講談

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講談(こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。

演者は高座におかれた釈台しゃくだいと呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇はりおうぎでそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。上方講談においては、張り扇拍子木を併用する。

歴史[編集]

起源は戦国時代御伽衆おとぎしゅうであると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または大道講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。

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軍談(講談)の寄席。明治初年の姿と思われる

宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。他の芸能との交流も進み、講釈での人気演目が歌舞伎人形浄瑠璃化されることもあった。明治時代以降、講釈は講談と呼ばれるようになった。

江戸末期から明治時代にかけて、講談は全盛期を迎えた。「泥棒伯圓」とあだ名された二代目松林伯圓が出、明治政府より教導職を賜るのもそのころである。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達など(「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に関するトラブルに象徴される)に追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によりやはり衰退を続けた。

東京の講談[編集]

現在、講談師の所属団体には「講談協会」とそこから神田派が分裂し成立した「日本講談協会」がある。定席は本牧亭永谷商事の演芸場があったが、本牧亭は閉場(のちに破産)。一部の講談師は落語芸術協会落語協会にも所属し落語定席に出演しているほか、浅草木馬亭で行われる浪曲定席にも出演している。

落語界と比較して女性の進出がめざましく、講談協会・日本講談協会、いずれも男性より女性の協会員のほうが多い。特に若手の入門者は女性が圧倒的に多く、講談協会では1988年から2012年まで、男性真打ちが一人も誕生しなかったほどである[1]

上方講談[編集]

上方講談は「軍談」と「神道講釈」の二つの流れが融合したもので、大正時代に立川文庫の生みの親である玉田玉秀斎などの玉田派が上方講談界を席巻した。その後、玉田、松月堂など上方講談の一門は昭和初期で命脈が尽き、本来の上方講談の系譜はいったん絶えたと言える。こうして、本来は江戸の屋号である旭堂のみが残り、二代目南陵の奮闘もあって、上方講談唯一の屋号として今日まで継承されている。

戦後になると、上方落語以上に衰退著しい上方講談は、江戸講談の系譜に連なる二代目旭堂南陵と二代目旭堂小南陵(後の三代目旭堂南陵)父子のみの状態となった。1965年に二代目が亡くなった後は三代目の孤軍奮闘が長く続いた。現在も数は多くはないが、三代目南陵の弟子たちにより地道な活動が続けられ当面の危機は脱した。「上方講談を聞く会」「天満講談席」「トリイ講談席」「日本一亭南陵会」など定期講談席も続けられている。その後、三代目南陵の弟子間で訴訟にまで発展する内紛があり、四代目南陵(前名小南陵・元参議院議員)一門は「上方講談協会」を除名され「大阪講談協会」を結成した。2017年、さらに旭堂南鱗以下の旧三代目南陵一門が離脱し「なみはや講談協会」を設立。「上方講談協会」は旭堂南左衛門一門のみとなり、上方の講談界は少人数ながら三団体となる。

題材[編集]

講談は題材に注釈を付けて語る話芸である。題材は歴史的事件が中心だったが、題材をわかりやすく解説し観衆の理解を深めるという点が再評価され、現在では国際的事件や経営理論など、歴史以外の題材を取り上げる試みもなされている。また女性の進出が目覚ましい分野であり、近年の若手講談師はむしろ女流が中心となっている。決して盛んな芸能とは言えないが、新しい潮流も少しずつ生まれつつある。

代表的な演目[編集]

上方[編集]

江戸[編集]

講談師[編集]

現在活動している講談師[編集]

東京の講談師は基本的に神田派・山陽一門が日本講談協会(後述する通り、一部は講談協会)、それ以外が講談協会に所属するが、次に記述する者のうち、圓玉、昇龍、ひまわりはそのいずれにも所属していない。

一龍斎派

現在、一龍斎を名乗る講談師は、後述する貞山親子を除き、6代目一龍斎貞丈の門下にあたる。

田辺派

田辺一鶴門下にあたる。桃川を名乗る者もいるが、本来の桃川派ではなく、一鶴門下から襲名している。田辺鶴遊は一鶴死後に宝井琴梅門下に移籍したのち、真打昇進を機に再び田辺を名乗っている。

圓玉は元は12代目田辺南鶴門下であったが(田辺南洲)、南鶴死後に南洲の名のまま服部伸預かりとなり、その後圓玉を襲名している。1980年の講談協会再統一の時点で協会に不参加[2]で、以降現在までフリーである。

宝井派

5代目宝井馬琴門下にあたる。

神田派(伯龍一門)

6代目神田伯龍門下。伯龍は神田派の留め名で、6代目も代々の神田派の系譜にあるが、その弟子かつ養子である当代貞山が実父の名跡を継いだため、神田派の本流にありながら一龍斎を名乗るという状態になっている。貞鏡はその貞山の実子である。伯龍門下で神田を名乗る者として神田昇龍が存在する。

神田派(山陽一門)

2代目神田山陽門下。2代目山陽は元々師匠を持たず独立して活動していたのちに、神田派に迎え入れられ、山陽を襲名した経緯がある。現在、神田を名乗る講談師は前述の昇龍を除き、全員がこちらの一門である。 1991年の第二次講談協会分裂により講談協会を退会し、日本講談協会を旗揚げした一門。ただし、この時、2代目山陽は、残留者は止めない、と言及し、数名が講談協会に残った[3]。その後も2名講談協会への移籍者がいるが、そのうち2代目山陽の生前に移籍した香織は6代目小金井芦州の預かりになっている[4]。 日本講談協会は落語芸術協会と提携しており、一部は両協会の二重所属となっている(茜のみ落語協会との二重加盟)。また、ひまわりは2代目山陽死後、落語家の5代目柳亭痴楽門下に移籍しており、この時に日本講談協会を退会し、芸術協会の単独加盟となっている。 名前の後の記号は以下の通り。○:芸協と日本講談協会の二重加盟、◎:芸協単独加盟、※:落語協会と日本講談協会の二重加盟、☆:講談協会加盟、無印:日本講談協会単独加盟。

旭堂派(上方)

旭堂は元は江戸の系譜にあたるが、現在は上方講談唯一の一門となっている。ただし、前述の通り3協会に分かれている。上方協会の南左衛門、大阪協会の4代目南陵、なみはや協会の南鱗門下3名を除く全員が3代目旭堂南陵門下である。また、この他、フリーとなったコム斎(元は4代目南陵門下)がいる。

過去に活動した著名な講談師[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ 講談界に24年ぶり男真打ち誕生”. 東スポWeb (2012年10月17日). 2017年1月31日閲覧。
  2. ^ [1]
  3. ^ [2]
  4. ^ [3]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]