スチャラカ社員
スチャラカ社員 | |
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ジャンル | コメディ番組 |
放送時間 | 日曜 12:15 - 12:45(30分) |
放送期間 | 1961年4月2日 - 1967年4月30日 |
放送国 | ![]() |
制作局 | 朝日放送 |
演出 | 澤田隆治 |
脚本 | 香川登志緒 |
出演者 | ミヤコ蝶々 横山エンタツ 中田ダイマル・ラケット 長門勇 人見きよし 藤田まこと 白木みのる 川上のぼる 藤純子 南都雄二 ほか |
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ドラマ |
『スチャラカ社員』(スチャラカしゃいん)は、1961年4月2日から1967年4月30日までTBS系列局で放送された朝日放送製作のコメディ番組である。小野薬品工業の一社提供。放送時間は毎週日曜 12:15 - 12:45 (日本標準時) 。
概要[編集]
「海山物産」の大阪支店を舞台に、女性社長と支店長、無気力な中年社員に若手社員が繰り広げる騒動を描く高度経済成長時代のサラリーマン・コメディである。舞台は会社の一室で、公開録画(原則として月曜の昼休みの時間帯にABCホール(初代)で行われた[1])ゆえに場面転換もなく、出演者の話芸のみで展開された。
澤田の著書によると、1961年ごろの上方コメディは、人気番組の相次ぐ終了によって低調な状態となっており、それを打破するため、香川とともに企画したのが『スチャラカ社員』であった。
元々ABCテレビの日曜12時台は『ダイラケのびっくり捕物帖』以来中田ダイマル・ラケット(ダイラケ)の枠として定着していたこともあり、本番組もダイラケの続投が前提とされた。そこで、ダイラケが以前出演していたラジオの人気番組『すかたん社員』をテレビ向けにリメイクするということで企画がスタートし、題名は「アチャラカのもっと上を行く」という志から『スチャラカ社員』となった[2]。さらに、当時の人気上方コメディアンを揃えてレギュラー出演させるとともに、レギュラー出演出来ないコメディアンについても、ゲストとして出演させた。また、香川の台本の密度の濃さと、澤田の厳しい演出で、ベテランコメディアンにも容赦なく真剣勝負を要求したが、それに出演者が応えることによって、6年間も続く人気番組になった。
舞台が「海山物産」の大阪支店とされたのは、社長役のミヤコ蝶々が当時すでに東京での仕事が多くなっていて、毎週出演出来ない事を考慮して、社長不在でも番組を展開できる様にする為といわれている。当初の計画ではミヤコ蝶々は「ダイラケと共演させるにはあまりに大物過ぎる」としてキャスティングされていなかったが、本番組の一社提供である小野薬品工業の専務取締役が蝶々の起用を強く希望し、直々に蝶々を口説いて社長役での出演を承諾させたというエピソードが残っている[3]。蝶々の長年のパートナーである南都雄二も出演していたが、持病の糖尿病の影響でレギュラー出演出来ず、喫茶店のマスター役で時々出演した。
また、『ダイハツコメディ』シリーズと掛け持ちだった横山エンタツは、芸能生活の晩年を迎えており、テレビのレギュラー出演としては、この番組が最後の舞台となった。
後の映画スター・藤純子(現・富司純子)の実質的なデビュー作であり、長門勇や白木みのるの出世作でもある。白木みのるについては、裏番組のうめだ花月中継(毎日放送)に出演中は当番組には出演できないとされたため[4]、出演は限定的なものになっている。
1966年には、松竹で前田陽一監督により映画化されている[5]。
出演者[編集]
- ミヤコ蝶々(海山商事社長):男勝りのやり手社長だが、結婚にあこがれている面もある。
- 横山エンタツ(支店長)
- 中田ダイマル・ラケット(社員):主人公。毎回珍騒動を巻き起こし、舞台を盛り上げる。
- 長門勇(課長・生まれ故郷の岡山弁を劇中でも使い、「おえりゃせんのう」「テッテ的(徹底的)にやってやる」の口癖がトレードマークとなった)
- 人見きよし(社員・「ちい〜とも知らなかったわ」の口癖で人気を集めた)
- 笑福亭松之助(社員)
- 藤田まこと(社員):女性事務員を口説きたがる。長谷百合がいたときは、彼女の顔を見ると「はせくぅーん」と、藤純子に代わると「ふじくぅーん」と鼻にかかった声で呼びかけていた。
- 川上のぼる(社員)
- 白木みのる(少年給仕)
- 長谷百合(初代事務員。のち藤純子に交代)
- 藤純子(現:富司純子)(2代目事務員)
- 東山明美(3代目事務員)
- 西川ヘレン(4代目事務員)
- 南都雄二(喫茶店のマスター。準レギュラー)
- 古今亭志ん朝
スタッフ[編集]
番組の終了[編集]
セットに多額の製作費をかけることができた『てなもんや三度笠』とうって変わり当番組のセットは場面転換なしの1パイだけ、また前日からのリハーサル無しと出演者に負担をかける収録であった事もあるが、1966年6月にABCのテレビ部門の社屋が大阪・堂島の旧大阪テレビ本社から大淀に新築されたABCセンターへ移転したのも番組にとっての転機になった。
ABCセンターへの移転に合わせ、大阪・中之島の新朝日ビルディングにあったABC本社・ラジオ部門・ABCホールも集約。これに伴い、当番組の公開録画は『SABホール』と改称された(初代)ABCホールから新本社内の(2代目)ABCホールに移転。この影響で平日昼休みのサラリーマン客が公開録画に来にくくなった。新たな客層として中高年層をつかみ、裏番組の『サモン日曜お笑い劇場』(MBS)に流れ出していた視聴者を取り戻すべく、澤田は香川に番組で使うネタの変更を求める。結果、ギャグのために脚本の中身を変える事を余儀なくされたのである[7]。
しかし、これが香川にとっては自ら目指す喜劇のスタイルに相反し、受け入れられるものではなかった為、降板を決める。1人しかいなかった脚本家を失ったことで当番組は継続不可能となり、改編期直後の1967年(昭和42年)4月末という異例の時期に、6年1か月間の歴史の幕を降ろす事になった。
脚注[編集]
- ^ 『上方芸能・笑いの放送史』(澤田隆治著、NHK出版、1994年)p.152。ただし番組開始当初はスタジオ収録で、公開録画となったのは1961年7月から。
- ^ 『上方芸能・笑いの放送史』pp.145 - 148
- ^ 『上方芸能・笑いの放送史』pp.148 - 149
- ^ 『上方芸能・笑いの放送史』p.150
- ^ 同時期には東宝でも、同じ香川・澤田作品『てなもんや三度笠』の劇場版『てなもんや東海道』(東宝・宝塚映画・渡辺プロ作品。監督:松林宗恵)が公開され、香川・澤田作品同士がぶつかる形となった。
- ^ 『上方芸能・笑いの放送史』pp.150 - 151
- ^ 「朝日放送の50年 II 番組おもしろ史」- ABC、2000年。
朝日放送製作・TBS系列 日曜12:15枠 【本番組の放送期間中のみ小野薬品工業一社提供枠】 |
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