北新地

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夜の新地本通り

北新地(きたしんち)は、大阪府大阪市北区歓楽街

概要[編集]

大阪キタを代表する飲食店街で、東京の銀座と並ぶ高級飲食店街でもある。大阪駅前のダイヤモンド地区梅田1丁目)に南接して東西に細長く広がっている。ラウンジクラブ料亭などを中心とした料飲店が集中している地域で、風俗店やパチンコ店は皆無である。

おおむね四つ橋筋 - 御堂筋間において、曽根崎通国道2号)以南の曾根崎新地1丁目・堂島1丁目・堂島浜1丁目に展開する。通りがやや曲がっているのは、かつて存在した曽根崎川に沿って街が形成されたためで、新地本通り - 堂島上通り間の街区が川跡にあたる。なお、この川跡を境にして南北方向の街路にズレが生じているため、移動にビル間の路地やビルの中の通路を使うことも多い。

単に「新地」と呼ばれることもあり、1982年昭和57年)にミナミの難波新地が難波に改称されて以降、大阪市で新地と付く町名は曾根崎新地だけとなっている。

沿革[編集]

1685年貞享2年)に開始された河村瑞賢による堂島川曽根崎川の改修に伴って堂島で新地開発が行われ、1688年元禄元年)に堂島新地が誕生した。堂島新地は大坂城下の北端、または、船場の北に位置することから「北の遊里」と呼ばれた。1697年(元禄10年)には、それまで豪商淀屋の邸宅前、淀屋橋南詰の路上で開かれていた米市が堂島新地で開かれるようになった。

西成郡曾根崎村領内となる曽根崎川の北岸でも新地開発が行われ、1708年宝永5年)に曾根崎新地が誕生し、大坂三郷に編入された。一方、堂島新地は「商いの場」へと変わり始め、1730年享保15年)に堂島米会所が開設される頃には遊里のほとんどが曾根崎新地へ移転した。

以降、曾根崎新地は「北の遊里」「北の色里」「北の新地」と呼ばれ、米商らの遊興場所として繁栄した。近松門左衛門の『心中天網島』に登場する小春は曾根崎新地の遊女である。また、諸藩の蔵屋敷が立ち並ぶ中之島・堂島から近いこともあって、大坂では珍しい武家の来客も多く、もっぱら町衆で賑ったミナミの南地五花街とは当時から性格を異にする街であった。

1909年明治42年)に天満の空心町から福島付近にまで燃え広がった「北の大火」によって全焼。大量に出た瓦礫で曽根崎川の堂島掘割より上流側が埋め立てられ、川跡の街区ができた。

範囲[編集]

乙女坂
昼間の北新地

大阪府大阪市北区曾根崎新地1丁目・堂島1丁目・堂島浜1丁目

最寄り駅はJR東西線 北新地駅であるが、飲食街の利用者の多くがタクシーを利用する。そのため、高級クラブが開店する20時前後はエリア内がタクシーで溢れかえることが多い。なお、22時から1時まで上記の道路に囲まれた内側への自動車の乗り入れが禁止され、周囲の道路も駐停車が禁止される。

主な通り名[編集]

北から順

  • 永楽町北通り
  • 永楽町通り - 旧町名より。
  • 新地本通り - この通り沿いが元来の曾根崎新地。
  • 堂島上通り - 旧町名より。もとは堂島裏だったが1925年大正14年)に堂島上に改称。
  • 堂島船大工通り - 旧町名より。
  • 堂島中通り - 旧町名より。
  • 堂島浜通り

主な業種[編集]

高級クラブラウンジスナックバー、小料理屋が中心であり、庶民性は一部のチェーン展開な飲食店を除いてほとんどなく、接待需要や著名人需要などに支えられているといえる。なお、北新地でいうラウンジとは独特かつ明確な定義があるものであり、クラブ(5万円以上など高額だがホステスが客の席に座って接客できる)とスナック(1万円程度などだが店員が客席に着席して接客できない業種)の中間のサービス(ラウンジは客席同席での接客を受けられるため、さしずめ、高級ではないクラブを指す。)を中級料金(2万円~3万円程度など)で提供する業種を指す。北新地以外の歓楽街ではラウンジの定義がかなり曖昧である。 バブル崩壊デフレリーマンショックなどを経て、2010年現在では、ガールズバーポールダンスバー、1時間2000円飲み放題歌い放題のカラオケラウンジ新世界 (大阪)串カツ店など、カジュアルな店舗も進出している。

歌に出る北新地[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯34度41分54秒 東経135度29分49秒 / 北緯34.698322度 東経135.497039度 / 34.698322; 135.497039 (北新地)