笑福亭松之助

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笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ)は落語名跡。当代は2代目。

  • 初代 笑福亭松之助 - 後の6代目笑福亭松鶴。本名:竹内日出男。俳優の尾上松之助のような目の大きい風貌だったことにちなむ。
  • 2代目 笑福亭松之助 - 本項にて詳述。

二代目 笑福亭 松之助にだいめ しょうふくてい まつのすけ
二代目 笑福亭 松之助
1955年正月、「宝塚若手落語会」
前列左から2人目が松之助[1]
本名 明石 徳三(あかし とくぞう)
生年月日 (1925-08-06) 1925年8月6日(91歳)
出生地 日本の旗 日本兵庫県神戸市湊西区
師匠 5代目笑福亭松鶴
出囃子 新曲浦島[2]
活動期間 1948年 -
活動内容 上方落語
軽演劇
家族 明石家のんき(長男)
パーポ明石(次男)
所属 吉本興業[3]
主な作品
『テレビアラカルト』
備考
上方落語協会会員(1957年 - 退会時期不詳)

2代目 笑福亭 松之助(しょうふくてい まつのすけ、1925年8月6日[3][4][5] - )は、日本の落語家放送タレント俳優。本名は明石 徳三(あかし とくぞう)[5][6]

概要[ソースを編集]

タレントの明石家さんまの師匠として一般的に知られている。落語家としては関西を拠点に上方落語を演じ、寄席で演じられる軽演劇の俳優兼劇作家としても長く活動している。所属事務所吉本興業(1959年4月 - 1961年3月、1967年3月[4] - 、所属歴は後述)。2000年代以降は、上方落語界における最年長の落語家となっている[7](東西落語界通しての最年長は松之助よりも生まれが4か月早い4代目桂米丸である)。

愛称は「松ちゃん(まっちゃん)」[8]血液型AB型[5][3]

略歴[ソースを編集]

生い立ち[ソースを編集]

兵庫県神戸市湊西区(のちの兵庫区)で、父・徳松(とくまつ)と母・ちょうのあいだに、長男として生まれる[4]。父親は俗に「手伝い職(てったいしょく)」と呼ばれる、建築作業の補助的な部分を担当する職人だった[9]。母親は髪結いだった[10]。生家は湊川神社の西側の、有馬道多聞通の交差点付近[11]で、繁華街の新開地が「目と鼻の先[9]」にあった。

徳三は母に連れられ、新開地でよく遊んだ。近所の寄席映画館、芝居小屋に親しんだ[10]漫才では横山エンタツ花菱アチャコにあこがれた[12]という。橘尋常小学校1、2年生の頃、同級生の家に大量にあった初代桂春團治のレコードを聞かせてもらったのが、落語の面白さを知ったきっかけだったという[10]。また、「向いの家のおばさん」に雑誌『キング』を借り、連載されていた落語速記を耽読した。同誌に掲載された柳家金語楼の新作落語をクラスメイトの前で演じたという[10]

橘尋常高等小学校卒業後の1940年4月[4]、徳三は「養成工として[13]三菱電機神戸製作所へ入社。戦争が激化しつつあったため、入社と同時に徴用工の扱い[13]になり、また中等学校にあたる、三菱電機の幹部養成校であった神戸三菱電機青年学校の生徒[13]となる。当初は潜水艦工場の設計課に配属され、写図工(トレーサー)として設計図の作成に従事していた[13]が、すぐに工場に転じ、仕事をサボって倉庫で寝たり、長期の病欠を取って「ニュース館」と呼ばれる、ニュース映画専門館のフィルムを自転車で運ぶアルバイトをやったりした[13]

ある時、徳三をアルバイトに誘った友人が「余興屋」(機材のレンタルを兼業したプロモーターのような事業)のアルバイトを紹介した[14]。この頃徳三は奇術に凝っており、「余興屋」の社長が奇術師のジャグラー都一を紹介しかけたが、空襲の激化のため弟子入りの話が立ち消えになった。徳三は徴兵適齢期であり、健康であったにも関わらず、終戦にいたるまで「どういうわけか、召集令状がこなんだ(引用注=来なかった)」。一家は徳島県池田にあった姉宅への疎開をへて、終戦を尼崎市で迎えた[15]

芸界入り[ソースを編集]

終戦後徳三は、日雇いの土木作業に従事していたが、ある時「好きなことして生きてやろ[15]」と思い、「死んだときに新聞に名前が出る(略)ちょっとでも人に知ってもらえる[15]」として芸人になることを思い立った。「漫才は(略)相方と喧嘩するやろし、噺家ならその心配はない[15]」として、落語家を目標に定めた。

徳三はこの頃、雑誌『新演芸』に掲載されていた正岡容による5代目笑福亭松鶴の評論を読み、「大阪の噺家の中では、松鶴が一番落語に情熱がある」という一節を記憶していた[16]。また、徳三はかつて5代目の『尻餅』を聞き、賃搗き屋が火に当たりながら相撲甚句を歌う様子を演じるのを見て、「おっ師匠はんの前に、火がボーッと燃え上がったような」気がして、「客席でブルブルッと身震いするほど、ええなあと思うた」ことがあった[16]。こうして「入門するならここや」と決意を固め、当時松鶴が出演していた戎橋松竹に飛び込み、支配人を通じて松鶴に面会を申し出た。楽屋で寝ていた5代目は、徳三を見て起き上がるなり、「ご飯食べられへんで」とつぶやいた。徳三は「それはもうわかってます」と答えた。5代目は「そうか。そんなら明日からおいで」と答えた[16]1948年6月7日のことだった[4]。これ以降、若手時代の事項の日付が精細なのは、当時の徳三が入門当初の稽古ネタや演じた場所・日付・報酬などを細かくA5判の大学ノートにつけていたためである[17]

入門わずか12日後の6月19日に、徳三は初舞台を踏んだ。寺田町大阪市交通局[4]で、本名のままで[17]寄合酒』を演じた。徳三は師匠の家に住み込んだり通ったりすることなく、戎橋松竹の楽屋に通って弟子修行をおこなった[16]。師匠との稽古は楽屋の片隅で小声で行われた[18]。そのかたわら、兄弟子の笑福亭光鶴(のちの6代目笑福亭松鶴)とともに囃子場を手伝った[16]。のちに松之助は、この時期に一度だけ「笑福亭徳利」という名で出たことを回想している[17]。入門半年後、5代目から、「この名前やったら続くやろ」と、光鶴の前名だった「松之助」を与えられる[17]1950年1月1日の京都祇園会館での高座をへて、11日の京都富貴亭が寄席での正式デビューとなった[4]

同年7月に5代目が死去。松之助は5代目の妻で下座囃子の見波よしとともに、4代目桂米團治の自宅2階に1年ほど寄寓する[19]。米團治からもネタを教わった。松之助は1951年9月18日NHKラジオ大阪放送局『若手演芸家の時間』で放送デビューし、米團治から教わった 『江戸荒物』を演じた[4]

1952年3月から1956年1月にかけ、阪急東宝グループ小林一三の発案で、宝塚第二劇場において「宝塚若手落語会」が開催された。松之助は宝塚で軽演劇の公演に参加しながら(後述)、ここで落語の腕を磨いた[20]1957年4月には、上方落語協会の結成に参加している[4](のちに退会)。

喜劇役者としての活躍[ソースを編集]

小林一三は、上述の落語会に先立つ1950年に、「宝塚新芸道場」という様々なジャンルの芸能人を集めた、バラエティーショーのためのグループを旗揚げしていた。翌年、拠点を宝塚映画劇場に移し、「宝塚新芸座」という軽演劇の劇団に模様替えさせた。1951年10月、松之助は新芸座の一員だった漫才コンビ・志摩八郎・辰巳柳子の八郎に誘われ[20]、『懐かしの映画五十年』と題する公演にゲスト出演した。松之助はやがて新芸座の正式な座員となり、喜劇役者の道を歩んでいく。

入団当初の松之助は「自分は噺家なのか、役者なのか、どうも気持ちの整理ができなんだ(引用注=できなかった)」といい、「『噺家やがな』という腹」で、セリフを覚えずに出て舞台袖のスタッフに忘れた部分を聞きに行くなど、強引な方法で笑いを取っていた[8]。そのような松之助を見た先輩座員の三角八重が、「そらあんたは落語家や。そんなつもりでええ加減にやってんねやろけど、今は役者として給料貰うてんのと違うんかいな。それやったら、そのお金が取れるだけの芝居やってんか」と厳しく叱責した[8]。また、小さな落語会にばかり参加していた松之助に対し、3代目林家染丸が「もうあんたは(引用者注:役者として)北野劇場コマ劇場てな大きな所へも出られるようになってんねんさかい、落語をやる時も場所を選びや」とアドバイスした[8]。これらの体験から、松之助は「区分は小さいこだわりなんや」「自分は『芸人』なんや」と意識を変え、「芝居をやれと言われれば役者を演じ、落語をやれと言われれば噺家を演じる」と決心した[8]1953年4月、新芸座の人気演目から中継番組となった『漫才学校』(ABCラジオ)が開始され、松之助は番組のヒットとともに人気タレントとなった[4]

松之助は1958年、『漫才学校』のヒット以降座長格になっていたミヤコ蝶々南都雄二の退団を追うように新芸座を去り[21]、翌年4月[4]永田キング門下の元芸人で興行師の北村ハッピーの紹介で吉本興業と契約する[22]。吉本は3月に「うめだ花月劇場」を開館させたばかりであり、独自の新たな軽演劇のプログラムのため、役者を求めていた。松之助いわく、昭和中期の大阪の芸界は「実力さえあれば、なんぼでも替われる。会社より芸人のほうが強かった」という環境であり、松之助はこれ以降の10年間、気の向くままにプロダクションを渡り歩いた[23]

吉本で松之助は「吉本ヴァラエティ」、のちの「吉本新喜劇」の座員となった。当時の新喜劇には、オリジナル脚本と演出を担当していたのが、進行係の竹本浩三だけしかおらず、中邨秀雄の誘いで松之助も「明石 光司」(あかし こうじ)のペンネームで脚本を書くことになった[24]。新喜劇では、一時退社した時期をはさんで「50本ほど書いた」という[24]。松之助のインタビューを収めた4代目林家染丸の著書『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』には、「明石光司」による、うめだ花月1971年2月第3週の岡八郎船場太郎室谷信雄山田スミ子井上竜夫らが出演する公演『三寒四温』の台本が完全収録されている[25]

1961年4月[4]松竹芸能が『松竹爆笑コメディ劇場』旗揚げのため、松之助の引き抜きを図り、松之助は誘いに応じて松竹に移籍した[26]。このとき松之助は吉本との契約期間を勘違いし、契約を1ヶ月残して移籍したため、幹部の八田竹男を激怒させている(再度吉本に復帰したときに八田から明かされ、松之助は冷や汗をかいた)[27]。松竹ではミスワカサ・島ひろし率いる「松竹とんぼり座」のための台本執筆と演出を平尾晋作花登筺とともに担当し、自身も役者として出演した[27]。ワカサ・ひろし退団後は、松之助が座長となり、初代森乃福郎上方柳次・柳太との3組主演公演などを手がけた。このかたわら、第2期の「松竹家庭劇」にゲスト参加した[4]。松竹には3年在籍し、1964年4月、千土地興行の後身・日本ドリーム観光に移籍した[4][27]。千土地では、千日劇場で落語を演じるかたわら軽演劇の「松ちゃん劇団」を率い、大阪劇場で芝居を演じた[27]。また、3代目桂米朝司会の大喜利番組『お笑いとんち袋』にレギュラー出演した[28]。この時期に2代目露乃五郎3代目桂米紫4代目桂文紅3代目笑福亭仁鶴とともに「実験寄席」を主宰し、高座の左右に置いたスピーカーから効果音を出す、当時の洋画を落語にして演じるなどの演出を試み、若い観客を増やした[29]

吉本復帰以降[ソースを編集]

1967年3月[4]、「もう外で十分勉強したやろ」と八田竹男に呼び戻され[12]、吉本に復帰。新喜劇の台本執筆をしばらく担当したほか、芸人たちと幕間のコントを演じた。4代目染丸は、当時の出し物のうち、歌舞伎のパロディや、浪曲漫才宮川左近ショーをもじった「寺川右近ショー」などを記憶している[30]。やがて落語に専念するようになる。

6代目松鶴が立ち上げた「セルシー落語会・繁昌亭」の出番組みを引き継ぎ、後身の育成にたずさわるようになる[31]

1970年代以降、テレビのCMや番組の内容をこき下ろす漫談調の新作落語『テレビアラカルト』(別名『仮面ライダー』『バカボン』)で落語家としての人気を得た[32][33]

俳優としては、映画やテレビドラマの出演多数(後述)。1996年6月から9ヶ月間、ニュース番組『ニュースステーション』(テレビ朝日系)のコメンテーターを担当していた[4]

2000年1月、4代目林家染丸とともに若手の勉強会『落語はやらせ隊』の顧問となる[4]。松之助自身がなんばグランド花月ではじめて落語を演じたのは2007年6月28日だった。2008年8月6日トリイホールにて自身の芸能生活60周年を記念する落語会『五世松鶴 弟子生活六十年記念の会 自称天然記念物認定』開催。

80歳代に入っても40分を超える長ネタを演じ、映画監督をつとめ、ブログを開設して自ら積極的にメッセージを発信するなど、エネルギッシュに活動し続けている。2009年6月には、若手に交じって賞レース「S-1バトル」に挑戦した[34]2016年3月31日ヨシモトブックスより初の著書『草や木のように生きられたら』を出版した[35]

芸風と評価[ソースを編集]

五枚笹は、笑福亭一門の定紋である。
  • いわゆる四天王(6代目笑福亭松鶴・3代目桂米朝・5代目桂文枝3代目桂春団治)よりも遅れて入門したこと、大きな一門を形成していないこと、喜劇役者として活躍し落語界から離れた時期があること、新作落語で名が売れたこと、上方落語協会を離脱したことなどから、同年代の落語家よりも一段低い評価を受ける傾向がある[誰によって?](本人はそれを逆手にとって師匠5代目松鶴の戒名から取った「楽悟家」と自称している)。
  • 立川談志は、松之助は大阪の落語家から総スカンをくらっているが芸力は6代目松鶴と同じだと語っていた[要出典]
  • 古典落語で豊富な持ちネタを持つ。上記の通り、松之助は若手時代に習得したネタについて、教わった時期や師匠を記録している。
5代目松鶴から - 『寄合酒』『いかき屋』『浮世根問』『宿替え』『軽業』『播州めぐり』『くっしゃみ講釈』『貧乏花見』『天神山』『桜の宮』『鉄砲勇助』『鶴満寺[36]
4代目米團治から - 『蛇含草』『くやみ』『仔猫』『蔵丁稚』『江戸荒物』『厄払い[19]
4代目桂文枝から - 『へっつい幽霊』『首提灯[19]
1980年代ごろから、5代目が『上方はなし』に速記録として残した『たばこの火』『苫ヶ島』などの、上方であまり演じられなかった演目の復刻に取り組んだ[37]
このほか、『大箋』『お文さん』『片袖』『高津の富』『後家殺し』『昆陽池』『佐々木裁き』『三十石』『三人兄弟』『三枚起請』『質屋蔵』『ぜんざい公社』『ぞろぞろ』『立ち切れ線香』『土橋物語』『野崎詣り』『軒付け』『花筏』『百年目』『兵庫船』『堀川』『らくだ』など。
  • 古典落語にさまざまな新演出を加えている。『三十石』で、舟歌とともに自身の出囃子でもある長唄の『新曲浦島』を歌うなど[37]

門下[ソースを編集]

松之助は、多くの弟子に自身の本名にちなむ「明石家」の亭号を与えた[6]。さんまによれば、さんまが内弟子だった当時の松之助は弟子に実家の生業をもとにした、変わった芸名を付けており、さんまのほかにも、実家が理髪店の明石家パーマ、実家が自転車屋の明石家サドル[40]、実家が下着店の明石家パンツ[40]などが過去に存在していたとされる。

人物・エピソード[ソースを編集]

趣味・嗜好・交友[ソースを編集]

明石徳三として全日本マスターズ水泳短水路大会に出場し、1994年度の大阪大会・65歳以上の部の100メートル自由形、200メートル自由形で優勝した。また、1995年度の京都大会・70歳以上の部の200メートル自由形で個人優勝、「マックスポーツ」チームとして混合100メートルメドレーリレーで団体優勝した[41]
2010年に日本スイミングクラブ協会より、第11回ベストスイマー賞を受賞している。
  • 三菱電機時代に覚えた製図の技術を、芸人になったのちも活かした。前述の新喜劇の台本には、セットの寸法や材質を細かく指示した見取り図が記載されている[25]。また1990年代に、落語用の見台と膝隠しを設計して、桂三枝に提供した[13]
  • 生き物が大の苦手だという。宝塚新芸座時代、巡業中に松之助が一人で部屋にいたところ、同行していたミヤコ蝶々がいたずらで猫を部屋に放り込み、外から戸を閉めた。松之助は『まんじゅうこわい』のように大騒ぎしたという[42]
  • 吉本新喜劇のやなぎ浩二と親交が深い。

落語界[ソースを編集]

6代目笑福亭松鶴との関係[ソースを編集]

  • 松之助は、6代目笑福亭松鶴の前座名を継いだまま、ずっと改名・襲名をおこなっていない。6代目の一存では改名させられなかった事情(6代目は5代目の死後、松之助を預り弟子とはしていない)のためとみられる。
  • 松之助は、5代目松鶴の弟子だった頃から長く6代目と寝食を共にし、幼少の頃から抱いていた兄の存在への憧れもあって、6代目を、芸能の世界における兄弟子への呼称である「兄さん」ではなく「兄貴」「兄ちゃん」と呼び、心から慕っている。
  • 松之助が6代目と同じ事務所(松竹芸能)に所属した期間は前述の通り短かったが、1962年の角座での襲名披露興行にちょうどめぐり合った。所属事務所が異なれば同じ一門であっても襲名披露の口上に参加できない慣習だったため、松之助は参加がかなった当時を「これも運やね」としている[27]。6代目は、松鶴襲名に際して松之助に、「松、俺と一緒(の柄)や。着てくれ」と言って、揃えで仕立てた縦縞柄の長襦袢を譲っている。
  • 6代目のために新作落語を数本書き下ろしている。
  • 6代目が死去した際、松之助は通夜・葬式に一切出なかった。このことを、6代目の弟子で松之助の甥弟子に当たる笑福亭鶴瓶は、当時の松之助に対し「何で来はれへんねん?」と思っていたが、のちに自身の直上の兄弟子の笑福亭松葉(のちに7代目松鶴を追贈)が死去したときに、あまりの悲しさに葬儀に出たくない感情がこみ上げ、そのときに松之助の気持ちがわかったと語った。

明石家さんまとの関係[ソースを編集]

  • 1974年、さんまが弟子入りを希望してきた際、松之助が「なぜ僕を選んだのか」と問うたところ、『テレビアラカルト』を聞いて感銘を受けたさんまは「あんたはセンスがあるから[43]」と答えた(さんまは、弟子入りする師匠を探すために一日中落語を見た中で、松之助が一番と判断した)。さんまに悪意がなかったとはいえ不遜な返答だったが、それに対して松之助は「それはどうも、褒めていただいてありがとう[43]」と答え、決して怒ることはしなかった。
  • 松之助は弟子を付き人として連れ回すより、自宅で勉強させたほうがいいという主義だったが、「兄ちゃん(=さんま)は、昼まで寝ている」、つまり松之助を見送ったさんまが二度寝をしている、という息子からの告げ口を聞き知った。これ以降、松之助が忘れ物をした際などは、自宅に入る前にわざと大きな音をたて、一声かけた後、さんまが起きて松之助を迎えるのをしばらく待っていた。「何で師匠が弟子に気を使わんといかんのや」と苦笑しながら回想している。
これは甘やかしていたのではなく、普段のさんまが掃除や炊事など、住み込み弟子としての仕事を果たしていたので、大目に見たものだという。さんまは、米を研ぐのを得意としており、テレビなどで披露するたび、弟子時代に鍛えたと自慢している。
  • さんまは松之助といるときには、師匠と弟子という間柄を厳しく守り、座ることなく必ず立っている。これはスタッフや関係者に対し松之助の存在の大きさを知らしめる結果となっているという。また、遅刻魔としてのエピソードの多いさんまは、松之助と共演する際は早めに現場入りし、松之助の楽屋の前で長時間直立不動の姿勢で立つという。食事の際には素早く食べ終わり、師匠を待つという。
  • 松之助は、さんまの今日までの活躍について好意的である。
    • 修業時代にナンパしながら女の子を笑わせていたことについて、他の師匠であれば眉をひそめるところを「芸人としてむしろ勉強している」と褒めた。
    • さんまが売れ出した頃、高座で必ず開口一番「売れているさんまの師匠の笑福亭松之助です」と言っていた。
    • 現在も、さんまの出演するテレビ番組をよく見ており、そのたびに「彼は常に全力投球で、絶対に手を抜いていない」と、感心している。
    • ある時松之助は、襟に大きく「さんまの師匠」と書いた羽織を仕立て、高座で着用した[43]
  • 松之助がかぶり物をしてテレビに出ていたことを、「いい歳をして」と、さんまに止めるように忠告する人がいたが、さんまは「それができる人だから、師匠に選んだ」という旨の返事をした。
  • 松之助夫人が足の怪我で入院した際、さんまはすぐに東京から西宮市の病院まで見舞いに駆け付けた。
  • 松之助は数年に1度の割合で、さんまの冠番組『さんまのまんま』にゲスト出演している。
  • 松之助とさんまは電話よりも手紙でやり取りすることが多いという。さんまは、週刊誌[どれ?]の「私の宝物」という取材で松之助からの手紙の束を紹介した[44]
ただし、松之助が2006年に入院した際は、松之助はさんまに一切連絡せず内緒で通した。孫が誕生したときも一切連絡をしなかった。理由として「君が『それがどないしたん?』って思うと思った」と語り、さんまは苦笑して「口が裂けても言えません!」と語った。
  • 2008年に行われた松之助の芸能生活60周年を記念した吉本主催の舞台「よしもとの天然記念物保護の会」(2008年11月16日なんばグランド花月)に際し、さんまは「何か手伝わせてください」と松之助に協力を願い出た。松之助は「君が来たら僕が目立たなくなるがな!」とかたくなに拒否した。それでも食い下がるさんまに「えぇ?、来るの……?」と呟き、さんまを苦笑させた。
舞台本番では、さんまは弟子時代同様に松之助の落語を長時間直立不動の姿勢で聞き、終了後におしぼりを手渡している。舞台で「弟子はもういりまへん。さんまの看板が大きいので十分」と自慢の弟子を誇らしげに語り、さんまは「僕が53歳(引用注:当時の年齢)になって、とっくに師匠は死んでると思っていたが……。一緒に舞台共演するなんて思わなかった」と語った[45]
  • 笑点』スペシャルに出演した松之助は、次のようなさんまにちなむ回答をした。
    • 「さんまにジャンケンで負けて、弟子になった」(2006年)
    • 「夢で良いから 見てみたい 弟子のさんまにお年玉」(2009年)
    • 「弟子のさんまが、さあ来るぞ! 今年もお年玉をもらおう」(2010年)

家族[ソースを編集]

  • 松之助自身の語るところによると、松之助は2度結婚歴がある[39]
最初の妻は宝塚歌劇団の団員で、松之助が宝塚新芸座にいた1955年4月[4]に結婚し、2児をもうけたという。離婚時、慰謝料として家を含む全ての家財道具を前妻側に譲り、2人の子供が20歳になるまで養育費を払い続けたという[39]
のんき、パーポの生母である2番目の妻は大阪松竹歌劇団の座員・逗子みさを[39]。大阪劇場の本公演に出るかたわら、角座の「とんぼり座」にも出演していた[39]。松之助と逗子は1967年12月に結婚した[4]

その他[ソースを編集]

  • 松之助は吉本復帰後の一時、「毎日酔うてた」というほど酒浸りになり、芸が荒れた時期があった。酔ったまま客前に現れ、「隣の家に囲いができたな。ヘエ。もうええやろ。こんな酔っ払いの落語聞いてても面白うないで。おあとと交替いたします」と言うなり、3分で高座を降りた松之助の姿を見た八田竹男は、楽屋の黒板に書かれた香盤表の、トリ前の松之助の表記を消し、前座より前に書き換えた[30]
そんな中、突如「もっとすっきりした頭で、ちゃんと世間を見たろ」と思い、翌日から酒と煙草を断った。松之助自身の記録によると1975年6月1日のことだったという。
  • 68歳の時、三菱電機の徴用工だった当時の労働者年金5年分を厚生年金として受給できることが判明し、突然80万円ほどが転がり込んだ。「厚生年金をもろてる芸人は僕だけとちがうか」と語っている[46]

CD・DVD[ソースを編集]

DVD+CDボックス。ABCラジオ主催の「上方落語をきく会」などの音源からCD18席、『日本の話芸』(NHK)などの録画からDVD27席を収録。プロデュースは日沢伸哉が担当。「よしもとの天然記念物保護の会」での明石家さんまとの対談なども収録。

著書[ソースを編集]

  • 草や木のように生きられたら(ヨシモトブックス、2016年)[47]

出演[ソースを編集]

映画[ソースを編集]

テレビバラエティ、コメディ舞台中継[ソースを編集]

テレビドラマ[ソースを編集]

ほか多数

笑福亭松之助を演じた俳優[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

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  1. ^ 前列左より桂春坊(二代目露の五郎兵衛)松之助、橘家円二郎、四代目桂文枝三代目桂米朝笑福亭小つる(和多田勝)三代目桂米之助。後列左より見浪よし(五代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(五代目桂文枝)旭堂小南陵(三代目旭堂南陵)六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人)。(桂米朝『桂米朝 私の履歴書』日経ビジネス人文庫、2007年、p.93)
  2. ^ 上方落語家の出囃子 内海英華でございます
  3. ^ a b c 吉本興業による公式プロフィール http://search.yoshimoto.co.jp/talent_prf/?id=644 - 同サイトでは出身地を「兵庫県明石市」としている。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 林家染丸『笑福亭松之助聞書 いつも青春ずっと青春』 燃焼社、2000年(ISBN 4-88978-001-7) pp.207-208 略年譜
  5. ^ a b c 笑福亭松之助 コトバンク - 典拠は『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『タレントデータバンク
  6. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』pp.2-5
  7. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.8
  8. ^ a b c d e 『いつも青春ずっと青春』pp.79-81
  9. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』p.12
  10. ^ a b c d 『いつも青春ずっと青春』p.16-20
  11. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.11 生家の位置を示す手書きの地図
  12. ^ a b よしもと100年笑いは地球を救う 「エンタツ・アチャコ」にあこがれて スポーツニッポン、2009年10月17日
  13. ^ a b c d e f 『いつも青春ずっと青春』pp.21-27 このうちp.23に松之助作の正投影図による見台・膝隠しの図面
  14. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.29-31
  15. ^ a b c d 『いつも青春ずっと青春』pp.34-36
  16. ^ a b c d e 『いつも青春ずっと青春』pp.37-40
  17. ^ a b c d 『いつも青春ずっと青春』p.48
  18. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.47
  19. ^ a b c 『いつも青春ずっと青春』p.57
  20. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』pp.66-73
  21. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.99
  22. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.104
  23. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.156
  24. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』pp.107-109
  25. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』pp.110-149
  26. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.151
  27. ^ a b c d e f 『いつも青春ずっと青春』pp.152-153
  28. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』p.156
  29. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.172
  30. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』pp.165-168
  31. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.173
  32. ^ ぴいぷる【笑福亭松之助】“芸人楽悟家”は健在 五代目松鶴の遺産を残す『教わった落語集』を執筆中 (1/3ページ) ZAKZAK、2016年6月9日
  33. ^ 【芸能プレミアム】「さんまの師匠」まもなく91歳…ますます意気軒昂・笑福亭松之助(3/3ページ) 産経WEST、2016年6月18日
  34. ^ プレスリリース 2009年5月30日 ソフトバンクモバイル株式会社 S-1バトル大会事務局
  35. ^ 笑福亭松之助の初著書、帯にさんまコメント「師匠文才ありますね」
  36. ^ 『いつも青春ずっと青春』pp.49-54
  37. ^ a b 『いつも青春ずっと青春』pp.178-181
  38. ^ さんまは三番弟子であるが、兄弟子2人は他の一門から移門してきた者であり、かつ今は一門を離れているか死去しているので、松之助一門においては総領弟子に当たる。
  39. ^ a b c d e f 『いつも青春ずっと青春』pp.162-164
  40. ^ a b さんま 芸名の由来 師匠と思い出秘話 デイリースポーツ、2016年4月9日配信
  41. ^ 『いつも青春ずっと青春』pp.200-201
  42. ^ 『いつも青春ずっと青春』pp.86-87
  43. ^ a b c 『いつも青春ずっと青春』p.187-189
  44. ^ 『いつも青春ずっと青春』pp.189-196
  45. ^ “さんま“師匠”笑福亭松之助、芸能生活60周年「さんまの看板大きい」”. オリコンスタイル. (2008年11月16日). http://www.oricon.co.jp/news/entertainment/60139/full/ 2008年11月16日閲覧。 
  46. ^ 『いつも青春ずっと青春』p.28
  47. ^ “笑福亭松之助が90歳にして初の著書、伝説的芸人や弟子さんまのエピソード収録”. お笑いナタリー. (2016年3月31日). http://natalie.mu/owarai/news/181838 2016年4月1日閲覧。 

外部リンク[ソースを編集]