大丸屋騒動

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大丸屋騒動(だいまるやそうどう)は上方落語の演目の一つである。安永年間に実際にで起こった事件がモデルで、講釈ネタを落語化したものである。上方落語には珍しい人情噺(厳密にはサゲがあるので、狭義の人情噺ではなく落とし噺だが)で、前半部の宗三郎と番頭の軽妙なやりとり、富永町で悲劇へたたみかける演出、後半部の芝居噺風の演出などかなり手が込んでいる。サゲは地口落ち。

妖刀村正、愛想尽かし、狂乱した宗三郎が祇園二軒茶屋の踊りの輪に乱入する場面など、歌舞伎の『縮屋新助』『伊勢音頭恋寝刃油屋騒動)』のパロディが見られる。はめものとの呼吸に注意を払い、歌舞伎や京の風景・風俗に精通しなければならないなど、高度な技術を要する。

太平洋戦争前は先斗町で生まれ育った初代桂枝太郎の十八番として知られていた。戦後は長く演者がいなかったが、1970年代に入ると初代森乃福郎や2代目露の五郎兵衛が相次いで高座にかけ、5代目桂文枝も得意とした。文枝は1990年の口演で芸術祭賞を受賞している。

あらすじ[編集]

伏見大手町の商家大丸屋宗兵衛の弟、宗三郎は、祇園の舞妓おときを愛人にしたことが親戚の怒りを買い、おときは祇園の富永町に、宗三郎は木屋町三條にそれぞれ別居する。

兄としては、親類を説得させた上で、いずれは晴れて二人を夫婦にする算段なのだが、宗三郎には兄の思いが伝わらない。家に伝わる妖刀村正を床の間に飾って、番頭の監視下、無聊な日々を送っている。

ある夏の夜、おとき逢いたさに、宗三郎は、木屋町の家をぬけだして村正を腰に、富永町の家にやって来る。「おとき、久しゅうこなんだ。わてなあ、お前に逢いとうてなあ。」「ほんま、久しゅうおすなあ。ところであんたはんお一人どすか。」「せや。ちょっと一杯燗けてんかいな。急に来となってな。」「お一人なら帰っておくれやす。」宗三郎の心情をうれしく思うおときだが、ここで宗三郎を入れたら宗兵衛が自分に不信感を持ち、さらに宗三郎に迷惑がかかると考え、訳を話して追い返そうとする。

おときへの恋慕に凝り固まっている宗三郎は話が通じない。逆に愛想尽かしと勘違いし、怒って村正で鞘ごとおときの肩に食らわせると、鞘が割れ、おときを切り捨てる。狂ってしまった宗三郎、下女と様子を見に来た番頭をも切り殺し、祇園界隈で多くの人に切りつける。ついには二軒茶屋での踊りに乱入し暴れまわる。役人も手が付けられない。

虫の知らせか、伏見から駆けつけてきた宗兵衛は、血刀をさげた弟を見て肝を潰し、役人に「あの者は私の身内の者でございます。わたくしめに召捕り方、願わしゅう存じまする。」と泣きながら訴え、役人の許しを得て宗三郎を後から羽交い締めにする。狂った宗三郎が刀を振り回すが、どういう訳か兄はかすり傷一つ負わない。不思議に思った役人が「こりゃ。その方は何やつか。」「へい。私めは、切っても切れぬ伏見(不死身)の兄にございます。」

史実による『大丸屋騒動』[編集]

この噺のモデルとなった事件の資料として、当時の官憲の報告書のコピーが「安永三甲午七月三日夜京都烏丸通上る町大文字屋彦右衛門疳症にて人を多く怪我させし趣御公議へ書上の写」として西沢文庫「讃仏乗」二編中の巻におさめられている。

あらましは、1773年(安永三年)7月3日の夜、烏丸通りの材木商大文字屋の息子彦右衛門(25歳)が、新河原町の家で養生中に心神喪失状態となり手代を殺害、四条通に出て烏丸通りから丸太町の間にかけて「往来の人を切殺し又は手疵負せ右道筋につなぎ置き候馬迄三疋に瑕附候」、死者三名、重軽傷者二十一名という大惨事であった。凶器は「脇差、銘粟田口近江守忠納 長二尺三寸」で、その後、彦右衛門は帰宅後死亡したとある。

その後、事件は講釈、歌舞伎などに取り上げられ、落語にもなった。

関連項目[編集]