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心斎橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
心斎橋ブティック街(御堂筋長堀通
心斎橋筋商店街道頓堀戎橋側)
心斎橋筋長堀通側)

心斎橋(しんさいばし)は、大阪府大阪市中央区の大阪を代表する繁華街。また、かつて長堀川に架かっていたでのちに長堀通に整備された歩道橋。範囲としては心斎橋筋西心斎橋東心斎橋の辺りであり、行政上「心斎橋」という地名は存在しない。

概要

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心斎橋は大阪の2大繁華街の一つであるミナミの北側に位置し、大阪市のメインストリートである御堂筋から一筋東の心斎橋筋商店街にかけての地域である。御堂筋を中心に老舗百貨店専門店・ラグジュアリーブランドの路面店などが集積する大阪を代表する高級繁華街。心斎橋に店を構えることを夢や目標にする人も多い。東京の銀座と並んで日本を代表する高級ブランド街である。

明治・大正期には、大阪の発展とともに心斎橋周辺も繁栄し「東の銀座、西の心斎橋」と並び称され、銀座をそぞろ歩く"銀ブラ"に対して"心ブラ"という言葉が生じた[1]。そういった高級店は御堂筋沿いに多いのに対し、心斎橋筋商店街は大衆向けの店が多くを占める。南側に隣接する難波道頓堀千日前などとともに一体的・広域的な繁華街ミナミを形成している。

また近年では、難波道頓堀からも程近いことから、外国人観光客にも人気の繁華街で、日本語以外の言葉を掲げる看板も多数目立つ。

また、西心斎橋には三角公園(御津公園)を中心に関西における若者文化の発信基地であるアメリカ村(通称:アメ村)が位置し、古着屋を中心に若者向けの店が多数集積している。

心斎橋筋は、船場島之内を分ける長堀川(現在は埋め立てて長堀通)に架かっていた心斎橋(橋梁)に由来する。単に船場と島之内を繋ぐにとどまらず、道頓堀川にも戎橋が架けられ、なおかつ西横堀川(現在は埋立てて阪神高速1号環状線北行き)寄りの道であったことから、道頓堀芝居小屋下船場新町遊廓を結ぶ道として賑わいを見せるようになり、今日に至っている。

このように心斎橋筋は土佐堀川から道頓堀川まで南北に伸びる道であるが、船場においては心斎橋という認識は薄い。これは、1872年に心斎橋筋(1・2丁目)の町名が島之内においてのみ実施されたことに拠る。

歴史

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1930年代の心斎橋筋

戯作者暁鐘成は文政13年に心斎橋筋博労町に移り、土産物雅器店の「鹿廼家」を営んだ。心斎橋筋唐物町の書肆河内屋太助をはじめ河内屋と関係が深く『摂津名所図絵大成』などを記している。同著には心斎橋と船料理屋「船いけす」の風景が描かれている[2]

西心斎橋の御津八幡宮は八幡筋の名の由来で、弘化3年の正遷宮のおり、太鼓三味線などの鳴り物に揃いの衣装で深夜まで練り歩き、氏地の各町が「造り物」をあつらえて置いたという[3]

幕末の心斎橋は錦絵を制作販売する絵草紙屋が軒を連ねた。綿屋喜兵衛の「綿喜」、天満屋喜兵衛の「天喜」、本屋清七の「本清」、阿波屋文蔵の「阿波文」、士屋政吉の「冨士政」などがあった。彼らの発行する錦絵には、発行店を示す版元印が捺されていた[4]。心斎橋より一丁北少し東入る安堂寺町丼池にあった宿屋「紀ノ嘉」の引札には、心斎橋を中心に東西南北の主要目的地の距離が記されており、心斎橋こそ大阪のへそ、中心であるが如く描かれている。また近代になると、心斎橋筋大丸の東南角に「大阪市中心標」なるものが建てられた[5]

攝津名所圖會大成「心齋橋通書肆」(『浪速叢書 第八』昭和3年)

明治時代に入るまでの心斎橋筋は、書肆の街であった。白張り看板に書籍商の店名を託し、軒先には柘本の一枚をかけ、店頭には法帖や、漢籍が埃にまみれて重なり合っていた。旧幕時代は、この街が浪華出版界のセンターとしての役割を果たしていたものである。曲亭馬琴が心斎橋筋の書林に宿したというのは、心斎橋北詰二丁ほど北にあった秋田屋書林であった。本屋では、河内屋系統が盛んで、伊丹屋系、敦賀屋系、近江屋系があり、河内屋本家は、心斎橋筋北久太郎町北入の河喜こと、柳原喜兵衛、三木佐助も、河佐、すなわち河内屋佐助であった。また敦賀屋系では松村九兵衛が有名であった。明治以後、次第に本屋は西横堀下船場)の阿波座の方に移転し、三木などは楽器屋となり、のちには安土町の加賀屋吉田(謡曲本)があるだけになった。明治33年刊行の『大阪営業案内』の案内図には、前川善兵衛、青木嵩山堂丸善株式会社書籍店出張所などの店名がみえる。南本町四丁目の金港堂(原亮三郎)は教科書専門店であり、心斎橋筋南本町に、金尾種次郎の金尾文渕堂があり、薄田泣堇の処女詩集「暮笛集」を出したり、高安月郊の「金字塔」中村春雨の「無花果」を出したりして非常な評判をとったが、のち東京神田に移った。戦災前はまだ幾分、書林の面影が残っていて、柳原も松村九兵衛の店もあり、義太夫五行本で知られた加島屋も唐物町四丁目にあった。書林としての心斎橋筋は、同時にまた文明開化の先端をいく街でもあった。明治初期には、いち早く立派な高層洋館建の北出時計店(南本町心斎橋筋南入)が雄姿を表した。軒上にブロンズ製の人形を飾り、時が来ると軽妙なの響きがあたりを流れた。南久宝寺町心斎橋筋南入るにも洋館の渋谷時計店があり、心斎橋南詰の石原時計店とならんで、三大洋館がその雄を競っていたものである。やや遅れて心斎橋北詰に白亜の美しい洋館、天賞堂大阪支店が文明開化の気風を流した。こうして心斎橋筋は文明を追い、文明を吸収して発展してきたのである[6][7]

元々心斎橋は、新町遊廓へ至る順慶町通と交差する船場側が栄えていた。順慶町通は夜市で知られ、煌々と照らされる街路は江戸から来た人々も驚くほどであった。しかし、松島遊廓の誕生や大火によって新町遊廓は衰退・焼失してしまい、南海難波駅や湊町駅(現:JR難波駅)の開業(道頓堀以南は戎橋筋と名称を変えるが難波駅前まで通じている)、大丸や十合(そごう)といった呉服店による百貨店経営の開始などにより、明治以降は島之内側が栄えるようになった。なお、現在も船場側には、順慶町通を境に、せんば心斎橋筋商店街と心斎橋筋北商店街がある。

かつては平野町の商店街[注釈 1]が高級とされ「田舎もんは心斎橋で買う」と言われていた[9]。心斎橋では「誓文払い[注釈 2]」が名物で、誓文払いは10月に行われる商家の蔵ざらえで、平素の利得の罪ほろぼしに品物を安く売って神仏に謝罪したことから起こったとされるが、後に恒例のイベント的なバーゲンセールの感覚で行われたという[11]。明治維新前の心斎橋の繁栄は心斎橋北詰から北方を主としていたが、大正、昭和初期の「心ぶら」は丸善あたり(博労町)までで、あとは次第に卸問屋の店となり[注釈 3]、大正末、昭和の初めには次第に淋しくなり慢歩の人足は遠のいた。そのかわりに、むしろ問屋の町として商品の動きが次第にまし、戦後はとくに繊維雑貨の卸商の街区として近代化した。心斎橋筋は心斎橋以南はむしろ南の方に繁華がうつり、そごう・大丸より以南、地下鉄と連絡して百貨店と商店街が仲良く繁栄し、そして戎橋以南の八ツ橋筋が雑踏の町となった。ショッピングと食い倒れの町、いわゆるミナミの中核であるが、心斎橋の北詰以北はまた違った意味で問屋、仲買の集団地域、船場の中枢として近代的に生まれ変わった[13][14]

美術史家橋爪節也は昭和初期のモダン心斎橋の特色を「視覚を歓ばす愉しみ、見る快感、美しいデザインや文化芸術に街が輝いていたこと」にあり、心斎橋に氾濫していた様々なヴィジュアル、形象イメージ形態フォルムこそ大大阪の華麗な産物である、と述べている[15]

1989年平成元年)に島之内のうち堺筋 - 畳屋町筋間が東心斎橋、御堂筋以西が西心斎橋という町名になった。しかし、現在も鰻谷(中之町・西之町)、大宝寺町(中之丁・西之丁)、東清水町、西清水町、千年町、玉屋町、笠屋町、畳屋町、周防町、八幡町、三津寺町、久左衛門町といった旧町名およびそれに基づく筋や通の名称は健在で、御堂筋の交差点名にも使用されている。東心斎橋(とりわけ周防町筋以南)および南接する宗右衛門町は、歓楽街として「ミナミ」と呼ばれることが多いが、このエリアでは店舗や居場所の特定に旧町名が頻繁に用いられている。また、西心斎橋の周防町筋周辺はアメリカ村と通称されている。

大大阪時代の心斎橋・心斎橋筋

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《伸びゆく心齋橋筋》(『寫眞心齋橋[注釈 4]』心斎橋新聞社 1935年)

戦前のモダン大阪はダイナミズムに溢れていた。大正14年の「大大阪」の成立。人口は二百十万を超え、東京市を抜いて世界第六位のマンモス都市へと膨張する。御堂筋の建設、日本初の公営地下鉄開通が都市の骨格を鍛え、市民も新しいシティライフを享受する。街そのものがモダニズムを凝縮した地域の一つが、心斎橋とその界隈であった。

大阪は徹して人工の都市である。地名も開発に携わった町人の名を記念に残す。特にミナミにはそうした地名が多く、これらは近松の世界そのままの語感が息づく。芝居演劇道頓堀に対し、心斎橋は造形美術音楽などアートの街だった。江戸時代の面影を伝える老舗があると思えば、アールのある大きなショーウィンドーや「Fashion」と英語で書かれたケース呉服が飾られた。

19世紀のはじめ、詩人ボードレールの時代、パリに出現したのが都市を目的もなく、ぶらぶら遊歩する「遊歩者フラヌール(flaneur)」であった。心斎橋をぶらぶら歩く「心ブラ」をする人々も近代都市の「遊歩者」ともいえ、昭和7年に刊行された北尾鐐之助の『近代大阪』には、考現学の手法による「心斎橋筋の一考察」と題した一章を設け「大阪における近代的流行の歩くところ」と心斎橋を評している。一方、心斎橋に近い長堀橋筋(堺筋)の薬種商「天水香」に生まれた画家小出楢重は、昭和11年の随筆『大切な雰囲気』《陽気すぎる大阪》において「学術文芸芸術とかいふ類の多少憂鬱な仕事をやらうとするものにとつては、大阪はあまりに周囲がのんきすぎ、明る過ぎ、簡単であり、陽気すぎるやうである。(中略)文化とは何んや、焼芋の事か。『近頃文化焼芋の看板を見かける』といふやうな人情を私は感じる。」と近代都市大阪の軽薄な側面を指摘し、昭和5年の『めでたき風景』《芦屋風景》では「今の処、何と云つても私が思ふ存分の勝手気ままを遠慮なく振る舞ひ得る場所はただ一枚のカンバスの上の仕事だけである。」と述べている。しかし、こうした指摘も伝統や環境から出発しながら「画家」の成り立つ一点をあくまで「一枚のカンバス」に求めた、根っからの都会人、小出のモダニストとしての視点であった。いずれにせよ、原を漂流するのように、人の流れのまま無窮に遊歩する愉しみ。の日はアーケードや地下鉄を伝い、どこまでもなしで歩ける連続性はヴァーグナー無限旋律ブランクーシ彫刻『無限柱』の如くであった[17][18]

南本町

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与謝野晶子著『夢之華』表紙(金尾文淵堂刊)

南本町心斎橋筋角には金尾文淵堂があった。文淵堂の主人金尾種次郎は船場商人の子で、俳号を春草または思西と号した。画家の赤松麟作、俳人青木月斗、山中北渚ら久宝小学校の同窓で文化サークルを作り、明治32年に文淵堂が刊行した薄田泣菫の詩集『暮笛集』には赤松麟作と丹羽黙仙人による表紙挿絵が採用された。また、この文淵堂から『ふた葉』という文芸雑誌を発刊し、小説随筆評論新体詩和歌俳句漢詩など投稿を募集した。明治33年の春に薄田泣菫が編輯主任となり、同年十月号から『小天地』と改題した。明治34年10月には薄田泣菫の第二詩集『ゆく春』が出た。明治33年には高安月郊の『金字塔』、中村春雨の『無花果』、川上音二郎と貞奴の『欧州漫遊記』などが出版されている。その他、明治36年には発禁となった児玉花外の『社会主義詩集』もあった。ほか、月刊俳諧雑誌の「車百合」などが刊行された。金尾文淵堂は明治37年に東京神田に移るが、明治時代の大阪における出版文化を彩る一時であった[19][20]

南・北久太郎町

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心斎橋筋北久太郎町通上る東側には北出時計店があった。三階位の高さの洋館時計台があり、時計の数字はローマ数字であしらわれていた。エキゾチックで明治風の文明開化を思わせる建物であった[21][22]

南・北久宝寺町

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明治末、銀座にパーラーを開業していた資生堂が大正8年9月に南久宝寺町心斎橋筋に進出した。「銀座店と同じ造りの店で、軒下のステンドグラスや青い大理石、低いショーウィンドーに陳列した商品など、大阪では異色のものだった」と伝えられている。飲料部もあり、銀座店と同じものが出されていたという[23]

南久宝寺町四丁目には「セレクト社」があり、洋画家鍋井克之の発刊のことばによると、中川紀元、小出楢重らと編集した「マロニエ」廃刊後、美術雑誌を求める声が高く「セレクト」を創刊したという。二科の画家たちが執筆し、創刊号表紙は超現実主義の古賀春江黒田重太郎ジョルジュ・ルオー論、中川一政の和歌、鍋井の詩が載る[24]

三木楽器店(左)(『大大阪画報』大大阪画報社 昭和3年)
前川楽器店広告(右)(『音色の友 ヴァイオリン楽譜』前川書店 明治44年)

北久宝寺町の三木楽器店は、文政8年貸本屋として創業した。明治21年に楽器部を創設、同25年からは楽譜音楽書の出版を手掛けた。創立者の四代目三木佐助と作曲家指揮者山田耕筰は作品出版を通じて親しく、本社三階のホールを舞台に「作曲講座」などの音楽普及活動を行った[25]

⼼斎橋筋南久宝寺町通上る東側には前川善兵衛の文栄堂があった。創業は寛政期で明治以降は英和辞典舶来品教材も取り扱うようになり前川教育⽤器械店を開店した。また、池内オルガン(後の東洋楽器製造(兵庫県⿓野町)の代理店として前川楽器店を併設し楽器の輸⼊・製造販売も⾏った。前川楽器店発⾏のヴァイオリン楽譜には⼤阪洋画壇草創期の画家⼭内愚僊による表紙絵が採られ、和⾵な雰囲気の中にアール・ヌーヴォー様式を反映した装飾性を⽰していた[26][27][28]

博労町

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博労町には書肆の青木嵩山堂があった。明治19年の『万国名所図会』に店頭の図が掲載されている[26][29]

心斎橋筋博労町通北西角には服部時計大阪支店があり、北久太郎町の北出時計店、心斎橋南詰の石原時計店と並ぶ洋館の建築であった[21][22]

順慶町

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順慶町には国定教科書を取り扱う田中青柳堂があり、その筋向かいには丸善大阪支店があった。またその階上には凮月堂食堂が設けられていた。書肆鹿田松雲堂心斎橋店の隣にあった洋菓喫茶の「ドンバル」では、昭和13年に藤田嗣治東郷青児らによって結成された九室会の大阪支部が置かれ、吉原治良などをリーダーに毎月9日に例会が開かれた。ほか、フランス調の喫茶店「三筋」があった[30][31][32]

心斎橋筋順慶町通上る西側にあった「上田写真機店」は、ファッションデザイナー上田安子の父上田貞治郎が経営していた写真機店で、店構えは四階建てのビルであった。上田安子は昭和16年に上田安子服飾研究所を設立し、昭和21年に大丸心斎橋店で初のファッションショーを開催した[33]

河内洋画材料店は、大正9年中之島にあった吉村商店(現・ホルベイン)から河内俊が独立し、心斎橋筋順慶町に創業した。当初は写真の暗箱を扱ったが、大正末頃に河内洋画材料店に改名した。一時、八幡筋の西へ移転し、昭和初期はそこを卸部に、心斎橋筋一丁目に本店を開いた。「画人印」の商標デザインは堀寅造による。小出楢重や藤田嗣治、東郷青児などの画家が来店した[34]

昭和8年心斎橋筋順慶町に大阪画廊が開設された。もとはロンドンのニュートン絵の具の日本代表事務所の画廊で、昭和5年に大塚銀次郎が開設した神戸の神戸画廊(鯉川筋画廊)と提携して画家の展覧会開催の便宜を図った。画廊の外観は、二階が低いいわゆる「つし二階」で、モダンだがクラシック近代都市大阪の特質を示していた[35][36]

安堂寺町通

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心斎橋筋安堂寺町通には浮田桂造五龍圓があった。創業は寛政2年あるいは享和年間ともいわれる。五龍圓は効能のある練薬で、明治以前はこの家の南の方格子の内にて日々練薬を搗く音がしたという[37]

明治42年創業の酒井公声堂は大阪で最も早く輸入洋楽レコードを販売した。経営者の酒井欣三は天賞堂大阪支店の写真機部から独立してレコード事業に乗り出した人物で、大正期に自社ブランドの「バタフライレコード」でレコード界に参入した[38]

塩町通

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天賞堂大阪支店(『大大阪獨案内』海事彙報社 大正15年)
駸々堂心斎橋店(大正時代)

心斎橋筋塩町通下る東側に天賞堂の大阪支店があり、画廊も経営していた[39]。また、数軒隣には天保14年創業の駒井象嵌店(京都市古門前三吉町)の大阪支店があり、『写真心斎橋』の巻末に金象嵌製作の工程が掲載されている[40]

明治17年、学習参考書で有名だった書肆の駸々堂本店が京都から塩町通に移った。心斎橋筋を挟んで西店・東店があり、昭和51年に東店だけに統一された[41]

心斎橋北詰塩町通四丁目には廣瀬文廣堂があり、画家佐伯祐三の作品《河内燈油村付近》のスケッチ板の裏に当店の商品の印が捺されている[42]

昭和11年、塩町通心斎橋ビルディングの「流行の粹社」からファッション雑誌『粹』が刊行された。巻頭で洋画家国枝金三が東京の「粹(いき)」に対して大阪の「粹(すい)」を主張した。本誌は大丸・そごう・高島屋三越松坂屋など百貨店の流行ファッションに触れるほか、久保田出吉(秀吉)の「心ぶら考現学」などが掲載された[41]

末吉橋通

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末吉橋通四丁目には阪根楽器店があり、レコード販売、楽譜出版、音楽教室を行っていた。昭和50年代にはジャズブルースロックの品揃えが豊富なことで知られた[43]

心斎橋筋末吉橋通上る西側にあった「春木眼鏡店」は明治29年に創業した。『写真心斎橋』掲載の写真には、ショーウィンドーにロイド眼鏡が陳列されている様子のほか、店内の椅子バウハウスの校長にもなった建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが1926年に発表した画期的な《MRチェア》に似たデザインであった[44]

末吉橋通、長堀川に面する心斎橋北詰のすぐ東には料亭播半」があった。谷崎潤一郎小説細雪』にも登場し、日本画北野恒富還暦祝いの会が開かれるなど、美術と関係の深い店であった。本店から心斎橋筋をはさんで西側の御堂筋近くには、スパニッシュバロック様式のモダンな洋館播半、心斎橋筋から宗右衛門町に入ってすぐに鳥料理の播半支店があった。いずれも戦災で消失したが、西宮甲陽園の播半は昭和初年から2005年まで続き、地形を活かした広大な敷地と建物を誇っていた[45]

鰻谷南・北通

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心斎橋の絵はがき。後ろのビルは石原時計店(大正-昭和初期)

心斎橋南詰、鰻谷北通西南角に石原時計店があった。文化3年南久宝寺町四丁目に創業し和時計を扱っていた。明治22年に大阪時計製造会社を設立して、翌年から柱時計の製造を開始。その後、心斎橋南詰に大きなビルを建設し、宝飾品、楽器、蓄音機測量機、自転車なども輸入販売した[46]

松竹劇場は道頓堀の松竹座が有名だが、心斎橋にも松竹の劇場があった。そごう百貨店と北側のビルにあり、スペースは広くはないがニュースや文化映画を上映する映画館で、初代中村鴈治郎を主人公にした昭和16年の溝口健二監督『芸道一代男』なども上映された。なおビルの御堂筋側入口には、宮島久七のデザインによるレリーフがあった[47]

心斎橋筋鰻谷北通下る東側にあったフルーツパーラーの「蝶屋」は俳優長谷川一夫が経営していた店で、モガや映画ファンたちがこぞった[48]

心斎橋筋鰻谷には、しる屋の「しる市」があった。名の通り味噌汁の店で、小説家織田作之助は『夫婦善哉』で「戎橋そごう横(正しくは「心斎橋そごう横」)『しる市』のどじょう汁と皮鯨ころ汁」と記している[49]

昭和2年心斎橋筋鰻谷北通南東角のカタヤキャンデーストアーにおいて、マヴォ構成派團體」ドドド「ダダイスト集團」後援のもと「第一回形成芸術協会展」が開かれ、萩原恭次郎ワシリー・カンディンスキー村山知義、東郷青児、牧寿雄などの作品が展示された[50]

大宝寺町通

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大丸心斎橋店本館

大丸は享保2年伏見に下村正啓が呉服店「大文字屋」として創業し、早くも享保11年心斎橋筋の現在地に進出「松屋」の屋号で現金正札販売をはじめた。心斎橋進出以来、三百年に近い屈指の老舗である。大正11年、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築事務所の設計による新店舗第一期工事が完成。昭和になって定款を「百貨陳列販売業(デパートメントストアの営業)」にあらためる。欧州百貨店のようなネオ・ゴシック様式の豪華な建築で、心斎橋に面した側から竣工し、御堂筋拡張にあわせて昭和8年に全館が完成した。外観や内部の装飾アール・デコ調で統一され、テラコッタ孔雀まわりの星形パターンなどは豪奢、イソップ物語ステンドグラスや、装飾に様々な動物を動員するのはヴォーリズ好みである。大丸の洗練された宣伝広報のセンスも屈指で、PR誌「だいまる」贈答品のデザインなど、華麗で瀟洒であった。

そごう大阪本店

そごう(十合)が大阪の坐摩神社前で創業したのは天保元年で、十合伊兵衛は、出身地から屋号に「大和屋」を用い、明治10年に心斎橋筋に移って十合呉服店となる。大正8年に新社屋を建て近代的な百貨店へと脱皮し、隣接する大丸の新館建設をにらんで、気鋭の建築家村野藤吾の設計で、昭和10年「ガラス大理石の家」を宣伝文句にうたう新館を開設した。そごうの建築は、縦のストライプを強調したシンプルでモダン和風調の造形美が洗練され、隣の大丸と好対照をなした。外壁にオーギュスト・ロダンの助手藤川勇造彫刻《飛翔》が置かれ、エレベーター扉は島野三秋の螺鈿装飾、貴賓室扉が奥村霞城の蒔絵、天井は鶴丸梅吉のモザイクと、ウィーン工房出身の上野リチ・リックスのガラスで飾られた。イタリア人女性支配人がフランス料理を出した六階の特別食堂には、藤田嗣治の壁画《春》があった。女性写真家山沢栄子のスタジオがあった[51]

心斎橋筋大宝寺町通北西角には三階建ての「洋服学校」があった。一階は既製品売場、二階では客が生地を選ぶオーダーメイドも行われていた。をぐらやビル刊行の「ショップガイド」の広告には「洋服デパート」の名で掲載されている[52]

清水町筋

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小説家岡田誠三の父、岡田播陽は心斎橋筋清水町筋下る東側の播磨屋呉服店主で大阪の町人学者の伝統につながる人物である。雑誌『中央美術』に「大阪人と絵」、「大阪の書画屋の内幕」など評論を寄せ、大正6年の『三都生活』、昭和5年の『大衆経』の著作もある。岡田播陽は「大阪主義」の意味で「大阪ニズム」に偏するには批判的であった[53]

周防町筋

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「ショップガイド」誌のアート欄を支えた前衛写真家の木村勝正は丹平写真倶楽部に属し、心斎橋筋周防町を東に入った場所で商業写真館「リヒト(LICHT)」を経営していた[54]

心斎橋筋周防町筋下る東側に高級料亭として有名な船場の今橋にあった「つる家」の心斎橋店があった。「つる家」は谷崎潤一郎の『』にも「鶴家」として登場している[55]

八幡筋

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小大丸は明和元年に創業し、天明5年心斎橋に進出した。出身地から屋号は「大和屋」白井家である。そこで丸に「大」の字を囲んで店の印としたが、同じ心斎橋筋の松屋こと下村「大丸」より小ぶりの店、ということでいつの頃からか呼ばれるようになった「小大丸」の愛称を正式な店名に採用した。かつては大阪の豪商を顧客とした。格子窓が連なり二階が低い「つし二階」の店構えで、モダンな店舗が連なる心斎橋筋に江戸時代の格調高い匂いを漂わせていた。また、八代目当主の白井忠三郎は小出楢重のパトロンであった[56][57]

赤松麟作《心斎橋》(『大阪三十六景』金尾文淵堂 1947年)
安井仲治と丹平写真俱楽部のメンバー(中央の眼鏡をかけて座っている人物が安井仲治)
丹平ハウス(左)をぐらやビル(右)

大正13年、心斎橋筋二丁目の丹平製薬本店跡に「丹平ハウス」が開設した。一階は心斎橋筋から裏の別館まで通路が抜け、通路側は薬局、南側のソーダ・ファウンテンではアメリカ式の大理石カウンターでソーダ水アイスクリームホットドッグ、丹平サンドウイッチなどを販売した。二階は美粧部(美容室)に写真室、画廊、貸事務所があった。美粧部はフランス風を意識しつつ、土地柄、日本髪も扱った。別館には内科、小児科、産婦人科のクリニックが入った。丹平ハウス階上には赤松洋画研究所と丹平写真倶楽部が設けられ、赤松洋画研究所は大正15年に開設され、赤松麟作を中心に松本鋭次、田川寛一らが学生を指導し、一般学生のみならず、勤め帰りの百貨店のデザイナーもデッサンの腕を磨きに通った。丹平写真倶楽部は昭和5年に結成。安井仲治上田備山をリーダーに超現実主義をとりいれた先鋭的な新興写真を開拓した。写真の審査には赤松麟作も特別参加したという。その成果は昭和15年刊行の写真集『光』に結晶する。昭和9年西宮の夙川に喫茶店「ラ・パボーニ」を開いた画家大石輝一は、昭和6年の丹平ハウスでの個展で《六麓荘風景(B)》を出品している。学生らによる展覧会ポスターでは、大阪の文人画家森琴石の孫森寿太によるものであった。昭和6年4月10日から12日にかけては建築団体「鉄扉社」の第一回展覧会「無名建築家連盟第一回合同作品展」が開催され、展覧会最終日には村野藤吾、安井武雄、岡田孝男を招いて座談会が開催された。商業ビルに芸術関連施設を組み込んだセンスは現代的で、丹平ハウスは街の活気も映したモダニズム美術の中心となる。一方、落語三十石」でも有名な付け油の「をぐらや」は、白椿油の老舗であった。丹平ハウスの向かいの心斎橋筋二丁目に近代的ビルを建設し、モダニズム心斎橋の一方の核となる。「ショップガイド社」は、昭和12年の心斎橋筋の商店主や支配人の新年会で発案され、彼らを株主に翌年「をぐらやビルディング」に設立された。会員証を発行し、加盟店において現金価格で割賦購入できるサービスを提供した。「ショップガイド」は加盟店案内だけではなく、評論や小説や映画、音楽にも触れた雑誌で、川柳は塩路吉丁、表紙や口絵は赤松麟作や田村孝之介、写真コーナーの「フォトページ」は心斎橋周防町の「商業写真場リヒト」の木村勝正が担当。食満南北の随筆も載る。ショッピングのための情報誌だが、文芸趣味もただようモダンな雑誌である。編集発行は同社取締役支配人である久保田秀吉、印刷はプラトン印刷社だった。久保田秀吉は意欲的かつアイディアに富んだ編集者で、同時期の「心斎橋新聞」も久保田が編集した。船場から道頓堀以南までの心斎橋筋(戎橋以南は戎橋筋)に面した商店対象の業界新聞で、「心北版」「戎橋セクション」が加えられた。「心北版」は心斎橋以北、「戎橋セクション」は現在の戎橋筋商店街である。同社は昭和10年の大阪商工祭記念のスタンプ会も主催した。「丹平ハウス」と「をぐらやビルディング」では、心斎橋筋ごしにお互いの階上の展覧会場から向かいの仲間に声をかけることもあったという。昭和10年には同ビル娯楽室での宝船交換会など、趣味人の会も開かれた。心斎橋筋で斜向かいに建っていた「丹平ハウス」、「をぐらやビルディング」は心斎橋モダニズムの伝説的存在ともいえる[58][59][60][61][62]

心斎橋筋八幡筋上る西側にあった「心斎橋森永キャンデーストアー」は一階では森永製品の販売、二階三階に喫茶室があった。店内にステージがあり、演劇トーキー映画が上映されたり、ジャズバンドが演奏するなど人気を博した。メニューではココアが人気であった。店名のファンシーさに、婦女子の店とのイメージがあるが、サラリーマンの利用が多かったという[63]

心斎橋筋八幡筋下る東側にあった「不二家菓子舗」は、不二家レストランの前身で、洋風の店内に障子を思わせる和洋折衷の天井照明を備え、フロアの真ん中に冬はストーブ、夏は噴水が置かれた。一階菓子部の売店を通りすぎて喫茶室に入ると、雰囲気の良い音楽が流れ、時おり松竹歌劇団のスターが深夜近くまでくつろぐ姿があったという[64]

心斎橋筋八幡筋下る西側、小大丸の真正面には「心斎橋食堂」があり、後に喜久屋食堂北店に変わった[65]

古書店「杉本梁江堂」は上本町に創業し、日本画家堂本印象の画集『いの字絵本』を刊行している。昭和2年心斎橋筋八幡筋を東に入った玉屋町に移転し、店構えは柳屋「考現の号」の表紙にも描かれた[66]

「美術と文藝」第5號(柳屋書店 装丁:福田大觀 1915年)

宮武外骨の滑稽新聞社に属した柳屋の店主三好米吉は、明治45年に船場平野町に「柳屋書店」を開き、与謝野晶子の助言で錦絵や郷土玩具短冊などを店にならべ、富本憲吉暖簾法被、包装紙をデザインした。大正10年に心斎橋筋の東の通り、畳屋町八幡筋の東南角に移り「柳屋画廊」となる。竹久夢二の「港屋」の版木を買って柳屋版で発行するなど、千代紙便箋などにも夢二グッズを揃えた。販売目録の「柳屋」は表紙を北野恒富菅楯彦岸田劉生、藤田嗣治、普門暁ら著名画家に依頼、製本に凝ったり「蔵票の巻」「カフェ特集号」「考現モデルノロチオの号」など特集記事にも力を注いだ[67]

「心斎橋の一大奇観」を標榜した荒木伊兵衛書店は、心斎橋筋八幡筋西入る二軒目にあった。西区江戸堀時代の昭和2年に刊行した「古本屋」は、文豪、学者が論文を寄稿した貴重な古書目録である。昭和4年に心斎橋へ移った[68]

三津寺筋・新屋敷筋

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心斎橋筋三津寺筋下る東側に「鐘紡サービスステーション」があった。入口の照明は蜘蛛の巣や古いラジオのスピーカーのような形状が特徴であった。カネボウ製品のアンテナショップで、田中千代がデザイナーとして在籍していた。店名がステーションだったことから、男性の店長は駅長さんと呼ばれたという[69]

心斎橋筋三津寺筋下る東側には明治製菓売店があった。一階では明治チョコレート、明治キャラメルなどの明治製菓のお菓子が売られ、一階二階は喫茶室と食堂、三階は集会所として使われていた。落ち着いた雰囲気の上品な店で、食器も優美なものが使われていたという。家族連れ、学生たちが利用し「明菓」の愛称で親しまれた[64]

心斎橋筋新屋敷筋上る西側には橋本雪後の川口軒があった。橋本雪後は学識高い趣味人で、青木月斗の弟子となり俳諧雑誌『同人』に参加した俳人であった。昭和14年同人社から随筆集『今様つれづれ草』、翌年『茶趣』を刊行する。店頭には自作の句が掲げられ、川口軒の引札も絵に俳趣があった[70][61]

宗右衛門町通

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「喜久屋食堂」は心斎橋筋の南端、宗右衛門町の角にあった。本店では天ぷらフランス料理。北店では十五均一の大衆料理、すき焼きを出した。北新地、神戸、京都に姉妹店があった[71]

心斎橋筋宗右衛門町通上る東側には「高島屋10銭20銭ストア」があった。百貨店である高島屋の展開した店舗で、これは今でいう百円均一の店である。東京、大阪、京都に60近い姉妹店があり、日用雑貨、化粧品、食料品を扱った[72]

宗右衛門町のお茶屋「河合」が経営していた「河合ダンス」は少女芸妓で組織されたダンス団で、昭和5年に本拠を清水町に移し定期公演、ラジオ出演、レコード録音を続けた[73]

主な施設

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大丸心斎橋店南館
心斎橋パルコ
Apple Store心斎橋
ホテル日航大阪

交通機関

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いずれの3駅とも徒歩圏内にある。

最寄り駅

心斎橋を舞台とした作品

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小説

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心斎橋(橋梁)

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歴史

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鉄橋の心斎橋を南から(明治初期)
石造橋の心斎橋を北から[注釈 5](1910年)
クリスタ長堀の上に復元された心斎橋を南から(2011年)
鶴見緑地公園に現存する鉄橋の心斎橋(緑地西橋

心斎橋は元々長堀川に架かっていた橋の名前である。1622年元和8年)に長堀川の開削と同時に架けられたというのが有力な説であり、「心斎系譜」によると長堀川を開削した4名のうちの1人、岡田心斎が長堀川の両岸を町域とした長堀心斎町の往来の便のため、南北に橋を架けたことが名前の由来になっている。当時の心斎橋は、長さ18間(約35m)、幅2間半(約4m)の木橋だった。人通りの多い地域にあった木橋で傷みやすく、洪水や火災の被害も受けるなど維持管理に多くの資金が費やされたという[86]

その後、1873年(明治6年)に本木昌造の設計によって鉄橋に生まれ変わる。ドイツ製で、大阪で2番目、日本で5番目の鉄橋だった。当時の人にとって鉄橋は非常に珍しく、大阪の人の間で話題となり、錦絵にも描かれた。この鉄橋は鶴見緑地公園緑地西橋として現存する。1908年(明治41年)に心斎橋としての役割を終え撤去された後、境川運河の境川橋、1928年(昭和3年)に大和田川の新千船橋(大阪市西淀川区)と移設を重ね、1973年(昭和48年)に鶴見緑地にすずかけ橋として保存され、1989年に現在地に移ったもの。日本現存最古の鉄橋と言われている。

1909年(明治42年)には野口孫市の設計によって石造橋に架け替えられ、壮大な渡り初めが行われた。愛媛県今治市沖の大島産の花崗岩が用いられた。

歩道橋

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1962年昭和37年)に長堀川が埋め立てられて撤去された後、1964年(昭和39年)に長堀通を横断する歩道橋として移築された。映画ブラック・レイン」にもワンシーンながら登場している。その後、地下鉄長堀鶴見緑地線の工事のため撤去されたが、1997年平成9年)にクリスタ長堀が完成した際、もとの心斎橋の位置に石造橋の一部がガス灯と共に復元された。親柱、四つ葉のクローバー型の装飾のある欄干は建造時のもので、橋名・架橋年月・石工棟梁と石材提供人の名が刻まれている。クリスタ長堀の天井部を川に見立て、長堀川の水面が再現されている。

Osaka Metro 心斎橋駅長堀鶴見緑地線ホームは、心斎橋の欄干やガス灯をモチーフとした装飾が施されている。

参考文献

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  • 宮本⼜次『船場』ミネルヴァ書房(⾵⼟記⼤阪第1集)1960年
  • ⾹村菊雄『⼤阪慕情 船場ものがたり』神⼾新聞出版センター 1976年
  • 橋爪節也『モダン心斎橋コレクション ─メトロポリスの時代と記憶─』国書刊行会 2005年
  • 前川佳子・近江晴子『船場大阪を語りつぐ 明治大正昭和の大阪人、ことばと暮らし』和泉書院 2016年

関連項目

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脚注

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  1. ^ 近鉄不動産 新築・分譲マンション メールマガジンクラブ「WITH LAUREL(ウィズローレル)」”. https://www.kintetsu-re.co.jp/with_laurel. 2024年4月13日閲覧。
  2. ^ 橋爪節也『モダン心斎橋コレクション ─メトロポリスの時代と記憶─』国書刊行会、2005年、16, 22頁
  3. ^ 橋爪(2005年)、20頁
  4. ^ 橋爪(2005年)、14頁
  5. ^ 橋爪(2005年)、18頁
  6. ^ ⼤阪⼼斎橋筋卸商連盟『せんば ⼼斎橋 ─⼤阪⼼斎橋筋卸商連盟20年史─』1970年、48-49, 63-65頁
  7. ^ 橋爪(2005年)、36-37頁
  8. ^ 東出(昭和16年)、106頁
  9. ^ 前川佳子・近江晴子『船場大阪を語りつぐ 明治大正昭和の大阪人、ことばと暮らし』和泉書院、2016年、28頁
  10. ^ ⾹村菊雄『⼤阪慕情 船場ものがたり』神⼾新聞出版センター、1976年、254-255頁
  11. ^ 橋爪(2005年)、66頁
  12. ^ 東出清光『大阪案内』大阪商品研究会編集部、昭和16年、102, 113頁
  13. ^ 宮本(1960年)、127頁
  14. ^ ⼤阪⼼斎橋筋卸商連盟(1970年)、50⾴
  15. ^ 橋爪(2005年)、269頁
  16. ^ 橋爪(2005年)、56頁
  17. ^ 西田桐子「小出楢重の芦屋時代」阪神間モダニズム展実行委員会『阪神間モダニズム 六甲山麓に花開いた文化、明治末期 ─ 昭和15年の軌跡』淡交社、1997年、194頁
  18. ^ 橋爪(2005年)、9, 52-53, 216, 223, 268頁
  19. ^ 宮本(1960年)、384-385頁
  20. ^ 橋爪(2005年)、248頁
  21. ^ a b 宮本(1960年)、387頁
  22. ^ a b 橋爪(2005年)、69頁
  23. ^ 橋爪(2005年)、131頁
  24. ^ 橋爪(2005年)、229頁
  25. ^ 橋爪(2005年)、236頁
  26. ^ a b 宮本(1960年)、384頁
  27. ^ 橋爪(2005年)、37, 240, 272頁
  28. ^ ⽥中智晃「戦前期における楽器流通史の研究 ─⼤阪三⽊佐助商店の事例を中⼼に─」『社会経済史学』82-1(2016年5⽉)79-80⾴
  29. ^ 橋爪(2005年)、36頁
  30. ^ ⼤阪⼼斎橋筋卸商連盟(1970年)、49⾴
  31. ^ 平井章一「吉原治良」『阪神間モダニズム』(1997年)、198頁
  32. ^ 橋爪(2005年)、233頁
  33. ^ 橋爪(2005年)、123頁
  34. ^ 橋爪(2005年)、218頁
  35. ^ 平井章一「阪神間の美術家たち」『阪神間モダニズム』(1997年)、187頁
  36. ^ 橋爪(2005年)、227頁
  37. ^ 宮本(1960)、420頁
  38. ^ 橋爪(2005年)、238頁
  39. ^ 橋爪(2005年)、152頁
  40. ^ ⼤⼤阪画報社『⼤⼤阪画報』昭和3年、513頁
  41. ^ a b 橋爪(2005年)、157頁
  42. ^ 橋爪(2005年)、226頁
  43. ^ 橋爪(2005年)、239頁
  44. ^ 橋爪(2005年)、144頁
  45. ^ 橋爪(2005年)、194頁
  46. ^ 橋爪(2005年)、42頁
  47. ^ 橋爪(2005年)、257頁
  48. ^ 橋爪(2005年)、181頁
  49. ^ 橋爪(2005年)、190頁
  50. ^ 橋爪(2005年)、228頁
  51. ^ 橋爪(2005年)、74-75, 124頁
  52. ^ 橋爪(2005年)、135, 138頁
  53. ^ 橋爪(2005年)、256頁
  54. ^ 橋爪(2005年)、212頁
  55. ^ 橋爪(2005年)、176頁
  56. ^ 河崎晃一「阪神間の蒐集家たち」『阪神間モダニズム』(1997年)、121頁
  57. ^ 橋爪(2005年)、124, 223頁
  58. ^ 宮本(1960年)、410頁
  59. ^ 西田桐子「阪神間の主な作家略歴」『阪神間モダニズム』(1997年)、205頁
  60. ^ 橋爪(2005年)、196-197, 205頁
  61. ^ a b 前川・近江(2016年)、219頁
  62. ^ 笠原一人『白路社建築創作所および鉄扉社建築会の活動の概要とその特徴について』日本建築学会計画系論文集 第73巻 第633号、2008年、2517頁
  63. ^ 橋爪(2005年)、172頁
  64. ^ a b 橋爪(2005年)、174頁
  65. ^ 橋爪(2005年)、178頁
  66. ^ 橋爪(2005年)、249頁
  67. ^ 橋爪(2005年)、250-251頁
  68. ^ 橋爪(2005年)、253頁
  69. ^ 橋爪(2005年)、136頁
  70. ^ 橋爪(2005年)、182頁
  71. ^ 橋爪(2005年)、180頁
  72. ^ 橋爪(2005年)、154頁
  73. ^ 橋爪(2005年)、246頁
  74. ^ STUNNING LURE スタニングルアー Fashion Press
  75. ^ キンジ / KINJI FukuDB、カフェで古着を回収ライフスタイルカフェ「RE-CAFE」大阪伊勢丹に fashionnetwork 2011年5月18日
  76. ^ 原宿の古着屋ベスト38選-人気店や名店を網羅 Fashion Press 2016年10月31日
  77. ^ 三陽商会の「ラブレス」が日本発「アレフルード」の国内独占販売を開始 WWD 2017年11月16日、ラブレスが初のメンズポップアップストアを六本木TSUTAYAにオープン カート・コバーンやビョークのTシャツも WWD 2018年6月4日 等を参照
  78. ^ A|Xアルマーニ エクスチェンジが六本木にオープン、店舗限定アイテムなど充実の品揃え Fashion Press 2018年1月16日
  79. ^ 古着屋WEGO、発祥の地・アメ村に復活 関西を遊ぶニュースサイト・Lmaga.jp 2017年4月5日
  80. ^ 欧州雑貨タイガーと日本発アソコ 100円ショップとの違い fashionsnap.com 2013年7月4日
  81. ^ 企業情報 フランチャイズ カルツェドニア公式HP
  82. ^ 「カルツェドニア」日本初の旗艦店を表参道に - レッグウェアや水着を展開 Fashion-Press 2015年
  83. ^ a b ユニクロ、心斎橋店閉店へ”. 共同通信 (2021年7月8日). 2021年7月12日閲覧。
  84. ^ 仏カジュアル時計「ボンボンウォッチ」、心斎橋商店街に大阪初出店 なんば経済新聞 2007年7月16日
  85. ^ フルコレクション展開 fashionsnap.com 2012年12月04日
  86. ^ 心斎橋 国土交通省近畿地方整備局 大阪国道事務所、2020年7月11日閲覧。
  87. ^ 橋爪(2005年)、272頁
  88. ^ 熊倉功夫「近代数奇者の茶の湯」『阪神間モダニズム』(1997年)、123-125頁
  89. ^ 橋爪(2005年)、254-255頁

注釈

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  1. ^ 御堂筋の完成以前は、淀屋橋筋商店街があり、平野町の夜店と共に繁栄していた[8]
  2. ^ 誓文払いの起源は、船場呉服町(現・伏見町四丁目)の「えびす布」とされ、これは、呉服町の恵比寿神社の例祭日に町内の店々で、一年に裁ち残った端切れを奉仕品として、安価で売りだしたことにはじまる。大阪市中はもちろん、郊外からも早朝から詰めかけた人々で賑わいがあったという[10]
  3. ^ 博労町以北は問屋街となり、雑貨屋、帽子問屋、メリヤス製品や毛糸製品の問屋が多かった。戦前の心斎橋筋商店街は旧家を中心に追々と発展したことから、主なる商店は地所も家も自分のもので商売をしており、落ち着いた所があった。[12]
  4. ^ 昭和10年心斎橋新聞社から刊行されたグラフ誌『写真心斎橋』は、北は南久宝寺町の「錫半本店」から、南は宗右衛門町の「喜久屋食堂」まで七十四店を写真で紹介しており、店の外観から内部まで心斎橋の賑わいを伝えるものである。表紙には心斎橋の夜景が採られている[16]
  5. ^ 手前の電柱の広告に「石橋時計本舗これより四丁北」とあるが、後に石橋時計店は心斎橋南詰にビルを構える。

外部リンク

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北緯34度40分21秒 東経135度30分00秒 / 北緯34.6725度 東経135.5度 / 34.6725; 135.5