上方落語

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上方落語(かみがたらくご)とは、大阪京都を中心とする地域で主に演じられる落語

「上方落語」の語源[ソースを編集]

「上方落語」という言葉は、花月亭九里丸著書の『寄席楽屋事典』によると、1932年(昭和7年)7月1日発行の雑誌『上方』十九号で初めて使われた。それまでは「大阪落語」、「京都落語」などと呼ばれていた。現在では京都落語が系譜上は衰えてしまったので、大阪落語のことを指して上方落語と呼んでいる。

歴史[ソースを編集]

江戸時代まで[ソースを編集]

江戸時代中期に、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源といわれている。寛政から文化にかけては浄瑠璃作家から転じた芝屋芝艘や、京都から大阪へ下って御霊などの社地で噺を演じた松田彌助が台頭。彌助一門には松田彌七、2代目松田彌助や「桂一門の祖」初代桂文治がおり、とりわけ初代文治は大阪で初めて寄席を開き、また声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目、4代目と東西に並立するが、上方4代目の弟子である桂文枝は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。初代文枝は「三十石」などで人気を博し、その門下の初代桂文之助(のち2代目曽呂利新左衛門)、2代目桂文都(のち2代目月亭文都)、初代桂文三(のち2代目桂文枝、晩年桂文左衛門)、初代桂文團治も人気・実力ともに高く、「四天王」と称された。

桂一門と並んで現代の上方落語の主力門派を成す笑福亭一門は、始祖とされる松富久亭松竹の詳細が明らかでないが、天保安永期には既に成立しており、この両門派に立川林屋(林家)を加えた4門派が明治期までの上方落語の主流を形成していた。上方林屋一門は江戸の初代林屋正蔵の孫弟子に当たる初代林屋正三が故郷岡山に近い大阪に腰を据えたのが発端で、明治維新前後の時期までは最大勢力であったが、やがて桂一門に取って代わられていく。

明治時代[ソースを編集]

七代目文治『落語系圖』

明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「桂派」と、文都、2代目文團治(のち7代目桂文治)、初代笑福亭福松3代目笑福亭松鶴らを核とする派手で陽気な「三友派」が並立する。 この他諸派がたくさん出来ては消えつつも、2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では3代目桂文三初代露の五郎3代目桂文團治2代目林家染丸初代桂枝雀初代桂ざこばなどの名人上手を輩出。京都では2代目曾呂利新左衛門、2代目桂文之助初代桂枝太郎が活躍した。また東京から初代橘ノ圓2代目三遊亭圓馬5代目翁家さん馬らが移住し、寄席を盛り上げた。

大正から昭和初期まで[ソースを編集]

初代春団治

大正から昭和初期にかけては初代桂春團治2代目桂三木助3代目三遊亭圓馬2代目立花家花橘初代桂小春團治(のち舞踊に転じ花柳芳兵衛)らが人気を集めたが、やがて横山エンタツ花菱アチャコなどの新興の漫才の人気や吉本興行部による定席の寄席や諸派の買収、看板落語家の相次ぐ他界もあって衰亡の危機にさらされた。

この原因としては、落語家同志の内部抗争でまとまりが無かったこと、漫才がニュース性のある新しい笑いを創造(エンタツ・アチャコがラジオの大学野球の中継から『早慶戦』を作ったのが好例)したのに対し、旧態依然の古い芸に安住してファンが離れ、吉本興行部(なかんずく林正之助)に商品の価値が無いと見なされたことなどがある。そのなかで、唯一、新しい笑いを提供し多くのファンを獲得したのが初代春團治であった。レコードという新しいメデイアをフルに用い、ギャグ満載のナンセンスな演出は今日の上方落語に大きな影響を与えた。だが、いかんせん孤軍奮闘の感を禁じ得ず、春團治の死によって上方落語はその王座を漫才に譲ったと見られていた。

この危機にあって5代目笑福亭松鶴4代目桂米團治らは「楽語荘」というグループを結成し、落語会「上方はなしを聞く会」の運営や雑誌『上方はなし』の発行などを通じて上方落語の保存・継承に尽力した。

戦時中は漫才師、漫談家はわらわし隊などの慰問団で中国などに派遣される中落語家は慰問先で座って演じるのは酷なので呼ばれず、その間は比較的空襲の少なかった神戸や京都などで富裕層や芸者などの客相手に落語会を開いて人気を呼んでいた。

四代目米團治

太平洋戦争後~昭和30年代[ソースを編集]

のちに人間国宝となる三代目米朝(右)と、三代目春団治(左。当時小春)。1947年から1950年ごろ
「戎松日曜会」。後列右から六代目松鶴(当時は三代目光鶴あるいは四代目枝鶴)、三代目米之助、五代目文枝(当時あやめ)、旭堂南陵(当時二代目小南陵)。子供は和多田勝(当時小つる)

太平洋戦争終結後の数年間、5代目松鶴、4代目米團治、2代目花橘、2代目桂春團治らは大阪ミナミの「戎橋松竹」や京都・新京極の「富貴」といった新興の演芸場を拠点としつつ、関西各地でも落語会を開き、新人の育成にも力を注いだ。だがこれらの大看板は昭和20年代に相次いで亡くなり、「上方落語は滅亡した」との声があがるなど、どん底の時期を迎えた。

1955年正月、宝塚若手落語会写真より 前列左より桂春坊(二代目露の五郎兵衛)、二代目笑福亭松之助、橘家円二郎、四代目桂文枝、三代目桂米朝、笑福亭小つる(和多田勝)、三代目桂米之助 後列左より見浪よし(五代目笑福亭松鶴夫人)、桂あやめ(五代目桂文枝)、旭堂小南陵(三代目旭堂南陵)、六代目桂小文吾、桂麦團治、奥野しげる(宝塚若手落語会世話人) オリジナル写真には三代目米之助の右に初代笑福亭鶴三、奥野の右に三代目林家小染が写っているが、綴じ部分にあたるため割愛

そんな中、3代目林家染丸を中心に6代目笑福亭松鶴(5代目松鶴の子)、3代目桂米朝3代目桂春團治(2代目春團治の子)、3代目桂小文枝(のち5代目桂文枝)らによる復興の烽火があがる。松鶴らは「さえずり会」というサークルを結成、「戎松日曜会」「宝塚落語会」「落語新人会」などの若手勉強会への参加や、初代橘ノ圓都3代目笑福亭福松桂右之助4代目桂文團治、初代桂南天桂文蝶、2代目三升紋三郎ら引退同然だった古老に噺の伝授を乞うなど、精力的に活動した。古老の中でも圓都は持ちネタ数が飛びぬけて多く、上方のみならず東京の噺家にも積極的に稽古をつけるなど古典落語の継承に努め、晩年は高座に復帰し1972年(昭和47年)に没するまで、明治の上方落語を最後まで残した。また、東京の8代目桂文楽3代目三遊亭金馬2代目桂小文治2代目三遊亭百生らの落語家もさまざまな形で上方落語の復興に助力し、中でも大阪生まれの小文治、百生は東京の観客に上方落語を紹介するなど大きな功績をあげた。

一方、1951年(昭和26年)9月1日新日本放送開局に始まる民間放送ブームの中で、NHKを含めた各放送局は内容の充実を図って「コンテンツとしての上方落語」と「タレントとしての落語家」に着目。番組と連動した落語会の主催や、専属タレントとして落語家と契約を交わすなどした。米朝や初代森乃福郎らがこの流れに乗って知名度を上げたが、これは上方落語界にもプラスに働いた。とりわけNHKと朝日放送は積極的で、NHKは心斎橋日立ホールを拠点に「放送演芸会」と連携した「上方落語の会」を開催。朝日放送も「ABC上方落語をきく会」を主催し、のちには「ABCヤングリクエスト」内に「ミッドナイト寄席」というコーナーを設けて「上方落語をきく会」での演目を放送した。

そのような中で1959年(昭和34年)に3代目桂春團治、1962年(昭和37年)に6代目笑福亭松鶴と大名跡が相次いで復活。この二人とほぼ同時期に入門した2代目桂小春団治(のち2代目露の五郎→2代目露の五郎兵衛)、2代目笑福亭松之助3代目桂文我、戦前入門ながら彼らとは同世代の3代目林家染丸のほか、3代目林家染語楼、昭和30年代前半入門組の4代目桂文紅3代目桂米紫月亭可朝などの中堅も力をつけてくるなど、落語家の人数も着実に増え始めた。そして分裂していた上方落語は1957年(昭和32年)、上方落語協会を結成して一つにまとまり(初代会長3代目染丸)、奇蹟的な復興へと向かっていった。

昭和40年代~昭和末[ソースを編集]

昭和40年代に入ると、松鶴、米朝、春團治、3代目小文枝らが積極的に採り続けてきた弟子たちが、テレビ時代・深夜放送ブームを背景に台頭。可朝、笑福亭仁鶴、桂三枝(現在の6代目桂文枝)、笑福亭鶴光2代目桂春蝶笑福亭鶴瓶、桂朝丸(現在の2代目桂ざこば)らが注目を浴びる。とくに仁鶴は、初代桂春團治を意識した爆笑落語で人気を集め、1972年(昭和45年)には、テレビラジオのレギュラー番組にひっぱりだこで、一躍スターダムにのしあがった。松鶴ら師匠連は、若手のマスコミ進出を上方落語を広く認知してもらう最良の手段として容認しており、結果入門者が増加するなどし、その意味でも仁鶴の功績は大きい。

ラジオによる寄席中継が、従来の漫才や東京落語から、上方落語中心になったのもこのころで、1971年(昭和46年)10月には朝日放送が開局20周年を記念して「1080分落語会」を開催。朝7時から深夜1時まで計56席(講談1席含む)が生放送で流された。ほかラジオ大阪の「オンワード落語百選」、FM大阪の「上方FM寄席」などが、若者を中心に多くのファンを開拓した。

ー方では1966年(昭和41年)の「米朝スポットショー」を皮切りに、大ホールでの独演会が行なわれるようになり、特に米朝は放送タレントとしての知名度のフォローもあって独演会や一門会を展開。文枝も「小文枝の会」に集うファンと一体となった独演会を東阪で開催した。当時東京では大学生を中心に上方落語ファンが増えており、やがてこのムーブメントは全国的に広がっていった。この頃から松鶴、米朝、春團治、文枝に対する評価は高まり、やがて彼らは「上方落語の四天王」と呼ばれるようになっていく。

落語人気とともに、戦前は「天狗連」と呼ばれた素人落語のサークルも次々と生まれたが、特に大学生から成る「落語研究会」が最もさかんであった。ここから多くの俊才がプロの門をくぐって、現在の上方落語界を支えている。

1986年(昭和61年)、戦後の上方落語を牽引してきた6代目松鶴が他界する。前後して2代目桂枝雀が台頭し、いわゆる「MANZAIブーム」の渦中にありながら、のちに「爆笑王」と呼ばれる程の人気を築く。ここに至って上方落語は復興期を終え、次の時代へ向かうこととなる。

平成期[ソースを編集]

平成に入っても、落語、漫才などいわゆる「お笑い(芸)」に対する世間の関心は下がらなかったが、「MANZAIブーム」以降、お笑いの主舞台は寄席から放送メディアに移る。その反面演芸番組は減少し、有力落語家のバラエティ番組への起用が相次いだ。この結果、落語家は「お笑い芸人」という抽象的名称の下に漫才師・漫談家・コント芸人と観客・視聴者レベルでボーダーレスとなり、落語の独自性を示す機会は狭まっていった。放送タレントとしてのお笑い芸人(実質上は漫才・漫談・コント。ただし彼らとて放送メディアで本来の芸を披露する機会は少ない)を希望する人材は多いものの、具体的に落語の世界に入る者は、昭和40年代に比べると少なくなっている。

これは東西とも同様の現象であるが、上方落語においては1999年(平成11年)に2代目枝雀が早世した影響も大きい。カリスマ性を持った人気者だった枝雀の穴は、容易に埋められるものではなかった。また、笑福亭松葉(追贈7代目笑福亭松鶴)、2代目桂歌之助桂喜丸4代目林家染語楼桂吉朝といった、将来を嘱望されていた戦後生まれの落語家の相次ぐ他界も痛手であった。そのような中、笑福亭鶴瓶らによる「六人の会」の活動や、4代目桂文我による古典の発掘作業、3代目桂小春團治笑福亭鶴笑らの海外公演(パペット落語)といった新たな動きもある。

また、元来お笑い芸人ないしお笑いタレントとしてテレビ等で活躍していた芸人が、芸人の飽和状態の中で自己の新しい芸をつけようと、落語を新たに始める例がある。多くは諸芸の一つとして落語を嗜んでいる程度に過ぎないが、山崎邦正(月亭方正)のように協会に加盟して本格的に落語を始める者、更に一歩進み、後藤征平(月亭太遊)や渡辺鐘(桂三度)のように従来のキャリアを捨てて落語家の道を選ぶ者も出はじめている。

2004年以降は、東京との交流が密接になった。「六人の会」主催の「大銀座落語祭」に参加する上方落語家が2008年現在114人にまで達し、東西落語家の親睦交流が深まる一方で、深川江戸資料館お江戸日本橋亭国立演芸場よしもと浅草花月などの主な演芸場における上方落語家出演も増えるなど、東京の落語愛好家にも上方落語が受け入れられている[1]。さらに、笑福亭鶴光のように落語芸術協会に加盟し、東京で弟子をとり上方落語の普及を目指すものもいる。

2006年9月15日には、上方落語協会によって戦後初の上方落語専門定席「天満天神繁昌亭」(後述)が開設され、これが大阪の観光名所の一つとして全国的に紹介されるに及んで当初の予想をはるかに上回る入場人員数を得続けている。また2007年10月から翌年3月まで放送された、上方女流落語家の半生を描いたNHK連続テレビ小説ちりとてちん」は関西を中心にマニアックな人気を博し、ドラマを見て上方落語に興味を覚えたという世代も現れた。ドラマ中で主人公の兄弟子役として出演した桂吉弥の落語会は放送以降、常に大入りの人気となっている。

2007年以降は、長く途絶えていた大名跡や著名な名跡が相次いで襲名され復活。2007年には桂歌々志が師匠の名跡である3代目桂歌之助を、2008年には3代目桂小米朝が半世紀ぶりに5代目米團治を、2009年には桂春菜が3代目桂春蝶を、2010年には笑福亭小つる6代目笑福亭枝鶴桂つく枝が5代目桂文三桂都丸が4代目桂塩鯛および都丸の弟子たちが4代目桂米紫・2代目桂鯛蔵を襲名。2011年以降も、桂こごろうが2代目桂南天を、月亭八天が7代目月亭文都を襲名、そして2012年には桂三枝が、桂一門の宗家名跡でもある6代目桂文枝を襲名した。ただし、この傾向については4代目桂文我からの批判もある[2]

江戸落語との違い[ソースを編集]

言葉[ソースを編集]

主に上方言葉を用いるため、近畿圏外出身者がその会得に苦労する点でもある。噺の登場人物によって、京言葉大阪言葉などを使い分ける。また近年は、自身の出身地に由来する方言(和歌山弁など)で演じる落語家もいる。

江戸落語では上方の言葉を話す人物が多く出るが(例「御神酒徳利」「金明竹」「三十石」「祇園会」)、上方落語では江戸言葉はあまり出ない。「ざこ八」や「江戸荒物」くらいである。戦前までは言葉や芸風の違いで、上方落語は東京の客層には受け入れられなかったが、戦後マスコミの発達で大阪の言葉が東京にも浸透し、2代目桂小文治、2代目三遊亭百生ら在京の上方落語家の努力や前述の「上方落語の四天王」の活躍で、東京でもさかんに聴ける様になった。

演目[ソースを編集]

古典落語については、3代目柳家小さんらによって多くの上方の噺が東京に移植され、逆に東京から上方に移植された噺もある。そのため、同じ内容でも上方落語と江戸(東京)落語で題名が異なる噺や、「饅頭こわい」のように中身まで異なる噺もある。ただし片方にしかない噺については、東西交流の進んだ太平洋戦争後はこの限りではない。

旅ネタ[ソースを編集]

上方落語の中心をなす「旅ネタ」は、「東の旅」「西の旅」「南の旅」「北の旅」の四つに分かれる。入門したての落語家は、一門によっては口馴らしとして「発端」を教わるが、「東の旅」の「三十石」のようにかなりの技量を要するネタもある。

このほかの旅ネタには、冥土の旅に「地獄八景亡者戯」、海底の旅に「小倉船」(「竜宮界竜の都」)、天空の旅に「月宮殿星の都」、異国の旅に「島巡り」(「島巡り大人の屁」)があり、いずれも、奇想天外な内容ではめものを用いた派手な演出が見られる。

人情噺[ソースを編集]

落とし噺(狭義の落語)と並んで江戸落語の軸を成す人情噺(狭義の人情噺。内容が講談に近く、サゲがない。「牡丹灯籠」、「文七元結」、「真景累ヶ淵」など)は、上方落語には存在しないと言ってよい。広い意味での人情噺に含まれるとされる「立ち切れ線香」、「ざこ八」、「大丸屋騒動」などは落とし噺である。ただし、「鬼あざみ」のように例外的にサゲがつかないネタもある(講釈から移植されたものなど)。この差異に関して「上方では浄瑠璃が確固たる地位を築いていたので、落語が人情噺を受け持つ必然性が薄かったからだろう」と桂米朝は述べている。

東西交流の進む現代では、人情噺を上方風の演出で口演する落語家がいるので「上方には人情噺はない(少ない)」という原則も崩れつつあるが、総体的には上方の演目は落とし噺が中心である。

芝居噺[ソースを編集]

歌舞伎をテーマにした上方落語には

1. 歌舞伎の芝居をそのままに演じるやり方:「加賀見山」「本能寺」「自来也」「綱七」

サゲ:普通のサゲが用いられる場合と、幕切れのあと、「やあれ、日本一だっせ。日本一」「やかましなあ。あんさん。日本一って言うてんと、成駒屋、葉村屋言うて誉めなはれ」「いいえな。わたい、日本橋一丁目の薬屋の者だすねやが、ここで店の宣伝しょう思いまして。やあれ、日本一!」すると小屋の若いもんが来て「こら。日本一の薬屋ておのれかい」「へえ」「こっちへこい」「もうし、何しなはんねん!」「二三丁ほど振り出したるんじゃ」とサゲるパターンとがある。

2. 普通の落語から芝居になるやり方:「昆布巻芝居」「蛸芝居」「蔵丁稚」「質屋芝居」「足あがり」「七段目」(登場人物が芝居好きで俄で演じ出すという仕立てになっているものが殆ど)

サゲ:ここでは普通のサゲである。

の2種類に分別される。

江戸の芝居噺の演出は人情噺の途中から一転、衣装を引き抜き背景に書割を設けるが、上方はそのような演出は用いない。明治期に初代桂文我、昭和に入って初代桂小春團治、東京に移った桂小文治などが得意としていたが、上方落語や上方歌舞伎の衰退などが原因で、現在ではその殆ど(特に1. のやり方)が絶滅している。ただ、初代小春團治が花柳芳兵衛として舞踊家に転じたのち、芸の伝承のためNHKに幾つかのネタを映像として収録させており、現在、桂米朝らがそれを元に「本能寺」や「そってん芝居」などの復活を試みている。

新作落語[ソースを編集]

昭和に入っていくつかの新作落語が東西の落語界で作られたが、上方では4代目桂米團治作「代書」(「代書屋」とも)、3代目桂米朝作「一文笛」、3代目林家染語楼作「青空散髪」、三田純市作「まめだ」などが古典の範疇になっており、一部の演目は東京でも演じられている。現在は、桂三枝(現・6代目文枝)(「妻の旅行」、「鯛」、「ゴルフ夜明け前」などを創作)を中心に「創作落語」の名でさかんに作られている。 小佐田定雄一門のように専業の落語作家が存在するのも特徴である。2代目笑福亭松之助は「明石光司」、4代目桂文紅は「青井竿竹」の筆名で、新作を手がけていた。

登場人物[ソースを編集]

噺の登場人物は、喜六、清八、おさき、源兵衛、家主、医者(「赤壁周庵」の名が多い)、上町のおっさんなど。

喜六(喜イ公、喜イさんとも)は、江戸の「与太郎」にあたる「アホ」役だが、生業(下駄屋がよく出る)を持ち、妻帯(妻の名は「おさき」「お松」がよく用いられる)している点が「与太郎」と異なる。性格は、与太郎が天然の馬鹿と設定されることが多いのに対し、どことなく醒めたところがみられる。(→「喜六と清八」も参照のこと)

江戸落語によく出てくる熊五郎、八五郎は、上方では喜六・清八の役どころとなる。上方で熊五郎、八五郎の名が登場するのは「らくだ」「へっつい幽霊」に「脳天の熊五郎」(「らくだ」では「弥猛(ヤタケタ)の熊五郎」とも)、「八五郎坊主」に「八五郎」があるくらいである。また江戸落語「三軒長屋」などに出てくる大工の棟梁は、上方では手伝い(テッタイ)の又兵衛として登場する。

時代設定を特に定めない、あるいは庶民にも名字を名乗ることが許された明治以降に置いた演出では、演者にゆかりのある噺家の本名に因みかつ一般的な姓が出る場合がある(例えば6代目松鶴一門なら「竹内さん」、林家一門なら「大橋さん」「岡本さん」)。

道具[ソースを編集]

上方落語で使用される見台および膝隠

落語では一般的に扇子手拭を小道具として用いるが、上方落語でしか用いない小道具として以下のものがある。

見台(けんだい)
演者の前に置く小さな机。書き物机や湯船、布団や床といったものに見立てる。もっとも、演じる噺によって使わない場合や、滅多に使わない落語家もいる(3代目桂春団治、2代目桂枝雀、桂三枝など大きな動きのある演目をする落語家など)。
小拍子(こびょうし)
小さな拍子木。普段は見台の上に置かれており、鳴らすときは左手で小拍子を持ち、見台を打つ。噺の合いの手などに使ったり、雰囲気を変えるために使ったりする。また、舞台の袖でお囃子や鐘の音など効果音を出す裏方に合図を送るためにも使う。変わったところでは、創作落語でパソコンのマウスに見立てて使用した例(桂文珍・「心中恋電脳」)がある。
膝隠(ひざかくし)
演者のひざを隠す小さな衝立。

通常、以上の3点はセットで用いられ、舞台への出し入れで持ち運ぶ際は、見台の上に膝隠しを乗せる。

今日では普通に使用されている、演者の名前を書いた名ビラやそれを掲げておく台のメクリ明治時代まで、出囃子は昭和初期まで、上方の寄席でしか使用されていなかった。

はめもの[ソースを編集]

口演中に演出としてお囃子を盛り込む点も江戸落語との違いである。このお囃子をはめものと呼ぶ。

たとえば、「新町にまいります。その陽気な事」(「三枚起請」)と演者が言うと、楽屋にいるお囃子が三味線を弾き唄を唄って華やかな遊里を表現する。逆に「ふたなり」「皿屋敷」などで登場人物が寂しい夜道を歩くときは、三味線が静かに弾かれ寂しい情景を表現する。

以上のように情景描写に使われる事が多いが、「野崎詣り」などでは舟が移動するなどの擬音に用いられる。「紙屑屋」「辻占茶屋」などの「音曲噺」では演者と掛け合いの型となる。「蛸芝居」「質屋芝居」「本能寺」などの芝居噺では、歌舞伎の下座音楽となる。

桂文珍はコンピューターの機械音を用いる事があるが、これもはめものの一変形である。

お囃子奏者は「下座」あるいは「ヘタリ」とも呼ばれ、三味線奏者と太鼓・笛などの鳴物奏者で構成される。三味線奏者は専業だが、鳴物奏者は若手の落語家が務めることが多い。三味線奏者は、戦後は後継者難に直面し、記録作成等の措置を講ずべき無形文化財「上方落語下座音楽」の保持者であった林家トミ(2代目林家染丸の妻)の没後は存亡の危機に晒されたが、3代目桂米朝が自身の番組『米朝ファミリー 和朗亭』(朝日放送テレビ)で取り上げたことや、4代目林家染丸らによる後進育成活動などにより徐々に増え、2006年12月現在、上方落語協会会員だけでも11名を数える。現代の代表的な三味線奏者としては内海英華かつら枝代(2代目枝雀の妻)、林家和女(5代目林家小染の妻、3代目桂あやめの姉)らがいる。

制度[ソースを編集]

真打制度大正時代に一旦廃止され、戦後に上方落語協会が部外秘の内規として復活させたが、昭和40年代の上方落語ブームによって有名無実化した。

天満天神繁昌亭の開設を機に、上方落語協会会長の桂三枝(現・6代桂文枝)が真打制度を復活させる計画を提案したが、反対意見が多く断念した。

現在は香盤(上方落語協会の内規)が真打制度の代替として存在し、芸歴5年以上を中座(江戸落語の二つ目に相当)、15年以上を真打と同格としており、真打相当からA、B、Cのランクに分かれている。 よって、通常上方落語で「前座」などの言葉を用いる際は、出番を表す言葉として使われることが多い。 順番は以下のとおり。

  • 前座(ぜんざ):勉強中の若手が出る。名ビラや座布団を返すなどの雑用もこなす。元は、仏教の高僧が説教をする際、出番前に話をする修行僧を「前座(まえざ)」と呼んだことに由来する。
  • 二つ目三つ目(以降、四つ目……と適宜続く)
  • 中トリ:仲入り(休憩)直前の演者を指す。
(仲入り)
  • カブリ:「かぶりつき」、「ツカミ」、江戸落語では「くいつき」とも言う。
  • シバリ:江戸の「膝前」とも。色物など。だれ始めた客を縛り付ける、という意味から。
  • モタレ:「膝がわり」とも。
  • トリ:「主任」とも。その会の責任者。「売り上げ金をとる」、「興行の真をとる」などの意味合いから。
  • 追い出し:「バラシ」とも。退場する客がはけるまでの間、軽い噺でつなぐ役割で出演する。現在では稀。

所属団体[ソースを編集]

東京の落語家は、概ね落語協会落語芸術協会といった所属団体によって色分けされているが、上方の落語家は、戦後の経緯から、吉本興業[3]松竹芸能米朝事務所などの所属芸能事務所によって色分けされている。各事務所には、以下に示すように基本的に一門単位で加入することが多いが、一門の多数とは異なる事務所に属したり(笑福亭仁鶴、月亭可朝、笑福亭笑瓶など)や個人事務所を構えたり(笑福亭福笑4代目立花家千橘など)、フリーで活動する落語家もいる。関西出身で落語立川流に入門した立川文都立川雲水は上方落語を演ずる。

  • 米朝事務所 - 3代目桂米朝一門(月亭一門、雀々らを除く)
  • 松竹芸能 - 6代目笑福亭松鶴一門(仁鶴一門・鶴笑師弟・笑太等を除く)、3代目桂春団治一門、森乃福郎一門
  • 吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー) - 5代目桂文枝一門林家染丸一門、6代目松鶴一門の一部(笑福亭仁鶴一門、笑福亭鶴笑一門、笑福亭笑太)、月亭八方一門
  • 露の五郎兵衛事務所 - 2代目露の五郎兵衛一門

しかし、大多数の落語家は上方落語協会の会員であり、天満天神繁昌亭への出演や「彦八まつり」への参加などでは事務所の枠を超えて協力し合っている。このこともあり、漫才やコントなどの他の上方演芸ではよく見られ、テレビ番組の出演者編成でも時にネックとなる『所属芸能事務所間の壁』というものについても、落語界では決して絶無ではないがそれほど高くないとされている。

上方落語協会とは別の落語家団体としては関西落語文芸協会がある。これは四天王(特に6代目松鶴)との確執などで上方落語協会を脱退した3代目林家染三が設立したものである。染三の高齢化により活動休止状態にあり、彼の死去した2012年以降、団体は事実上消滅状態にある。

なお上方演芸全般の組織として関西演芸協会があり、落語家も多数所属する。2006年12月現在の会長は落語家の4代目桂福團治である。

定席[ソースを編集]

歴史[ソースを編集]

明治から昭和初期まで[ソースを編集]

明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ法善寺周辺には、北側に三友派の象徴であった「紅梅亭」(旧称「今嘉の席」「泉熊の席」。後に吉本興業が買収し「西花月亭」)、南側に桂派の象徴であった「南地金沢亭」(同じく吉本の買収後「南地花月」)が存在ししのぎを削った。

他にもキタ北新地の「永楽館」(同じく吉本の買収後「北新地花月倶楽部」)はじめ、上本町堀江松屋町新町松島大阪天満宮界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していたが、天満宮の「第二文芸館」(同じく吉本の買収後「天満花月吉川館」)を皮切りに順次吉本に買収された事により、次第に漫才中心の興行内容にシフトしていった。

太平洋戦争時は戦地への慰問や落語家の高齢化に伴い寄席も一日4時間ほどしか開演していなかった。足りない芸人などは東京吉本から、柳家金語楼柳家三亀松等を呼び寄せ興行をなんとかつないでいた。しかし戦争の激化により一部は閉鎖され、残った寄席も大阪大空襲によって灰燼に帰した。

太平洋戦争後[ソースを編集]

1947年、ミナミに「戎橋松竹」(通称「戎松」)が開場。その後も戎松の後身の「千日劇場」や、松竹芸能系の「角座」「演芸の浪花座」(道頓堀)「新花月」(新世界)、吉本興業系の「なんば花月」「うめだ花月」、東宝系でケーエープロダクションの芸人が多く出演した「トップホットシアター」、京都・新京極に「富貴」「京洛劇場」「京都花月」、神戸・兵庫駅前に「寄席のパレス」、新開地に「神戸松竹座」などが開場したが、いずれも漫才との混成演芸場であり、落語の定席とは言い難かった。

落語専門定席の不在が上方落語の滅亡につながる事を懸念した上方落語協会は、会長・笑福亭松鶴の主導の下、南区千年町の島之内教会を借りて、1972年(昭和47年)2月より、月5日の「島之内寄席」を開催。芸能事務所や放送局(当時、一部の名のある落語家は放送局と専属契約を交わしていた)の枠を超えた定席として位置づけたが、会場側の都合によりわずか2年で潰えてしまう。

その後「島之内寄席」は会場を転々とし、1974年(昭和49年)4月にブラザーミシンビル(心斎橋)、同年12月に船場センタービル地下のボウリング場、1975年(昭和50年)6月にはダイエー京橋店へと移り、月3日興行に短縮された。この「島之内京橋ダイエー亭」は約9年続く。1984年(昭和59年)4月に南区畳屋町にある料亭「暫」に移転し、「島之内」に復帰するも、3年後には「暫」がビル改装のため閉鎖、1987年(昭和62年)に心斎橋のCBカレッジへ移り、ついに月1日興行となった。1993年(平成5年)に天王寺一心寺シアターへ移った後、1996年(平成8年)のワッハ上方開館に伴いレッスンルームへ移転。2005年(平成17年)にワッハホールへと会場を移した。ワッハホールの閉館に伴い、2011年(平成23年)に千日前TORII HALLに移転し、月1日興行ながら現在も続いている。

1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、上方落語協会は浪曲親友協会などと共に、大阪に東京同様の国立演芸場の開設を求めて文化庁などに働きかけを行った。結果として、現在、国立文楽劇場小ホールで奇数月に開かれている「上方演芸特選会」として実を結んだが、年間6回のみの興行であり、定席と呼ぶにはほど遠かった。

その後も専門定席の構想が浮上しては消えていったが、上方落語協会が桂三枝体制に入ると具体化し、2006年(平成18年)9月15日に「天満天神繁昌亭」が大阪天満宮境内北側に開席。「島之内寄席」が島之内教会を離れて32年、大阪大空襲から61年を経て落語専門定席は名実共に復活した。現在、上方落語協会ではキタの天満天神繁昌亭とミナミの島之内寄席を、協会主催寄席の両輪と位置づけている。

なお、純然たる落語専門定席ではないが、一時は「なんばグランド花月」「通天閣劇場」などの演芸場でも落語のプログラムが組み込まれ、吉本興業や松竹芸能に所属する落語家が独演会や勉強会を行うこともあった。千日前のTORII HALLで毎月1日に開かれている「TORII寄席」は、米朝事務所所属の落語家が多く出演する。

その後、天満天神繁昌亭の成功で興行側には落語を見直す気運が高まり、2008年なんばグランド花月で落語家のみの興行が定期的に行われるようになった。その他にも吉本興業は「うめだ花月」で月曜日から金曜まで昼の時間(12:30から)のみ「花花寄席」と題して吉本所属・フリーの若手中心で構成されたプログラムを行っていた。「うめだ花月」の閉館後は「なんばグランド花月」内にある「ヨシモト∞ホール大阪」で毎週土曜に開催していた。

2008年に2代目桂ざこばが西成区山王に「動楽亭」を開席、2009年5月には4代目桂福團治が会長の関西演芸協会法善寺寄席を開席した。

地域寄席[ソースを編集]

落語定席の復活がなかなか実現しない一方で、昭和40年代より地域に密着した勉強会や自主公演が盛んに行われた。これがいわゆる「地域寄席」であり、1972年(昭和47年)8月から1992年(平成4年)8月まで3代目桂米之助が主宰した「岩田寄席」(東大阪市)がその始まりとされる。

現在では、1974年(昭和49年)7月に始まった旭堂南陵主宰の「堺おたび寄席」(堺市、2005年3月に中断したが場所を代えて復活。講談と落語の会)と同年9月から続く「田辺寄席」(大阪市、桂文太と世話人会が運営)を最古参に、「もとまち寄席恋雅亭」(神戸市、世話人は桂春駒)、「桂米朝落語研究会」(京都市東山区、桂米朝一門主宰)「尼崎落語研究会」(尼崎市、桂米朝一門主宰)、「京都市民寄席」(京都市)をはじめ数多く行われ、上方落語普及と演者の修業の場として活発な活動を行っている。

出典[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]

脚注[ソースを編集]

  1. ^ 読売新聞」夕刊2008年8月15日
  2. ^ 『桂文紅日記 若き飢エーテルの悩み』(青蛙房)あとがきより
  3. ^ 組織改編により2007年10月1日以降はよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属変更。

外部リンク[ソースを編集]