笑福亭松鶴 (6代目)

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六代目 笑福亭 松鶴ろくだいめ しょうふくてい しょかく
六代目 笑福亭 松鶴
「戎松日曜会」。後列右が六代目松鶴(当時は三代目光鶴あるいは四代目枝鶴)。左に三代目桂米之助五代目文枝(当時あやめ)旭堂南陵(当時二代目小南陵)。子供は和多田勝(当時小つる)
本名 竹内 日出男
たけうち ひでお
別名 六代目、おやっさん
生年月日 1918年8月17日
没年月日 (1986-09-05) 1986年9月5日(満68歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府大阪市
死没地 日本の旗 日本・大阪府大阪市
師匠 5代目笑福亭松鶴
名跡 1. 竹内日出男(1944年 - 1947年)
2. 初代笑福亭松之助(1947年 - 1948年)
3. 4代目笑福亭光鶴(1948年 - 1953年)
4. 4代目笑福亭枝鶴(1953年 - 1962年)
5. 6代目笑福亭松鶴(1962年 - 1986年)
出囃子 舟行き
活動期間 1944年 - 1986年
活動内容 上方落語
家族 5代目笑福亭松鶴(父)
5代目笑福亭枝鶴(息子)
所属 千土地興行(? - 1960年)
松竹芸能(1960年 - 1986年)
主な作品
「月宮殿星の都」「高津の富」「らくだ
備考
上方落語協会2代目会長(1968年 - 1977年)

6代目笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1918年8月17日 - 1986年9月5日)は、落語家大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落語家6代目林家正楽の養女。息子は同じく落語家5代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。甥は笑福亭小つるを名乗って松鶴と共に若い頃修行していたこともある和多田勝

略歴[編集]

五枚笹は、笑福亭一門の定絞である。

人物[編集]

入門当時、消滅寸前だった上方落語の復興を目指し、3代目桂米朝らと奔走。埋もれていた演目を掘り起こし、また多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興を果たす。米朝、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治とで「上方落語界の四天王」と讃えられた。豪放な芸風と晩年の呂律が回らない語り口(1974年頃に脳溢血を患った後遺症による)が知られているが、若い頃はまさに立て板に水というところで、テンポよく迫力のある語り、酔態や子供の表現の上手さで人気を得た。特に酒を題材に取った噺(らくだなど)や芝居噺(蔵丁稚など)を得意としていた。松鶴襲名のころまではまさに他の四天王たちやほぼ同年代の噺家たちよりは頭ひとつ抜けた存在であったと評判であった。また、枝鶴、染丸同時襲名の折は看板は枝鶴(6代目松鶴)が上であった。

私生活においては、酒と借金にまつわる数々のエピソードなど、豪遊で知られる。これらは松鶴の弟子たちによって今でも面白おかしく語られ、「六代目」の生き方を偲ぶよすがとなっている。実際は家ではほとんど酒を飲まず、外では芸人「松鶴」を演じていたのではないかと筆頭弟子の仁鶴ほかが証言している。

また、若手の芸人を非常に可愛がっていた事もある。特に、桂きん枝が不祥事で師匠文枝(当時:小文枝)から破門され、サラリーマン生活を送っていた頃に4代目林家小染が他界。その通夜できん枝が泣きながら参列し、松鶴はその姿を見て文枝にきん枝を許すように助言し、その結果きん枝は破門も解かれ、復帰もかなったという。

6代目の旧住居は現在は寄席小屋「無学」となっており、弟子の笑福亭鶴瓶が月1回「帝塚山 無学の会」というイベントを開催している(後述)。

NHK等、媒体で発表された辞世の句は「煩悩を我も振り分け西の旅」である。これは、父・5代目の辞世の句「煩悩を振り分けにして西の旅」(4代目桂米團治作)を踏まえたものである。作者は甥の和多田勝(『六世笑福亭松鶴はなし』桂米朝の回顧より)である。戒名は「笑福亭楽翁松鶴居士」。墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。

エピソード[編集]

  • 元は役者志望だったが、少年時代に片足に重傷を負い引きずるようになったため、断念せざるを得なかった。この経験が後年、視覚にハンディキャップを持つ笑福亭伯鶴を弟子に取ることに繋がった。
  • 生涯3度結婚している。最初の妻とは死別し、最後の妻は元芸妓であり、出会った当初は今里新地で店を開いていた。当時は別の男性と結婚しており、店に夫が姿を見せると機嫌が悪くなり、今里駅前から自宅までの200メートル余りの間を大声を上げながら歩き帰り、家の中でも壁や柱に当り散らしていた(『六世笑福亭松鶴はなし』桂文枝の回顧)。結婚後は家族・弟子から「あーちゃん」と呼ばれて親しまれ、名物的なおかみさんだった。
  • 若手の頃はヒロポン好きであった。覚せい剤取締法が制定される1951年までヒロポンの市販は合法であったが、どれだけのヒロポンを打てるかが芸人のステータスとなっていた当時、松鶴は一升瓶に入ったヒロポンの溶水を掲げ「一日に30本打ったった」と自慢、「ワシや春団治は楽屋でヒロポン打っとったけど、米朝はリンゴ食うとった」との思い出を語っている(同じ松竹芸能所属だった北野誠のラジオでの談話)。
  • 紙切り芸人の香見喜利平が、舞台で使った残り紙を利用して年賀状用に翌年の干支である鼠(子)を切っていたのを見つけ、喜利平の不在の間にそれを全部捨てた上で、自己流のを紙で切って置いておいた。用事から帰って破り捨てられた鼠と松鶴の切った猫を前にした喜利平は「これで腹を立てたらシャレの通じん奴やと思われるやろな」とぼやいた(『桂米朝 私の履歴書』より)。
  • ベルが鳴っている電話に出るのが苦手で、まず弟子か家人に受話器を取らせてから電話を代わった。やむを得ず電話に出なければならないときは受話器を取るなり開口一番「だっだっだ、誰や!」と怒鳴っていた。
  • 一時期「笑福亭」という名の割烹料理屋を営んでいた事がある。芸人が毎日出入りし食事代を踏み倒すのですぐに店を潰した。
  • 鶴瓶の弟子で松鶴の孫弟子にあたる笑福亭笑瓶は落語家志望だったため、鶴瓶に弟子にしてほしいと懇願した。そこで鶴瓶は「ウチの嫁と、師匠の松鶴に気に入られれば入門を認める」と条件を出す。鶴瓶の妻には認められ、その後松鶴と対面した際に「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ、笑瓶は「好きです」と即答した。松鶴は笑瓶に対し、「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と告げたという。
  • 桂春団治と新世界の飲み屋で、それぞれの弟子を連れて飲んでいた時の事。近くの席でヤクザが女に因縁をつけているのを見つけた松鶴は、春団治にアイコンタクトを取りつつ「三代目」と代数で呼びかけた。状況を察した春団治も松鶴を「六代目」と呼び、弟子たちも師匠を「おやっさん」と呼ぶなどしてしばらく会話しているうちに、件のヤクザは席を立っていた(『六世笑福亭松鶴はなし』春団治の回顧)。
  • 驚きももの木20世紀』で語られたところによると、地方で独演会を開いた際、なかなか客が集まらなかった。そこで、興行主は、「笑福亭仁鶴の師匠来たる」と既に全国区の売れっ子だった弟子の名前を使い、客を満員にさせた。しかし、この事を知った松鶴は、プライドを傷つけられ憤慨。正統派の上方落語で、客席を爆笑の渦に巻き込む。そして、「仁鶴の師匠」ではなく、「名人の松鶴」を実力で見せつけ、来た客に認識させたという。
  • 1971年有馬温泉で行われた松竹芸能の親睦パーティーの席で泥酔して騒ぎ、来賓として出席した松竹本社の城戸四郎社長を激怒させるなど周囲の顰蹙を買った。松竹芸能の所属タレントはもちろん、親会社からも松鶴の解雇を要求する声が挙がる中、松竹芸能の勝忠男社長が仲裁に入り、松鶴が勝に謝罪することで事態は収拾した。皮肉にも松鶴はこのあとメディアでの露出が増えるが、勝は『六世笑福亭松鶴はなし』にて、有馬温泉の一件での松鶴の謝罪が影響したと回顧している。
  • 弟子の笑福亭鶴光山本正之のプロデュースで「うぐいすだにミュージックホール」をリリースして大ヒットしたが、それを聞いた松鶴は「鶴光のやつ、落語の勉強せずにストリップの歌など歌いおって、許せん!」と激怒し鶴光に3ヶ月間の破門を言い渡した。
  • 1971年から1979年まで大阪府知事を務めた黒田了一の支持者として知られ、黒田の選挙応援を度々行った。
  • 紫綬褒章授与の際に市民税を30年間滞納していたことが発覚し、急遽支払った。
  • 父が5代目松鶴だったこともあり、上方落語のサラブレッドやプリンスと呼ばれたことがあった。立川談志は初対面の時「随分汚ねえプリンスだな。」とあきれたが、松鶴は「わてがプリンスですねん。そう見えまっか。」と逆手に取って周囲を笑わしていた。
  • 上記の通り大阪警察病院で死去。同じ時期に同じ病院で入院していたのが宮川左近ショウ宮川左近であった。その後左近は松鶴が過ごした個室に入ったがその数日後亡くなった。
  • 最期の言葉には諸説ある。笑福亭鶴瓶によれば、最期に「ばば(大便)したい」と言い残し直後に息を引き取った(『鶴瓶上岡パペポTV』での談話)。また当時の新聞記事には「主治医に『戦争じゃ!』と呼びかけた」という記述がある(『落語ファンクラブ』より)。
  • 2代目松之助によると、5代目桂文枝が若手の頃に5代目松鶴から『天神山』の稽古をつけてもらっていたのを隣で盗み聞きし、文枝よりも先に高座でかけてしまった。

東京とのつながり[編集]

東京の落語家とも親交を持ち、東京でも「六代目」と呼ばれた。特に5代目柳家小さん三笑亭夢楽とは同じ世代でもあり無二の親友であった。松鶴自身東京の若手をもよく可愛がり、7代目立川談志3代目古今亭志ん朝は松鶴に心酔した。後年、談志は松鶴について、外見は豪放だったが実に繊細で面倒見がよく、毎晩のように御馳走になったり、普段の高座は「相撲場風景」などの軽いネタしかやらず「大したことないな」と思っていた矢先、「らくだ」をたっぷりと演じたのを聴いて体が震えるほど感動したなどと証言している。

東京の噺家が角座に来演するときは、必ず松鶴自らはトリに出ず東京方に取らせた。「わざわざ遠いとこから来てくれてんのやさかい、気持ちよう出てもらわなあかん」というというのが口癖で、その心遣いにみんな感激した。

弟子の鶴光が東京の落語芸術協会にも加入した時、周りの芸人たちが「六代目の師匠にはかわいがってもらいましたから」と手厚く扱ってくれ、改めて師匠の偉大さに気付いた。また、2代目快楽亭ブラックも短期間ではあるが、松鶴に世話になった事がある。

得意としたネタ[編集]

など

過去に出演したテレビ・ラジオ番組[編集]

  • てれこ談義(朝日放送ラジオ)専属時代には多くのラジオ番組に出演。その一つがてれこ談義で米朝と共に落語のネタを2人で芝居仕立てで演じるラジオドラマ。
  • 突然ガバチョ!毎日放送、鶴瓶主演)女性アイドル歌手等とトークを繰り広げる「松鶴のお部屋」のコーナーやオープニングで素人等と銭湯に入ったりした。
  • アップダウンクイズ(毎日放送、解答者)2006年末の同局『朝まで生つるべ』で笑福亭鶴瓶は以下のように語っている。松鶴は2度の不正解で退場となってしまった。その後、ある問題で他の5人の解答者が誰も答えられなかった。この問題を松鶴が正解できれば復帰できる。構成作家が小さな声で松鶴にそっと正解を教えてくれたのだが、松鶴は小声で話されるのが大嫌いで「何でっか? 大きな声で言うとくんなはれ!」と言ってしまい周囲を慌てさせた。
  • 世界一周双六ゲーム朝日放送、解答者、鶴光とともに出演)
  • 三枝の国盗りゲーム朝日放送、解答者、鶴瓶とともに出演)
  • 笑点(お正月特番鶴亀大喜利)
  • 寛美の落語紳士録毎日放送

笑福亭松鶴一門[編集]

弟子に関しては「来る者拒まず、去る者追わず」の精神で多くの弟子を受け入れたが廃業した者も多い。

通常では、惣領弟子の仁鶴を筆頭に呂鶴までが一門の幹部と認識されるが、鶴光・福笑は一門の会合には滅多に顔を出さなかったが、現在は仁鶴と一門とは八代目襲名問題以降疎遠になり、六代目の法要等は福笑が仕切っている。仁鶴と鶴笑は吉本興業所属。福笑はフリー。後の殆どは松竹芸能所属である。

落語会[編集]

帝塚山・「無学」(2013年11月撮影)

「帝塚山・無学」は粉浜にあった笑福亭松鶴の旧自邸を鶴瓶が買取をし改築した純和風ホールである。「落語会」を開催し一般にも開いている。今までのライブのゲストにタモリ、甥弟子に当たる明石家さんまイッセー尾形、桂米朝、桂春団治ら豪華な顔ぶれを迎えている。南海電気鉄道南海本線粉浜駅から東へ約5分のところにある。

参考文献[編集]

  • 『笑福亭松鶴』三田純市(駸々堂出版 1987年9月) -三田純市による伝記。
  • 『六世笑福亭松鶴はなし』戸田学編(岩波書店、2004年、ISBN 4-00-002586-4

著書[編集]

  • 〜松鶴極道ばなし〜ほな、いてこまそ(グリーンアロー出版社)1973年ーエッセイ。
  • 六代目松鶴 極めつけおもしろ人生(神戸新聞出版センター 1986年4月)
  • 上方落語(講談社 1987年10月) - 三田純市の選考による、ネタ100篇の速記録。
  • 六代目笑福亭松鶴 その芸・人・一門(1986年1月)
  • 六世笑福亭松鶴はなし(岩波書店、2004年7月) - エピソード集。
  • 古典 上方落語(講談社、1973年)

関連書籍[編集]

  • 笑福亭松枝『ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ』(浪速社) -松枝の内弟子時代の思い出を書いたエッセイ。松鶴一家の様々なエピソードの他に、鶴瓶の奇行などが描かれている。
  • 中島らも寝ずの番」 -上方落語の重鎮が亡くなった通夜の晩の狂騒劇を描いた短編。なくなった落語家“笑満亭橋鶴”とその妻は、松鶴夫婦をモデルにしている。のちに、マキノ雅彦監督により映画化され、橋鶴役は、長門裕之が演じた。
  • 田中啓文『ハナシがちがう!―笑酔亭梅寿謎解噺』『ハナシにならん!―笑酔亭梅寿謎解噺〈2)』(集英社) -上方落語界を舞台にした短編ミステリ集。主人公の師匠(タイトルロール)として、松鶴を忠実にモデルとした「笑酔亭梅寿」なるキャラクターが登場している。時代や世代は二十年ほど後ろにずらし、CD時代にも矍鑠とした老落語家として描かれている。

関連項目[編集]