岡本太郎

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岡本 太郎
Tarō Okamoto.jpg
1953年(昭和28年、42歳時)
自宅アトリエにて撮影。
生誕 1911年(明治44年)2月26日
日本の旗 日本 神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子
死没 1996年(平成8年)1月7日(満84歳没)
日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町35(慶應義塾大学病院
国籍 日本の旗 日本
教育 東京美術学校(現・東京芸術大学)中退
パリ大学哲学科履修
著名な実績 絵画彫刻陶芸書道写真
代表作 傷ましき腕』、『重工業』、『明日の神話』、『マミ会館』、『太陽の塔』、ほか
運動・動向 抽象美術シュールレアリズム原始美術
受賞 芸術文化勲章フランス。1984年、1989年)
この人に影響を
与えた芸術家
岡本一平岡本かの子(父母)、マルセル・モースパブロ・ピカソミルチャ・エリアーデディエゴ・リベラダビッド・アルファロ・シケイロス
この人に影響を
受けた芸術家
ゲルダ・タロー

岡本 太郎(おかもと たろう、1911年明治44年)2月26日 - 1996年平成8年)1月7日)は、日本芸術家。血液型はO型[1]1930年昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画立体作品を制作するかたわら、縄文土器論や沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した[2]1960年代後半にメキシコに滞在していた頃、壁画運動などから影響を受けたとされる。大阪の太陽の塔渋谷駅に設置された壁画「明日の神話」などが代表的な作品。

経歴[編集]

少年時代[編集]

岡本太郎(以下岡本と表記)は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家岡本一平歌人で小説家・かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。

父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し[3]、「宰相の名は知らぬが、一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。岡本が3〜4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。自身も放蕩経験のある一平は容認せざるを得なかった。後に岡本は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

家庭環境の為か、岡本は 1917年大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師、位上清に出会う。岡本はクラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年岡本は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレはほとんど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。

絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。

滞仏生活とピカソの衝撃[編集]

一平が朝日新聞特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、岡本も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は1929年昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。以後約10年間をここで過ごすことになる。[4]

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学(ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。

1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に岡本の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。

同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊パブロ・ピカソの作品《水差しと果物鉢》[5]を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。

1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。

親交のあった戦場カメラマンロバート・キャパの公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が1936年よりビジネスネーム、ゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダの活動期間はとても短く1937年スペイン内戦ブルネテの戦いの取材に向かったが、戦場の混乱で発生した自動車事故で受けた傷がもとで死去した。

兵役と戦後[編集]

1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。

1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役召集され帝国陸軍兵として中国戦線へ出征。岡本は最下級の陸軍二等兵扱いだったが、高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと著書で回想している。また、この頃上官の命令で師団長の肖像画を描いている。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争が終結。岡本は長安で半年ほど俘虜生活[6]を経たのち帰国、佐世保から東京に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、岡本は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は岡本の油彩画『夜』から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、岡本が逝去するまで支え続けた。

1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったともいわれている[7]。また琉球諸島東北地方の古い習俗を紹介した。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[8]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学2年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、従来の芸術観を批判し、ベストセラーになった。

メキシコ滞在[編集]

1960年代後半、メキシコを訪れた岡本は、ダビッド・アルファロ・シケイロス[9]などによる壁画運動から大きな影響を受け、同地に滞在中、現地のホテル経営者から壁画の制作依頼を受ける。これがのちに岡本の代表作のひとつとされる『明日の神話』となる。[10]

太陽の塔[編集]

太陽の塔

1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサー就任を要請した。岡本は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」と構想を練り、出来上がったのが『太陽の塔』であった。

この日本万国博覧会は各方面に影響を与えた。1975年(昭和50年)、『太陽の塔』の永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。

同時期に制作されたのが、前述の『明日の神話』であり、制作依頼者である実業家の破産の影響で長らく行方不明となっていたが、21世紀に入り発見される[11]

茶の間の人気者として[編集]

岡本は、テレビ放送草創期の1950年代から当時のバラエティ番組であったクイズ番組などに多数出演している。

1970年代以降には、日本テレビバラエティ番組鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウスツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙が立ちこめる中から、「芸術は爆発だ」「何だ、これは!」などと叫びながら現れる演出が人気を博すと、これらのフレーズは流行語にもなった。[12]また番組内で出演した子供たちの絵を批評、眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。さらに、この番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。

1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHKばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。

没後[編集]

南青山にある岡本太郎記念館
川崎市多摩区桝形にある川崎市岡本太郎美術館

老いを重ねても岡本の創作意欲は衰えず、展覧会出品などの活動を続けていたが、80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。

1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった岡本に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には作品が展示され、参加者たちは別れを惜しんだ。

1998年(平成10年)、青山の岡本の住居兼アトリエ岡本太郎記念館として一般公開された。

1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区枡形の生田緑地内に所在)。

2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた『明日の神話』が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、パブリックアートとして新たな名所となった。

2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催。

2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の創作活動に宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が影響を及ぼしていたことが確認された。

2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これは、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成されたものであり、岡本の芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。(佐々木秀憲「岡本太郎と潜在的イメージ」)。

人物[編集]

人生の転機[編集]

ジョルジュ・バタイユとの出会いが岡本の一生を変えたと述懐している[13]。1936年、コントル・アタックの集会に参加、アンドレ・ブルトンやモーリス・エイヌに続き、バタイユが、人間の自由を抑圧する全体主義批判の演説をすると「素手で魂をひっかかれたように感動した」。岡本はその後、バタイユを中心に組織された秘密結社に参加したが、思想上の相違から。1939年頃に訣別したと岡本太郎は繰り返し述べている

芸術観[編集]

  • 芸術一家に生まれ、既存概念にとらわれる事がなく育ち、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。
  • 著書『今日の芸術[14]の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」[15]と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術と説いている。
  • 「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などと発言した事でも知られる。[16]
  • 自らの作品をガラス越しで展示されるのを嫌った。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」と言ったという。駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティの連絡通路に設置された《明日の神話》も、電車の微振動や往き来する多数の乗降者、気温・湿度の変化にも晒される劣悪な環境でありながら、何の防護措置も施されずに展示されることになった。

恋愛観[編集]

  • プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌い、徹底したフェミニスト・ロマンティストであった[1]。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した[1]
  • 生涯独身を通し、秘書であった岡本敏子を養女とした。多くの女性との恋愛を志向したが、これは母かの子の影響に起因するものと思われる(知ってるつもり!?の岡本太郎の回などではこのように触れている)。

スポーツ[編集]

スキー・テニス・水泳など瞬発力を要するスポーツを好み、野球なども巨人の千葉茂中西太らと共に興じた。

スキーは、親交があった三浦雄一郎から賞賛されるほどの腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむほどの高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。

「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」

また、岡本は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。

ピアノ[編集]

岡本は1930年代の滞欧時代からピアノに親しみ、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。その腕前はプロ級と言われており、演奏はほとんどが暗譜であったという。岡本がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。

その他[編集]

ビフテキを調理中(1954年)
  • 身長156cmとかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160cmであった)
  • それまで全く面識がなかった千葉茂に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が近鉄バファロー(後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
  • 1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックで、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした [17]。そして参加メダルの表側を手がけた(裏側のデザインは田中一光[18]
  • 1967年(昭和42年)1月、沖縄県久高島に残る風葬を撮影した写真を発表し、タブーを犯したと指摘される。しかし、その前年の1966年12月にイザイホーを調査する為に久高島を訪問した多くの学識経験者も現地の代表者に案内されて風葬の地を訪れ、写真や映像を撮影している。これは当時すでに消滅しそうになっていた風葬の風習を記録に残してもらいたいとの現地代表者の善意から発したものであったという。この件で問題とされるのは、岡本の写真に棺の蓋が開いたものがあった為に、岡本が蓋を開けたのではないかと疑われたことによる。しかし、棺の蓋が開けられている写真や映像は、他の学識経験者たちも撮影していた。この批判に対して岡本は案内した現地代表者に迷惑が掛かることを気遣って沈黙を守り続けたが、近年の風葬に関する岡本への批判を回顧する言説には問題点を正確に把握していないものもあり、この件が原因となって自殺者が出たとか、精神を病んだ人が出たという噂は、全くの事実無根であることが確認されている(沖縄テレビ「岡本太郎が恋した沖縄」2012年)。
  • 1966年12月に沖縄県・久高島を再訪した時にも岡本太郎は「大御嶽」を他の学識経験者と共に再訪しており、多数の写真を撮影したことが確認されている(佐々木秀憲「岡本太郎の沖縄―沖縄から大阪万博へ」、川崎市岡本太郎美術館・美術館連絡協議会『岡本太郎が愛した沖縄展 開催報告書』39頁、2017年3月)。このことは同行者の目撃証言も確認されており、沖縄再訪時には「大御嶽」を岡本は訪問していないとする説は間違いであることが判明している。
  • 岡本太郎著『忘れられた日本 〈沖縄文化論〉』において、岡本が主張している言説として、琉球王に関する文化財などの「モノ」には実在感がなく感激しなかったが、 木と石以外のなにもない「大御嶽」には実在感があり感激したという、両者のコントラストをこそが読み取られるべきである。岡本はその実在感が何であるのかを確認しようとして、わずか数10㎡の木と石しかない空間を1959年の訪問時には5カット撮影し、1966年の再訪時には16カットも撮影している。この事実を見誤ってはならない。
  • 1966年12月に「イザイホー」を取材するために岡本が久高島を再訪した時、「風葬」の写真を50カット以上撮影しているのに対して、「大御嶽」の写真は16カットしか撮影していないとして、岡本があたかも「大御嶽」に興味が希薄であったかのような言説もあるが、久高島の広範囲に分布していた「風葬」を約50カットしか撮影していないのに対して、わずか数10㎡の「大御嶽」を16カットも撮影している事実を看過してはならない。カット数だけからの判断は短絡的である。
  • 著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面のコーディネーターとなった人物に淡交社の臼井史朗がいた。
  • 司馬遼太郎は、岡本から大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
  • 岡本は東京・日本堤にある老舗馬肉料理店「中江」の常連であり、店主に「僕がフランスで食べた馬肉のタルタルステーキをこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられるようになった。
  • じっとしていられない性質で、TBSラジオ久米宏土曜ワイドラジオTOKYO」のインタビュー・コーナー「有名人のお宅訪問」に出演した際には、コマーシャルなどの待ち時間に耐えられず、いきなり、裸足で庭へ飛び出して「まだかあ」と叫んだり、2階へ駆けあがってピアノを弾いたり、また1階に戻ってソファに腰かけたあと庭に飛び出し、大きなオブジェをがんがん叩いたり、削ったりしていて、インタビュワーの吉川美代子はそのオーラを感じると共に、笑いを堪えるのに必死だったという。[19]
  • 写真家の荒木経惟は、尊敬する人物に岡本の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。1999年(平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。2006年(平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
  • 鳥取県米子市野坂寛治元市長と親交があった。同市の教育長であった安田光昭の回想録『「あの人この人」私の交友録』に、二人の交流についての記述がある。
  • 《犬の植木鉢》は1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて3体制作され、そのうち2体は岡本太郎記念館蔵、残る1体は川崎市岡本太郎美術館蔵となっている。なお、1955年1月7日付けの同社からの製品の発送通知が確認されており、制作時の岡本を写したスナップショットも残されている。
  • 没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子の尽力に負うところが大きかったが、敏子の歿後2011年以降の研究においては、美術様式論および図像解釈学などを用いた美術史学的な研究と展覧会が展開されている。

年譜[編集]

  • 1911年明治44年)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
  • 1917年大正6年) 東京・青山の青南小学校に入学
  • 1918年(大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
  • 1929年昭和4年)
  • 1936年(昭和11年) 油彩『傷ましき腕』を制作。
  • 1940年(昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
  • 1942年(昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
  • 1945年(昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
  • 1946年(昭和21年) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
  • 1947年(昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
  • 1948年(昭和23年) 花田清輝埴谷雄高らと「夜の会」結成。
  • 1949年(昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画『傷ましき腕』『露天』を再制作。
  • 1950年(昭和25年) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
  • 1951年(昭和26年) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
  • 1952年(昭和27年) 「四次元との対話-縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
  • 1954年(昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
  • 1955年(昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
  • 1956年(昭和31年) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に『日の壁』『月の壁』など11の陶板レリーフを制作。
  • 1957年(昭和32年) 46歳にしてスキーを始める。
  • 1959年(昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
  • 1961年(昭和36年) 草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。
  • 1964年(昭和39年) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
  • 1965年(昭和40年) 名古屋久国寺に梵鐘『歓喜』制作。
  • 1967年(昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
  • 1968年(昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
  • 1969年(昭和43年) 1968年から制作が開始されていた『明日の神話』完成。
  • 1970年(昭和45年) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館『太陽の塔』完成。
  • 1973年(昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス
  • 1974年(昭和49年) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画『天に舞う』制作。
  • 1976年(昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
  • 1977年(昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
  • 1978年(昭和53年) 毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く。
  • 1979年(昭和54年) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される。
  • 1981年(昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。
  • 1984年(昭和59年) フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章。
  • 1985年(昭和60年) つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
  • 1986年(昭和61年) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
  • 1988年(昭和63年) ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
  • 1989年平成元年) フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章。
  • 1991年(平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
  • 1992年(平成4年) 油彩『疾走する眼』制作。
  • 1994年(平成6年) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『であい』制作。
  • 1996年(平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。

没後[編集]

  • 1998年(平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館。
  • 1999年(平成11年) 神奈川県川崎市多摩区生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
  • 2005年(平成17年) 養女・岡本敏子逝去(79歳)。
  • 2006年(平成18年)
    • 7月7日 壁画《明日の神話》が汐留日テレプラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
    • 11月28日 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画『電撃』と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が発見される。
    • 11月29日『電撃』を修復前に一般公開。
  • 2007年(平成19年)2月15日 『明日の神話』の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
  • 2008年(平成20年)3月 『明日の神話』の恒久設置場所が東京都渋谷区京王井の頭線渋谷駅連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
  • 2011年(平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とするJリーグ所属の川崎フロンターレがユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。

主な作品[編集]

平面作品[編集]

※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵

  • 敗惨の歎き(1924年)- 現存する太郎の最古の作品。
  • 空間(油彩、1933年)- 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • コントルポアン(油彩、1935年東京国立近代美術館蔵) - 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • 傷ましき腕(油彩、1936年)- 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
  • 露店(油彩、1937年グッゲンハイム美術館蔵) - 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
  • 憂愁(油彩、1947年、草月美術館蔵)
  • 重工業(油彩、1949年
  • 赤い兎(油彩、1949年、富山県立近代美術館蔵)
  • 森の掟(油彩、1950年
  • 燃える人(油彩、1955年、東京国立近代美術館蔵)
  • 裂けた顔(油彩、1960年
  • 遊ぶ(油彩、1961年、東京国立近代美術館蔵)
  • 装える戦士(油彩、1963年
  • 愛撫(油彩、1964年
  • 千手(油彩、1965年
  • 明日の神話(油彩、1968年
  • 哄笑(油彩、1972年
  • 記念撮影(油彩、1975年
  • 黒い太陽(リトグラフ、1979年
  • 遭遇(油彩、1981年
  • 森の家族(油彩、1983年
  • 疾走する眼(油彩、1992年、岡本太郎記念館蔵)

立体作品[編集]

  • 顔(陶、1952年)- 全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。
  • 日の壁・月の壁(陶、1956年)- 旧東京都庁陶板レリーフ[20]
  • 坐る事を拒否する椅子(陶器1963年
  • 梵鐘・歓喜(ブロンズ、1965年
  • 若い時計台(コンクリート、アルミニウム、1966年)- 銀座数寄屋橋公園内に設置。
  • 午後の日(ブロンズ、1967年)- 東京都立多磨霊園にある岡本太郎の墓碑にもなっている。
  • 生誕 - 黒川紀章が設計し1967年竣工した山形県寒河江市役所のシャンデリアとして寄贈した。市役所5階部吹き抜け天井から鎖で吊るされ2階ホールに常設。
  • マミフラワー会館(鉄筋コ)ンクリート建築、1968年)- フラワーデザイナー・マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存していない。
  • 若い太陽の塔1969年)- 愛知県犬山市日本モンキーパーク内に現存する。
  • 緑の太陽(1969年- 大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。現存し、JR別府駅ホームからも見ることができる。
  • 太陽の塔(鉄筋コンクリート、1970年
  • 母の塔(1970年)太陽の塔の西側、大屋根と共に撤去されたため現存していない。
  • 青春の塔(1970年)太陽の塔の東側、現存していない。
  • ノン(FRP、1970年)
  • オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)光るレリーフ大壁画(1971年)- 三越改称時に撤去されたため現存していない。
  • 樹人(FRP、1971年)- パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、箱根彫刻の森美術館、山梨県立美術館に常設されている。
  • 躍進(陶、1972年)- 山陽新幹線岡山駅内の陶板壁画。
  • 若い泉(アルミニウム、1974年)- バーズタウン(姫路市夢前町)内に現存する噴水。
  • 千手(アルミニウム、1975年
  • 足あと広場(造園、1978年)- 広島県福山市松永町日本はきもの博物館中庭に造成。
  • 河童像(FRP、1981年)
  • 縄文人(ブロンズ、1982年
  • 神話(1982年) - 島根県松江市松江総合運動公園モニュメント。
  • 未来を視る(FRP、1985年)- つくば科学万博のシンボルモニュメント。2005年つくばエクスプレス万博記念公園駅前に移設。
  • こどもの樹(FRP、1985年)- こどもの城のシンボルモニュメント
  • 太陽(1985年)- 9月にそごう横浜店のオープンに合わせて屋上に建立された、万博の太陽の塔とは直接関係のないオリジナルのモニュメント。
  • 平和を呼ぶ像(1988年)- 10月に船橋市の平和都市宣言記念シンボル像として建立。
  • 未来を拓く塔(1988年)- ぎふ中部未来博のシンボルとして建立。跡地に作られた岐阜メモリアルセンター内に現存。
  • 母の塔(原作)
  • 歓び - 川崎市内の小学校にある作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたこともある。
  • 河神 (アルミ合金、1995年)- 青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻。
  • 花炎 (陶、1995年)- 1996年7月、佐賀県有田町において開催されたジャパン・エキスポ「世界炎の博覧会」の記念モニュメント。敏子と太郎の助手を務めていた職人のサポートを得て完成された[21]。会期終了後、跡地は「歴史と文化の森公園」となり現在に至る。

インダストリアル・デザイン[編集]

ギャラリー[編集]

書籍[編集]

作品集[編集]

  • 『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年) - 評論家ピエール・クールティオン編著による初の画集。フランスにて出版。特装版30部、普及版多数。
  • 『画文集 アヴァンギャルド』(月曜書房、1948年)
  • 『T.OKAMOTO』(美術出版社、画集、1954年) - 仏語版も同時出版。
  • 『画文集 黒い太陽』(美術出版社、1959年)
  • 『岡本太郎』(美術出版社、画集、1968年) - 海藤日出男の編集。
  • 『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー、版画集、1974年)
  • 『デリシュール』(版画集、1976年)
  • 『TARO OKAMOTO 対極に遊ぶ男』 (画集、1976年) - フランスにて出版。
  • 『画文集 挑む』(講談社文庫、1977年)
  • 『岡本太郎』(平凡社、網羅的作品集、1979年)
  • 『遊ぶ字』(日本芸術出版社、墨蹟集、1981年)
  • 朝日美術館 日本編2『岡本太郎』(朝日新聞社、絵画・立体作品集、1995年)
  • 『歓喜』(二玄社、網羅的画文集、1997年)
  • 『TARO 川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集』(二玄社、網羅的作品集、2005年)
  • 『ドキドキしちゃう』(小学館、墨蹟集、2010年) - 「遊ぶ字」の再編集版。

評論・エッセイ等[編集]

  • 『母の手紙』
  • 『ピカソ』(アテネびじゅつぶんこ)編集はアテネ文庫在職時の臼井史朗が担当したとのこと。
  • 『随筆集・夢と誓い』
  • 『青春ピカソ』
  • 今日の芸術 時代を創造するものは誰か』
    • 光文社版(1954年
    • 光文社カッパブックス版(1963年10月)
    • 講談社文庫版(ASIN B000J93GS0、1973年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第1巻(1979年)
    • 知恵の森文庫版(ISBN 978-4334727895、1999年)
  • 『日本の伝統』
  • 『芸術と青春』
  • 『日本再発見 芸術風土記』
    • 新潮社版(1958年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第4巻(1979年)
  • 『忘れられた日本沖縄文化論
  • 岡本太郎の眼
    • 朝日新聞社版(1966年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)
    • チクマ秀版社版「眼 美しく怒れ」(ISBN 978-4805003237、1998年)
    • チクマ秀版社新装版「眼 美しく怒れ」(ISBN 978-4805004272、2004年)
    • 角川oneテーマ21版「美しく怒れ」(ISBN 978-4041100240、2011年)
  • 『今日をひらく 太陽との対話』
    • 講談社版(1967年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第3巻、第4巻、第7巻、第8巻(1979年、1980年)
  • 『原色の呪文』(人と思想シリーズ)
    • 文芸春秋社版(1968年)
  • 『日本列島文化論』 - 泉靖一との対談。
    • 大光社版(1970年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
    • ミュゼ版「日本人は爆発しなければならない 日本列島文化論」(ISBN 978-4944163175、2000年)
  • 『美の呪力』
    • 新潮社版(1971年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第6巻(1980年)
    • 新潮文庫版 (ISBN 978-4101346229、2004年)
  • 『にらめっこ』
    • 番町書房版(1975年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第7巻、第8巻(1980年)
    • イースト・プレス版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4872577969、2007年)
    • イースト・プレス文庫版「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている。」 (ISBN 978-4781670027、2009年)
  • 『岡本太郎の挑戦するスキー 白い世界に燃える歓び』
    • 講談社(ASIN B000J8SPZU、1977年)
    • 講談社「岡本太郎著作集」第8巻(1980年)※抄録
  • 岡本太郎著作集』 全9巻(講談社、1979年、1980年)
  • 『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)
  • 『ピカソ講義』 - 宗左近との対談。
  • 『にらめっこ問答』 人生相談
  • 『人生は夢 にらめっこ問答』 人生相談
    • 集英社版(1981年)
    • 青林工藝舎版「太郎に訊け!2 岡本太郎流熱血人生相談」(ISBN 4-88379-080-0、2001年)
    • 青林工藝舎版「太郎に訊け!3 岡本太郎流激突人生相談」(ISBN 4-88379-081-9、2001年)
  • 『美の世界旅行』(新潮社、1982年)
  • 『自分の中に毒を持て あなたは"常識人間"を捨てられるか』
  • 『一平かの子 心に生きる凄い父母』(チクマ秀版社、ISBN 978-4805002698、1995年) - 太郎の生前最後の著作
  • 『岡本太郎の本』 全5巻(みすず書房)ダイジェスト編集版であることに注意。
    1. 『呪術誕生』(ISBN 978-4622042563、1999年)
    2. 『日本の伝統』(ISBN 978-4622042570、1999年)
    3. 『神秘日本』(ISBN 978-4622042587、1999年)
    4. 『わが世界美術史 美の呪力』(ISBN 978-4622042594、1999年)
    5. 『宇宙を翔ぶ眼』(ISBN 978-4622042600、2000年)
  • 『リリカルな自画像』(みすず書房、2001年)
  • 『疾走する自画像』(みすず書房、2001年)

編集著書[編集]

  • 『世界の仮面と神像』(朝日新聞社、1970年)- 泉靖一、梅棹忠夫との共編
  • 岡本太郎編『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)

監修著書[編集]

  • 福田和彦編 『日本名品聚芳』 全3巻(芳賀書店
    1. 『秘巻浮世絵』(1973年) - 小林和作埴谷雄高との共同監修(名義のみ)
    2. 『秘巻浮世絵大錦』(1973年) - 同上
    3. 『秘巻肉筆浮世絵』(1973年) - 同上
  • 福田和彦編 『草紙本浮世絵名品選』 全4巻(芳賀書店)
    1. 『秘版 英泉』(1974年) - 小林和作、埴谷雄高との共同監修(名義のみ)
    2. 『秘版 国貞』(1975年) - 埴谷雄高との共同監修(名義のみ)
    3. 『秘版 国芳』(1975年) - 同上
    4. 『秘版 北斎』(1975年) - 同上

評伝[編集]

  • 『岡本太郎の全貌』(編集・山本太郎アトリエ社、1959年)
  • 『別冊太陽 日本のこころ94 岡本家の人びと』(平凡社、1996年)
  • 『芸術新潮 さよなら岡本太郎』(新潮社、1996年)
  • 『岡本太郎と横尾忠則』(倉林靖白水社、1996年)
  • 『岡本太郎に乾杯』(岡本敏子、新潮社、1997年)
  • 『芸術は爆発だ 岡本太郎痛快語録』(岡本敏子、小学館文庫、1999年)
  • 『岡本太郎の絵本 あいしてる』(舟崎克彦・文、小学館、1999年)
  • 『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』(荒木経惟 光文社、1999年、ISBN 4-334-97239-X
  • 『ユリイカ 1999年10月号 特集・岡本太郎』(青土社、1999年、ISBN 4-7917-0050-3
  • 『太郎神話』(岡本敏子編、二玄社、1999年)
  • 『岡本太郎が、いる』(岡本敏子、新潮社、1999年)
  • 『太陽の人・岡本太郎』(JTB、1999年、ISBN 4-533-03374-1
  • 『岡本太郎の世界』(岡本敏子、斎藤慎爾編、小学館、1999年)
  • 『岡本太郎宣言』(山下裕二、平凡社、2000年、ISBN 4-582-20633-6
  • 『「新」太郎神話』(二玄社、2000年、ISBN 4-544-02029-8
  • 『恋愛芸術家』(岡本敏子、マガジンハウス、2001年、ISBN 4-8387-1301-0
  • 『岡本太郎の遊ぶ心』(岡本敏子、講談社、2005年、ISBN 4-06-269252-X
  • 『Be TARO! 岡本太郎に出会う本』(学習研究社、2006年、ISBN 4-05-403165-X
  • 『岡本太郎と太陽の塔』(平野暁臣、小学館、2008年)
  • 『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝〈5〉岡本太郎』(ポプラ社、2009年)
  • 『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』(平野暁臣、PHP研究所、2009年)
  • 『岡本太郎という思想』(赤坂憲雄、講談社、2010年)
  • 『[新版]岡本太郎と横尾忠則』(倉林靖BOOKEND、2011年、ISBN 978-4-903295-37-4
  • 『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』(佐々木秀憲、東京美術、2013年、ISBN 978-4808709662

出演[編集]

映画[編集]

  • 誘惑』 (1957年)- 原作:伊藤整、監督:中平康日活配給。東郷青児とともに画家役で出演。
  • 『岡本太郎 マルセル・モースの肖像』 (1975年)- パリ大学民族学教授、ジャン・ルーシュが手がけたドキュメンタリー映画。イタリアのアゾロ映画祭で芸術家の伝記大賞受賞。
  • 『山形は白い国 岡本太郎のスキー』 (1983年)- 山形県の観光映画。

テレビ番組[編集]

後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。

死後の特集番組[編集]

テレビドラマ[編集]

本人出演
岡本太郎を扱った作品

CF[編集]

関連施設・団体・褒賞等[編集]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c 新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より
  2. ^ テレビ出演等の映像記録が現存する。
  3. ^ 夏目漱石の推薦によるという。
  4. ^ 1932年から1940年までの住所が確認され、川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎と潜在的イメージ』展図録において佐々木秀憲によって論文「岡本太郎と潜在的イメージ」の中で発表された。1932‐33年がサン=アマン通り31番地(31 rue Saint-Amand)、1934‐35年がイボリット・マンドロン通り29番地(29 rue Hippolyte Maindron)、そして1936‐40年がエルネスト・クレッソン通り18番地(18 rue Ernest Cresson)であった。
  5. ^ 《水差しと果物鉢》(Pichet et coupe de fruits)。油彩画で1931年制作。現在はソロモン・R・グッゲンハイム美術館に収蔵されている。
  6. ^ http://www.taro-okamoto.or.jp/chorology.html 岡本太郎記念館-岡本太郎年表]
  7. ^ 春原史寛「「縄文」は「芸術」か-岡本太郎の「縄文土器論」『縄文土器名宝展〜縄文芸術の到達展〜』山梨県立考古博物館、2011年
  8. ^ 友人の建築家・坂倉準三の設計による。ここで『燃える人』等の作品を生み出した。
  9. ^ ラテンアメリカを代表するメキシコの芸術家、活動家で、ディエゴ・リベラホセ・クレメンテ・オロスコと並ぶ、メキシコ3大壁画家とも呼ばれ、1910年のメキシコ革命後、1920〜40年代に起こったメキシコ壁画運動の中心人物。壁画運動は、従来のヨーロッパ主義的な芸術ではなく、メキシコの先住民族や民衆に向けて、ルーツ回帰や歴史、人びとの結束を訴えるものであり、言葉が読めない人にも、壁画を見ただけでメッセージが伝わるように、公共の場に描かれることを基本としているのが特徴である。
  10. ^ [1]
  11. ^ 中川史 (2003年9月12日). “岡本太郎の「幻」壁画発見 「明日の神話」核テーマ、35年ぶり メキシコ”. 朝日新聞: p. 夕刊1面 
  12. ^ そのインパクトの強さからお笑いタレントにモノマネされるなど、当時の岡本は世間からは「エキセントリックなおじさん」と認識されることにもなったが、本人はそれを喜んでいた。
  13. ^ 「自分の中に毒を持て」(岡本太郎著 青春出版)
  14. ^ 岡本太郎『今日の芸術』光文社、2012年10月15日。
  15. ^ 岡本太郎[2012年]『今日の芸術』、p.98。
  16. ^ 最晩年には、「爆発は今も続いている」という言葉も残している。
  17. ^ 岡本敏子の談話による。
  18. ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
  19. ^ 吉川美代子著『アナウンサーが教える 愛される話し方』、朝日新書2013年 31〜32頁
  20. ^ これらのレリーフ計11点は、1957年に都庁舎が建てられた際、1階正面ロビーや中二階などに設置された。特に、1階正面ロビーの「日の壁」は縦横7×6メートルの壁面を覆い、来庁者がまず目にする「都庁の顔」ともいうべき作品だった。1991年に都庁舎を解体する際、作品の材質や傷みを理由にいったんは廃棄が決まり、太郎も了承したが、瀬木慎一らが反対。最終的に太郎が個人的に引き取ることとなった。(朝日新聞 1991年3月10日 朝刊31面より)
  21. ^ 『岡本太郎が、いる』
  22. ^ JTBパブリッシング JTBキャンブックス「近鉄電車」三好好三著 P.195掲載の近鉄6800系の記事
  23. ^ 収録曲目は、レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ベートーヴェン:交響曲第3番と、バーンスタイン:交響曲第3番。

参考文献[編集]

  • 世田谷美術館『世田谷時代の岡本太郎 1946-1954―戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流①』、2007年。
  • 川崎市岡本太郎美術館『北大路魯山人と岡本家の人びと』展図録、2005年。
  • 川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎の絵画―衝動から実現まで』展図録、2006年
  • 川崎市岡本太郎美術館『開館10周年記念 岡本太郎の絵画』展図録、2009年。
  • 佐々木秀憲『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』東京美術、2013年。
  • 『美術評論家著作選集 第8巻 松尾邦之助』ゆまに書房、2011年。
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会、2011年
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎のシャーマニズム―ミルチャ・エリアーデの影響」佐々木秀憲編『岡本太郎のシャーマニズム展図録』川崎市岡本太郎美術館、2013年
  • 江川純一・奥山倫明・近藤幸夫著『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎と潜在的イメージ」佐々木秀憲編『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年
  • 栗本慎一郎著『幻想としての経済』青土社、1980年。
  • 藤原聖子著『「聖」概念と近代』立正大学出版会、2006年。
  • 明神勲著『戦後史の汚点 レッド・パージ』大月書店、2013年。
  • 辻惟雄著『辻惟雄集 第1巻』岩波書店、2013年。
  • ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 上』未来社、1984年。
  • ミルチャ・エリアーデ著(石井忠厚訳)『エリアーデ日記―旅と思索と人 下』未来社、1986年。
  • ミルチャ・エリアーデ著(奥山倫明・木下登・宮下克子訳)『ポルトガル日記1941-1945』作品社、2014年
  • 五十殿利治著「岡本太郎とスイス・コネクション―ネオ=コンクレティズムと1930年代の「総合」の芸術」『美術運動史』149号、2015年6月20日

関連人物・項目[編集]

外部リンク[編集]