上岡龍太郎

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上岡 龍太郎
本名 小林 龍太郎
(こばやし りゅうたろう)
生年月日 1942年3月20日(74歳)
出身地 日本の旗 日本京都府京都市左京区
血液型 AB型
身長 165cm
方言 京都弁
最終学歴 京都西高校
師匠 横山ノック立川談志浜村淳
トリオ名 漫画トリオ1960年 - 1968年
相方 横山ノック
横山フック
芸風 漫才
立ち位置 右端
事務所 吉本興業
上岡プロモーション(個人事務所)
米朝事務所(芸能界引退後の窓口)
活動時期 1960年 - 1968年(横山パンチ時代)
1968年 - 2000年(上岡龍太郎時代)
過去の代表番組 探偵!ナイトスクープ
鶴瓶上岡パペポTV
上岡龍太郎にはダマされないぞ!
ラブアタック!
花の新婚!カンピューター作戦 など
配偶者  既婚
親族 小林聖太郎(実子)
弟子 大空テント
九十九一
野口小太郎
ぜんじろう

上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年3月20日 - )は、日本の元漫才師タレント司会者である。本名:小林 龍太郎。旧芸名、横山 パンチ伊井 パンチ[1]。他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)として高座に出演。また、落語立川流の門下でもあり、高座名・立川右太衛門を持つ。上岡劇団座長。二人兄妹の長男。血液型はAB型。

京都府京都市左京区黒谷町出身。2000年に芸能界を引退。長男は映画監督小林聖太郎

経歴[編集]

  • 父親は高知県幡多郡下川口村大津の出身で京都帝国大学法学部を出た弁護士だった[2]。母親は宮崎県の出身で、上岡が小学4年生の時に乳癌のために早世した[2]
  • 資産家で高学歴の出だった母は家事雑事を使用人に任せ、育児を子供の勉学に充てていた。母はあまり良い顔をしなかったが、龍太郎少年は香具師や芝居、歌舞伎や映画に熱中。この頃の将来の夢は芝居役者だった。
  • 私立京都西高校(現・京都外大西高等学校)第一期生として卒業。高校在学中にロカビリーが流行し、その気に感化される。
  • 「同じ落ちるのならレベルの高い大学を受験しよう」と立命館大学の入試に挑むが不合格

。これを境に以降、本格的に芸能の道を進むことになる。

  • 京都西高校卒業後は京都でバンドボーイジャズバンドの司会などを経験。軽やかな口跡が知られ、ハンサムな司会者[3]として有名になる。
  • 1959年 浜村淳に弟子入りを懇願したが断られ、浜村の紹介でロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」に加入。
  • 1960年 横山ノックの誘いにより、「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。
  • 1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により、漫画トリオ活動停止。以後、同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」と改名した後、自ら上岡龍太郎を名乗るようになるが、漫画トリオの停止当初はほとんど仕事が無く、「ホサれていた」時期として有名[4]
  • 1970年代、少しずつ近畿放送朝日放送ラジオ大阪といった近畿圏の放送局でレギュラーを獲得。その一方で中部日本放送でもレギュラーを獲得し、近畿圏と中京圏双方を拠点に活動する。
  • 営業も自ら行い、レギュラーを獲得していったそのバイタリティが認められ、かつての相方のノックの誘いにより『ノックは無用!』『ラブアタック!』『花の新婚!カンピューター作戦』などで司会者を務め、関西・中京ローカルながら一軍のタレントに昇格する。長年、番組中や楽屋裏では「俺は絶対に東京に行かへん!」と語っていたが、1985年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出演した後、それまで東京では忘れられていた元漫画トリオの横山パンチ=上岡龍太郎として認知され、往時のファンたちが各局のディレクターやプロデューサーに昇格していたことから、やがて東京でも数多くのレギュラー番組を獲得するに至る。
  • 1987年 読売テレビ鶴瓶上岡パペポTV』が放送を開始。同番組は翌年10月から日本テレビでも放送され、これが東京進出への決定打となる。
  • 1988年 朝日放送『探偵!ナイトスクープ』が放送を開始。
  • 1990年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。
  • 2000年4月 以前から放送で「俺は、芸能生活40周年を迎える2000年の春になったら完全に隠居する!」と公約していた通りに芸能界を引退。

人物[編集]

芸風[編集]

立て板に水を流したような流暢な口調と理路整然とした語り、一方で切れ味鋭い毒舌を吐きつつ、芸人としてバカを演じてオチをつけるというスタイルであり、司会業にも優れていた。

西条凡児以来の「知性で笑わせられる芸人」との評がある。また、デビューまでに、美空ひばりのエピソードに倣って、百人一首を覚えたり、露天商の口上を覚えたりと、この時期に吸収したものが彼の芸に存分に発揮されている。

本人による自身の芸評

僕は知的だといわれますが、適当なことばっかり言ってるんです。もっと知識のある人が僕を見て、「愛い(うい)やつじゃ」と嗤ってくれればいいんです

僕はしょうもないことはよく覚えてて、大事なところの知識がない。これを僕は「知識のドーナツ化現象」と名付けてます

「インテリ」「知性的」「理論派」の芸風で人気があり、いわゆる上方お笑い芸人の「コテコテ感」からは逸脱して、漫画トリオ時代から異彩を放っていたのは、司会者・ミュージシャン出身の所産であり、その芸風はテントぜんじろうといった弟子たちが衣鉢を継いでいる。

番組で自己紹介をする際、当初は「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、私が上岡龍太郎です。」と述べていた。「ノックは無用!」等では短く「天才、上岡龍太郎です。」と述べていたが、やがて「私が上岡龍太郎です」と述べるように変わっていった。この際、「私が」を強調していたのが特徴であった[5]

芸人・タレントとして全国的に名を馳せてから、横山ノックを賞賛する立川談志の落語立川流に門下(Bコース)入りした。立川流での芸名は、上岡自身が大ファンでもある市川右太衛門に因んだ「立川右太衛門」。上方お笑い大賞の大賞を受賞したときの授賞式のプレゼンターとして市川右太衛門が登場し、大感激の授賞式となった[6]

立川談志は上岡龍太郎を「芸人に憧れ、憧れ続け、尚も芸人になろうしたが結局、芸人に成り切れなかった芸人」と評し、上岡著作のあとがきにて「芸人であることを糊塗する詭弁の著作である」と喝破している。

家族[編集]

父親は、京都で活動を行っていた庶民派弁護士・小林為太郎(旧姓・上岡)。自由法曹団に所属しており、日本共産党公認で衆議院総選挙に出馬したこともある(落選)。

母親は厳しく、上岡が10歳の頃に早世したこともあり、あまり記憶にないという。巨乳であったことと、母が乳癌を発病した際に霊媒師占い師などが詰め掛けて食い物にしたことだけははっきりと覚えているという。このことは、上岡の心にトラウマを刻み付け、オカルト物を徹底して否定させる原因にまでなった。

他に姉が1人、異母妹が1人いる。

漫画トリオ時代と横山やすし[編集]

詳細は漫画トリオを参照。

横山ノックの誘いにより漫画トリオに加入する。これは、ネタの構成等で上岡のセンスが必要でノックから旧知の上岡に声をかけられたからである。

ノックは上岡より10歳年長であり、上岡の師匠だと思われがちだが、実際は師弟関係ではなく、別グループで出演した舞台での共演が縁で知り合った友達である。ただし、漫才や演芸についての知識はあっても、司会とは勝手が違ったため、特にツッコミの入れ方でノックから厳しく指導された。

横山やすしは、やすし・きよし結成以前、秋山たか志に「おまえは将来どんな漫才がしたい?誰と組みたい?」と尋ねられた際、「パンチさんと漫才したい」と答えたが、「似たようなもので組んでどうする。違う個性がぶつかるから漫才やないか」と咎められた(「上岡龍太郎かく語りき」、「米朝・上岡が語る昭和上方漫才」)。

東京進出[編集]

大阪では長い間人気芸人であったが、全国ネットへの出演は少なかった。1990年代以前にもラジオや、テレビ番組『ラブアタック!』(ただしこの番組は大阪で製作)などの全国ネット番組に出演していたが、お笑い芸人としての人気は皆無であった。1984年10月2日に、横山ノックからの紹介で『笑っていいとも!』に出演したことがあるが、「東京は民度、文化レベルが低い」「東京は田舎者の集まり」と発言し、お友達紹介で奥さんへ電話をかけるなどの行動をとった。

上岡もずっと「やしきたかじん同様、東京嫌い。東京では仕事をしません」「全国ネットでやってる笑いは程度が低い。僕がアホに合わせる必要はない」と公言していた。1987年に朝の連続ドラマ見上げればいつも青空』に出演、甲斐智枝美扮する主人公が若いころに勤めていた美容室の店長の役柄で、おかま口調の大阪弁を使って演じたことをきっかけに、東京だけではなく全国での知名度が徐々に上がっていく。大阪で人気深夜番組だった『鶴瓶上岡パペポTV』が1988年10月10日から東京で放送されるようになると「鶴瓶の横にいるあの芸人はだれだ」と関心を集めるようになり、一気にブレイクした。

「東京は嫌い」と言うものの、たかじんとは対照的に東京での仕事が増えていった。上岡が東京でのギャラについて「びっくりしました。東京と大阪じゃギャランティの明細の額がゼロ3つ違うんですわ」と当時吉本興業取締役だった林裕章(後に社長・会長)に言った。ギャグとして「(全国ネットの視聴者も)やっと僕の笑いが分かるようになった」とも言うようになる。

東京進出初期には「東京は田舎もんの集まりやろう。生粋の東京人でない人が、東京人ぶってるのが腹が立つ」と頻繁に言っていた。上岡自身は後に『EXテレビ』で「あの発言で笑ってもらえると思っていたら、笑ってもらえなかった。それから言うのを止めた」と数多くいる上京者へ嫌味を言った。その後は東京嫌いのことを突っ込まれると「ひがんでたんやろうな」と冗談で言うこともあった。東京以外でも、「某県は盗人が多い」「某県はほら吹きが多い」「(京都市の区のうち)某区(または宇治)は京都と認めない」「大阪のひったくりは奈良と和歌山から来た奴ら」など、一定の地域をステレオタイプ的に揶揄したりすることがあり、真に受けた奈良県和歌山県の県議や知事らに抗議されたこともある。

「宇治は京都と認めない」は、『ルックルックこんにちは』でリポーターとして出演していた際、京都の宇治出身の番組プロデューサーが同郷であることを雑談の話題にしたが、京都市左京区出身の上岡が「宇治は京都と違う」という趣旨の返答をしたため、それから番組に呼ばれることなく短期間での降板となった。北野誠によれば、この件があって以降「宇治は京都と認めない」理論がエスカレートしていったという[7]

阪神タイガース[編集]

かつては大の阪神ファンで、自身の番組『タイガース・フィーバー』では自称「金は出さぬが口は出す、阪神タイガース陰のオーナー」と公言し、長期にわたって独特の視点で応援し続けた。1983年に川藤幸三が、若返りのために球団から引退勧告された際、フロントの首脳に「阪神一筋で野球ができるなら給料は要りません。ただ、そんなに引退しろというなら、僕をトレードに出してください」と訴え、現役続行が認められた話に感動した上岡は、2代目桂春蝶らと共に「川藤の給料はワシらで出そう!」とカンパで集めたお金をシーズンオフに「これを給料の足しにして欲しい」と持って行ったエピソードがある(川藤はそのお金で「川藤シート」として招待席を購入していた)。

しかし、萩原誠の阪神入団が決まった際に、球団が背番号31(元ミスタータイガース掛布雅之の付けていた番号)を与えたことに激怒し「陰のオーナー辞めます」と宣言し阪神ファンを廃業した。それ以後は近鉄を応援するようになり、たびたび「大阪市長選挙に出馬して当選したら大阪市で近鉄を買い取る」と発言していた。2004年の近鉄消滅後はどのチームを応援しているのかは不明である。

マラソンとゴルフ[編集]

かつては、テレビで堂々と「僕はゴルフはやりません」と公言していたが、のちにゴルフにはまることとなった。

また、「マラソンなんかしません」と言いながらマウイマラソンに参加(1995年の25回大会から冠スポンサーに。上岡の功績は大会HPで讃えられている(2006年10月時点))、1995年に豪州のゴールドコーストマラソンにも挑戦しており、この時には一般ランナーの壁とも言える4時間以内のタイムを、3時間48分25秒で走破した。マラソン熱が高じてサロマ湖100キロウルトラマラソンのようなウルトラマラソンにも挑戦し完走している。『オールスター感謝祭』の「赤坂5丁目ミニマラソン」ではランナーの常連、ハンデキャッパー(同番組でハンデが科せられる上級走者のこと)であった。

もともとマラソンを始めたきっかけは、1990年頃に仕事のために大阪市内の自宅から読売テレビまで徒歩で行こうとして、途中大阪城公園を通った際に何気なく走ってみたところ、ほんの数メートルで息切れしてしまい、体力の衰えを痛感したのが一因[要説明]、その後、色々工夫しながら徐々に距離を延ばして走り続けた結果、マラソンが好きになってしまった。

オカルト批判[編集]

幽霊などの存在に懐疑的であることで知られる。横山やすしやしきたかじんのように芸には厳しく、短気で妥協を一切許さない一面があり、番組出演中に納得がいかないことがあれば番組を途中で降りたり、役割を忘れることがあった。特に心霊モノや霊媒師・超能力・オカルト現象などを肯定的に採り上げると、この傾向は顕著に出た(上岡局長激怒事件)。

背景には上岡の実体験が大きく影響している。実母が祈祷占い八卦を信じる性格で、龍太郎少年にもそれを強いた。その母が乳癌にかかった際、霊媒師・占い師などが詰め掛けて食い物にしようとした霊感商法を目の当たりにしたため、上岡は心霊モノを嫌うようになった。ただし、こうした金目当てのものや、それを助長しかねない内容のものを厳しく批判しているが、風物詩民間伝承としての役割については容認している[8]。占い師銀座ジプシーの著書[要出典]では、「ある占い師が夫人に『あなたのご主人は浮気しています』と吹き込んだから」とも書かれている。

政治姿勢[編集]

「政治家でない以上、青臭いくらいの立場でいい」とのことで、「左派的」かつ「判官びいき的」姿勢である。1990年代前半までは平和:市民を支持していた(ただし立川談志を深く尊敬し、やしきたかじんとも付き合いが深かったことでも分かるように、保守的姿勢の者に対しても議論さえしなければ許容している)。

普段の発言と異なり、翼賛的な風潮があると判断した場合は批判的になる。横山ノックに対しても例外ではなく、ノック2期目出馬の際、ノックではなく日本共産党推薦の対立候補で哲学者鰺坂真を支持した。セクハラ事件の際も、疑惑発覚当初から現職大阪府知事でもあったノックを正面から批判した(「あれはやっとる」と発言し、府議会でもノックへの質問に取り上げられた。しゃれであった可能性もあるが、明確にはされていない)。ノック辞任後の大阪府知事選でも、後継の太田房江ではなく再出馬した鯵坂を支持した。

横山ノックがわいせつ事件で揉めている頃上岡は、ギャグでデイリーの記者に立候補の意思を漏らし、これがスクープになる。次に聞きつけたスポーツ報知の記者にギャグで市長選への出馬を表明し、これまたスクープになるが立候補する対象が市長なのか府知事なのか、情報が錯綜していることを知った上岡はこれもギャグで「まずはマンションの自治会長から」と各誌バラバラのコメントをし記者を混乱させる。

島田紳助との関係[編集]

島田紳助から心の師として尊敬されている。若手時代、紳助・竜介の漫才を見て自分がやりたい漫才の後継者にしようと紳助を食事に誘い、「君はどんな漫才がしたい?」との問いに、紳助は「今までになかった漫才がやりたいんです」と答えた。その言葉に「自分の後継者=従来の漫才」であると考えた上岡は「よし!じゃあ僕が今から今までの漫才のパターン全部教えてやるから、これからそれやったらあかんぞ」と答えたという。その結果、紳助竜介はリーゼントヘアにつなぎ作業着という不良スタイルの「ツッパリ漫才」という今までにないスタイルを確立させ、主に若い男性から支持を得た。以降、2人は師弟のような関係を築いていく。紳助竜介が新進漫才師の時代に映画『ガキ帝国』で共演し、その後にも2人は『EXテレビ』や『クイズ!当たって25%』などの紳助司会の番組で共演することが多かった。

紳助は上岡引退の際、「芸能界での道標を失ってしまう。引退を考え直してくれ」という内容の手紙を送ったが、上岡は「ずいぶん前から君は僕の前を走っているんだよ」という内容の手紙を送った。この手紙を読んだ紳助は涙が止まらなかったという。

紳助が2004年に暴力事件を起こして謹慎中だった際、真っ先に相談したのも上岡だった。紳助の「僕はこれからどうすればいいのでしょう」との言葉に「悪いと反省しているなら誠心誠意相手の女性に謝れ。でも自分から『引退する』などとは絶対に言うな。周りのスタッフのことを考えろ」と、引退を決めようとしていた紳助を諭した。後日、紳助が会見を開いた際に告白したもの。

2011年に紳助は『THE MANZAI 2011』で大会審査委員長を務める際の上岡にアドバイスを受けていたと語っている。しかし、同年の8月に、紳助は自身の不祥事で芸能界を引退した際に、インタビューで「上岡さんと一緒の55歳で引退されたのは何かの縁でしょうかね」と語った。だが、上岡が引退したのは58歳の時であり、紳助の発言は間違いである[9]

芸能界引退[編集]

芸能界引退前は「シニアプロゴルファーになって、戸張捷よりも良い解説をする(選手や解説者であって、タレントではないから)」「ジョギングで桜前線とともに北上し、紅葉前線とともに南下する」「皆が止めようとしないから辞めざるを得ない」と発言していた。

1996年の年末、『鶴瓶上岡パペポTV』において笑福亭鶴瓶が上岡の芸能界引退をほのめかし、本人もそれを認める。そして1997年のパペポTV新春スペシャルのオープニングにおいて正式に芸能界引退を表明する。上岡は「2000年に芸能界デビュー40周年を迎える。ボクの芸は20世紀で終わり。21世紀には新しい人生を歩みたい」と述べ、3年後の2000年4月に芸能界を引退。松竹座で行われた「かわら版忠臣蔵」が最後の舞台で、最後のテレビ出演は『探偵!ナイトスクープ』である。

芸能界引退を前にほとんどのレギュラー番組は終了したが、『探偵!ナイトスクープ』は引退直前まで唯一継続した。芸能界引退特番後、数か月間はレギュラー陣が交代で局長代行を務め、後に西田敏行が2代目局長に就任した。

芸能界引退に伴い、個人事務所の上岡プロモーションは解散した。芸能界引退後のコメント等の取材は米朝事務所が窓口となっている。

引退後[編集]

引退後、稀に知人の芸能人のパーティーやゴルフ大会、冠婚葬祭などに顔を出すことはあり、その様子が何らかの形で紹介されることもあるが、基本的には露出はしていない。親交のあるオール巨人のブログには、オール巨人と一緒に撮影した写真がブログに掲載されており、上岡の近況が確認できる情報源となっている。また、オール巨人とともに参加したゴルフ大会では優勝も果たしている。やしきたかじんとゴルフに行っていることも、たかじんが自身の番組などで明かしていた。

2007年6月7日に催された『横山ノックを天国へ送る会』ではかつての芸名“横山パンチ”名義で登場し、ノックへのメッセージを語った[10]

2007年6月17日に行われた桂雀々芸能生活30周年記念『雀々十八番』(会場:シアターBRAVA!)最終日のパネルトークにサプライズゲストとして出演した。

2007年7月7日京都南座での桂ざこばの会に特別サプライズゲストとして出演。

2008年11月11日、大阪・中之島リーガロイヤルホテルで行われた桂雀々の小説出版記念パーティーに出席し、久々に公の場に登場した。

過去の映像が稀に放送されることがある。一例として、『ラブアタック!』の映像(ABC60周年記念番組)や『EXテレビ』(オール巨人の公開弟子審査の回)に出演した映像が放送されている。

2011年12月21日、現役時代から長年の親交があった立川談志(11月21日死去)のお別れの会に参列し、久々にマスコミのインタビューに応じて故人との想い出を語った[11]

2015年、桂米朝の葬儀に参列した際にマスコミ取材に対応し、「(一般聴衆として、米朝さんの高座を)客席からよう見せてもらっとった」「米朝の名は永久欠番でしょうね」などと故人を偲ぶコメントを残している[12]

エピソード[編集]

  • 20歳頃に三代目桂米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で十代目桂小米(後の二代目枝雀)を見かけてかなわないと思い、諦めた。上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続けており、自身司会の『EXテレビ』で笑いの理論「緊張と緩和」についてインタビューをしたこともある。
  • 引退後も米朝一門とは縁が深く、自身のコメントなどの管理窓口を米朝事務所に委託している。
  • 『ラブアタック!』で一緒に司会をしていた和田アキ子とは和田の素人時代からの知り合いで、『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングで、和田が上岡を紹介したこともある。
  • 『ノックは無用!』で共演していた桑原征平は京都西高校の後輩にあたる。桑原の同級生には宮川大輔の父親がおり、宮川も桑原を通じて芸能界入りしている。また、宮川も京都西高校出身で、上岡の高校の後輩にあたる。
  • 上岡の夫人はパンチ時代からのファンである。上岡に集まってきたファンの中から感ずるところがあり、「君は将来、ぼくと結婚する」と口説き続けていたという。
  • 様式美を好むところがあり、前述の右太衛門のように、様式美の中で心躍らされるチャンバラ映画を深く愛している。松竹新喜劇にも強い敬意を払い、「変化座」構想を練り上げ、気の合う仲間たちと引退前の数年、新喜劇興行を行った(藤山寛美自身の賛同も得、寛美本人の演出も予定されていたが《演目は「愚兄愚弟」》、寛美の急逝のため、実現しなかった)。
  • 1977年には3代目旭堂南陵に師事し、その年の干支にちなんで「南蛇」を貰う。その後、1年ごとに干支に因んだ名前「南馬」「南羊」「南猿」と改名し、12年後に真打昇進するという計画を立てていた。

出演[編集]

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

テレビ ドラマ[編集]

映画・オリジナルビデオ[編集]

  • 雑兵物語(1963年)※横山パンチ時代
  • てなもんや東海道(1966年)※横山パンチ時代
  • てなもんや幽霊道中(1967年)※横山パンチ時代
  • 落語野郎大泥棒(1967年)※横山パンチ時代
  • ガキ帝国(1981年、井筒和幸監督、ATG ぷれいがいどじゃーなる)
  • 風、スローダウン(1991年)
  • ぜんじろうの怒りのZEN(1994年)
  • 難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版 VIII 詐欺師の運命(1996年)
  • SUN,RUN,GUN 脳みそぶっぱなしツアー1泊2日(1997年)

CM[編集]

受賞歴[編集]

  • 1982年 第11回 上方お笑い大賞(読売テレビ) 功労賞
  • 1989年 第18回 上方お笑い大賞(読売テレビ) 大賞

弟子[編集]

上岡龍太郎は弟子をあまり取らなかった。ぜんじろうが全国ネットでのレギュラーを持っていた時は、「そのとき売れているやつが一番弟子や」と言っているが、あまり師弟関係を意識していないというのが実際の所であり、弟子の一人であるぜんじろうは他芸人の付き人によくある厳しい師弟関係や礼儀作法などを仕込まれたことは無く、ほぼ放任に近い形の付き人であったという。そのため他の大御所芸人から何故か付き人としての態度が成っていないなどと叱責されて困惑していたと回想している。弟子を自身の事務所に所属させず、芸人の場合は主に自身の古巣に当たる吉本興業に世話を依頼するスタンスを取っていた。弟子入りは「師を笑わせろ」が条件で、遅刻を素直に謝罪したぜんじろうは「そのままの説明ではなく芸人なら面白い言い訳を用意しろ」と叱責されていた。

  • 江本龍彦
  • テント
  • 野口小太郎
  • 赤滝圭一郎
  • 中西一一
  • ぜんじろう - 大阪市内で上岡に「弟子にしてください」と冗談半分に言った結果、本当に弟子になった。
  • 屋部芯太郎
  • 加藤吉治郎 - 1995年に弟子入り。「弟子吉治郎」の名義も使用。

著書[編集]

単著[編集]

共著[編集]

研究書[編集]

  • 上岡竜太郎BM研究会 『わたしが辛口芸人上岡龍太郎です』 ブックマン社、1991年5月。ISBN 4-89308-164-0
  • 戸田学『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013

脚注[編集]

  1. ^ 「伊井パンチ」は命名者である香川登志緒が携わった演芸での出演時のみの芸名。
  2. ^ a b 自著『上岡龍太郎かく語りき -私の上方芸能史-』筑摩書房、1995年、31-33頁
  3. ^ 当時はナイトクラブやロカビリー喫茶=ライブハウスには専属の司会者がいて司会の技術を競っていた。また、有名バンドだと専属の司会者がいて、共に行動するのが主流だった。
  4. ^ 「食いつなぐため、作詞などの仕事も請けていた」(上岡曰く)
  5. ^ 『探偵!ナイトスクープ』の現局長の西田敏行もこれを踏襲して「私が局長の西田敏行です」と自己紹介している。
  6. ^ 右太衛門がプレゼンターでなければ断っていた、とは本人の話[どこ?]。もともとが賞嫌いであった。
  7. ^ BSデジタルラジオ LFX488『大瀧詠一のスピーチバルーン』2002年1月26日放送
  8. ^ TBS『上岡龍太郎がズバリ!』霊能者VS怒っている人
  9. ^ 上岡が「2000年春で引退する」と公言した時点の年齢が、55歳を迎える年の新春であった。
  10. ^ 横山ノックお別れの会、上岡龍太郎は横山パンチで送る言葉”. ORICON STYLE (2016年3月3日). 2007年6月7日閲覧。
  11. ^ 談志さん『お別れの会』で石原都知事が弔辞 上岡龍太郎さん「500年生き続ける天才」”. ORICON STYLE. 2013年5月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月21日閲覧。
  12. ^ 上岡龍太郎氏「米朝の名前は永久欠番」 デイリースポーツ 2015年3月25日閲覧
  13. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 25項
  14. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 26、27、32、33、37、38項
  15. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 49、50項
  16. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 50項
  17. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 60 - 62項
  18. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 59、60項
  19. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 62、63項
  20. ^ 『上岡龍太郎 話芸一代』青土社、2013年 43 - 45項