小松左京

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小松 左京
(こまつ さきょう)
ペンネーム 小松 左京
(こまつ さきょう)
誕生 小松 実(こまつ みのる)
1931年1月28日
日本の旗 日本大阪府大阪市西区
死没 2011年7月26日(満80歳没)
日本の旗 日本・大阪府箕面市
職業 小説家
SF作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学士京都大学1954年
最終学歴 京都大学文学部卒業
活動期間 1961年 - 2011年
ジャンル SF
評論随筆
主題 生命人類未来
未来学
代表作 復活の日』(1964年)
エスパイ』(1966年)
日本沈没』(1973年)
さよならジュピター』(1982年)
首都消失』(1985年)
など
主な受賞歴 星雲賞(日本長編部門)(1971年・1974年・1983年)
星雲賞(日本短編部門)(1973年・1976年・1978年)
日本推理作家協会賞(1974年)
日本SF大賞(1985年)
星雲賞(特別賞)(2011年)
日本SF大賞(特別功労賞)(2011年)
処女作 「易仙逃里記」(1962年)
配偶者 克美(1958年結婚)
公式サイト 株式会社イオ(小松左京事務所)
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小松 左京(こまつ さきょう、1931年昭和6年)1月28日 - 2011年平成23年)7月26日)は、日本小説家。本名、小松 実(こまつ みのる)。

星新一筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる、日本SF界を代表するSF作家1970年日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問を務めるなど、執筆以外の活動を幅広いジャンルに対して行っていた。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

先祖阿波徳島県)の小松から千葉外房に行った漁師の一族[1]。父親は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した[1][2]。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた[2]。4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った[2]京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた[3]。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという[4]

少年時代は病弱で、スポーツには興味がわかず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた[5]。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された[6]

1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った(戦後は柔道が禁止されたので、ラグビー部に転部した)[7]。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという[8](小松に限らず、日本のSF作家第一世代の多くは、「敗戦体験」が創作の基盤となっている)。

終戦後[編集]

戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた[9]。当時読んだ、ダンテの『神曲』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃をうけ、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる[10]

1948年に中学を卒業し、第三高等学校に入学。あこがれの「旧制高校」時代は、「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが「学制変更」で1年で終わる[11]京都大学文学部を受験して、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。高橋和巳三浦浩(のち、産経新聞に入社し、司馬遼太郎の部下となった人物)と交流を持つ。ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する[12]

日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行なっていたのもこの頃である(『京大作家集団』への入会も、『入会して会を乗っ取れ』という党からの指示によるものだったという)。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり(三高以来の親友が、印鑑を偽造し、小松の知らないままに入党届けを出したという)、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった[注釈 1]。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する[13]

又、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える[14]。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。

ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する[15]

大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族[注釈 2]をモデルにした空想小説(カレル・チャペック『山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった[16]

作家[編集]

三浦浩に知らされて1959年12月に早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会い、ロバート・シェクリイの「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された[17]

翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つ事なく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる[18]

1963年、日本SF作家クラブの創設に参加(1980年-1983年星新一矢野徹に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。

1963年『オール讀物』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。吉田健一扇谷正造に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の直木賞候補となった。1964年、光文社から処女長編『日本アパッチ族』を刊行(小松をだまして共産党に入党させた悪友の兄が光文社に入社していたため)[19]

1963年には、「情報産業論」を発表したばかりの梅棹忠夫と知り合い、意気投合。京都の梅棹家で開かれていた「梅棹サロン」に参加し、林雄二郎川添登加藤秀俊らと知り合う。このメンバーを主体に「万国博を考える会」が結成される。また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設にも参加する[20]

1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが,そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。

1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」に。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した[21]

1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、アーサー・C・クラークジュディス・メリルフレデリック・ポールブライアン・オールディスらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。「太陽の塔」内の展示を、岡本太郎と考え、DNAの巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの国立民族学博物館の元となった[22]

1980年には、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店をスポンサーとした「日本SF大賞」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的なハードSF短編集である堀晃の『太陽風交点』(早川書房、1979年)を強く推して、受賞させた。

1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『さよならジュピター』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本をつとめ、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取ったが、必ずしも好評価にはつながらなかった。

1990年国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也磯崎新と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている[23]

2000年より角川春樹事務所が主宰で小松左京賞が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。

2001年より同人誌『小松左京マガジン』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。

1993年小林隆男によって発見されていた小惑星(6983)が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。

2006年7月からは『小松左京全集完全版』(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』(BookPark)が開始されている。

2007年に日本で開催されたワールドコン Nippon2007にはデイヴィッド・ブリンと共に作家ゲスト・オブ・オナーとして招待された。

2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。

2011年7月26日肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去。80歳没[24][25]。 没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局コールサイン「WA5PS」が指定されていないことが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された[26]

作品の評価[編集]

SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、ポリティカル・フィクションタイムトラベル物、歴史改変小説パラレルワールド物、スラップスティック、アクション物、SFミステリ、ホラーエロティックな作品、寓話的な作品やファンタジーに至るまで幅広い。

あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、中間小説(奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含めサイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言では無い[注釈 3]。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」からわかる。

代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「ゴルディアスの結び目」が1位になった。

初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。山田正紀がこの作品を青春小説として評価している[27]ように、小松作品では純粋で正義感の強い青年たちが主人公をつとめることが多い。これは、同輩ともいうべき星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、人情や情緒への傾斜も同様である。このあたりが小松作品に独特の熱っぽさを与えている。

最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された[28][注釈 4]福田赳夫田中角栄も、この本を読んだという[29]

1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという[30]

この作品は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された[31]

日本沈没』、『復活の日』、『エスパイ』、『首都消失』などが映画化されており、特に1984年公開の『さよならジュピター』は単に原作提供にとどまらず、新たに「株式会社イオ」を設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執り、最新のCGを駆使して特撮場面をとるほどの、力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。2006年には、『日本沈没』が、現代にあわせてリメイクされ、映画として公開された。

ソ連のSF作家イワン・エフレーモフの社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」(巽孝之編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。

ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。筒井康隆は、小松の自選短編集『骨』の解説で、自身との比較において、「自分は、自分の頭の中にある、知識やシチュエーションを組み合わせて、小説を考えていく。だが、小松左京は、まず『こういうテーマの小説を書く』と決め、それに沿って彼の頭をワッサワッサと揺り動かすと、膨大な関連する知識が落ちてきて、それをまとめあげていく」と、小松の創作法を評した。

その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。

広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫唐沢俊一らは「荒俣宏立花隆宮崎駿を足して3で割らない」と評している。

一方、文壇からの正当な評価、評論は特になく、『小松左京自伝』においては、「開高健北杜夫ぐらいにしか、自分の文学を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「現在でも、社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。また同書には、「一貫して、宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があり、他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識が書かれている。この小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ開高健高橋和巳であったとも書かれている。

人物[編集]

生まれ育った関西に愛着を持ち、関西を盛り上げるためのさまざまな活動を行った。1977年から1982年には大阪フィルハーモニー交響楽団のイベント「大フィルまつり」の企画・構成を担当。1978年には、「関西で歌舞伎を育てる会」(現、関西・歌舞伎を愛する会)の代表世話人になり、20年以上つとめた[32]。また、かんべむさし堀晃などの関西出身の後輩SF作家たちにも、目をかけた。また、『大阪タイムマシン紀行』 『わたしの大阪』 『こちら関西』 『こちら関西・戦後編』など、関西をテーマにした著書も多数ある。

また、関西の官僚や財界人たちともブレイン役として交際し、「湾岸道路の建設」「関西新空港の整備(現:関西国際空港)」「研究学園都市の創設(現:けいはんな学研都市)」などを提案した[33]。また、彼らとの交流で、祇園などの色街を体験し、「芸道小説」シリーズなどに結実している[34]。ユーモラスな一面もあり、『SF作家オモロ大放談』では、自分の精液をフライパンで焼いて食べたことがあると語っている。1970年頃はよく太っていて、ラジオなどでも自称メガネ豚と言っていた。

1995年1月に発生し、小松自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎた事と、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を上げないまま中止された。

小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復[35]。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。

相当のヘビースモーカーで、健康時には1日3箱のタバコを吸っていた[36]

受賞歴[編集]

  • 1971年 - 『継ぐのは誰か?』により第2回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1973年 - 『結晶星団』により第4回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1974年 - 『日本沈没』により第27回日本推理作家協会賞・第5回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1976年 - 『ヴォミーサ』により第7回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1978年 - 『ゴルディアスの結び目』により第9回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1983年 - 『さよならジュピター』により第14回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1985年 - 『首都消失』により第6回日本SF大賞受賞。
  • 2007年 - 城西国際大学より、名誉博士号授与。
  • 2011年 - 第42回星雲賞特別賞受賞。この回の星雲賞は異例の受賞者事前発表であったが(例年は日本SF大会の会場で発表)これについては特別にSF大会のクロージングでの発表となった。なお、同大会の暗黒星雲賞「ゲスト部門」でも次点となる票を得ている。
  • 2011年 - 第32回日本SF大賞特別功労賞受賞。

作品リスト[編集]

  • 小松左京コレクション 全5巻 ジャストシステム、1995年 - 1996年
  • 小松左京全集 全56巻 城西国際大学出版会、2006年 -

小説[編集]

  • 地には平和を 早川書房、1963年 のち角川文庫
  • 復活の日 早川書房、1964年 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
    • 復活の日 人類滅亡の危機との闘い ポプラ社、2009年(新井リュウジによるジュニア向けリライト版)
  • 影が重なる時 早川書房、1964年
  • 日本アパッチ族 光文社、1964年 のち角川文庫、光文社文庫
  • 日本売ります 早川書房、1965年 のちハルキ文庫
  • 明日泥俸 講談社、1965年 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • エスパイ 早川書房、1966年 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
  • 果しなき流れの果に 早川書房、1966年 のち文庫、角川文庫、徳間文庫、ハルキ文庫 ISBN 4150300011
  • ある生き物の記録 ショート・ショート集 早川書房 1966年 のち文庫、集英社文庫
  • ゴエモンのニッポン日記 講談社 1966年 のち文庫、ハルキ文庫
  • 神への長い道 早川書房 1967年 のち文庫、角川文庫、徳間文庫
  • 生きている穴 早川書房 1967年
  • 飢えた宇宙 早川書房 1968年 (ハヤカワ・SF・シリーズ)
  • 模型の時代 徳間書店 1968年 のち角川文庫
  • 空中都市008 アオゾラ市のものがたり 講談社、1969年 のち角川文庫、講談社青い鳥文庫(NHK人形劇の原作)
  • 見知らぬ明日 文藝春秋 1969年 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 宇宙漂流 毎日新聞社 1970年 のち角川文庫、ポプラ文庫[注釈 5]
  • 闇の中の子供 新潮社 1970年 のち文庫
  • 星殺し 早川書房 1970年 (ハヤカワ・SF・シリーズ)
  • 三本腕の男 立風書房 1970年 のち角川文庫
  • 青ひげと鬼 徳間書店 1971年 のち角川文庫
  • 最後の隠密 立風書房 1971年 のち角川文庫
  • 地球になった男 新潮文庫 1971年
  • 青い宇宙の冒険 筑摩書房 1972年 (ちくま少年文学館) のち角川文庫
  • おちていたうちゅうせん フレーベル館 1972年 (こどもSF文庫) 「宇宙人のしゅくだい」講談社文庫
  • 見えないものの影 鶴書房盛光社 1972年 のち角川文庫
  • 明日の明日の夢の果て 角川書店 1972年 のち文庫
  • 牙の時代 早川書房 1972年 のち角川文庫
  • 待つ女 新潮社 1972年 「短小浦島」角川文庫、「湖畔の女」徳間文庫
  • 継ぐのは誰か? 早川書房 1972年 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
  • 怨霊の国 角川書店 1972年 のち文庫
  • ウインク 角川文庫 1972年
  • 結晶星団 早川書房 1973年 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
  • アダムの裔 新潮文庫 1973年
  • 御先祖様万歳 早川文庫 1973年 のち角川文庫
  • 時の顔 早川文庫 1973年 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 日本沈没 光文社カッパ・ノベルス、1973年 のち文春文庫、徳間文庫、光文社文庫、双葉文庫、小学館文庫
  • 春の軍隊 新潮社 1974年 のち文庫
  • 夜が明けたら 実業之日本社 1974年 のち文春文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫
  • 本邦東西朝縁起覚書 早川文庫 1974年 のち徳間文庫
  • 鏡の中の世界 早川文庫 1974年 のち角川文庫
  • さらば幽霊 自選短編集 講談社文庫、1974年
  • 戦争はなかった 新潮文庫、1974年 「召集令状」角川文庫
  • 蟻の園 ハヤカワ文庫、1974年 のち角川文庫
  • 無口な女 新潮社 1975年 「流れる女」文春文庫、「ハイネックの女」徳間文庫、「くだんのはは」ハルキ文庫
  • 時間エージェント 新潮文庫 1975年
  • 虚空の足音 文藝春秋 1976年 のち文庫
  • 男を探せ 新潮社 1976年 「おれの死体を探せ」徳間文庫、原題ハルキ文庫
  • 夢からの脱走 新潮文庫 1976年
  • 空飛ぶ窓 文春文庫 1976年
  • 飢えなかった男 徳間書店 1977年 のち文庫
  • こちらニッポン… 朝日新聞社 1977年 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 骨 集英社文庫 1977年
  • ゴルディアスの結び目 角川書店 1977年 のち文庫、徳間文庫、ハルキ文庫
  • 時空道中膝栗毛 文藝春秋 1977年 のち文庫、ケイブンシャ文庫
  • 題未定 怪奇SF 実業之日本社 1977年 のち文春文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫
  • 物体O 新潮文庫、1977年 のちハルキ文庫
  • 五月の晴れた日に 早川文庫 1977年 のち集英社文庫
  • サテライト・オペレーション 集英社文庫 1977年
  • 偉大なる存在 早川文庫 1978年 のち集英社文庫
  • アメリカの壁 文藝春秋 1978年 のち文庫
  • 夜の声 集英社文庫、1978年
  • 旅する女 角川文庫、1979年
  • 一生に一度の月 集英社文庫 1979年
  • まぼろしの二十一世紀 集英社文庫 1979年
  • 華やかな兵器 文藝春秋 1980年 のち文庫
  • 猫の首 集英社文庫、1980年 「保護鳥」ケイブンシャ文庫
  • 氷の下の暗い顔 角川書店 1980年 のち文庫
  • 一宇宙人のみた太平洋戦争 短篇ショート・ショート集 集英社文庫、1981年
  • コップ一杯の戦争 集英社文庫、1981年
  • 遷都、集英社文庫、1981年
  • あやつり心中、徳間書店、1981年 のち文庫
  • さよならジュピター サンケイ出版 1982年 のち徳間文庫、ハルキ文庫
  • 機械の花嫁 ケイブンシャ文庫、1983年
  • 大阪夢の陣、徳間文庫、1983年
  • 黄色い泉、徳間文庫、1984年 のちケイブンシャ文庫
  • 首都消失 徳間書店、1985年 のち文庫、ハルキ文庫
  • こちら“アホ課" ケイブンシャ文庫 1986年
  • 虚無回廊 徳間書店、1987年 のち文庫、ハルキ文庫
  • ぬすまれた味 ケイブンシャ文庫、1987年
  • 時也空地球道行 読売新聞社、1988年 「時空道中膝栗毛 後の巻」ケイブンシャ文庫
  • 小松左京ショートショート全集 勁文社 1995年 のち文庫
  • 召集令状 角川文庫、1995年
  • 日本沈没 第二部谷甲州共著)小学館、2006年 のち文庫
  • すぺるむ・さぴえんすの冒険 福音館書店 2009年

戯曲[編集]

評論・対談・エッセイ[編集]

  • 地図の思想 講談社、1965年
  • 探検の思想 講談社、1966年
  • 未来図の世界 講談社、1966年
  • 未来怪獣宇宙 講談社、1967年
  • 未来の思想 文明の進化と人類 中公新書、1967年
  • 日本タイムトラベル 変貌する地域社会 読売新聞社、1969年
  • 人類は滅びるか 鼎談 今西錦司川喜田二郎 筑摩書房、1970年
  • ニッポン国解散論 読売新聞社、1970年
  • 地球を考える 対談集 1-2 新潮社、1972年
  • 日本イメージ紀行 白馬出版、1972年
  • 未来からの声 創樹社、1973年
  • 現代の神話 山崎正和対談 日本経済新聞社、1973年
  • 歴史と文明の旅 文藝春秋、1973年 のち講談社文庫
  • 妄想ニッポン紀行 高天原-伊勢-出雲 正・続 (講談社文庫 1973年 - 1974年)
  • 小松左京対談集 日本を沈めた人 地球書館、1974年
  • おしゃべりな訪問者 架空インタビュー 筑摩書房、1975年 のち新潮文庫
  • 絵の言葉 対話高階秀爾 エッソ・スタンダード石油広報部 1975年 (エナジー対話)のち講談社学術文庫
  • やぶれかぶれ青春記 旺文社文庫、1975年 のちケイブンシャ文庫
  • ミスターちんぼつの恋愛博物館 光文社、1975年 のち文春文庫「恋愛博物館」
  • 男の人類学 新・世界学入門 大和書房、1976年
  • 日本文化の死角 講談社現代新書、1977年
  • 人間博物館 「性と食」の民族学 石毛直道米山俊直討議 光文社、1977年 のち文春文庫
  • 小松左京対談集 21世紀学事始 鎌倉書房、1978年
  • 学問の世界 碩学に聞く 加藤秀俊 講談社現代新書、1978年 のち学術文庫
  • 高橋和巳の青春とその時代(編)構想社、1978年
  • 生命をあずける 分子生物学講義 渡辺格対談 朝日出版社、1979年 (Lecture books)
  • 地球社会学の構想 文明の明日を考える PHP研究所、1979年
  • はみだし生物学 平凡社、1980年 のち新潮文庫
  • 読む楽しみ語る楽しみ 集英社、1981年 のち文庫
  • 遠い島遠い大陸 文藝春秋、1981年
  • おもろ放談 SFバカばなし(角川文庫、1981年)-SF作家の仲間たちとの放談。
  • 地球文明人へのメッセージ 佼成出版社、1981年
  • 空から墜ちてきた歴史 新潮社、1981年 のち文庫
  • 宇宙から愛をこめて すぺいす・あふぉりずむ455 文化出版局、1981年
  • アリとチョウチョウとカタツムリ 石浜紅子絵 三芽出版、1981年 (新しい絵本)
  • 小松左京のSFセミナー(集英社文庫、1982年)
  • にっぽん料理大全 石毛直道共著 潮出版社、1982年 のち岩波同時代ライブラリー
  • 机上の遭遇 集英社、1982年 のち文庫
  • 大阪タイムマシン紀行 その1500年史を考える 関西過去・未来考 PHP研究所、1982年 「タイムトラベル大阪」ケイブンシャ文庫
  • 犬も犬なら猫も猫 ケイブンシャ文庫、1984年
  • 黄河 中国文明の旅 徳間書店、1986年
  • ボルガ大紀行 徳間書店、1987年
  • 「自然の魂」の発見 いんなあとりっぷ社、1990年
  • 高橋和巳の文学とその世界 梅原猛共編 阿部出版、1991年
  • 宇宙・生命・知性の最前線 十賢一愚科学問答(対談集)講談社、1992年
  • 鳥と人 とくにニワトリへの感謝をこめて 文春ネスコ、1992年
  • わたしの大阪 中公文庫、1993年
  • 巨大プロジェクト動く 私の「万博・花博顛末記」広済堂出版、1994年
  • こちら関西 もうひとつの情報発信基地・大阪 正編・戦後編 文藝春秋、1994年 - 1995年
  • ユートピアの終焉 イメージは科学を超えられるか ディーエイチシー、1994年
  • 未来からのウインク 神ならぬ人類に、いま何が与えられているか 青春出版社プレイブックス、1996年
  • 小松左京の大震災'95 この私たちの体験を風化させないために 毎日新聞社、1996年
  • SFへの遺言 対談集(光文社、1997年)
  • 紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性 地球紀日本の先端技術 東京書籍、1999年
  • 教養(聞き手高千穂遥鹿野司。徳間書店、2001年)
  • 威風堂々うかれ昭和史 中央公論新社、2001年
  • 天変地異の黙示録 人類文明が生きのびるためのメッセージ 日本文芸社・パンドラ新書、2006年
  • SF魂(新潮新書、2006年)
  • 小松左京自伝 実存をもとめて(日本経済新聞社出版社、2008年)-自伝+「小松左京マガジン」連載の自作解説収録。

漫画[編集]

  • 怪人スケレトン博士(さかえ出版社、1948年)小松實名義[38]
  • イワンの馬鹿(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
  • 大地底海(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
  • ぼくらの地球(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
  • 幻の小松左京=モリ・ミノル漫画全集 全4巻(小学館、2002年)。ISBN 4-09-179421-1
  • ムウ大陸の末裔(光文社、2012年)モリ・ミノル名義[39]

テレビ[編集]

映画[編集]

ラジオ[編集]

テレビ出演[編集]

オーディオ・ドラマ[編集]

  • 宇宙に逝く(1978年)
    • LPレコードに収録の書き下ろしのオーディオ・ドラマ (ディスコラマの名称)。出演:日下武史ほか。
    • 1987年に「ビクター・サウンドノベルズ」よりカセットテープにて出版される。

関連人物[編集]

  • 星新一 - 小松と同時期に活躍し、交友もあったSF作家。小松は星が死去した際の葬儀委員長をつとめた。
  • 筒井康隆 - 星、小松とならび日本SFの御三家とされるSF作家。小松は筒井の結婚の仲人である。小松の許可を得て、パロディ作『日本以外全部沈没』を著作(原案は星新一)。
  • 高橋和巳 - 1971年の、39歳での高橋の早逝にショックを受け、以後、小松は高橋について語ることを避けてきた。2004年の『小松左京マガジン』第17巻で「高橋和巳を語る」というインタビューが掲載された。(『小松左京自伝』に収録)
  • 開高健 - 『日本アパッチ族』と開高の『日本三文オペラ』は題材は同じ「アパッチ族」だが、相互に影響なく、同時並行的に執筆された。そのことがきっかけで、富士正晴に紹介されて開高とあって意気投合し、親友となった[41]。開高と小松の親友関係は、はたからは分からない面があったようで、のちに筒井康隆が開高を、「彼はSFがわかっていない。小松に対して失礼だ。」と批判した。だが、『小松左京自伝』の『果てしなき流れの果てに』の自作解説で、「美の体系が生き残る理由」「宇宙における人間存在の根拠」等という、小松がこだわっている問題を、開高がもっとも理解してくれたと、語っている。
  • 桂米朝 - 「地獄八景亡者戯」を聞いて大ファンとなり、のちに一緒に仕事をするようになり、家族ぐるみの交際となった[42]
  • 桂枝雀 - 個人的な交流があり、また芸道小説「天神山縁糸苧環」で、米朝・枝雀師弟を登場人物のモデルとした[43]
  • 高田宏 - 大学時代からの友人。高田が編集していたエッソ石油のPR誌『エナジー』に、小松はたびたび執筆した。
  • 梅棹忠夫 - 『文明の生態史観』(中公叢書、1967年)に序文を書いている。
  • 加藤秀俊 - 長年の友人。何冊か共著を出している。
  • 萩尾望都 - 『小松左京マガジン』の発起人。小松は萩尾の大ファンで「モトさま、モトさま」と子どものように慕っていた。仕事で疲れてソファーに寝転んで漫画を読む際にも、その横にはよく萩尾作品(『ポーの一族』『スター・レッド』『百億の昼と千億の夜』など)が積まれていた[44]
  • 石毛直道 - 長年の友人。『小松左京マガジン』創設同人でもある。
  • 小山修三 - 友人の一人。
  • 手塚治虫 - 日本SF作家クラブの会員となり、個人的な交際があった。
  • 落合正幸 - 世にも奇妙な物語で原作となっている作品はすべて落合が演出している。
  • 松本零士 - 漫画コレクターとして『幻の小松左京=モリ・ミノル漫画全集』復刻のため自分のコレクションを提供した。
  • 高島忠夫
  • 国弘正雄 - 中学の同級生。
  • 矢崎泰久 - 小松は『話の特集』の反体制的な姿勢に共鳴し、創刊以来の常連寄稿者で、矢崎に筒井康隆を紹介した。また、スポンサー獲得にも協力した[45]
  • 大島渚 - 同時期の京大生で、学生自治会にいて学生運動をやっていた。大島は、1951年の京大天皇事件、1953年に松浦玲が放校処分になった「荒神橋事件」等に関わった。だが大島は非共産党員であったため、共産党員だった小松とは直接の接触はなかったようだ。(『自伝』にも、これらの事件については、特に記載なし。)
  • 谷甲州
  • 林信夫 - イベントプロデューサー。「プレイガイドジャーナル」の創刊者の一人。小松とは「花博」などで「小松組」として共同作業を行った[46]
  • とり・みき - 熱心なファン。初期作品『コマケンハレーション』のコマケンとは小松左京研究会のこと。時折作品中にも、小松左京とおぼしき人物が登場する。
  • 小松照昌 - 小松の甥。放送作家、演芸ライター、三弦奏者。桂枝雀に弟子入りを志願するもかなわず、「枝雀落語大全」のスタッフをつとめた。
  • 小松伸也 - 実弟。関西大学化学生命工学部の教授。
  • 戴峰 - 友人の地震研究者、著書『大地震は予知できる』 (グリーンアロー出版社刊)に推薦の言葉を寄せた。
  • 竹山隆範(カンニング竹山) - テレビドラマ「TAROの塔」で小松左京役を演じた。
  • さそうあきら - 小松が漫画作品を執筆する際の名義「モリ・ミノル」は初恋の女性の名前に由来していることは有名である。その女性とは、さそうあきらの叔母である。[要出典]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 当時の活動は、事前に待ち合わせ日時を決めて集団でアジテーションを叫びながら街中を練り歩くというものだった。
  2. ^ ネイティブ・アメリカンの部族名ではなく、資源ごみとして収集されている物を不法に回収する人々を指す呼称。
  3. ^ もっともサイバーパンク分野ですら、『BS6005に何が起こったか』(1971)、『ト・ディオティ』(1968)などで、サイバーパンクの系譜でもあるシミュレーテッドリアリティを先取りしたと考えることも出来る。
  4. ^ 筒井康隆は本人に「沈没成金め」と面と向かって悪態をつくと、ギロリと睨まれたと回想している[要出典]
  5. ^ 1980年代に『宇宙船ギャラップ』のタイトルでアニメ化が進行していたが、頓挫している。[要出典]

出典[編集]

  1. ^ a b 『週刊サンケイ』1982年3月18日号 pp.23-25
  2. ^ a b c 小松 2008, pp. 9f、253、412
  3. ^ 小松 2008, p. 17
  4. ^ 小松 2008, pp. 22f
  5. ^ 小松 2008, pp. 11-14
  6. ^ 小松 2008, pp. 14f
  7. ^ 小松 2008, pp. 19-21
  8. ^ 小松 2008, p. 27
  9. ^ 小松 2008, pp. 28f
  10. ^ 小松 2008, pp. 31f
  11. ^ 小松 2008, pp. 32-36
  12. ^ 小松 2008, pp. 39-46
  13. ^ 小松 2008, pp. 36-43
  14. ^ 小松 2008, pp. 34f
  15. ^ 小松 2008, pp. 46-52、56-58
  16. ^ 小松 2008, pp. 53-55
  17. ^ 小松 2008, pp. 59-62
  18. ^ 小松 2008, pp. 61f
  19. ^ 小松 2008, pp. 62f、127
  20. ^ 小松 2008, pp. 66-70
  21. ^ 田原 & 矢崎 2004, p. 126
  22. ^ 小松 2008, pp. 70-72
  23. ^ 小松 2008, pp. 91-93
  24. ^ 共同通信 (2011年7月26日). “SFの大家、小松左京さん死去 「日本沈没」など”. 47NEWS (全国新聞ネット). http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072801000573.html 2011年7月28日閲覧。 
  25. ^ “「日本沈没」SF作家・小松左京さん死去 80歳”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2011年7月28日). オリジナル2013年10月4日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-1004-2012-00/sankei.jp.msn.com/life/news/110728/bks11072815590000-n1.htm 2011年7月28日閲覧。 
  26. ^ ULS License - Vanity License - WA5PS - Sakyo Komatsu Memorial Amateur Radio Station(英語)連邦通信委員会無線通信局 コールサイン検索サイト
  27. ^ 山田 1977, pp. 336-340
  28. ^ 石川 1996, pp. 303-305
  29. ^ 小松 2008, pp. 76-79、221-231
  30. ^ 安田 1977, p. 37
  31. ^ 小松 2008, pp. 80、232-239
  32. ^ 小松 2008, pp. 86f
  33. ^ 小松 2008, pp. 89f
  34. ^ 小松 2008, pp. 258f
  35. ^ 小松 2008, pp. 95-97
  36. ^ 筒井康隆のエッセイ集にて「僕と小松左京さんとを比べるのはおこがましい〜」の行の章にて確認。[要出典]
  37. ^ 小松 2008, pp. 87f
  38. ^ 「怪人スケレトン博士」著者としての小松左京 小松左京ライブラリ
  39. ^ SIGNAL』VOL.1、光文社、2012年3月26日ISBN 978-4-334-90186-8 所収。
  40. ^ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR「小松左京」 - ウェイバックマシン(2007年11月30日アーカイブ分)
  41. ^ 小松 2008, p. 129
  42. ^ 小松 2008, p. 65
  43. ^ 小松 2008, pp. 260f
  44. ^ 小松左京「お召し」原案 萩尾望都先生の「AWAY-アウェイ-3月21日」月刊flowers掲載中 小松左京ライブラリ
  45. ^ 小松 2008, p. 117 及び、矢崎 2005 [要ページ番号]
  46. ^ 小松 2008, p. 93

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]