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桂三木助 (2代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2代目 かつら 三木みきすけ
本名 松尾 福松
生年月日 1884年11月27日
没年月日 (1943-12-01) 1943年12月1日(59歳没)
出身地 日本の旗 日本・大阪
師匠 桂仁左衛門
4代目橘家圓喬
名跡 1. 桂手遊
(1894年 - 1906年)
2. 2代目桂三木助
(1906年 - 1911年)
3. 橘家三木助
(1911年 - 1943年)
活動期間 1894年 - 1943年
活動内容 上方落語
所属 桂派
(1894年 - 1911年)
互楽派
(1911年 - ?)
三遊派
(? - 1916年)
三友派
(1916年 - ?)
吉本
(? - 1943年)

2代目桂 三木助(かつら みきすけ、1884年11月27日 - 1943年12月1日)は、上方落語落語家。本名: 松尾 福松[注釈 1]

来歴

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大阪に生まれる。1894年1月、2代目桂南光に入門、子役として桂手遊おもちゃを名乗り、同年2月、桂派金沢亭で初高座を踏んだ[1]

1904年に入営、日露戦争に従軍後、1906年1月に帰国し、同じく兵役から戻った桂?梅橋[注釈 2]・桂後八(のちの2代目桂圓枝)とともに「滑稽ホリョー踊り」なる演目で高座に復帰した[1]。同年11月27日真打で2代目三木助を襲名[1]

1911年賭博が過ぎて借金を作り桂派にいられなくなり互楽派に身売りし七五三蔵の名で出演し支度金で返済しようとしたが桂派から苦情が出て、仕方なく[要出典]兄弟子の初代桂小南を頼り上京した[1]。支度金は初代桂ざこばが支払った[要出典]

4代目橘家圓喬門下で橘家三木助を名乗り、三遊派の各席に出席するが、圓喬が三木助を高く評価して優遇したため、地元の他の落語家との間でもめることになった[1]8代目林家正蔵(林家彦六)によると圓喬の没後は旅回りに出ていたという[2]1916年[要出典]に帰阪し[注釈 3]三友派に加わり、後に吉本興業の大看板として名を馳せた[1]

持ちネタは膨大で、神戸湊川の寄席で3年間真打を勤めた時、一度も同じ噺を掛けなかったという[1]。東京時代に人情噺に傾倒したことから、帰阪後も笑いを取るネタより、むしろ『立ち切れ線香』『三年目』『網舟』『菊江仏壇』など、はめ物を極力抑えた東京風の演出による素噺を得意とした[1]。時折東京弁が混じったり上方情緒を失ったりという点で賛否両論はあったが、東西落語に精通した名人として、上方落語が衰微して行く中、その実力を謳われた[1]

晩年は群舞中で耳を悪くしている。享年60(満59歳没)。墓所は東京都台東区の長久寺[3]

肖像写真が数枚残されており、内訳は日露戦争に従軍時の軍服姿1枚と晩年ごろの着物姿である[要出典]。軍服の写真は『古今東西落語家事典』に掲載されている[1]

SPレコードは『宿屋仇』『動物園』『鮑のし』等がある[1]

弟子

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弟子ではないが、8代目林家正蔵(林家彦六)は三木助が上京後旅回りに出た際に当時の師匠(3代目三遊亭圓遊、当時は三遊亭金三)とともに同行して関係が芽生え、その後三木助から『ざこ八』や『莨の火』などを教わっている[2]

脚注

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注釈

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  1. 5代目笑福亭松鶴が刊行していた雑誌『上方はなし』では松尾 利雄または松尾 利男と記していた[1]
  2. 『古今東西落語家事典』の2代目三木助の項には「梅橋」とあるが、索引を見ても該当者は見当たらず、不明。東京落語の「梅橋」とも重ならない。
  3. 帰阪の時期について『古今東西落語家事典』は「大正初年」(=1912年)と記す。

出典

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 古今東西落語家事典 1989, pp. 303–304, 上方篇 五、吉本派の興隆と漫才の台頭(二代目桂三木助の項).
  2. 1 2 林家正蔵『林家正蔵集 別巻 (正蔵一代)』青蛙房、1974年、74-75頁。NDLJP:12476443
  3. 寺院関係者案内により墓石を現認

参考文献

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  • 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会 編『古今東西落語家事典平凡社、1989年4月7日。ISBN 4-582-12612-X 
  • 小島貞二『古今東西噺家紳士録 噺家系図付』丸善出版、2000年。(CD-ROMつき)