岡本太郎

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岡本 太郎
1953年(昭和28年、42歳時)
自宅アトリエにて撮影。
生誕 1911年(明治44年)2月26日
日本の旗 日本 神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子
死没 1996年(平成8年)1月7日(満84歳没)
日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町35(慶應義塾大学病院
国籍 日本の旗 日本
教育 パリ大学ソルボンヌ校哲学科にて美学履修の記録がある。正規学生か聴講生かは不詳。
著名な実績 絵画彫刻陶芸書道写真著述業
代表作 傷ましき腕》、《重工業》、《明日の神話》、《マミ会館》、《太陽の塔》、ほか
運動・動向 抽象美術シュルレアリスム原始美術
受賞 芸術文化勲章フランス。1984年、1989年)
この人に影響を
与えた芸術家
岡本一平岡本かの子(父母)、マルセル・モース(師事?)、パブロ・ピカソミルチャ・エリアーデ(戦後)
この人に影響を
受けた芸術家
ゲルダ・タロー

岡本 太郎(おかもと たろう、1911年明治44年)2月26日 - 1996年平成8年)1月7日)は、日本芸術家。血液型はO型[1]1930年昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも交流(ただし合流はしていない)した。第二次世界大戦後、日本で積極的に絵画立体作品を制作するかたわら、縄文土器論沖縄文化論を発表するなど文筆活動も行い、雑誌やテレビなどのメディアにも1950年代から積極的に出演した[2]

経歴[編集]

少年時代[編集]

太郎は神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現・神奈川県川崎市高津区二子)で、漫画家岡本一平歌人作家かの子との間に長男として生まれる。父方の祖父は書家の岡本可亭であり、北大路魯山人の師匠であった。

父・一平は朝日新聞で"漫画漫文"という独自のスタイルで人気を博し[3]、「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほど有名になるが、付き合いのため収入のほとんどを使ってしまうほどの放蕩ぶりで、家の電気を止められてしまうこともあった。

母・かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。 世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。放蕩三昧の生き方をひと頃していた一平は容認せざるを得なかった。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた。

家庭環境の為か、太郎は 1917年大正6年)4月、東京青山にある青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学。その後も日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、十思小学校へと入転校を繰り返した。慶應義塾幼稚舎で太郎の理解者となる教師、位上清に出会う。クラスの人気者となるも、成績は52人中の52番だった。ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の藤山一郎で、後年太郎は藤山に「増永(藤山の本名)はよく学校に出ていたくせにビリから二番、オレは殆ど出ないでビリ、実際はお前がビリだ」と語ったという。

絵が好きで幼少よりさかんに描いていたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事に迷いながらも、東京美術学校へ進学した。

滞仏生活とピカソの衝撃[編集]

父・一平が朝日新聞特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになり、太郎も東京美術学校を休学後、親子三人にかの子の愛人の青年二人を加えた一行で渡欧。一行を乗せた日光丸は1929年昭和4年)神戸港を出港、1930年(昭和5年)1月にパリに到着。太郎は以後約10年間をここで過ごすことになる。

フランス語を勉強するため、パリ郊外のリセ(日本の中学校に相当)の寄宿舎で生活。語学の習得の傍ら、1932年頃、パリ大学ソルボンヌ校においてヴィクトール・バッシュ教授に美学を学んでいる。パリ滞在の後半となる1938年頃から、太郎は「何のために絵を描くのか」という疑問に対する答えを得るため、マルセル・モースのもとで絵とは関係のない民族学を学んだといわれている。

1932年(昭和7年)、両親が先に帰国することになり、パリで見送る。かの子は1939年(昭和14年)に太郎の帰国を待たずに逝去したため、これが今生の別れとなった。

同年、芸術への迷いが続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊ピカソの作品《水差しと果物鉢》[4]を見て、太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ち込むようになる。岡本は、この時の感動を著書『青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べている。

1932年、ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会のメンバーとなる。この団体は「セルクル・エ・カレ」(幾何学的抽象のグループ)と「アール・コンクレ」(シュルレアリスム的具象のグループ)という主張の異なる2つの団体が急拵えで設立した団体で、まとまりのない短命な団体であった。 1936年にアプストラクシオン・クレアシオン協会が解散すると岡本の画風は次第にネオ・クラシシズム風に変化する。その過渡期の作品が代表作の《傷ましき腕》である(1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》とあり、パリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語タイトルが付されていたことが判明)。これは、1937年に開催されるパリ万博開催のために、パリにおいてナショナリズムが高揚し、ネオ・クラシシズム風のモニュメントがパリの各所に設置されたことと無関係ではないと考えられる。ブーローニュ=ビアンクールにある1930年代美術館は、この頃のパリとその周辺の芸術状況を検証する優れた展示活動を行っている。また、1937年パリ万博のために設けられたパレ・ド・トウキョウの建築躯体の前面に設置された彫刻家ジャニオによる大壁面レリーフは、抽象と具象を併せ持つような独特の様式であった(藤原貞朗著『オリエンタリストの憂鬱』2008による)。岡本が当時この壁面レリーフを観たことはほぼ確実である。こうした岡本を取り囲むパリの芸術状況の変化が岡本の作品にも及んで、1936年頃から、岡本の画風はネオ・クラシシズム風に次第に変化したと考えるべきであろう。こうした岡本の傾向性を引き留めるべきアプストラクシオン・クレアシオン協会も、すでに解散してしまっていたのである。こうして形成された岡本の芸術思潮が、第二次世界大戦後になって花田清輝によって、岡本の言説と併せて「対極主義」と命名されたと考えられるべきである。また、アプストラクシオン・クレアシオン協会以来、戦後1962年まで密接な交流があり、海外における重要な協力者でったクルト・セリグマン(1900-62)は、1930年代前半から一貫して抽象主義とシュルレアリスムとの結合を提唱しており、セリグマンの芸術観と岡本の芸術観の近似性も、岡本が説く「対極主義」の形成過程の解明に重要な要因であることが指摘されている。

1932年から1940年までの住所が確認され、川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎と潜在的イメージ』展図録において佐々木秀憲によって論文「岡本太郎と潜在的イメージ」の中で発表された。1932‐33年がサン=アマン通り31番地(31 rue Saint-Amand)、1934‐35年がイボリット・マンドロン通り29番地(29 rue Hippolyte Maindron)、そして1936‐40年がエルネスト・クレッソン通り18番地(18 rue Ernest Cresson)であった。

兵役と戦後[編集]

1940年(昭和15年)、ドイツのパリ侵攻をきっかけに日本へ帰国する。帰国後、滞欧作《傷ましき腕》などを二科展に出品して受賞、個展も開く。

1942年(昭和17年)、太平洋戦争下の軍備増強の為、補充兵役であった太郎は召集され帝国陸軍の兵士として中国戦線へ出征。アメリカイギリスのような大国を相手にしたこの戦争は負けると信じており、上官から「日本は勝てるか?」と訊ねられると、婉曲的に「勝てません」と答えている。太郎は(20歳当時の徴兵検査時に甲種合格し現役として)軍隊に入営(入隊)した経験が無い未熟な補充兵(補充兵役)であり、階級は最下級の陸軍二等兵から始まっている。また兵としては高年齢である30代という事もあり、厳しい兵役生活を送ったと岡本は著書で回想している。一方、1942年、依頼に応じて師団長の肖像画をアカデミックな技法で描いているが、その制作中の写真からは、意外にも従軍中も比較的優遇されていた様子がうかがわれる。

1945年(昭和20年)、日本の降伏により太平洋戦争(第二次世界大戦)は終結。太郎は長安で半年ほど俘虜生活[5]を経たのち帰国、佐世保(現ハウス・テンボスの場所)に到着するが、自宅と作品は焼失していた。東京都世田谷区上野毛にアトリエを構え、ふたたび制作に励む。1947年(昭和22年)、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」という宣言を発表、当時の日本美術界に挑戦状を叩きつけた。

1948年(昭和23年)、 花田清輝らとともに「夜の会」を結成。会の名は太郎の油彩画《》から取られた。前衛芸術について論じ合う会で、ほかに埴谷雄高安部公房らが参加した。またこの頃、平野敏子と出会った。敏子は後に秘書・養女となり、太郎が逝去するまで献身的に支え続けた。

1950年(昭和25年)、中国大陸の国共内戦における中国共産党勢力の躍進と同年6月に勃発した朝鮮戦争は、アメリカ・GHQによる日本の占領政策に変更を迫ることとなり、警察予備隊の編成により日本は再軍備化され、いわゆる「逆コース」の状況となった(袖井林二郎著『マッカーサーの二千日』中央公論社1974年参照)。また、それまで容認されていた共産主義の活動は弾圧の対象となり、いわゆるレッド・パージ(1950-1952)の旋風が吹き荒れた。「夜の会」の主要メンバーは日本共産党に入党していたが、パリ時代にコントレ・アタックに参加して、イデオロギーに拘束されることからの自由のためにコミュニズムにもファシズムにも抵抗した経歴を持つ岡本は日本共産党への入党を固辞していた。「夜の会」の活動が緩慢となり停止する原因は、メンバーが多忙になったことがあるものの、こうした社会状況の変化が大きな原因と考えられるべきであろう。この時期の創作家・表現者等には、「逆コース」政策およびレッド・パージの状況を真正面から告発する表現を行う者(ルポルタージュ絵画など)、社会問題の表現から訣別する者、そして巧みにカモフラージュされた表現方法で告発し続ける者などがいた。例えば、映画監督のマキノ雅弘は映画《次郎長三国志》シリーズの《荒神山》などにおいて巧みにカモフラージュされた表現方法でGHQ統治下でのレッド・パージの状況を告発している。岡本の代表作《森の掟》(1950)なども、巧みなカモフラージュを用いてレッド・パージあるいは「逆コース」による社会状況の急変を告発した作品である。《森の掟》発表当時、作家・評論家の野間宏埴谷雄高、そして瀧口修造らは「高度に社会的アレゴリーに満ちた作品」などと論評している。岡本自身は《森の掟》の意図に関し「無意味である」と述べているが、巧みなカモフラージュによって社会告発を企てた作品の説明としては、「無意味」と回答せざるを得なかったと考えられる。さもなければ発表や表現の機会さえ失いかねない社会状況であったことに、もっと留意されるべきである。作家の言説をストレートに受け止めて良いのかどうかについて熟考を要することは、古今東西の芸術研究において共通する課題である。また、岡本は《森の掟》について「《森の掟》の猛獣は、怖ろしい表情・容態と同時に、背中にチャックがついている。引っぱって開ければ、中味を暴露し、恐らくバカみたいなものになってしまうに違いない。しかし如何に馬鹿げたものであっても、それが力として通用する時、如何に人々の生活を根底から震駭させるか。誰でもがつい先だって経験したばかりである」と述べており、《森の掟》にカモフラージュした意図が「逆コース」とレッド・パージの告発であることを示唆している。この頃、岡本が、やや唐突なほど「縄文土器論」(1952年1月)を展開することとなるのも、こうした社会状況の変化した時期であった。岡本による縄文土器論の背景として、縄文土器を生み出した社会を称揚することで、レッド・パージ下で表現活動が抑圧されつつあった1950年代の日本の社会状況を告発しようと企てていたこと、あるいは社会変革運動とは全く関わりのない縄文時代を論じることで自らをカモフラージュしようとした可能性も考慮されるべきである。

1951年(昭和26年)11月7日、東京国立博物館縄文火焔土器を見て衝撃を受ける。翌年、美術雑誌『みずゑ』に「四次元との対話―縄文土器論」を発表。この反響によって、日本美術史は縄文時代から語られるようになったといわれている[6]。おなじように沖縄東北の古い文化や伝統を再発見し広く紹介した。もっとも、岡本による「縄文土器論」は、1951年11月1日発刊・発売の『芸術新潮』に掲載されている児童文学者の北畠八穂による記事「わびしい村―亀ヶ岡族の藝術―」と論旨展開が似ており、縄文土器を芸術作品としての視点で捉えている点や縄文土器とシャーマニズムとを結び付けて考察している点など、その近似性が繰り返し指摘されている。『芸術新潮』の常連執筆者の一人でもあった岡本が、同誌同号を発刊後間もなく読み、触発されて東博を訪問し自身の「縄文土器論」を執筆した可能性が高いことも考察されなければならない。

岡本太郎の縄文土器論の着想を、ジョルジュ・バタイユが主宰した雑誌『ドキュマン』に掲載された中谷治宇二郎による縄文土器に関する紹介記事(1930年)に求めるものがあるが、岡本が初めて縄文土器論を執筆した1952年から遡ること四半世紀の時間の隔たりがあることから、岡本が縄文土器論を展開し始める直接的な動機の説明としては無理があると考えられる。そもそも、岡本が当該記事を読んだことを論証する客観的証拠はどこにも存在しない。つまり、『ドキュマン』の中谷治宇二郎の縄文土器の記事は、その内容の面も含めて、岡本太郎が1951年11月7日に東博で縄文土器を観て、1952年に縄文土器論を発表するための直接的な要因の説明になっているとは言い難いのである。これは岡本太郎論において、バタイユを過剰に関連付けようとした事例の一つといえよう。

ところで、岡本太郎の「迷宮論」を縄文土器との関係で説明しようとするものもあるが、岡本が迷宮と縄文土器との関連性に関する明確な言説を最初に発表するのは、「迷宮のなかを行く」(1980年12月、共著『迷宮幻想』日本ブリタニカ)においてのことである。同書において、岡本は珍しくカール・ケレーニイ著『迷宮と神話』およびジャネット・ボード著『世界の迷路と迷宮』の翻訳書から長い引用をし出典も記している。また、岡本の文章にしては珍しくわずか1万8千字ほどの文中において9回のリフレインがある。これらのことは、岡本の文章においては極めて珍しく、明らかに岡本の他の文章とは文体が異なっているのである。同書には、ケレーニイ著『迷宮と神話』の翻訳者である種村季弘も寄稿しており、岡本同様にケレーニイ著『迷宮と神話』およびボード著『世界の迷路と迷宮』からの引用を行っている。さらには、同書の寄稿者の一人である日本建築史家の内藤昌までもがボード著『世界の迷路と迷宮』に言及しケレーニイ著『迷宮と神話』からの引用を行っている。これらを総合的に判断すると、企画制作会社のカマル社の編集者によって共通の資料が執筆者たちに提供されて執筆され、編集者によってリライトされた可能性を疑わざるを得ない(このことは、岡本敏子の記録に基づき、川崎市岡本太郎美術館学芸員・佐々木秀憲によって検証済み)。岡本による「迷宮のなかを行く」からケレーニイ著『迷宮と神話』およびボード著『世界の迷路と迷宮』に関わる部分を排除すると、その残りは「イニシエーションとしての迷宮」および「ヒエロファニーとしての迷宮」について述べている部分となる。これらは、いずれも、岡本が愛読し深い影響を受けた世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの著作に由来するものであり、1950年代前半から、岡本がしばしば自らの言説に活用してきた概念である。したがって、岡本太郎による迷宮論とは、縄文土器の観察を経て独自に誕生した理論ではなく、1950年代から慣れ親しんできたエリアーデの著作から修得した知識をベースに、『迷宮幻想』の企画編集者であったカマル社の編集者たちから提供されたケレーニイ著『迷宮と神話』およびボード著『世界の迷路と迷宮』から修得した新たな知識を追加して、1980年になって初めて両者を結びつけて考察されることとなった言説であると考えられる。

1954年(昭和29年)、東京都港区青山に自宅兼アトリエを建て[7]、生活と制作の拠点とする。同年、当時光文社社長だった神吉晴夫から、「中学1年生でも理解できる芸術の啓蒙書を書いてくれ」と依頼され、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を執筆・出版。芸術は小手先の問題ではなく、生きることそのものであると説くとともに、古くさい従来の芸術観を攻撃し、ベストセラーになった。同書において、岡本は「芸術」という言葉は、明治時代になって日本にもたらされた概念であると述べているが、この部分は明らかな錯誤である。諸橋大漢和によれば、「芸術」は、すでに漢時代に存在しており、諸芸術の総称として用いられている。また日本でも「芸術」は平安時代の日記文学に頻繁に登場し、今日の「絵画」とほぼ同義であった(『辻惟雄集 第1巻』2013岩波書店による)。

太陽の塔[編集]

太陽の塔

1970年(昭和45年)に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者(国)は紆余曲折の末、テーマ展示のプロデューサーを岡本太郎に依頼した。太郎は承諾すると、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。そうして出来上がったのが総高70mの《太陽の塔》である。ちなみに、シンボル・タワーである《エキスポ・タワー》は建築家・菊竹清訓の設計によるものであったが、《太陽の塔》の建造費用が増大したために、《エキスポ・タワー》建造費は削減され、4本足のタワーとなるはずが3本足のタワーとして建造された。そして、万博終了後、幾年か後に撤去された。

 1967年、テーマ展示プロデューサに就任後の最初の公式記者発表において岡本太郎は、高さ60mの「(仮称)生命の木」を作ることを発表しており、《太陽の塔》が樹木をモチーフとして造形されていることが判る。このことを裏付けるように、1967年10月26日撮影の原型制作中の岡本の記録写真(吉田優撮影)には、太陽の塔の原型に生命の木の枝と葉が下書きされている。また、左右に刻まれている2本の赤いジグザグは、ミルチャ・エリアーデの著作に記されている「シャーマンの木」の7つないし9つの刻み目(notch)から着想を得ていることが指摘されている。ちなみに、"notch"とは、単なる刻み目のことではなく、V字形の刻み目のことである。

《太陽の塔》の原型を制作中の記録写真(吉田優撮影)が、当時、岡本敏子によって記録アルバムとして作成され、現在、川崎市岡本太郎美術館に所蔵されているが、1967年10月26日付の記録写真の下に、岡本敏子の直筆でメモがあり、「太陽の塔の装飾、別のプラン、生命の樹を象徴」と記録されていることが、川崎市岡本太郎美術館の学芸員・佐々木秀憲によって確認された。これにより、諸説紛々であった《太陽の塔》の基本モチーフに関する議論に、一定の解決を見ることとなる。

岡本太郎による《太陽の塔》以前の作品を精査すると、1952年の《太陽の神話》において、モザイクタイル作品ながら、《太陽の塔》に直結する「樹木」、「太陽」、「月」のモチーフが既に確認できる。そして、1962年、池袋・西武百貨店前に設置された高さ約16mのモニュメント《メリーポール》(現存せず)は樹木をモチーフとする立体モニュメントであり、《太陽の塔》の造形と近似する部分が多い。これらのことを総合的に考察すると、《太陽の塔》は樹木を基本モチーフとして造形されていると考えるのが妥当である。

岡本太郎の《太陽の塔》が「縄文的」、丹下健三の《大屋根》が「弥生的」という言説は、後年、しかもかなり後になってから、当人たち以外から言われるようになったものであり、当人たちにはこうした意識は全くなかった。むしろ、当初の計画に変更を迫られることとなった丹下サイドと、後発ながら大規模な変更を迫ることとなった岡本サイドとの間には、一触即発のムードさえあった。

管見のかぎりでは、岡本自身による《太陽の塔》と縄文時代の土偶や縄文土器との関連性について述べられた言説は確認できない。1971年に岡本は「万国博に賭けたもの」というエッセイを著し《太陽の塔》について詳述しているが、ここにおいても《太陽の塔》と「縄文」とを結びつける言説は、岡本からは一切発されていない。《太陽の塔》を「縄文的」と述べた言説としては、管見の限りでは哲学者の梅原猛氏による「土偶の神秘」『人間の美術1 縄文の神秘』(1989年、学習研究社)が初見であるが、これは思弁的な言説に過ぎず、実証的に論証されたものではない。時系列的には、梅原氏による同書が刊行されたあと、岡本敏子をはじめ複数の論者がこれを追認するようにして《太陽の塔》と「縄文」とを結びつける言説を発表している。

《太陽の塔》は、当時の知識人たちから「牛乳瓶のお化け」「日本の恥辱」などと痛烈な批判を浴びた。しかし岡本太郎は、「文明の進歩に反比例して、人の心がどんどん貧しくなっていく現代に対するアンチテーゼとしてこの塔を作ったのだ」と反論した。このことは、岡本が「神像のようなものを造った」と言ったことと符合しており、《太陽の塔》が「生命の木」であり「シャーマンの木」として構想されたことと一致する。「国の金を使って好き勝手なものを造った」という批判に対しては、「個性的なものの方がむしろ普遍性がある」と反論した。

また、この頃、岡本は《明日の神話》制作のために日本とメキシコの間を頻繁に往復していた。そのため、最初の記者会見で高さ60mの「(仮称)生命の樹」を制作する旨を発表した後、当時の電波媒体系のコメンテーター等から、メキシコの民芸品の「生命の樹」を大型にしたものと疑念を抱かれ、「メキシコのものまね」と揶揄され、そうしたものが国家予算を掛けて万博会場に制作されることは不適格であるとする批判が噴出した。この辺りに、当初の「(仮称)生命の樹」から「太陽の塔」に改名せざるを得なかった事情があると考えられる(臼井史朗の証言による)。当時のこの批判を記憶している人があまりにも少ないことは、極めて遺憾である。(70‐80歳代の人に記憶する人が多い。)

《太陽の塔》の形式が縄文土器の「土偶」から取材されていると主張する説もあるが、このことを証明する為の客観的証拠は皆無である。また、この説の決定的な欠点は、縄文時代の土偶の特徴が四肢を明確に造形することにあるのに対し、《太陽の塔》には2本の脚が無い点である。縄文時代の土偶は呪術に用いられる「ひとがた」であったために四肢が明確に造形されることが通例であった。民族学や宗教学に精通していた岡本がこの根本的な造形の原理を無視するとは考え難い。また岡本が写真に撮影した縄文時代の土偶もすべて2本脚の土偶である。これに対し2本の脚の無い「土偶」は、古墳時代の「はにわ」であり、岡本が「縄文」を造形したとする説とは矛盾することとなる。《太陽の塔》の造形は、むしろ静的であり、「弥生的」ですらあるのである。一方、川崎市岡本太郎美術館の《母の塔》には脚部(7脚)があり、《太陽の塔》に脚部がない理由が、単なる意匠上あるいは建築技術上の問題によるのではない、必然的な理由によることを傍証している。

《太陽の塔》の頂部である「黄金の顔」が本体から切り離されて鉄骨で設置されていることのみに着目し、ジョルジュ・バタイユが主催した「アセファル(無頭人)」をモチーフとした形式であるとする説は、根本的に誤りである。なぜならば《太陽の塔》には「黄金の顔」が存在し「無頭人」の形式になっているとは到底言えないからである。「顔」(英語の「head 」、仏語の「tete」の部位に相当)があるのに「無頭人」と主張することは論外である。これなどは、岡本太郎論に関しバタイユを過剰評価した最も残念な主張の一つといえる。

主催者が塔の内部に歴史上の偉人の写真を並べるつもりだったが、太郎は「世界を支えているのは無名の人たちである」として、無名の人々の写真や民具を並べるよう提言。実現させた。

塔の目の部分をヘルメット姿の男が占拠すると、万博中止を訴えたアイジャック事件の際には狂喜して、居合わせたマスコミに対し「イカスねぇ。ダンスでも踊ったらよかろうに。自分の作品がこういう形で汚されてもかまわない。聖なるものは、常に汚されるという前提をもっているからね」と言った。

日本万国博覧会は成功のもとに終了。1975年(昭和50年)、《太陽の塔》は永久保存が決定。現在も大阪のシンボルとして愛されている。

茶の間の人気者として[編集]

1970年代以降は、芸術や著述のみならず、テレビなどにも進出。日本テレビバラエティ番組鶴太郎のテレもんじゃ』にレギュラー出演。冒頭でリヒャルト・シュトラウスツァラトストラはかく語りき』を鳴り響かせ、ドライアイスの煙の立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、 「芸術は爆発だ」「何だ、これは」と叫びながら現れる演出が人気を博すと、流行語にもなった。番組内で出演した子供たちの絵を批評、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。またこの番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。

1987年(昭和62年)にはテレビドラマにも出演。NHKばら色の人生』に俳優(学校校長役)としてレギュラー出演した。

没後[編集]

南青山にある岡本太郎記念館

太郎は老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。

1996年(平成8年)1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により慶應義塾大学病院にて死去した(満84歳没)。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮するため、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には太郎の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。


1998年(平成10年)、青山の太郎の住居兼アトリエ岡本太郎記念館として一般公開された。

1999年(平成11年)10月30日、川崎市岡本太郎美術館が開館(川崎市多摩区枡形の生田緑地内に所在)。

2003年(平成15年)、メキシコで行方不明になっていた大作《明日の神話》が発見された。愛媛県東温市で修復されたのち、2006年(平成18年)、汐留日テレプラザで期間限定で公開、岡本太郎再評価の機運が高まる。現在は京王井の頭線渋谷駅連絡通路に設置され、広く一般に公開されたパブリックアートととして新たな名所となった。

2011年(平成23年)、「生誕100年 岡本太郎」展が東京国立近代美術館で開催された。この展覧会を区切りとして、岡本太郎研究は、堰を切ったかのように、次なる段階へと進展した。

2013年(平成25年)、「岡本太郎のシャーマニズム」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。これに併せて学術団体協力による学術シンポジウムが開催され、1950年頃以降の岡本太郎の創作活動に世界的宗教学者ミルチャ・エリアーデの思想が多大なる影響を与えていたことが、学術的に確認された。同展では岡本太郎の創作活動をイコノロジー図像解釈学)研究の観点から再構成する画期的内容が展開され、各方面からの注目を集めた。同展開催以前は、1960年代以降の岡本の絵画作品の位置づけは未着手のままであり未評価あるいは否定的ですらあったが、1960‐70年代の絵画作品における岡本の思想的深まりを人文科学関連諸学の観点に基づいて評価し位置づけて紹介した初の機会となった。

2014年(平成26年)、「岡本太郎と潜在的イメージ」展が川崎市岡本太郎美術館で開催された。同展は、スイス・ジュネーヴ大学教授のダリオ・ガンボーニ博士の助言の下に、同氏の著書『潜在的イメージ』に基づいて構成された内容であり、岡本太郎芸術を西洋近現代美術史の観点から検証した初の展覧会であった。従来、日本人の美術評論家等により岡本太郎は独自の創作活動を展開した孤高な作家とされてきたのに対し、同展では岡本の個人様式が西洋近現代美術の諸様式に追従するように展開していることを検証した。岡本太郎の造形作品を美術様式論として紹介した意欲的な展覧会であり、岡本太郎の創作活動を論じるには日本美術史の観点からのみでは無理があることを実証した。また、パリ時代の岡本の住所が判明し同展図録で紹介された。さらに、アヴァンギャルド芸術研究を専門とする美術史家グラディス・ファーブルGladys Fabre)博士によるアプストラクシオン・クレアシオン協会に関する1976年の論文が初めて翻訳され同図録に掲載された。同展以降、ヨーロッパ、とくにスイス系の芸術家と岡本との交流に関する研究が不十分であったことが認識されるようになり、現在、研究者各位によって調査が進展しつつある。

人物[編集]

芸術観[編集]

芸術一家に生まれ、一般的な躾を全く受けずに育った太郎は、少年期より既存概念にとらわれる事がなく、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には、徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。

東京美術学校(現東京藝術大学)油絵科の入試対策として、川端画学校に通いアカデミックな絵画技法を修得した。また、パリ滞在のごく初期である1930年頃にも、パリの画学校であるアカデミー・ランソンに午前、グランド・ショーミエールに午後通い、極めてアカデミックな絵画技法の修得に努めている。この頃の鍛錬が、結局のところ、後年の岡本の長期にわたる造形制作活動を支え続けたと考えるべきであろう。

岡本太郎の芸術観は、パリ滞在時代に参加した美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会に所属している間に醸成されたと考えるべきである。特に、ジャン・アルプとは親しく、芸術観も近似していた。ニューヨーク近代美術館アルフレッド・バー・ジュニアは1936年に刊行した図録 "Cubism and Abstract Art" において、抽象芸術を「幾何学的抽象」と「非幾何学的抽象」の2通りに分類し、「非幾何学的抽象」は不純であるとして否定的であった。バー・ジュニアによるこの言説には多々問題があるものの世界的な影響力があった。この観点から考えると、アルプや岡本太郎らは「非幾何学的抽象」に属することとなり、彼らには不都合であった。第2次大戦後、岡本が「対極主義」なる主張をせざるを得なかったのは、自らを「非幾何学的抽象」と称する訳にはいかなかったからであろう。ちなみに、バー・ジュニアの当該図録には有名な近代美術の系統図が掲載されているが、これを岡本は著書『画文集・アヴァンギャルド芸術』(月曜書房1948年)に翻訳して掲載している。もっとも、「非幾何学的抽象」と記す代わりに「シュルレアリスム」と改変し、「幾何学的抽象」を「抽象主義」と改変し、その両者を画面で対峙させて提示する自らの芸術を「対極主義」としている。後年、岡本は「対極主義」について反弁証論主義などを謳ってはいるが、「対極主義」とは、本来は「非幾何学的抽象」というレッテルへの反論であったと考えるべきであろう。言論先行で生まれた主義主張ではないことに、もっと留意されるべきである。

岡本太郎が生涯にわたって制作した作品を個人様式として精査すると、1930年代のパリ時代の作品から1950年代末ころまでの作品群には、第2次世界大戦を挟みながら、緩やかな様式変遷は確認できるものの、様式上の断層や新展開のようなものは認められない。一方、岡本の個人様式として明確な断層あるいは新展開が確認できるのは、1960年代に台頭するカリグラフィックな形式の作品(《風神》や《赤のイコン》など)や非具象的な形式の作品(《具現》や《想念》など)においてである。為政史の画期と芸術様式の画期とが必ずしも一致しないことは、芸術史においてはむしろ恒常的なことであることにも、もっと留意されるべきである。

著書「今日の芸術」の中で、「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒する事こそが真の芸術と説いている。

岡本太郎は、パリ滞在期間の1932年頃にパリ大学ソルボンヌ校においてヴィクトール・バッシュ教授の下で主にヘーゲル美学を学んでおり、西洋近代美学および芸術理論に精通していた。したがって、岡本太郎芸術の理解には西洋近代美学・芸術学の視点が不可欠であり、日本美術史のみの観点で理解しようとするには無理があり注意を要する。同時期のソルボンヌ校では、アンリ・フォションが美術史の講座を担当しており、その下へ美術史家の吉川逸治が留学していた。パリ時代の岡本と吉川との間には交流があった。アンリ・フォションの研究者によれば、彼の日本人学生に関する記録の中に岡本の名前が確認できないことから、岡本がフォションの講義を受講した可能性はないという。もっとも、アンリ・フォションの著書『形の生命』のフランス語初版は1934年に刊行されており、岡本太郎が購読した可能性は考えられる。岡本太郎の代表的著書『今日の芸術』(1954年)における古今東西の美術作品を渉猟しながら芸術の諸問題に関して論じる文体は、フォションの『形の生命』と通底する部分もある。今後、岡本の『今日の芸術』とフォションの『形の生命』との比較研究が芸術学の専門家によってなされることが期待される。

岡本太郎の代表的著作の一つである『美の呪力』は、ミルチャ・エリアーデ著『イメージとシンボル』と近似する部分が多いことが指摘されている。岡本はエリアーデによる同書フランス語初版を所持しており、多数のアンダーラインが施されていることが確認されている。今後、岡本の『美の呪力』とエリアーデの『イメージとシンボル』との比較研究が宗教学の専門家によってなされることが期待される。

岡本太郎の作品には意味はないとか、作品に込められた意図、意味、思想の解明に努めることは意味がないとする学識経験者(日本美術史の専門家に散見される)もいるが、これは誤りであると考えられる。岡本は著書『私の現代芸術』(1963)において「私は絵画の訴えるのは単なる視覚、美感覚ではないと考える。(中略)ところが近代造形は意味、内容、思想を不純物のように否定してしまった。(中略)問題はそこにあると思う」(313頁)と述べており、絵画とは思想や信条が反映されるべきものであることを力説している。このことは、西洋美術にあっては、むしろ、通常のことである。美術史学の本来の研究課題は、「芸術意志」("Kunstwollen", Stilfragen by Alois Riegl)の解明にあり、その手法として「美術様式論」や「図像解釈学」などの研究方法が発達してきたことは、東西両文化圏の美術史学者の間で広く認知されていることである。

「職業は人間」「芸術は爆発だ」「芸術は呪術だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した事でも有名である。[8]

一般的には岡本太郎はお笑いタレントにモノマネされたことなども影響してか、「目玉ぎょろりの爆発おじさん」という印象が強くなってしまい、人物としてなかなか正当に評価されてこなかった(もっとも、本人はそれを喜んでいた)。岡本太郎没後、岡本敏子らの著作や岡本太郎記念館川崎市岡本太郎美術館による啓蒙活動によって再評価されることとなり、芸術を志す者のみならず広く一般にも共感と影響を与えることになった。

自らの作品をガラス越しで展示されるのを非常に嫌い、そのままの状態で鑑賞してもらうことを善しとする考えであった。それを表す逸話として、国立近代美術館で展示中だった《コントルポアン》を傷つけられたことがあり、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると太郎は激怒して、「傷がつけば、俺が自ら直してやる」とまで言ってのけたという。渋谷駅の駅ビルのような位置づけである渋谷マークシティという、渋谷駅からの電車の微振動や乗降者数の多さ、そして気温・湿度の激しい変化に晒されるなどとても設置場所としては不向きなところに展示される《明日の神話》も、以上の理由で何の防護措置も施されずに展示されることになった。

恋愛観[編集]

プレイボーイとしても名を馳せ、封建かつ閉塞的な男女関係をことに嫌った太郎は、徹底したフェミニスト・ロマンティストである[1]。女性を見下したりすれば、たとえ相手が誰であろうと激しく叱責した[1]

また太郎は、生涯独身を通した。秘書であった岡本敏子を養女とする。太郎は多くの女性との恋愛を志向。これは母かの子の影響に起因するものと思われる(知ってるつもり!?の岡本太郎の回などではこのように触れている)。

スポーツ[編集]

じっとしている事が嫌いな太郎は、野球が好きで巨人の千葉茂中西太らと野球を楽しんだ。

スキー愛好家としても知られ、親交があった三浦雄一郎から賞賛される程の腕前だった。太郎はスキーの魅力について「どんな急斜面でも直滑降で滑るのがスキーの醍醐味だ」と語っている。スキーを始めた頃、急斜面コースで上級者が滑っているのを見た太郎は、どんな絶壁なのかと思い登ってみると、実際目もくらむ程の高さであった。後に引くことが許せない性格の太郎はその急斜面に挑戦した。結果は大転倒したが、太郎自身その経験をこう語っている。

「決意して、滑りはじめ、歯を食いしばって突っ込んで行った。とたんに、ステーンと、凄い勢いで転倒した。頭から新雪の中にもぐってしまい、何も見えない。だが嬉しかった。何か自分が転んだというよりも、僕の目の前で地球がひっくりかえった、というような感じ。地球にとても親しみを覚えた」

また、太郎は当時流行していた白いスキー板と白いウェアに対抗して、カラフルなデザインの板とウェアを作ったり、自らのスキー体験を綴った「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社、絶版)という本も出版している。

ピアノ[編集]

太郎は1930年代の滞欧時代からピアノに親しんでおり、芸術家仲間の集まりでもよく弾いたという。とくにモーツァルトの作品を好み、帰国後もアトリエにピアノを置き、制作の合間にクラシックやジャズなどを弾いた。太郎のピアノの腕前はプロ級と言われており、その演奏はほとんどが暗譜であったという。太郎がピアノを弾いた映像はいくつか残されており、1978年(昭和53年)にはドキュメンタリー番組『もうひとつの旅』(毎日放送)の撮影のため、ショパンゆかりの地マヨルカ島を訪れ、太郎が作曲家の使用したピアノを弾く映像がテレビ放映された。

その他[編集]

ビフテキを調理中(1954年)
  • 俳優の池部良は父方の従兄弟である。
  • 身長156㎝とかなりの小柄であった。(1940年頃の日本人男性の平均身長は、約160cmであった)
  • それまで全く面識がなかった千葉茂に偶然出会った際、お互い「やあやあ」という感じで話し始め、それをきっかけに交友がはじまったという。これが縁となり後日千葉が近鉄バファロー(後のバファローズ)の監督に就任した際、太郎に球団マークの制作を依頼し「猛牛マーク」が生まれる。シーズンは103敗と散々な結果に終わるが、球団帽の売り上げは巨人に次いで2位だったという。
  • 1964年(昭和39年)に開かれた東京オリンピックで、デザインの仕事を依頼される。当初「選手として参加するのか」と勘違いした [9]。そして参加メダルの表側を手がける[10]
  • 1967年(昭和42年)1月、沖縄県久高島に残る風葬を撮影した写真を発表し、タブーを犯したとして酷評される。もっとも、1966年12月のイザイホーを調査する為に久高島を訪問した多くの学識経験者は、現地の代表者に案内されて風葬の地を訪れ写真や映像を撮影している。岡本と同時に案内されたのは約10名であったという。これは、この当時すでに消滅しそうになっていた風葬の風習を記録に残してもらいたいとの現地代表者の善意から発したものであったという。この件で問題とされるのは、岡本の写真に、案内された風葬の奥の地の部分が撮影され、しかも棺桶の蓋が開いている写真があった為に、岡本が蓋を開けたのではないかと疑われたことによる。もっとも、風葬の奥の地の棺桶の蓋が開けられている写真や映像は、他の学識経験者たちも撮影している。この批判に対して岡本は、案内した現地代表者に迷惑が掛かることを気遣って沈黙を保ち続けた。近年も、風葬に関する岡本への批判を回顧する言説が、時々、述べられているが、「何が問題とされたのか」が曖昧であったり、そもそもの問題点を正確に把握していなかったりするものも少なからずあり、注意を要する。また、この件が原因となって自殺者が出たとか、精神を病んだ人がでたという噂は、全くの事実無根であることが確認されている(沖縄テレビ「岡本太郎が恋した沖縄」2012年)。
  • 1970年(昭和45年)に開かれた大阪の万国博覧会のテーマ展示館で、太郎の代表作ともいわれる《太陽の塔》の形式は、ピカソとの関連性を主張する者もあったが、岡本太郎研究が進展した今日では、むしろジャン・アルプの系統とする見解が普通である。[11]。《太陽の塔》の基本モチーフは樹木であることが判明している。
  • 絵具に人工漆のカシューと和絵具の胡粉を用いた作品もある。特殊な事例ではない。
  • 著書『日本の伝統』のための取材以来、岡本にとっての関西方面の主なコーディネーターは、名編集者として知られた淡交社の臼井史朗であったことは、あまり知られてはいない。
  • 作家の司馬遼太郎は、大阪万博プロデューサーを引き受けるべきか否かの相談を受け、就任するよう強く薦めた。
  • ドイツ出身のフランス写真家ゲルダ・タロー(Gerda Taro)は、太郎の名の東洋的な響きに惹かれてタローを姓にした。
  • 太郎は東京・日本堤にある老舗馬肉料理店「中江」の常連のひとりで、店主とも交友を持つほか、店主に「僕がフランスで食べた馬肉のタルタルステーキをこの店でも食べられるようにしてくれ」と提案・依頼し、馬肉のタルタルステーキがメニューに加えられた逸話がある。
  • 写真家の荒木経惟は、尊敬する人物に太郎の名前を挙げている。好きで好きで堪らなかったが遂にはレンズを向ける機会に恵まれなかった。1999年(平成11年)に『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』を上梓。2006年(平成18年)より、太郎の正体をつかむ為にその作品をカメラに収めることを決意した。
  • 鳥取県米子市野坂寛治元市長と親交があった。安田光昭(元米子市教育長)は著書『「あの人この人」私の交友録』に「さて岡本の太郎さんだが、昭和何年ごろか記憶がシャンとしないけど、出雲の国に旅をした帰りだといってヒョッコリ米子へやって来て、野坂のおじさんとしばらくぶりに語りたいという。“ヤッちゃんお前も付き合わさいやい”と皆生のひさご家で晩めしということになった。岡本太郎という人は、独身主義だと聞いていたが、チョッとした婦人が一人付き添って、離れようとはしないので“ありゃ何でしょう”と市長に言うと“詮索無用”と一喝され、あれなら私も独身通せば良かったと思った。太郎さんは市長を市長さんとも野坂さんとも言わず“小父さん、小父さん”と呼びながら、おやじさんの追憶談に花を咲かせていたが、御母堂かの子さんの話となると、まゆに八の字寄せたようになる。“失礼ながら太郎さんよ、かの子夫人はお父さんも、ずいぶん持て余されたように見受けたな。あれが正に悪妻というものであろう”ひどい事をじいさん言うと思ったところ、令息岡本太郎さんが“子供の私はおよそ母の愛というものを、感ぜずじまいに終わりました。むしろ私は母をにくみました”そういう述懐を聞くにおよび、巷間いささかその性格が、尋常ではないなどといわれる岡本画伯の生い立ちを、チラリとのぞき得たような感がした。」と書いている。
  • 《犬の植木鉢》は、1954年に、常滑の伊奈製陶で3体制作された。伊奈製陶で《犬の植木鉢》制作中の岡本太郎のスナップショットが残されており、そこに3体が写っている。3体の内、1体は岡本太郎記念館蔵、もう1体は川崎市岡本太郎美術館、そして3体目は個人蔵である。制作は、1954年11月19日に常滑の伊奈製陶にて行われ(スナップショット有)、1955年1月7日に焼き上がったので送る旨の連絡が伊奈製陶から岡本太郎にあった記録が確認されていることから、《犬の植木鉢》の制作年は1955年作とするのが妥当である。なお、その後、岡本自身が1955年2月6日に女流陶芸家の辻輝子氏の工房(当時は東京・世田谷松陰神社前)に《犬の植木鉢》を持参し、型取りを依頼している記録も確認されている。最近、刈谷市の日本陶管関係者近辺から小型の《犬の植木鉢》が複数所蔵されていることが公表されたが、これらは型から制作されたものかと考えられる。なぜならば、陶磁の場合、焼成工程において20%から30%ほどの焼き縮みが生じるからである。すなわち、型を作り焼成すると型のサイズはオリジナル作品の70‐80%となってしまう。この型を用いて複製作品を制作すると、さらに焼き縮みがするため複製作品は型のサイズの70‐80%になってしまう。つまり、型から作った複製作品は、オリジナル作品に対し64%―49%のサイズとなってしまうからである。オリジナル作品の幅が79cmであるのに対し、刈谷市で所蔵されているものは50cm前後のものである。1950年代当時の辻輝子窯は陶芸作家用の垂直式の小型の窯で量産用の窯ではなかった。岡本が辻輝子窯製の《犬の植木鉢》の型を刈谷市の日本陶管に持ち込み量産の検討をしたか否かについては不詳であるが、50cm前後の《犬の植木鉢》が同社関係者周辺に所蔵されていることは興味深い事実であり、今後、さらなる研究が期待されている。
  • 近年、岡本太郎が世界的宗教学者であるミルチャ・エリアーデ(1907‐1986)の著作から思想的に大きな影響を受けていることが指摘されている(佐々木秀憲「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号2011年冬、美学会)。
  • 岡本太郎没後の再評価とブームは、岡本太郎の秘書であり養女であった岡本(旧姓平野)敏子(2005年逝去)の多大なる尽力に負うところが大きい。一方、岡本太郎に関する最善・最良・最高の語り部ではあったものの、近親者ならではの部分、そしてフランス語が得手ではなかったことによるフランス語に関わる岡本太郎情報の欠落などもあり、ポスト生誕100年の研究動向として、岡本敏子情報以外による岡本太郎像の描出が進展しつつあるのが現状である。殊に、2011年以降の研究の新展開は目覚ましく、岡本太郎伝説の繰り返しと交友関係の広さの紹介に終始する傾向が強かった論調を脱し、美術史学的な研究法(美術様式論および図像解釈学など)による本格的な研究が展開されている。その結果、岡本太郎研究に関し、2011年頃から、主に岡本敏子の証言を最重要視し論旨展開する守旧的な「伝誦派」と、客観的証拠を提示しながら実証的かつ検証的に論旨展開をする人文科学的な「実証派」とに二分化しつつある状況にある。2011年以前の研究には史資料批判が不十分なものが多く、論文形式の文章であっても分析の浅い学術性に乏しいものが少なくないので注意を要する。
  • 岡本太郎の文章はほとんどが岡本敏子によって口述筆記されたものであることを根拠に、岡本太郎の言説は敏子の思想によるものであると曲解する説が昨今みられるが、岡本太郎と親交のあった作家であり政治家である石原慎太郎氏は、作家ならではの鋭い感性と洞察力により、岡本敏子は優れた秘書として口述筆記および構成に尽力したのであって、その言説の思想性は岡本太郎がいて初めて成立する内容であることを証言している。岡本太郎の言説の中に、岡本敏子の思想を見出したいのであるならば、巷間に流布する根拠不明の噂話しを軽々に鵜呑みにするのではなく、実証的に解明されるべきであり、慎重であるべきである。
  • 岡本太郎の造形作品の作品名は、すべて岡本敏子によって付けられたと曲解する説もあるが、これも根拠不明の俗説であり学術的に実証された事例はない。岡本太郎作品の命名に関しては、いくつかのケースが確認できる。岡本敏子および評論家などから作品名が提案された事例もあるが、注目すべきは、この場合でも岡本が納得し了解した場合にのみ採用されていることであり、濃淡の差はあれ岡本の意図が反映されているのである。作品名は作品の一部であり、作品の解釈は作品名の範囲内で許容されることは、ウンベルト・エーコ著『開かれた作品』などで詳述されており、世界的に賛同されている近現代芸術の理論である。1930年代のパリにおける作家としての活動を通して、岡本はこのことを体験的に修得していたと考えられる。

年譜[編集]

  • 1911年明治44年)2月26日、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子/現在の川崎市高津区二子に生まれる。
  • 1917年大正6年) 東京・青山の青南小学校に入学
  • 1918年(大正7年) 2回の転校ののち、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学。
  • 1929年昭和4年)
  • 1936年(昭和11年) 油彩《傷ましき腕》(1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》とあり、パリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語タイトルが付されていたことが判明)を制作。アンドレ・ブルトンに絶賛される。二人の交流を裏付けるものとして、戦後にブルトンから岡本に贈った献呈本も何冊か確認されている。
  • 1940年(昭和15年) パリ陥落の直前に帰国。
  • 1942年(昭和17年) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳にして受け、甲種合格。召集され、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊生活を送る。
  • 1945年(昭和20年)5月、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾による空襲により、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失。
  • 1946年(昭和21年) 復員、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える。
  • 1947年(昭和22年) 後に養女となる平野(旧姓)敏子と出会う。
  • 1948年(昭和23年) 花田清輝埴谷雄高らと「夜の会」結成。
  • 1949年(昭和24年) 翌年の現代美術自選代表作十五人展ために、読売新聞美術記者・海藤日出男のたっての希望により、戦災で焼失した油彩画《傷ましき腕》《露天》を再制作。
  • 1950年(昭和25年) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品。
  • 1951年(昭和26年) 東京国立博物館で縄文土器を見る(11月7日)。
  • 1952年(昭和27年) 「縄文土器論」を美術雑誌『みずゑ』に発表する。11月に渡欧。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く。
  • 1954年(昭和29年) アトリエを青山に移し「現代芸術研究所」を設立。『今日の芸術』を光文社からはじめて刊行。
  • 1955年(昭和30年) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く。
  • 1956年(昭和31年) 旧東京都庁舎(丹下健三設計)に《日の壁》《月の壁》など11の陶板レリーフを制作。
  • 1957年(昭和32年) 46歳にしてスキーを始める。
  • 1959年(昭和34年) 初めて沖縄に旅行する。またこの年から彫刻を始める。
  • 1961年(昭和36年) 草津白根山でスキー中に骨折入院(同じ病院には石原裕次郎が入院していた)。療養中に油彩『遊ぶ』、彫刻『あし』を制作。
  • 1964年(昭和39年) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン。
  • 1965年(昭和40年) 名古屋久国寺に梵鐘《歓喜》制作。
  • 1967年(昭和42年) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。
  • 1968年(昭和43年) 初めての建築作品《マミ会館》が竣工。
  • 1970年(昭和45年) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館《太陽の塔》完成。
  • 1973年(昭和48年) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ。スポンサーは積水ハウス
  • 1974年(昭和49年) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画《天に舞う》制作。
  • 1976年(昭和51年) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として《顔のグラス》を制作。「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」が流行語になる。
  • 1977年(昭和52年) スペイン国立版画院に、日本人作家として初めて銅版画が収蔵される。
  • 1978年{昭和53年) 毎日放送のテレビ番組『もうひとつの旅』撮影のために訪れたマヨルカ島で、ショパンが使用したピアノを弾く。
  • 1979年(昭和54年) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作。はじめての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される。
  • 1981年(昭和56年) 初めてコンピューターで絵を描く。日立マクセルのCMに出演。ピアノを叩き叫んだ言葉「芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を受ける。
  • 1984年(昭和59年) フランス政府より芸術文化勲章を受ける。
  • 1985年(昭和60年) つくば万博のシンボルモニュメント《未来を視る》を制作。あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインする。こどもの城のシンボルモニュメント、《こどもの樹》を制作。
  • 1986年(昭和61年) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長として舟を漕ぐ。
  • 1988年(昭和63年) ダスキンのCMに出演。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞。
  • 1989年平成元年) フランス政府よりフランス芸術文化勲章を受章。
  • 1991年(平成3年) 東京都庁舎移転のため、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板レリーフが取り壊される。
  • 1992年(平成4年) 油彩《疾走する眼》制作。
  • 1994年(平成6年) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント《であい》制作。
  • 1996年(平成8年)1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去(満84歳没)。

没後[編集]

  • 1998年(平成10年) 青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館。
  • 1999年(平成11年) 神奈川県川崎市多摩区生田緑地内に川崎市岡本太郎美術館開館。
  • 2005年(平成17年) 養女・岡本敏子逝去(79歳)。
  • 2006年(平成18年)
    • 7月7日 大作の壁画《明日の神話》が汐留日テレプラザにて初公開される。これを期に岡本太郎ブームが再燃する(Be TAROと呼んでいる)。
    • 11月28日 約60年間行方不明になったものと思われていた1947年(昭和22年)制作の油彩画《電撃》と、敏子をモデルとしたと見られる未発表の女性のデッサン画が、11月中旬に東京都港区の岡本太郎記念館で発見されたと発表。
    • 11月29日《電撃》を一般公開(修復に出す12月10日までの期間限定)。
  • 2007年(平成19年)2月15日 《明日の神話》の制作初期のものとみられる最初期の下絵(縦29センチ、横181.5センチ)が、岡本太郎記念館(東京都港区)で発見される。
  • 2008年(平成20年)3月 《明日の神話》の恒久設置場所が東京都渋谷区京王井の頭線渋谷駅連絡通路に決まる。同年11月17日より一般公開開始。
  • 2011年(平成23年) 1月 太郎の生誕100年を記念し出身地の川崎市を本拠地とするJリーグ所属の川崎フロンターレがユニホームデザインの一部として、生前に製作したデザイン文字「挑」を採用することを発表。

主な作品[編集]

平面作品[編集]

※所蔵先記載無は、川崎市岡本太郎美術館蔵

  • 敗惨の歎き(1924年)- 現存する太郎の最古の作品。
  • 空間(油彩、1933年)- 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • コントルポアン(油彩、1935年東京国立近代美術館蔵) - 戦災により焼失し、1954年に再制作された。
  • 傷ましき腕(油彩、1936年)- 戦災により焼失し、1949年に再制作された。満州鉄道のプロパガンダ雑誌である『FRANCE-JAPON』誌の1937年9・10月合併号の97頁において《傷ましき腕》がモノクロ挿絵付で作品名《La Main douloureuse》として紹介され、また1938年の国際シュルレアリスム・パリ展の出品リストには《La Main douloureuse》と記されていることから、同作品は、岡本のパリ滞在時代から《傷ましき腕》に相当するフランス語のタイトルが付されていたことが判明している。
  • 露店(油彩、1937年グッゲンハイム美術館蔵) - 戦災により焼失し、1949年に再制作された。
  • 憂愁(油彩、1947年、草月美術館蔵)
  • 重工業(油彩、1949年
  • 赤い兎(油彩、1949年、富山県立近代美術館蔵)
  • 森の掟(油彩、1950年
  • 燃える人(油彩、1955年、東京国立近代美術館蔵)
  • 裂けた顔(油彩、1960年
  • 遊ぶ(油彩、1961年、東京国立近代美術館蔵)
  • 装える戦士(油彩、1963年
  • 愛撫(油彩、1964年
  • 千手(油彩、1965年
  • 明日の神話(油彩、1968年
  • 哄笑(油彩、1972年
  • 記念撮影(油彩、1975年
  • 黒い太陽(リトグラフ、1979年
  • 遭遇(油彩、1981年
  • 森の家族(油彩、1983年
  • 疾走する眼(油彩、1992年、岡本太郎記念館蔵)

立体作品[編集]

  • 顔(陶、1952年)- 全部で3点制作され、うち1点が一平の墓碑となっている。
  • 日の壁・月の壁(陶、1956年)- 旧東京都庁陶板レリーフ[12]
  • 坐る事を拒否する椅子(陶器1963年
  • 梵鐘・歓喜(ブロンズ、1965年
  • 若い時計台(コンクリート、アルミニウム、1966年)- 銀座数寄屋橋公園内に設置。
  • 午後の日(ブロンズ、1967年)- 東京都立多磨霊園にある岡本太郎の墓碑にもなっている。
  • 生誕 - 黒川紀章が設計し1967年竣工した山形県寒河江市役所のシャンデリアとして寄贈した。市役所5階部吹き抜け天井から鎖で吊るされ2階ホールに常設。
  • マミフラワー会館(鉄筋コンクリート建築、1968年)- フラワーデザイナー・マミ川崎の依頼で大田区山王に竣工されたが、建替えのため現存していない。
  • 若い太陽の塔1969年)- 愛知県犬山市日本モンキーパーク内に現存する。
  • 緑の太陽(1969年)- 大分県別府市田の湯町サンドラッグビルの陶板壁画。現存し、JR別府駅ホームからも見ることができる。
  • 太陽の塔(鉄筋コンクリート、1970年
  • ノン(FRP、1970年)
  • オリエンタル中村(現・名古屋三越 栄店)光るレリーフ大壁画(1971年)- 三越改称時に撤去されたため現存していない。
  • 樹人(FRP、1971年)- パリのフォーブール・サントノレ通りの芸術祭「街の美術館」で、祭りの王様に選ばれた。岡本太郎記念館、川崎市岡本太郎美術館、箱根彫刻の森美術館、山梨県立美術館に常設されている。
  • 躍進(陶、1972年)- 山陽新幹線岡山駅内の陶板壁画。
  • 千手(アルミニウム、1975年
  • 足あと広場(造園、1978年)- 広島県福山市松永町日本はきもの博物館中庭に造成。
  • 河童像(FRP、1981年)
  • 縄文人(ブロンズ、1982年
  • 神話(1982年) - 島根県松江市松江総合運動公園モニュメント。
  • 未来を視る(FRP、1985年)- つくば科学万博のシンボルモニュメント。2005年つくばエクスプレス万博記念公園駅前に移設。
  • こどもの樹(FRP、1985年)- こどもの城のシンボルモニュメント
  • 太陽(1985年)- 9月にそごう横浜店のオープンに合わせて屋上に建立された、万博の太陽の塔とは直接関係のないオリジナルのモニュメント。
  • 平和を呼ぶ像(1988年)- 10月に船橋市の平和都市宣言記念シンボル像として建立。
  • 未来を拓く塔(1988年)- ぎふ中部未来博のシンボルとして建立。跡地に作られた岐阜メモリアルセンター内に現存。
  • 母の塔(原作)
  • 歓び - 川崎市内の小学校にある作品。『赤いリボンの少女』などと呼ばれていたこともある。
  • 河神 (アルミ合金、1995年)- 青森県奥入瀬渓流ホテル内の暖炉彫刻。
  • 花炎 (陶、1995年)- 1996年7月、佐賀県有田町において開催されたジャパン・エキスポ「世界炎の博覧会」の記念モニュメントとして制作された噴水の作品。会期終了後、跡地は「歴史と文化の森公園」となり現在に至る。太郎存命中の最後の作品とされているが、本人がどこまで関与できたかは不詳(岡本太郎は1996年1月7日没)。

インダストリアル・デザイン[編集]

ギャラリー[編集]

書籍[編集]

作品集[編集]

  • 『OKAMOTO』(G.L.M.社、1937年) - 評論家ピエール・クールティオン編著による初の画集。フランスにて出版。(1冊目から30冊目までは連番が付された特製本であった。全発刊部数多数。30冊しか発刊されなかったと誤解して日本の古書市場で高額なのは疑問。欧州古書市場では、¥3,000~¥10,000が普通。G.L.M社が閉鎖されるまでは、同社を訪問しさえすれば、残部を数フランで入手できたとの証言がある。)ちなみに、クールティオンによってG.L.M.社から刊行されたクルト・セリグマンとの共著(1936年刊)の場合、販売用500部と関係者用30部、計530部が出版されたことが判っており、『OKAMOTO』も、少なくともこれと同程度の部数が出版されたことが考えられる。
  • 『画文集 アヴァンギャルド』(月曜書房、1948年)
  • 『T.OKAMOTO』(美術出版社、画集、1954年) - 仏語版も同時出版。
  • 『画文集 黒い太陽』(美術出版社、1959年)
  • 『岡本太郎』(美術出版社、画集、1968年) - 海藤日出男の編集。
  • 『絶対的、そして無目的に』(セリグラフィー、版画集、1974年)
  • 『デリシュール』(版画集、1976年)
  • 『TARO OKAMOTO 対極に遊ぶ男』 (画集、1976年) - フランスにて出版。
  • 『画文集 挑む』(講談社文庫、1977年)
  • 『岡本太郎』(平凡社、網羅的作品集、1979年)
  • 『遊ぶ字』(日本芸術出版社、墨蹟集、1981年)
  • 朝日美術館 日本編2『岡本太郎』(朝日新聞社、絵画・立体作品集、1995年)
  • 『歓喜』(二玄社、網羅的画文集、1997年)
  • 『TARO 川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集』(二玄社、網羅的作品集、2005年)
  • 『ドキドキしちゃう』(小学館、墨蹟集、2010年) - 「遊ぶ字」の再編集版。

評論・エッセイ等[編集]

編集著書[編集]

  • 『世界の仮面と神像』(朝日新聞社、1970年)- 泉靖一、梅棹忠夫との共編
  • 岡本太郎編『迷宮幻想』(遊びの百科全書⑩、日本ブリタニカ、1980年12月1日、企画制作:株式会社カマル社桑原茂夫)

監修著書[編集]

  • 福田和彦編 『日本名品聚芳』 全3巻(芳賀書店
    1. 『秘巻浮世絵』(1973年) - 小林和作埴谷雄高との共同監修
    2. 『秘巻浮世絵大錦』(1973年) - 同上
    3. 『秘巻肉筆浮世絵』(1973年) - 同上
  • 福田和彦編 『草紙本浮世絵名品選』 全4巻(芳賀書店)
    1. 『秘版 英泉』(1974年) - 小林和作、埴谷雄高との共同監修
    2. 『秘版 国貞』(1975年) - 埴谷雄高との共同監修
    3. 『秘版 国芳』(1975年) - 同上
    4. 『秘版 北斎』(1975年) - 同上

評伝[編集]

  • 『岡本太郎の全貌』(編集・山本太郎アトリエ社、1959年)
  • 『別冊太陽 日本のこころ94 岡本家の人びと』(平凡社、1996年)
  • 『芸術新潮 さよなら岡本太郎』(新潮社、1996年)
  • 『岡本太郎と横尾忠則』(倉林靖白水社、1996年)
  • 『岡本太郎に乾杯』(岡本敏子、新潮社、1997年)
  • 『芸術は爆発だ 岡本太郎痛快語録』(岡本敏子、小学館文庫、1999年)
  • 『岡本太郎の絵本 あいしてる』(舟崎克彦・文、小学館、1999年)
  • 『アラーキーのTARO愛 岡本太郎への旅』(荒木経惟 光文社、1999年、ISBN 4-334-97239-X
  • 『ユリイカ 1999年10月号 特集・岡本太郎』(青土社、1999年、ISBN 4-7917-0050-3
  • 『太郎神話』(岡本敏子編、二玄社、1999年)
  • 『岡本太郎が、いる』(岡本敏子、新潮社、1999年)
  • 『太陽の人・岡本太郎』(JTB、1999年、ISBN 4-533-03374-1
  • 『岡本太郎の世界』(岡本敏子、斎藤慎爾編、小学館、1999年)
  • 『岡本太郎宣言』(山下裕二、平凡社、2000年、ISBN 4-582-20633-6
  • 『「新」太郎神話』(二玄社、2000年、ISBN 4-544-02029-8
  • 『恋愛芸術家』(岡本敏子、マガジンハウス、2001年、ISBN 4-8387-1301-0
  • 『岡本太郎の遊ぶ心』(岡本敏子、講談社、2005年、ISBN 4-06-269252-X
  • 『Be TARO! 岡本太郎に出会う本』(学習研究社、2006年、ISBN 4-05-403165-X
  • 『岡本太郎と太陽の塔』(平野暁臣、小学館、2008年)
  • 『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝〈5〉岡本太郎』(ポプラ社、2009年)
  • 『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』(平野暁臣、PHP研究所、2009年)
  • 『岡本太郎という思想』(赤坂憲雄、講談社、2010年)
  • 『[新版]岡本太郎と横尾忠則』(倉林靖BOOKEND、2011年、ISBN 978-4-903295-37-4
  • 『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』(佐々木秀憲、東京美術、2013年)

映像出演[編集]

映画[編集]

  • 誘惑』 (1957年)- 原作:伊藤整、監督:中平康日活配給。東郷青児とともに画家役で出演。
  • 『岡本太郎 マルセル・モースの肖像』 (1975年)- パリ大学民族学教授、ジャン・ルーシュが手がけたドキュメンタリー映画。イタリアのアゾロ映画祭で芸術家の伝記大賞受賞。
  • 『山形は白い国 岡本太郎のスキー』 (1983年)- 山形県の観光映画。

テレビ番組[編集]

後年は民放テレビ局のバラエティ番組等にも積極的に出演していた。

死後の特集番組[編集]

テレビドラマ[編集]

本人出演
岡本太郎を扱った作品

CF[編集]

関連施設・団体・褒賞等[編集]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ a b c 新潮社「岡本太郎が、いる」"フェミニスト・自由人"より
  2. ^ テレビ出演の映像は今日もビデオアーカイブなどで見ることができる。
  3. ^ 夏目漱石の推薦によるという。
  4. ^ 《水差しと果物鉢》(Pichet et coupe de fruits)。油彩画で1931年制作。現在はソロモン・R・グッゲンハイム美術館に収蔵されている。
  5. ^ http://www.taro-okamoto.or.jp/chorology.html 岡本太郎記念館-岡本太郎年表]
  6. ^ 春原史寛「「縄文」は「芸術」か-岡本太郎の「縄文土器論」『縄文土器名宝展~縄文芸術の到達展~』山梨県立考古博物館、2011年
  7. ^ 友人の建築家・坂倉準三の設計による。ここで『燃える人』等の作品を生み出した。
  8. ^ 最晩年には、「爆発は今も続いている」という言葉も残している。
  9. ^ 岡本敏子の談話による。
  10. ^ なお裏側のデザインは田中一光である。
  11. ^ ヴァロリスの平和の殿堂のための戦争 1952年 ピカソ作
  12. ^ これらのレリーフ計11点は、1957年に都庁舎が建てられた際、1階正面ロビーや中二階などに設置された。特に、1階正面ロビーの「日の壁」は縦横7×6メートルの壁面を覆い、来庁者がまず目にする「都庁の顔」ともいうべき作品だった。1991年に都庁舎を解体する際、作品の材質や傷みを理由にいったんは廃棄が決まり、太郎も了承したが、瀬木慎一らが反対。最終的に太郎が個人的に引き取ることとなった。(朝日新聞 1991年3月10日 朝刊31面より)
  13. ^ 収録曲目は、レナード・バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団およびイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による、ベートーヴェン:交響曲第3番と、バーンスタイン:交響曲第3番。

参考文献[編集]

  • Dario Gamboni, Potential Images, Ambiguity and Indeterminacy in Modern Art, translated in English by Mark Treharne, Reaktion Books, London, 2002.
  • Abstraction-Création 1931-1936, Musée d’Art Moderne de la Ville de Paris et Westfälisches Landesmuseum für Kunst und Kulturgeschichte Münster, 1978.
  • J. W. Power Abstraction-Création Paris 1934, University Art Gallery and Art Collection, Sydney University, 2013.
  • Brassaï, Graffiti, Flammarion, Paris, 1993.
  • Alfred H. Barr, Jr., Cubism and Abstract Art, The Museum of Modern Art, New York, USA, 1936.
  • Man Ray 1890-1976, TASCHEN, 2000.
  • Le Musée des Années Trente, Somogy Éditions d’art, Paris, 1998.
  • Umberto Eco, the Open Work, translated in English by Anna Cancogni, Harvard University Press, 1989.
  • Joseph Gantner, Schicksale des Menschenbildes von der Romanischen Stilisierung zur Modernen Abstraktion, A.Francke AG, 1958.
  • Robert O. Paxton, Vichy France : Old Guard and New Order, 1940-1944, Columbia University Press, 1972.
  • Van Doesburg & the International Avant-Garde, Constructing a New World, Tate Publishing, 2009.
  • Modern Art in Northern Europe, 1918-1931, Electromagnetic, the National Museum of Art Architecture and Design, Oslo, 2013.
  • Martica Sawin, Surrealism in Exile and the Beginning of the New York School, the MIT Press, 1995.
  • Lewis Kachur, Displaying the Marvelous: Marcel Duchamp, Salvador Dali, and Surrealist Exhibition Installations, the MIT Press, 2003.
  • 世田谷美術館『世田谷時代の岡本太郎 1946-1954―戦後復興期の再出発と同時代人たちとの交流①』、2007年。
  • 川崎市岡本太郎美術館『北大路魯山人と岡本家の人びと』展図録、2005年。
  • 川崎市岡本太郎美術館『岡本太郎の絵画―衝動から実現まで』展図録、2006年
  • 川崎市岡本太郎美術館『開館10周年記念 岡本太郎の絵画』展図録、2009年。
  • 佐々木秀憲『もっと知りたい岡本太郎―生涯と作品』東京美術、2013年。
  • 『美術評論家著作選集 第8巻 松尾邦之助』ゆまに書房、2011年。
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎におけるミルチャ・エリアーデの影響」『美学』239号、美学会、2011年
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎のシャーマニズム―ミルチャ・エリアーデの影響」佐々木秀憲編『岡本太郎のシャーマニズム展図録』川崎市岡本太郎美術館、2013年
  • 江川純一・奥山倫明・近藤幸夫著『岡本太郎のシャーマニズム 学術シンポジウム報告書』川崎市岡本太郎美術館、2014年
  • 佐々木秀憲著「岡本太郎と潜在的イメージ」佐々木秀憲編『岡本太郎と潜在的イメージ展図録』川崎市岡本太郎美術館、2014年
  • 袖井林二郎著『マッカーサーの二千日』中央公論社、1974年。
  • 栗本慎一郎著『幻想としての経済』青土社、1980年。
  • 藤原聖子著『「聖」概念と近代』立正大学出版会、2006年。
  • 藤原貞朗著『オリエンタリストの憂鬱』めこん、2008年。
  • 明神勲著『戦後史の汚点 レッド・パージ』大月書店、2013年。
  • 辻惟雄著『辻惟雄集 第1巻』岩波書店、2013年。

関連項目[編集]

  • 岡本可亭 - 祖父、書家。北大路魯山人の師匠。函館の女学校にて書道を教えた経歴を持つ。編著『女宝』は、明治初期の女子教育の様子を知る上で欠かせない資料として、主にジェンダー問題の研究者によって注目されている。また、嫁・かの子が創作活動を存分にできたことは、岡本可亭の女子教育への理解の深さが背景としてあったと考えられる。
  • 岡本一平 - 父
  • 岡本かの子 - 母
  • 岡本敏子 - 養女
  • 池部良 - 従兄弟
  • 瀬戸内寂聴 - 秘書になってもらうよう頼んだことがある
  • ジミー大西 - 「君は画家になりなさい」と手紙を送った。
  • ジョルジュ・バタイユ - 1939年頃に思想上の相違から訣別したことを、岡本自身が繰り返し述べている。岡本太郎論においては、不必要なまでに、強引にバタイユと岡本とを関連付けようとするものが多くあり注意を要する。第二次大戦後の日本において、三島由紀夫や澁澤龍彦らによって諸外国以上にバタイユに高評価が与えられたためか、岡本もバタイユとの関係についてのコメントを繰り返し求められている。戦前のパリにおいてはともかく、戦後、岡本とバタイユとの交流は、1953年の挨拶程度の再会を除外すると、確認できる証拠は未だ発見されていない。
  • マルセル・モース - フランス社会学者エミール・デュルケームの甥。1940年ドイツ・ナチスのフランス占領によるユダヤ人迫害と公職追放の暴挙に伴い、パリ大学教授職をはく奪され、失意の中、1950年没。パリ大学では、宗教学、社会学、民族学の講座を担当した。「供犠論」「贈与論」「呪術論」「祈り論(未完)」が有名。晩年は「マナ」論に偏重した。岡本は、芸術を「マナ」の一種と理解していたと考えられ、「マナ」を生ぜしめる手段として「シャーマニズム」に興味を持つようになったと考えられる。また、マスクにも「マナ」と同様の機能があると岡本は考えていた。
  • ミルチャ・エリアーデ - 1950年代以降の岡本の文筆・造形活動にとって重要な影響を与えた。術語「ヒエロファニー」の提唱者であり、「シャーマニズム」や「イニシエーション」についても先駆的な研究を残している。岡本が面談した記録は確認できないが、エリアーデのフランス語著書初版6冊が岡本の蔵書に確認され、多数のアンダーラインや書き込みが確認された。よって、著作を通して岡本に多大な影響を与えたと考えられる。ルーマニア出身で、インド、ポルトガルと移り住み、パリに住むようになるのは、1943年以降である。よって、マルセル・モースの講座の出席者ではない(ミルチャ・エリアーデ著『ポルトガル日記』参照)。バタイユから『ドキュマン』への寄稿を依頼されたが断った記事がある(ミルチャ・エリアーデ著『エリアーデ日記』参照)。また、エラノス会議のホープとして、組織神学者のルドルフ・オットーならびに心理学者のカール・グスタフ・ユングから重用された。宗教現象学派の重鎮であり、研究史上はデュルケーム、マルセル・モース、およびルドルフ・オットー、ユングらによる「聖概念」の研究の延長上に位置づけられる(藤原聖子著『聖概念と近代』参照)。その影響力は日本の山口昌男大江健三郎栗本慎一郎そして岡本太郎らにまでも及んだ。代表的著書『シャーマニズム』(1951)の日本人研究者による最初の書評は、1959年、山口昌男によるもので学術誌『民族学研究』に掲載され日本でもエリアーデの存在が認知されるようになった。これよりも先に、フランス語が堪能であった岡本は、同書フランス語初版が発刊されて間もなく入手して読了したものと考えられる。
  • 丹下健三
  • 川端康成 - 戦後、太郎は鎌倉の川端康成宅に1ヶ月ほど居候していた
  • 北大路魯山人 - 太郎の祖父・岡本可亭に弟子入りし、そこから岡本家との家族ぐるみの付き合い
  • 司馬遼太郎
  • 藤山一郎 - 慶應義塾幼稚舎の同級生
  • 野口冨士男 - 慶應義塾幼稚舎の同級生
  • 勅使河原宏
  • 石原慎太郎
  • 荒川修作
  • 野坂寛治
  • ヤノベケンジ
  • 横尾忠則
  • 新藤兼人
  • 坂倉準三 - アトリエ(現・岡本太郎記念館)設計
  • 藤田嗣治

外部リンク[編集]