西川きよし

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西川きよし
本名 西川 潔(にしかわ きよし)
ニックネーム キー坊、きよっちゃん、きよし師匠、こつこつ兄さん[1]
生年月日 1946年7月2日(70歳)
出身地 日本の旗 日本高知県高知市
血液型 O型
身長 165cm
方言 大阪弁
最終学歴 大阪市立三稜中学校
師匠 石井均
秋山たか志(付き人)
白木みのる(付き人)
出身 吉本新喜劇
コンビ名 横山やすし・西川きよし(解散)
相方 横山やすし
芸風 漫才(ツッコミ)
事務所 よしもとクリエイティブ・エージェンシー
活動時期 1963年 -
同期 萩本欽一立川談志
過去の代表番組 パンチDEデート
反応ゲーム2つに1つ
料理天国
他の活動 俳優
参議院議員
配偶者  西川ヘレン
親族 西川忠志(実子)
西川弘志(実子)
西川かの子(実娘)
弟子 西川のりお ほか
日本の旗 日本の政治家
西川きよし
西川 潔
にしかわ きよし
生年月日 1946年7月2日(70歳)
出生地 高知県高知市
出身校 大阪市立三稜中学校卒業
前職 漫才師
現職 お笑い芸人
所属政党 第二院クラブ
称号 ロードシーランド公国
旭日重光章(2016年)
配偶者 西川ヘレン

選挙区 大阪府選挙区
当選回数 3回
在任期間 1986年7月8日 - 2004年7月25日
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西川 きよし(にしかわ きよし、1946年7月2日 - )は、日本タレント俳優司会者お笑い芸人・元参議院議員シーランド公国ロードの称号を持つ[2]。本名、西川 潔(読み同じ)。

高知県高知市朝倉生まれ。大阪市港区住吉区育ち。吉本興業所属。5人姉弟の長男(姉3人、弟1人)。

同じ年齢の妻はタレント・西川ヘレン。愛妻家で知られており、子供は俳優西川忠志(長男)、タレント西川かの子(長女)であり、西川弘志(次男)は、元俳優である。

人物[編集]

血液型はO型。高知市立朝倉小学校から大阪市立市岡小学校を経て大阪市立三稜中学校卒業(14期生)。姉は六代桂文枝と同級生であった。

19歳のとき、のちに妻となるヘレンと知り合った。当時はまったく売れなかったので、売れっ子のヘレンに食べさせてもらう状況だった。

横山やすしに何度も口説かれてコンビを結成したあとは、人気を博した。漫才コンビ「やすしきよし」(略称・やすきよ)は漫才ブームの火付け役になり、日本武道館での公演も果たした。

座右の銘は「小さなことからこつこつと」である。坂田利夫レツゴーじゅんとは前座時代からの親友である。

弟子にはエッセイストとしても活躍する漫才師西川のりおタレント西川まさとらがいる。

吉本興業では、六代桂文枝(旧名:桂三枝)、三代目笑福亭仁鶴と共にトップに君臨する。かつて発売された「よしもとタレント名鑑」では当時の三枝と共にトップページに掲載された。

フジテレビザ・ベストハウス123」の番組にてシーランド公国のロードの称号を得た(ただし、この称号は、数千円相当で購入可能なものである)。「伯爵位を持つ」と誤解されることがあるが、本番組できよしの得た称号「ロード()」は男爵以上の爵位を持つ貴族全般への敬称であり爵位とは異なるものである[3]

大阪市内に吉本とは別に個人事務所「オフィス西川」を設けている。

若手漫才師の日本一決定戦の「M-1グランプリ」や「THE MANZAI」では、審査員を務めている。

来歴[編集]

高知県で5人姉弟(姉が3人)の末っ子として生まれたが、父親が事業に手を出し失敗したことから大阪府に転居した。家計は苦しく、10歳のときから八百屋、牛乳配達、新聞配達(毎日新聞)などのアルバイトをするなどして家計を支えた。中学時代はサッカーに傾倒。高校でもサッカー部に所属することを希望していた。しかし、タクシー運転手だった父親が十二指腸肝炎で倒れたことから高校進学を断念しやむなく就職する[4]

自動車修理工に就職も手のやけどで退社、会社の先輩から「陽気で頓智がきくから」と芸の道を勧められる。17歳の時にミヤコ蝶々藤田まこと白木みのる佐々十郎に弟子入り志願も尽く断られ、ようやく喜劇俳優石井均に入門。1年後に杉浦エノスケから、人手が足りないからと吉本新喜劇に誘われ、研究生として入団。最初秋山たか志の付き人をしていたが、白木の付き人が辞めたために人手が足りなくなり白木の付き人となる、のちになんば花月で熊役で初舞台を踏み、以降端役ながら舞台に出演[5]

しかし、マドンナ役であったヘレン杉本との交際が知れ渡る。1967年9月に結婚し、ヘレン杉本は引退。きよしは会社・劇団から冷遇されてしまう(当時部長だった中邨秀雄は、人気女優だったヘレン杉本と無名のきよしとの結婚に反対し、ヘレンときよし、どちらか一方の引退を迫ったという)。低迷時代、きよし、坂田利夫はヘレンに食べさせてもらっており、3人で暮らしていた。また、同時期に共に苦労したレツゴー三匹のじゅんとも親友として知られており、きよしは「坂田くんとじゅんちゃんは、いつも自分のことを心配してくれる大事な人」とコメントしている[5]

1966年中山礼子が間に入り横山やすし(きよしと同じ高知県生まれの大阪府育ち)と漫才コンビを結成し6月に京都花月で初舞台。次第に頭角を現す。第一次演芸ブーム(1965年 - 1970年)の折、東京ぼん太の後釜として起用されたフジテレビお茶の間寄席」司会や、朝日放送系列の全国ネット番組「てなもんや三度笠」のレギュラー出演等で東京にも進出。1970年の暴行事件をはじめとした相方のやすしの不祥事でコンビ活動自粛の際も、「素人名人会」(MBSテレビ)「爆笑寄席」、「ナイトパンチ」、「パンチDEデート」(以上、関西テレビ)、「仁鶴・きよしのただいま恋愛中」、「プロポーズ大作戦」(以上、ABCテレビ)、「料理天国」(TBSテレビ)、「スター誕生!」(日本テレビ)などテレビ司会者として活路を見いだす。さらに漫才ブーム1980年1982年ごろ)では人気が頂点に達する。

1986年、「中学校を出た人間が、高校しか出てない人間が、一生懸命やったらどのぐらいのことができるか、どれぐらいのことしかできないか、やってみたいです。」と参議院議員選挙に大阪選挙区から無所属で立候補し当選。義母の介護経験から福祉関連に力を入れ、3期18年間に渡る議員生活を展開してきた。参議院会派第二院クラブに所属し、福祉関係の充実を政策の中心とし政治姿勢は全体的に保守系与党寄りであった。1994年6月の参議院首班指名投票では村山富市海部俊樹に票が分散するなか、当時、衆議院議長であった土井たか子に唯一の票を投じている。議員生活を通して政党に所属することはなく会派としての第二院クラブ消滅後は無所属の会、国会改革連絡会に所属。2003年には国会等移転特別委員長に就任した。

2004年1月、同年7月参議院選挙に立候補をせず、政界から身を引きタレントとしての活動に専念しつつ、福祉関係の仕事に従事すると発表した。

大平サブローとの「新やすし・きよし」での活動も行っている。

2006年8月29日日本テレビ系で自身の半生を描いた「ヘレンときよしの物語」が『ドラマコンプレックス』にて放送された。きよし役は実息の忠志。

2015年末に受けた定期健診で初期の前立腺がんと診断され、治療のため休養に入ることが2016年1月16日に明らかになる[6]1月20日、手術を受け[7]2月1日に退院し[8]、2月18日に所属事務所より、2月20日放送のラジオ「ありがとう浜村淳です」から仕事復帰することが発表された[9]。2月19日、吉本興業本社で復帰会見を行った[10]

エピソード[編集]

「やすし・きよし」としてコンビを組んで2年目の1967年7月、TBS系全国ネットの公開バラエティー番組『植木等ショー』にミヤコ蝶々平参平藤田まことと共にやすきよの2人もゲスト出演した(収録は東京)。当時植木等の付き人を務めていた小松政夫によると、この際、植木が優しくしてくれたことを、今でもきよしは恩義に感じているという[11]

京都の仕事の帰りに稽古の事でやすしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になった末、やすしは「解散や!」と怒鳴り散らしその場を後にした。後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所の偉いさんから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る。」と諭され、思いとどまる。その時に発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフが後に芸人仲間等で語られるようになり、いつしか「小さなことからこつこつと」というギャグになったとされる[5]

政界引退を間近に控えた2004年6月3日、参院厚生労働委員会で小泉純一郎首相らに対し、議員として最後の質問を行う予定だったが突然、自民公明の与党により審議中の年金改革関連法案を強行可決されてしまい、質問を行うことができず、採決にも加われなかった。これについてきよしは「期末試験もないまま卒業式に出て行けと締め出されたようです」とコメントした[12]

誠実な人柄で普段は穏やかだが、実は物凄い頑固者である。木村政雄は自著「やすきよと過ごした日々」の中にて、「やすしさんは我が儘を言うが、説得する余地があることも多かった。きよしさんは一度こうだ、と決めると、説得をしても絶対に動かず、我を貫き通す人だった」と回想している。

田舎に泊まろう!』に出演した際、宿泊させてもらった個人の宅にみやげを送り続けている[13]

ジャンケンに負けた事がない。また、ゴルフ中、午前中は雪が降っていたが、『雪よ止め』と念じたら昼から晴天となったという[14]

長男忠志が高校生のころ、友達が禁止されていた買い食いをしようとしていた。しかし、忠志は「買い食いはいけない」と切り出すことが出来ず、家に電話。忠志は「お父さん、僕もカレー食べていいか」と話したところ、きよしは涙ながらに「食べてええで、学校には後で父さん謝りに行ったる」と返した。後日、きよしが一家団欒しながら「いろいろ苦労したが、大好きな家族とこうして豊かな食卓を囲めるようになった」ことをしみじみ感じ、「シアワセやなァ」と涙を流した。それを見た息子が台所で料理をするヘレンのもとへ行き、「お母さん、お父さんが『シアワセや』言うて泣いてんで」と報告したところ、ヘレンもまな板で野菜を切りながら「私もシアワセやー」と号泣していたという[14]

弟子[編集]

直弟子[編集]

孫弟子[編集]

いずれものりおの弟子
  • 西川小のり
  • のりはじめ(廃業)
  • のりのり(後にボソボソ、廃業)
  • 小ざる (元々は桂きん枝の弟子で落語家時代の芸名は桂きん八。後に「なにわ突撃隊」のメンバーとして活躍、現在の活動は不明)
他(いずれものりおの付き人)

演じた俳優[編集]

出演[編集]

現在のレギュラー番組[編集]

現在のレギュラー特番[編集]

過去のレギュラー番組[編集]

映画[編集]

ドラマ[編集]

CM[編集]

レコード[編集]

  • ひと目逢ったその日から / パンチ体操(1975年、桂三枝とのデュエット)
  • 子供が三人おりますねん(1979年、B面は西川ヘレン「約束」)

脚注[編集]

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  1. ^ 藤山直美がそう呼ぶ。
  2. ^ 防災歳時記9月2日シーランド公国と尖閣諸島”. ハザードラボ (2013年9月2日). 2015年5月7日閲覧。
  3. ^ 世界最小の「国家」、シーランド公国が148億円で売り出し中。”. ナリナリドットコム (2007年1月15日). 2015年5月7日閲覧。
  4. ^ 週刊現代 2010年10月23日 76〜78ページ「私の地図--あの場所へ帰りたい(第26回)漫才師 西川きよし」
  5. ^ a b c 文藝春秋 2014年1月号 368-375ページ「西川きよし芸能生活五十年を振り返る やすしさんはちょっと生き急ぎすぎた」
  6. ^ “西川きよし がんだった 治療に専念 テレビ局は「代役を立てることで調整」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年1月17日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/17/kiji/K20160117011873800.html 2016年1月17日閲覧。 
  7. ^ “西川きよし がん手術を報告「フカヒレスープが食べたいな~」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2016年1月23日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/01/23/kiji/K20160123011908500.html 2016年1月23日閲覧。 
  8. ^ “西川きよしが退院 前立腺腫瘍を摘出、中旬にも復帰”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2016年2月2日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1599914.html 2016年2月2日閲覧。 
  9. ^ 西川きよしが仕事再開、前立腺腫瘍の治療終える”. お笑いナタリー (2016年2月18日). 2016年2月19日閲覧。
  10. ^ “西川きよし「良性でした」前立腺腫瘍の手術受け復帰”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2016年2月19日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1606465.html 2016年2月19日閲覧。 
  11. ^ 佐藤利明・編著『植木等ショー! クレージーTV大全』(2010年・洋泉社(ISBN 9784862486240)・P.28)より。
  12. ^ 2004年6月4日 読売新聞大阪版朝刊「西川きよし議員 最後の質問“アウト” 年金改革法案採決審議打ち切られシュン」他3紙
  13. ^ TVでた蔵「2013年9月8日放送ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」”. ワイヤーアクション (2013年9月8日). 2015年5月7日閲覧。
  14. ^ a b ジャンケン、カレー…西川きよし伝説多数”. 夕刊フジ (2011年4月21日). 2015年5月7日閲覧。

関連人物[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]