ヤングおー!おー!

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ヤングおー!おー!
YOUNG OH! OH!
New asahi bld02 1920.jpg
番組の公開収録が行われていたSABホールが入居していた新朝日ビル
ジャンル バラエティ番組
放送国 日本の旗 日本
制作局 毎日放送
プロデューサー 中邨秀雄
林裕章
出演者 桂三枝(現:六代桂文枝
笑福亭仁鶴
斎藤努
川村龍一
横山やすし・西川きよし
月亭八方
オール阪神・巨人
明石家さんま
桂文珍
島田紳助・松本竜介
ほか、こちらも参照。
放送開始から1969年9月まで
放送時間 木曜日 20:00 - 20:56(56分)
放送期間 1969年7月3日 - 1969年9月25日
1969年10月から1975年3月まで
放送時間 日曜日 18:00 - 18:55(55分)
放送期間 1969年10月5日 - 1975年3月30日
1975年4月から1982年3月まで
放送時間 日曜日 17:30 - 18:25(55分)
放送期間 1975年4月6日 - 1982年3月27日
1982年4月から放送終了まで
放送時間 日曜日 13:00 - 13:55(55分)
放送期間 1982年4月3日 - 1982年9月19日
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ヤングおー!おー!』 (YOUNG OH! OH!) は、1969年から1982年まで全国ネットで放送された毎日放送制作の公開バラエティ番組である。「ヤングオーオー」、「ヤングOH!OH!」のタイトル表記もあり。

関東地方では腸捻転解消前はNETテレビ(現・テレビ朝日、1969年9月25日まで)、東京12チャンネル(現・テレビ東京、1969年10月5日から)、腸捻転解消後はTBS(最終回まで)でネットされた。

歴史・概要[編集]

1969年7月3日に番組スタート。桂三枝(現:六代桂文枝)とMBSアナウンサー(当時)の斎藤努がパーソナリティを務めていたラジオ番組『歌え!MBSヤングタウン』のテレビバージョンである。初代司会は、落語家笑福亭仁鶴と三枝が担当。進行役は斎藤が務めた。

番組の収録は初期の大阪市北区の「うめだ花月」を皮切りに、同区・中之島の「SABホール」(後のリサイタルホール2007年閉鎖)での公開収録を長年にわたって行ってきた。その後、末期に吹田市のMBS千里丘放送センター内にあった公開ホール「ミリカホール」からの生放送で行われていた。また、月に1回の割合で関東地方での収録があり、その他ネット局の制作協力で日本各地の地方公開録画もあった。当番組もその模様を茶の間ではなくホール会場で直接見たい場合は、前もってネット局宛に観覧したい旨のハガキを送らねばならなかった。そうすれば厳正なる抽選の上、スタッフから視聴者宛に当選通知票(いわゆる入場整理券)を送ってもらえた。ただし、ハガキ1枚につき3人一組であることが条件であった。

番組の内容は、公開放送形式で、吉本興業の若手芸人と一般視聴者(観客)によるゲーム企画や、吉本の芸人によるコント、漫才の他、ゲストのアイドルの歌やトークもあった。中には東京キー局制作の番組でも出演しない大物のアーティストが突如登場することもあった。

吉本若手芸人の元祖登龍門的番組で、昭和30年代から40年代までは松竹芸能独走状態であった上方演芸界の勢力図を現在のような吉本中心へと至らしめる、その骨格を築き上げた。全国区の人気者へと上り詰めた仁鶴・三枝は、3か月遅れで番組レギュラー入りし大ヒット曲「嘆きのボイン」で猛追した月亭可朝を加えて俗に“上方落語若手三羽烏”。また、やはり番組レギュラーだった横山やすし・西川きよしと共に“吉本御三家”と並び称された。ほかにも桂きん枝林家小染オール阪神・巨人明石家さんま桂文珍月亭八方島田紳助らは、この番組で人気に火が付き、さらに「出世作」でもあり、全国進出のきっかけを作った。さんまが、当時阪神タイガース投手だった小林繁ものまねを披露したのも、この番組が最初だった。番組初期は、文珍、八方、きん枝、小染の吉本の若手落語家4人で「ザ・パンダ」を結成、後にさんまが加入し「SOS(サニー&オオサカ・スペシャル)」に改名、紳助・竜介、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんちが加入し「チンチラチン」を結成。このときに得た、ユニット作りによる若手スター売り出しを伴う番組制作は、後に、ダウンタウン司会で心斎橋筋2丁目劇場より生中継された『4時ですよーだ』(毎日放送、1987年 - 1989年)、さらにはナインティナインを中心とした「吉本印天然素材」などへと発展。吉本独特のスター工法がお家芸として定着していくことになる。

1978年から1981年の毎年5月から7月頃には、「ミス・アイドルコンテスト」が開催された。毎週5人の出場者が登場しチャンピオンを決め、さらに、グランドチャンピオン大会でグランドチャンピオンに選ばれると、賞金$1000と日本航空で行く海外旅行がプレゼントされた。しかし、番組が事前収録のため、優勝者が番組放送前に『TVガイド』に載ってしまうという出来事もあった。1980年の「ミス・アイドルコンテスト」優勝者の山本博美(現:京本政樹夫人)は、のちにタレントとしてデビューし、当番組のスポンサーである日清食品のカップラーメンのCMにも出演した。

1980年9月末の放送をもって、初代司会を10年以上担当した三枝が、若手芸人へと道を譲ることを理由として降板(同時に進行役の川村ひさしと近藤光史アナウンサーも降板)。同年10月より、三枝直々の指名によりさんまがメイン司会者に昇格するとともに、そのアシスタント役としてさんまの同期に当たり、無名時代から何かと共通の仕事が多かった縁から島田紳助松本竜介を、近藤の後継の進行役として青木和雄アナウンサーをそれぞれ起用(1982年4月からの最末期はさんま・紳竜とともにそれまでレギュラー扱いでの出演だったオール阪神・巨人太平サブロー・シローも司会陣に昇格、4組のうち3人が週替りで総合司会を担当。また川村も同改編を機に番組を降板している)。この司会者交代を機に、さんまよりも芸歴の長いレギュラー陣の落語家たち(文珍、八方、小染ほか)も番組からもフェードアウトする一方、当時のMANZAIブームの時流に対応してザ・ぼんち西川のりお・上方よしおなど、三枝司会時代に番組内ユニット「チンチラチン」を構成していながらも、「ザ・パンダ」の前に影が薄かった若手〜中堅の漫才コンビが主要キャストとして番組をリードする存在として頭角を現し始め、視聴者の間でも番組内容の変質が強く意識されるようになっていった。

最終回は、エンディングで「今回でお別れ!」と言ったあと、ラストで制作スタッフのクレジットタイトル(番組終了当時)のロールと共に、スタート当時の当番組における若かりし頃の三枝、ザ・パンダ、斎藤努らの姿(VTRが現存していないため白黒写真を使用した)を背景にして別れのメッセージとした。

2012年7月29日に、NHK BSプレミアムで放送された、『桂三枝のすべて 〜六代桂文枝襲名〜』の中で、当時の出演者・三枝や「ザ・パンダ」のメンバー(小染は故人のため弟弟子の染丸)が出演し、当時行われていた大喜利「あたかも読書」が再現された。

エピソード[編集]

  • 放送開始当時ディレクター竹中文博プロデューサーも務めた後、『八木治郎ショー・いい朝8時』制作(チーフプロデューサー)を務め、さらに毎日放送の常務取締役を務めた。
  • 少年期は当番組の視聴者であり、番組末期にゲスト出演もしたとんねるずは、フジテレビ『ラスタとんねるず'94』の中で当番組のパロディ的な「フジYOUNG」というコーナーを設けている。
  • 番組全盛期の1972年から1974年までの3年間、週刊少年ジャンプに『それいけジャンプでヤングおー!おー!』(作画:宮のぶなお)という漫画が連載された。
  • 1973年には東映の製作で『ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!』のタイトルで映画化された。(後述
  • 1972年には、同じ毎日放送製作の『仮面ライダー』を招き、実際の番組のスタントチームにより、ステージショーが行われた。
  • 毎日放送のTBS系列へのネットチェンジ後は、関東地区での公開録画ではTBSとの共同制作で収録が行われていた。TBS側のプロデューサーは、後に『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』を大ヒット番組に育てあげた桂邦彦が担当した。
  • 他の1970年代制作の番組と同様、当時はVTRの規格が2インチでテープ自体が高価・編集も煩雑だったことに加え、公開番組が故に著作権肖像権での制約も多かった事情も重なり、映像は上書き収録されほとんど残っておらず、現存するものは数本のみとされている[1][2]。このうち1本(1979年4月22日放送分)は明石家さんまがトランポリンで飛び跳ねるシーンが登場するため、TBS系列の番組名場面集などで放送されることもある。また、開局50周年を記念して発行された社史『毎日放送50年史』(A4判・非売品、2001年発行)の付録のDVD-ROMには、斎藤努が番組を卒業した放送回の一部シーンが収められており[3]、こちらは全国の都道府県立図書館などで視聴可能である。
  • 1978年3月5日放送分ではキャンディーズのさよなら企画が行われた。
  • テーマ音楽である「ハッピーじゃないか」は、当時のスポンサーだった日清食品カップヌードルのCMソングにも使用されていた。CD『ブロードキャスト・トラックス 毎日放送編』に収録されている。放送素材からの収録のため川村ひさし(後の川村龍一)による客席インタビュー部分もそのまま挿入されている。

出演者[編集]

メイン司会[編集]

  • 桂三枝(現:六代桂文枝)(愛称「サニー」、1969年7月 - 1980年9月)
  • 笑福亭仁鶴(1969年7月 - 1972年9月、その後も1976年まで不定期で出演)
  • 明石家さんま(愛称「チャッピー」、1980年10月 - 1982年9月)
  • 島田紳助・松本竜介(1980年10月 - 1982年9月)
  • オール阪神・巨人(1982年4月 - 9月)
  • 太平サブロー太平シロー(同上)
    • 日曜13時台に放送枠が変更された最末期の半年間はさんまをメインキャスト格として据えながら、さんま・紳助・竜介・サブロー・シロー・巨人・阪神の7人のうち3人が週替りで総合進行を担当する形式が採られた。

サブ司会・進行アナウンサー[編集]

  • 斎藤努(当時MBSアナウンサー、1969年7月 - 1976年3月) - 腸捻転解消後の在京ネット局となるTBSへの出向のため降板。
  • 川村ひさし(後の川村龍一、1975年4月 - 1982年3月) - 主に観客席やゲスト歌手のインタビューを担当。
  • 緒方憲吾(当時MBSアナウンサー、1976年4月 - 1979年3月) - 主に細部の進行を担当。
  • 近藤光史(当時MBSアナウンサー、1979年4月 - 1980年9月) - 同上。
  • 青木和雄(当時MBSアナウンサー、1980年10月 - 1982年9月) - 主に観客席やゲスト歌手のインタビューを担当。

主なレギュラー[編集]

1969年7月 - 1972年9月
1972年10月 - 1975年3月
1975年4月 - 1976年3月
  • 司会:桂三枝
  • 進行:斎藤努、川村ひさし
  • ザ・パンダ:林家小染、桂きん枝、月亭八方、桂文珍
  • その他:中田カウス・ボタン、コメディNo.1、Wヤング、オール阪神・巨人
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン、スペクトラム
1976年4月 - 1979年3月
  • 司会:桂三枝
  • 進行:川村ひさし、緒方憲吾
  • SOS:明石家さんま、林家小染、桂きん枝、月亭八方、桂文珍
  • チンチラチン:島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち西川のりお上方よしお
  • その他:中田カウス・ボタン、コメディNo.1、Wヤング、オール阪神・巨人
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン、スペクトラム
1979年4月 - 1980年9月
  • 司会:桂三枝
  • 進行:川村ひさし、近藤光史
  • SOS:明石家さんま、林家小染、桂きん枝、月亭八方、桂文珍
  • チンチラチン:島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお
  • その他:中田カウス・ボタン、コメディNo.1、Wヤング、オール阪神・巨人
  • 演奏:古谷充とザ・フレッシュメン、スペクトラム
1980年10月 - 1982年3月
1982年4月 - 1982年9月
  • 司会:明石家さんま(メインキャスト)、島田紳助・松本竜介、オール阪神・巨人、太平サブロー・太平シロー(このうちの3人が週交代で進行役を担当)
  • 進行:青木和雄
  • パッパラーズ:村上ショージ、岡田祐治、前田一球・写楽、前田犬千代・竹千代、Wパンチ
  • その他:西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち、桂文福
  • 演奏:ザ・ハウムズ

主なゲスト[編集]

お笑い(主に関東)[編集]

歌手[編集]

(※五十音順)

スタッフ[編集]

前期~中期[編集]

後期[編集]

スポンサー[編集]

一社提供時代のみ記述(後述の期間以外は複数社提供)。
  • 永大産業(1969年10月 - 1971年9月) - 永大産業が提供であった時期は、本編中に磯野洋子と斎藤努出演による生CMが行われた。
  • 日清食品(1971年10月 - 1982年3月) - 遅れネット局も含めてスポンサードネットで放送。提供読み時のキャッチコピーは「おいしさは世界のことば」。同社のCMに出演していたタレントやCMソングを歌っていた歌手もよくゲストに出演していた。代表的な例としてはピンク・レディー浜田省吾など。

ネット局[編集]

1975年3月まで[編集]

※系列は当時の系列。

放送対象地域 放送局 系列 備考
近畿広域圏 毎日放送 NETテレビ系列 制作局
関東広域圏 NETテレビ
(現:テレビ朝日
1969年9月まで
東京12チャンネル
(現:テレビ東京
独立局[5] 1969年10月から
北海道 北海道テレビ NETテレビ系列 1974年3月まで
北海道放送 TBS系列 1974年4月から
宮城県 ミヤギテレビ 日本テレビ系列
NETテレビ系列
1971年10月から
秋田県 秋田テレビ フジテレビ系列
福島県 福島テレビ TBS系列
フジテレビ系列
新潟県 新潟総合テレビ フジテレビ系列
日本テレビ系列
NETテレビ系列
静岡県 静岡放送 TBS系列
石川県 石川テレビ フジテレビ系列 日曜10:30 - 11:25で遅れネット
福井県 福井テレビ 日曜14:00 - 14:55で遅れネット
中京広域圏 中京テレビ 日本テレビ系列
NETテレビ系列
1969年9月まで
名古屋テレビ NETテレビ系列 1973年4月から
岐阜県 岐阜放送 独立UHF局 1969年10月から1973年3月まで
鳥取県

鳥取県・島根県
日本海テレビ 日本テレビ系列
NETテレビ系列
1972年9月までの放送エリアは鳥取県のみ
相互乗り入れに伴い島根県でも放送
日曜16:25 - 17:20で遅れネット
島根県 山陰放送 TBS系列 1971年から1972年9月の鳥取県への乗り入れまで
岡山県 テレビ岡山 フジテレビ系列
NETテレビ系列
当時の放送エリアは岡山県のみ
広島県 中国放送 TBS系列 1973年4月から
日曜16:30 - 17:25で遅れネット
山口県 テレビ山口 TBS系列
フジテレビ系列
NETテレビ系列
日曜10:00 - 10:55で遅れネット
香川県 瀬戸内海放送 NETテレビ系列 1971年9月まで
当時の放送エリアは香川県のみ
東京12チャンネルへの移行後は日曜19:00から放送[6]
西日本放送 日本テレビ系列 1971年10月から
当時の放送エリアは香川県のみ
愛媛県 南海放送
福岡県 九州朝日放送 NETテレビ系列 1969年9月まで
RKB毎日放送 TBS系列 1971年10月から
日曜15:00 - 15:55 → 16:30 - 17:25で遅れネット
長崎県 長崎放送 土曜15:20 - 16:15で遅れネット
熊本県 熊本放送
宮崎県 宮崎放送
鹿児島県 鹿児島テレビ フジテレビ系列
日本テレビ系列
NETテレビ系列
日曜10:00 - 10:55で遅れネット

1975年4月以降[編集]

※系列は当時の系列。◎は新規にネットを開始した地域、○は同一地域の他局からネットが移行した地域。

放送対象地域 放送局 系列 備考
近畿広域圏 毎日放送 TBS系列 制作局
関東広域圏 東京放送
(現:TBSテレビ
北海道 北海道放送
青森県 青森テレビ
岩手県 岩手放送
(現:IBC岩手放送
宮城県 東北放送
秋田県 秋田テレビ フジテレビ系列
テレビ朝日系列
1981年3月まではフジテレビ系単独加盟局
山形県 山形テレビ フジテレビ系列 1978年4月から
1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
福島県 福島テレビ TBS系列
フジテレビ系列
山梨県 テレビ山梨 TBS系列
新潟県 新潟放送
長野県 信越放送 ◎1982年4月4日から[7]
静岡県 静岡放送
富山県 北日本放送 日本テレビ系列
石川県 北陸放送 TBS系列
中京広域圏 中部日本放送
(現:CBCテレビ
鳥取県・島根県 山陰放送
岡山県 山陽放送 ○当時の放送エリアは岡山県のみ
広島県 中国放送
山口県 テレビ山口 TBS系列
フジテレビ系列
1978年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局
愛媛県 南海放送 日本テレビ系列
高知県 テレビ高知 TBS系列 ◎1982年4月から
福岡県 RKB毎日放送
長崎県 長崎放送
熊本県 熊本放送 [8]
大分県 大分放送
宮崎県 宮崎放送
鹿児島県 南日本放送
沖縄県 琉球放送 ◎1982年4月から

ネットに関する備考[編集]

  • 首都圏では、1969年7月にNETテレビ(現:テレビ朝日)でネットが開始されたが、1クールのみで東京12チャンネル(現:テレビ東京)に移行、1975年4月に毎日放送のTBS系列へのネットチェンジに伴いTBSに再移行し、最終回まで放送された。
  • 1969年10月にNETテレビがネットを取りやめたことで、一部の地域ではNETテレビ系列局から同一地域の他局へネットを移行したケースもあった。中京広域圏では中京テレビ(当時は日本テレビ系列とのクロスネット局)から岐阜県域局の岐阜放送へ移行したため、1969年10月から1973年3月までは愛知県(当時テレビ愛知は未開局)・三重県では未ネットだった。[9]
  • ネットチェンジ初期は日曜17:30よりの放送だったが、TBS系列内で時間帯が違う局があった他(一例として静岡放送は土曜15:00から、長崎放送は土曜13:30から、熊本放送は土曜日17:00からの遅れネット)、1982年3月までは信越放送、テレビ高知、琉球放送では未放送だった。
  • ネットチェンジ後の、少なくとも日曜13:00より放送されていた末期は、TBS系列全国ネット(クロスネット局の福島テレビとテレビ山口を含む)で放送されていた。

映画版[編集]

映画『ヤングおー!おー!日本のジョウシキでーす!』は、吉本興業・東映京都の製作で、東映の配給により、1973年11月17日に公開された。

「狭い日本にゃ住み飽きた」とばかりに海外脱出を試みようとする7人の男達の悪戦苦闘を描いたものだった。また、当番組の収録現場のシーンも収録されている。

ビデオソフトは1981年頃、東映芸能ビデオから4万9000円で発売されたことがある[10]。2009年3月にファミリー劇場、同年9月と2011年3月、2012年4月1日に東映チャンネルで放送された。

キャスト
スタッフ
  • 監督:山崎大助
  • 脚本:檀上茂、松本功
  • 企画:三村敬三、中邨秀雄、平野元貞
  • 撮影:赤塚滋
  • 美術:吉村晟
  • 音楽:月亭八方
  • 録音:堀場一朗
  • 照明:若木得二
  • 編集:市田勇
  • 助監督:篠塚正秀
  • スチール:藤本武

脚注[編集]

  1. ^ 2003年、三枝が『おかしや?さんま!』にゲスト出演した際、「残しておけばよかった」という旨の発言をした。
  2. ^ 2015年10月12日に放送された特番『TBS&さんま60周年SP 伝説のドラマ&バラエティー全部見せます』によると毎日放送には7本ほど保存されていると放送された。
  3. ^ 斎藤によるタイトルコールと三枝が斎藤へお別れのメッセージを贈るシーン、斎藤が観客席で観覧者とお別れの握手をするシーンを収録。
  4. ^ 当番組がテレビ初出演。『なめんなよ』はレコードでは元トランザムの西濱哲男の歌唱だったが、西濱が出演を断ったため、本番組では藤タカシが歌唱した。
  5. ^ 当時はTXN・メガTONネットワークの発足前であった。
  6. ^ 1971年6月27日、中国新聞テレビ・ラジオ欄
  7. ^ 1982年4月4日 信濃毎日新聞 テレビ欄
  8. ^ 6日遅れの土曜日 17:00 - 17:55枠
  9. ^ 愛知県と三重県では、岐阜放送のスピルオーバー制限によって視聴できる地域はごくわずかだった。
  10. ^ 「ビデオコレクション1982」1981年、東京ニュース通信社、「週刊TVガイド」臨時増刊12月2日号

外部リンク[編集]

MBS 木曜20時台
前番組 番組名 次番組
ヤングおー!おー!
(1969年7月 - 1969年9月)
MBS 日曜18時台
毎日新聞テレビ夕刊
※18:00 - 18:25
(30分繰り上げて継続)
ミニミニなんせんす
※18:25 - 18:30
日曜寄席
※18:30 - 19:00
ヤングおー!おー!
(1969年10月 - 1975年3月)
ヤングおー!おー!
※17:30 - 18:25
天気予報
※18:25 - 18:30
(30分繰り下げ)
JNNニュースコープ
※18:30 - 18:50
毎日新聞テレビ夕刊
※18:50 - 19:00
(日曜17:30 - 17:55から移動・短縮)
MBS 日曜17:30 - 18:25枠
毎日新聞テレビ夕刊
※17:30 - 17:55
(日曜18:50 - 19:00枠に移動して継続)
天気予報
※17:55 - 18:00
(30分繰り下げて継続)
ヤングおー!おー!
※18:00 - 18:55
ヤングおー!おー!
(1975年4月 - 1982年3月)
JNNニュースコープ
※17:30 - 17:50
(1時間繰り上げ)
毎日新聞テレビ夕刊
※17:50 - 18:00
(1時間繰り上げ)
JNN報道特集
18:00 - 18:55
(土曜22時台から移動)
NET系列 木曜20時台
おやじは大学一年生
ヤングおー!おー!
(1969年7月 - 1969年9月)
東京12チャンネル 日曜18時台
日米対抗ローラーゲーム
(日曜19時台へ移動)
ヤングおー!おー!
(1969年10月 - 1975年3月)
TBS系列 日曜17:30 - 18:25枠
ワールドゴルフ
※17:30 - 18:00
せんみつ・湯原ドット30
※18:00 - 18:30
(木曜19時台へ移動)
ヤングおー!おー!
(1975年4月 - 1982年3月)
JNNニュースコープ
※17:30 - 17:50
(1時間繰り上げ)
スポーツニュース
※17:50 - 17:55
天気予報
※17:55 - 18:00
(1時間繰り上げ)
JNN報道特集
※18:00 - 18:55
(土曜22時台から移動)
TBS系列 日曜13時台
日曜ヒットスクリーン
※12:00 - 14:00
【ここまでTBS制作枠】
ヤングおー!おー!
(1982年4月 - 9月)
【ここからMBS制作枠】
マイスポーツ
※13:00 - 13:30
レインボーマン
※13:30 - 14:00