ)はフランス革命期まで現在のリセ・ルイ=ル=グランや、1999年まで存続したコレージュ・サント=バルブ (fr) も含め数十あったが、同キャトル=ナシオン校は哲学者や啓蒙思想家らが育ったジャンセニスム系の学校でジュール・マザランが設立に関わった学校。コレージュ・ド・マザランとも呼称。ナポレオン・ボナパルトにより現在までフランス学士院が校舎を利用。また、他の同校出身者は上記アントワーヌ・ラヴォアジエ(同校からパリ大学へ)やジャン・ル・ロン・ダランベール(同校からパリ大学で文学や法学等学ぶ)などがいる。

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯48度51分 東経2度20分 / 北緯48.85度 東経2.34度 / 48.85; 2.34