桂枝雀 (2代目)

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2代目 桂 枝雀かつら しじゃく
2代目 桂 枝雀
結三柏は、桂米朝一門定紋である。
本名 前田 達
まえだ とおる
生年月日 1939年8月13日
没年月日 (1999-04-19) 1999年4月19日(満59歳没)
出生地 兵庫県神戸市灘区
死没地 大阪府吹田市桃山台
師匠 3代目桂米朝
名跡 1. 10代目桂小米(1961年-1973年)
2. 2代目桂枝雀(1973年-1999年)
出囃子 昼まま
活動期間 1961年 - 1999年
活動内容 上方落語
配偶者 かつら枝代
家族 松旭斎たけし(弟)
桂りょうば(長男)
所属 松竹芸能米朝事務所
主な作品
崇徳院」「代書」「宿替え
備考
上方落語協会会員(1961年 - 1994年)

2代目桂 枝雀(かつら しじゃく、本名:前田 達(まえだ とおる)、1939年昭和14年)8月13日 - 1999年平成11年)4月19日)は、兵庫県神戸市生まれの落語家3代目桂米朝に弟子入りして基本を磨き、その後2代目桂枝雀を襲名して頭角を現す。古典落語を踏襲しながらも、超人的努力と空前絶後の天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。出囃子は『昼まま』。実の弟はマジシャンの松旭斎たけし。長男は桂りょうば[1]

師匠米朝と並び、上方落語界を代表する人気噺家となったが、1999年3月に自殺を図り、意識が回復することなく4月19日に心不全のため死去した。59歳没。他、同世代の噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称されている。

来歴・人物[編集]

1939年、神戸市灘区にブリキ工を営む父の長男として前田達は生まれた。1945年6月、5歳の時に戦災に遭い、父親の出身地である鳥取県倉吉市に疎開[2][3]。小学校1年入学間もなく兵庫県伊丹市に移り住んだ[2]。中学卒業後、元来進学を希望していたが、父が亡くなるなどで家族の生計が苦しく、やむを得ず夜間の伊丹市立伊丹高等学校の定時制に進学。日中は三菱電機伊丹製作所で養成工として働いたり、兵庫県立伊丹高等学校で給仕の仕事をしたりと家族を支えた。

この頃弟(後述)とラジオ番組「漫才教室」にリスナーとして参加している。「伊丹の前田兄弟」は素人お笑いトーナメント荒らしとして知られ、賞金を得ては生計の足しにしていた(同番組の審査員の中には、後の師匠となる桂米朝も含まれていた)。そんな多忙な中でも勉強は怠らず、高校へは首席合格。そのため入学式では入学生代表の挨拶を務めた。特に高校生の頃から英語の学力はかなりのものであり、専門書を読めるほどで、後の英語落語にも繋がる。

1960年(昭和35年)に神戸大学文学部に入学するが、1年間通った後1961年(昭和36年)「大学がどんなとこか大体分かりました」とあっさりやめた。3代目桂米朝に入門し落語の道を志す。「10代目桂小米」と命名された。兄弟子に3代目桂米紫月亭可朝がいるが、内弟子としては米朝の一番弟子である。1962年(昭和37年)4月に千日劇場で初舞台。

小米時代は内容の設定を深く掘り下げ、大阪では珍しい繊細で鋭角的なインテリ的な落語だったという。声が小さい場面もあり、米朝から「後ろの人は聞こえんぞ」とたしなめられることもあった。客層はいつも笑う人といつも笑わない人に分かれたらしい。

間もなく、女性浪曲漫才トリオ『ジョウサンズ』でアコーディオンを弾いていた日吉川良子と出会い、「あんたみたいな天涯孤独な人探してたんや」と結婚を申し込む(その後、ホール落語時に一門の下座三味線を買って出る)。夫人によれば、落語やこれまで喋っていたときの大らかで陽気な性格とは違い、家ではひどく陰気で、世間話もしない、テレビも見なかったので驚いたという。

最初のうつ病[編集]

結婚して間もなく長男が生まれた。また、落語だけに専念したいと言うことから、それまで行っていた他の芸能仕事もやめ、家でひたすらネタ繰りに没頭するようになっていた。1973年のある日、夫人がいつものように小米をタクシーから降りて見送ろうとすると、「演芸場に行くのが怖い」と言って、その場にしゃがみこんでしまったという。夫人は「えらいことが起きました」と米朝に連絡し、病院に連れていったところ、重いうつ病と診断された。

家庭ができて将来に対して過度なプレッシャーを感じ、また自分の芸に対しても極限まで思いつめるところがあったという。「死んだら人はどうなるんや」「死ぬのが怖い」「わしは(今流行の)ビニールの病気や」などと、全てのことが悪い方にいくように思えて仕方なく、食事も摂らず、風呂も入らず、顔は青ざめ、家に篭りっきりになってしまった。夫人には「自分は幸せにしてやれないから別れてくれ」と泣いて頼み込むこともあったという。いくつかの病院を回ったが、処方箋を出されるばかりで快方に向かわなかった。最後にいった病院で「今必要なのは休息です。薬はいりません。自分が不安に思っていること全て話してください。そしてまた不安になったらいつでも来てください」と言われ、胸がすーっとなったという。3か月間のブランクを経て、小米は高座に復活した。そして、それまでは私生活で陰気に過ごしていた時も、常に陽気で明るくいることを決意した。「ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる」という気持ちからだった。

2代目枝雀襲名[編集]

1973年(昭和48年)10月に大阪道頓堀角座で「2代目桂枝雀」を襲名(笑福亭枝鶴桂福團治とのトリプル襲名であった)。これを機にそれまでの落語を大きく変える。高座では笑顔を絶やさず、時にはオーバーアクションを用い、それまでの落語スタイルの概念を大きく飛躍させ、どんな客も大爆笑させる落語であった。客の受けは非常によく、枝雀の評判はどんどん上がっていき、米朝と時期を分けて独演会を行うようになっていった。顔がチャーリー・ブラウンに似ているなど愛嬌のある顔立ちからテレビを通してお茶の間に親しまれ、「すびばせんねぇ(すみませんねぇ)」などのフレーズで人気を博した。

1983年(昭和58年)芸術選奨新人賞受賞。1984年(昭和59年)3月28日東京歌舞伎座にて「第一回桂枝雀独演会」を開催。会場では大入袋が出た。桂雀々、桂べかこ(後の3代目桂南光)が前座に入り、枝雀は「かぜうどん」を演じた後で中入りとし、前後編に分けることの多い「地獄八景亡者戯」を一気に演じきった。終了後は緞帳が下りても観客の拍手が鳴り止まず、再び緞帳を開き感謝の挨拶を行った。またこの頃、英語落語(後述)を始めるようになり1987年(昭和62年)6月にはハワイ、ロサンゼルス、バンクーバーにて初の英語による落語公演を行った。演目は「ロボットしずかちゃん」。

枝雀の出演する寄席はいつも満員で、関西の噺家で独演会を行いいつでも客を大入りにできるのは桂米朝と枝雀だけといわれた。また、映画「ドグラ・マグラ」やTVドラマ「ふたりっ子」に役者として出演し、俳優としてもその演技力をみせた。だが、メインは落語であり、それ以外のバラエティやTVの仕事を多くするようなことは最後まで無かった。NHKで好評を得た主演作『なにわの源蔵事件帳』も、続編では7人ものレギュラー俳優が再登板する中で主演を芦屋雁之助に譲っている。結局、若いころのラジオ番組レギュラーを終えたあとは、終生、落語以外に複数年にまたがるような仕事は持たなかった。

1994年5月(平成6年)、枝雀一門8人は上方落語協会を脱退した(一部弟子、孫弟子が2008年暮れに復帰)。同年12月27日にはNHKで「山のあなたの空とおく」という枝雀を特集する番組が全国放送された。

うつ病再発[編集]

晩年には古典ネタをさらに練り上げ、どこまでも完成度を高めようとしたが本人は納得いかず、また糖尿病高血圧などの持病もあってか、1997年頃にうつ病を再発。高座のマクラで「私、またうつ病になってしまったんです」と話したり、「色んなことを試みてるうちに、自分の落語が分からなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。客は冗談だと思って笑うと、本人は涙を流しながら否定、それが客のさらなる笑いを誘う、という悪循環に陥った。

1973年以降も、時々うつ病の薬を飲んだりしていたそうだが、この時は以前のうつ病より重いものだったという。同年には何度か高座を行っており、米朝も「最近の枝雀は無駄がなくなって、前よりいいよ」と話していたが、枝雀本人は納得がいかず悩んでいたという。

一旦は回復しかかったものの、1999年3月13日に大阪府吹田市の自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され、病院に搬送された。このとき枝雀の体を降ろしたのは桂雀々であった。しかし、意識が回復することなく同年4月19日に心不全のため死去。満59歳没(享年61)。復帰後に20日連続公演の独演会を企画しており自らを追い込んでいたであろうことや、回復期に自殺する確率が最も高くなるなど、うつ病患者特有の症例や傾向に当てはまる状況にはあったものの、遺書やそれらしい発言は全くなく真の動機は謎である。枝雀の突然すぎる死に対し、師匠の米朝や弟子の南光らが悲しみ、マスコミも大きく取り上げた。

墓所は中山寺

枝雀落語[編集]

持論[編集]

緊張の緩和(正確には「緊張と緩和」)
「緊張の緩和」が笑いを生むとする独自の落語理論を唱えた。これについて、同病、同業ともいえる作家中島らもは、笑いを理論的に追求しすぎることは精神衛生上好ましくないとし、自殺の可能性も含め憂慮していた。
サゲの4分類
噺の下げ(落ち)には、伝統的に「にわか落ち」「考え落ち」「しぐさ落ち」などの型があるとされるが、何をもって分別するかの視点が定まらないなど問題点もある。そこで枝雀は、笑いがどこで起きるかという点に視点を定め、独自に「ドンデン」「謎解き」「へん」「合わせ」の4つの型に分類した。詳細は落ちの頁を参照。

他にも、物事を「陰」と「陽」や「閉じ」と「開き」で表現するなどの「2極分類」を用いたり、また、彼が好んで演じた「酔っ払い」の演じ方を細かく説明するなどしており、「大いなる自然の意思」を感じながら、万物を分類化して笑いに応用する、というスケールの大きさが非常に特長的に見られた。

さらに、1人を救うために4人の僧侶が死んでしまう「鷺とり」のオチを僧侶を殺さず、主人公が塔の先に戻るという内容への変更や「仔猫」での主人公の評判で「(顔が)化け物」という箇所を削除するなどの研鑽内容には「人間愛を感じる」と評され、「まぁるく、まぁるく」を信条とした彼自身のおおらかな性格と共に、高く評価された。

持ちネタ[編集]

いつしか自分の持ちネタを60と決め、これらの研鑽に専念するようになった(途中入れ替えもあり)。このうち代表的な持ちネタとしては「代書(代書屋)」「宿替え」が挙げられる。「代書」は大師匠に当たる4代目桂米團治の作で、代書屋とは現在の行政書士に当たる。枝雀の「代書」は、サゲが元々大食いの話になるものであったが、或る時から「私の本職は、ポンで〜す」とポン菓子製造の内容に変え更に人気のあるネタとなった。「宿替え」は三遊亭百生から稽古を着けて貰い、これを独自に練り上げた独自の噺に仕上げていた(本人が存命中に述べている)。

代表的な60のネタ

青菜」「あくびの稽古」「愛宕山」「池田の猪買い」「いらちの愛宕詣り」「植木屋娘」「牛の丸薬」「うなぎや」「延陽伯」「親子酒」「親子茶屋」「かぜうどん」「義眼」「口入屋」「くっしゃみ講釈」「首提灯」「くやみ」「蔵丁稚(四段目)」「高津の富(宿屋の富)」「鴻池の犬」「仔猫」「瘤弁慶」「子ほめ」「米揚げ笊」「権兵衛狸」「鷺とり」「佐々木裁き」「皿屋敷」「算段の平兵衛」「蛇含草」「崇徳院」「住吉駕籠」「千両蜜柑」「代書」「ちしゃ医者」「茶漬えん魔」「次の御用日」「壺算」「鉄砲勇助」「天神山」「胴切り」「道具屋」「胴乱の幸助」「時うどん」「夏の医者」「猫の忠信」「寝床」「軒付け」「八五郎坊主」「はてなの茶碗」「花筏」「七度狐」「質屋蔵」「一人酒盛」「ふたなり」「不動坊」「舟弁慶」「まんじゅうこわい」「宿替え」「宿屋仇

ただし、新作落語にも柔軟に取り組み、とりわけ年初の米朝一門会ではその年の干支にちなんだ噺を口演するのが恒例であった(ただし、「代書」を演じた年もある)。小佐田定雄の新作も積極的に口演した。

英語落語[編集]

1980年代頃から英会話学校に通い始め、校長山本正昭の協力のもと始めた英語落語で、海外にも進出した。現在は笑福亭鶴笑桂かい枝桂あさ吉らが受け継いでいる。

「当初はきちんと(ネタを)英語に訳さんと、と思っておったんですが、今では落語の雰囲気が判ってもらえればええんや、とある時ふと気が付いたんです」という趣向のため、英語がよく分からなくても楽しめるという内容になっている。演目としては、古典落語の「時うどん」「愛宕山」などのほか、新作の「動物園」や英語落語書下ろしとなった「ロボットしずかちゃん」がある。

芸の変遷、芸風[編集]

枕を長くとる、一部からオーバーアクションと酷評された豪快で陽気な所作を遣う、表情ゆたかに語る、抑揚(めりはり)の利いた発声で噺す、といった華麗な落語の遣い手であったが後年、枕を端折る、所作や表情を抑える、声すら低く渋く落語する、サゲも短縮、というものへ変化した。

旧式な大阪の町ことばに堪能であり、それを流暢に操るものだから、初めて枝雀の落語をCDのみで鑑賞した関東圏の落語ファンは、何を言っているのか分からない、そのくらい研究熱心であった。ちなみに書籍では関東圏の落語ファンにも愉しめるよう枕の部分は標準語化を施されている。

「池田の猪買い」を噺している途中、登場人物の名前を間違う、てっぽうを拵えるタイミング(枝雀は手拭いと扇子を用いてビジュアルな鉄砲を拵えた)を忘れる、その云訳に「おっかしなぁ、いつもはこんな」と首をかしげたり汗をかいたり、それが更に爆笑を呼び込むシーンがあった。サゲの直後に「すびばせんねぇ」ではなく「すんまへん」を連発して平身低頭していたので、本当にミスをしながら笑いを獲っていた模様である。

SRというショート落語を考案している。これは出演するラジオ番組で思いつたネタで、普通の笑いは緊張から緩和状態がやってくるが、SRは緊張状態が最後まで緊張を残したまま終わるという構造をしている。大きな笑いは取れないが、少し変わったネタを好む玄人向けのネタだという。この試みに立川談志は「面白いから続けて欲しい」と評価している。

発言[編集]

  • 「枝雀の顔を見ただけであー、おもろかったと満足していただけるような芸人になりたい。」
  • 「私の中に私を見てる枝雀がいてこれが私になかなかオーケーを出してくれなかったんです。それがこのごろはだいぶオーケーに近づいてきた。見ててください。もうじき自分の落語を完成させます。」(1996年(平成8年)末のコメント)

評価[編集]

  • 「枝雀は私よりも大きい存在になると、ずっと思っていたからね。自分よりも一皮むけて上に行くことを私は期待していた。」(桂米朝 (3代目)の回想)[4]
  • 「枝雀がいなくなって、私は荷物が重くなった。ぼつぼつ楽しようと、仕事の半分ぐらいを任せかけていた時だったのに。もう私なんか、ムチ打ってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました。」(枝雀が亡くなった数日後の米朝のコメント)
  • 「死ぬよりほかなかったのかと今は思う。」(米朝の著書「桂米朝 私の履歴書」(日本経済新聞社)の一章「枝雀追悼」より)
  • 「オーバーアクションといわれるのは(弟子としては)心外。抑えるところは抑えた上で、全部理屈の上でやっているんです。」「僕らはちょっと受けると『それでいい』となるが、師匠は『もっと受けるはずだ』とその先を考えた」(桂南光
  • 「最高にノッている枝雀寄席はなぜか分からないけど鳥肌が立って泣けてくる。もちろん本人はそんな意図ではやっていないだろうけど。」「芸人は寛美さんや枝雀さんのように常に作品を作っていかなければならない。僕はそういう人になりたいと思う。」(松本人志[5]
  • 「小さいときから、なぜかは分からないけど、すごいことをやってる気がしてましたね。(中略)間口を広げて、敷居を下げて、オーバーアクションで落語を演っていて、それも枝雀師匠のサービス精神の表れだと思うんですよ。」「落語が上手な噺家さんはいっぱいいらっしゃるけど、枝雀師匠は“面白い”。ほかの人は一眼レフで撮ってるのに、『写ルンです』ですごくいい写真を撮る、みたいな感じですよね。」「ファミレスなのに高級フレンチ並みの料理を出すような、すごいんだけどお手軽に見せている感じなんですよ。」 (千原ジュニア[6] 
  • 「米朝師匠以上に真面目な人。(中略)小米の頃は古典(落語)を二十か三十きちっと覚えていて私はあの頃の枝雀さんの方が好きだった。ところが枝雀を襲名した途端、荒唐無稽なスタイルになって、リアリズムから離れてしまった。限られたネタをやるぶんにはそれでもいいし、実際ウケるんですが、トータルで見ると、芸が伸びないし、お客さんも食傷気味になる。枝雀さんとしては師匠の真似をしたくないという切実な思いがあって、ああいう風なスタイルにしていったんでしょうけど、それを真面目に突きつめていった結果、自分をも追いつめてしまったんでしょう。」(三遊亭圓楽 (5代目)[7]

エピソード[編集]

芸歴・芸風[編集]

  • 「代書」を得意としていたので「米團治」としての襲名を進められていたが、きれいな名前で芸風が似ていたことから、6代目笑福亭松鶴の助言で「枝雀」の襲名が決まった。
  • 上方落語家として初めて歌舞伎座で興行している。
  • 自分の落語に対して、夫人の評価を重要視していたという。
  • 上岡龍太郎が20歳頃に米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で枝雀(当時は小米)を見かけ、かなわないと思い弟子入りをあきらめたという。上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続け、自身が司会の『EXテレビ』にて笑いの理論「緊張の緩和」についてのインタビューを行ったこともある。
  • なにわの源蔵事件帳」では、本人とは全く逆の闘争心溢れる岡っ引きを演じることとなり、役作りに困っていたという。しかし、落語で使う横じわではなく、縦じわを使って顔を表現することで、見事に演じきり、続編も作られるほど好評を得たという。リハーサル中、大福を本当に食べるように指示されていたが手真似と表情だけで食べるふりをした。あまりにリアルな仕草のため、その場にいた共演者・スタッフの誰一人として本当は食べていないことに気が付かなかったという。
  • 枝雀の全盛期には多数の弟子入り志願者がおり、弟子も「志願者を皆弟子にしていたら、30人、40人くらいの大所帯になっていた。」と語るほどであったが、「自分と笑いの価値観が共有できない人間は弟子にしない。」という方針で多くの志願者を門前払いにした。なお枝雀の直弟子は最終的には8人であった。
  • 様々な理由で弟子に自分の持ちネタを積極的に教えない師匠も多いと言われる中、枝雀は弟子に多くの自分の噺を積極的に伝授したという。
  • 一門の中ではほぼ唯一、師米朝に意見を申せる立場にあったとされている。ただし枝雀の忠告を聞いた米朝は稀に「何を言ってるのか、あいつは。」と言った事もあったという。

私生活[編集]

  • 高座を降りれば稽古に明け暮れていたと複数が証言している。子供を散歩に連れて行きながらでも行っており、怪しい人物が叫んでいるという事で警察に通報され尾行された事もある。稽古の最中で子供が泣き出した時には「うるさい!」と怒鳴りつけ、見かねた近所の住民が注意するほどであった。電車の中でも例外ではなく、稽古の熱が入って大きなアクションで叫びまくり、周りの乗客が逃げ惑うほどだった。
  • 5代目桂米團治は「(自分の子供の頃は)ざこば兄ちゃんといつも一緒にいました。枝雀兄ちゃんはいつも落語のけいこしてましたから」と語っている。
  • 反面、自宅では気のいい父親だったといい、子供たちは「今思えば最高のお父さんだった」と語った。
  • また自身の落語や出演映画のビデオをよく観ては自身のネタにも関わらず大笑いしていたという。主観と客観視を使い分けていたと言われるエピソードである。

凝り性[編集]

  • 稽古同様、食生活でも凝り性で、てっちり鍋や焼肉など、一度ハマった食べ物は弟子も巻き込んで食べ続けた。結果痛風に悩まされることになる。[8]
  • 子供には「家でテレビはあまり見てはいけない」と教育しており、ファミコンも子供にせがまれ渋々購入したが、後に本人も夢中になった。特に「スーパーマリオブラザーズ」に熱中していたという。後に次世代機のスーパーファミコンが出た際には「スーパーマリオカート」にハマり、自身のベストタイムと対決できるゴーストシステムを高く評価していたという[9]
  • 一方で、「体が苦しいことをして健康になれるはずがない」という理由で体を動かすこと(特にスポーツ)を嫌っていた。ただし学生時代はピンポンにはまり高校時代弟との漫才コンビで事務所にスカウトされた際には「日曜が休みでないとできない。」という理由で断っている。

うつ病[編集]

  • 自身のうつ病を本人は「死ぬのが怖い病」と呼んでいた。
  • 自殺の際、遺書は無かったが、枝雀が一枚残していた紙切れには、自身が復帰後に予定していた、60のネタを一日3つずつ、20日連続で行う前代未聞の独演会のためのネタ順が書かれていたと言う。

弟子[編集]

枝雀一門に属する弟子は桂音也を含めると9人。音也と南光を同着の一番弟子とした。音也は枝雀よりも年上でしかも大学の先輩に当たる人物である。当初は彼らに「一緒に進んでいこう」と師匠と呼ばせずに「兄さん」と言うように指導していた。現在一門は「雀の学校」と題し勉強会を開催している。

家族[編集]

本名:前田 武司(まえだ たけし)。兄・枝雀とともにアマチュアとして『漫才教室』に出演後、奇術師・松旭斎たけし(しょうきょくさい たけし)をへて、のちに落語と奇術を融合させた「まじかる落語」を標榜して活動した[10]
本名:前田 志代子(まえだ しよこ)。浪曲漫才ジョウサンズ」のメンバー・日吉川良子(ひよしがわ よしこ)をへて、お囃子三味線。
  • 長男:前田 一知(まえだ かずとも、1972年3月3日 - )
本名で俳優(笑殺軍団リリパットアーミー所属)およびドラマーとして活動(グルグル映畫館、hate77等)。2010年からアマチュア落語を始め、2015年8月に桂ざこばに入門。「桂りょうば」の高座名を与えられた。2016年1月7日に動楽亭で初高座[11]
  • 次男: 前田 一史(まえだ かずひと、1977年3月17日 - )
ミュージシャン(元ShameORCAのボーカルおよびギター担当)。幼少時からのあだ名に由来するCUTT(カット)名義で活動中。

出演[編集]

<以下、和暦は省略>

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

映画[編集]

他に1996年の舞台「女相撲ハワイ大巡業」のプロデュースなど。

CD[編集]

著書[編集]

  • 『笑いころげてたっぷり枝雀』 (レオ企画、1983年1月
  • 『桂枝雀 おもしろ対談―“枝雀寄席”より』(全2集、淡交社、1984-90年)
  • 『桂枝雀と61人の仲間』徳間書店、1984年7月)
  • 『枝雀のアクション英語高座―英語落語を楽しんで英会話が身につく本』祥伝社新書、1988年7月
  • 『枝雀のトラベル英会話 笑ってOK』 (創元社1990年6月
  • 『枝雀とヨメはんと七人の弟子』 (飛鳥新社1990年10月
  • 『らくごDE枝雀』ちくま文庫、1993年10月)
  • 『桂枝雀のらくご案内』ちくま文庫、1996年12月)
  • 『桂枝雀のいけいけ枝雀、気嫌よく』 新書、毎日新聞社、1988年12月)
  • 『落語で英会話―すぐに役立つ、シャレたフレーズ』 祥伝社文庫、2003年1月)
  • 『上方落語 桂枝雀爆笑コレクション』ちくま文庫、全5集、2005-06年4月

出典[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ “枝雀さん長男・桂りょうば 一門最速1年で独り立ち”. スポニチアネックス. (2016年8月16日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/08/16/kiji/K20160816013176450.html 2016年8月17日閲覧。 
  2. ^ a b 古川嘉一郎『少年の日を越えて-「漫才教室」の卒業生たち-』大阪書籍、1986年、21頁
  3. ^ 鳥取県/広報湯梨浜/本の広場
  4. ^ 「苦節を笑いに変えて~桂米朝一門 60年の軌跡~」
  5. ^ 放送室」2009年3月7日放送より
  6. ^ 著書「西日の当たる教室で」より
  7. ^ 著書「圓楽 芸談 しゃれ噺」P208より
  8. ^ 2014年8月・TwellV桂雀々の大判小判がじゃくじゃく
  9. ^ BS朝日『君は桂枝雀を知っているか』(2013年)
  10. ^ 井澤壽治『上方大入袋 名人の心と芸』1988年、東方出版 pp.178-181
  11. ^ 桂枝雀さん長男・桂りょうばが初高座 スポーツ報知、2016年1月7日

参考文献[編集]

関連項目[編集]