先斗町

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先斗町
先斗町の朝の様子
先斗町歌舞練場(鴨川側より撮影)
先斗町の夏季における鴨川沿いの夜の納涼床の様子

先斗町(ぽんとちょう)は京都市中京区に位置し、鴨川木屋町通の間にある花街及び歓楽街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。先斗町通については「先斗町通四条上る柏屋町」等、公文書(四条通地区地区計画:京都市都市計画局)にも使用されている。

先斗町の紋章[編集]

先斗町 紋章
先斗町に掲げられている提灯

あちこちの店先に鴨川ちどりが描かれた提灯が掲げられ、情緒豊かな雰囲気を醸し出している。 京都には現在「五花街」と呼ばれ、賑わっている祇園甲部、上七軒、先斗町、祇園東、宮川町の五つの花街がある。 これらの花街にはそれぞれ紋章がある。先斗町の紋章は「鴨川ちどり」。明治5年(1872年)に鴨川をどりが初めて開催されたときに創案されたものである。 かつては鴨川に数多くいたという鳥類も今ではあまり見かけなくなったが、先斗町通を歩いていると、千鳥の画が描かれた提灯があちらこちらの店先に掲げてあり、街の雰囲気を和やかに盛り上げている。

先斗町歌舞練場[編集]

先斗町歌舞練場

先斗町歌舞練場は大正14年(1925)に着工、昭和2年(1927)に完成した。歌舞練場の屋根には中国の舞楽面を型取った鬼瓦が守り神として据えてある。 また、鴨川をどりや水明会の会場となっているが、邦楽邦舞の発表会、講演会、展示会など幅広く一般の方々にご利用いただけるようになっている。

歴史[編集]

もともとは鴨川の州で、江戸時代初期の寛文10年(1670年)に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。この地に水茶屋が初めてもうけられたのは正徳二年(1712)の頃といわれ、 初めは高瀬川を上り下りする高瀬舟の船頭や旅客目当ての旅籠屋が茶立女を置いていた。安政6年(1859年)になって芸者嫁業の公許が下り明治5年(1872年)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。[1]舞踊の流派は明治より以前は篠塚流、その後若柳流を経て現在は尾上流である。

現状[編集]

夜の様子
鴨川沿いの夜の先斗町の様子

三条通一筋下ルから四条通まで、鴨川と木屋町通の間を南北に走る、石畳の狭い通りである。花街特有の商業形態の他、一般の飲食店も並ぶ。通り東側の店は鴨川に面し、納涼床を設ける飲食店が多い。先斗町歌舞練場は北の端にあり、鴨川に大きな姿を映す。

名称の由来[編集]

鴨川沿いの先斗町

京都五花街のひとつに数えられる先斗町は、三条通の一筋南から四条通まで、鴨川に沿った南北の細長い通りを指している。もとは鴨川の州だったが、1670年(寛文10年)に鴨川高瀬川の護岸工事によって埋め立てられ、町並みが整っていったことが起源とされています。名前の由来は、ポルトガル語のponta(先)、ponte(橋)、ponto(点)や、鴨川高瀬川の川(皮)にはさまれた鼓にたとえ、ポンと音がするのをもじったなど、諸説が伝わっている[2]
また、1915年大正4年)に出版された『京都坊目誌』には、「当初は、東側ばかりに家が建ち、西側にはなかったことから、先斗(さきばか)りという意味で先斗町と呼ばれるようになった」と記載されている。掛け金をゲームの最初だけ(さきばかり:漢字では「先斗」と表記)に全部かけるという意味のカルタ賭博用語が語源であるとする説がポルトガル語やスペイン語に精通した元銀行員によって発表され、「地名研究第11号」(京都地名研究会発行)に掲載された[3]

西石垣通[編集]

四条通より南側に続く通り(下京区)を先斗町と呼んでも理解されるが、正しくは西石垣通(さいせきどおり)という別の名前があり、繁華街が続いている。ここには鴨川の氾濫を防ぐために造られた石垣が今も残っている。

先斗町公園[編集]

木屋町通で言うところの中京警察署木屋町警備派出所近辺、梅之木町にある「先斗町公園」は、太平洋戦争中の1944年に建物疎開で作られた空き地である。京都府の『第1次建物疎開総括表』によれば、34家族が住む17の建物がその対象になった[4]

主な行事[編集]

  • 始業式
  • 節分
  • 鴨川をどり 5月1日-5月24日
  • 五花街合同公演
  • 祇園祭
  • 八朔
  • 水明会
  • 顔見世総見
  • 事始め

脚注[編集]

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外部リンク[編集]


座標: 北緯35度00分29秒 東経135度46分16秒 / 北緯35.007969度 東経135.771111度 / 35.007969; 135.771111 (先斗町)