山本孝史

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山本 孝史(やまもと たかし、1949年7月7日 - 2007年12月22日)は、日本政治家参議院議員(2期)、衆議院議員(2期)、民主党参議院幹事長参議院財政金融委員長を歴任した。「山本たかし」の表記も多い。兵庫県芦屋市出身。

概要[編集]

実兄が交通事故死したのを機に立命館大学在学中から交通遺児救済のボランティア活動に参加し、卒業後に財団法人交通遺児育英会に就職。1990年より同会事務局長を務めた。

1993年7月18日第40回衆議院議員総選挙日本新党公認で初当選。8月党役員人事で山田宏立法調整委員長(国会対策委員長)の下で立法調整副委員長に就任した。衆議院議員を2期務めた後に参議院に転出。2001年7月29日第19回参議院議員通常選挙大阪府選挙区から立候補し、日本共産党の前職山下芳生議員を8,249票差の僅差で破り、民主党として同選挙区で初めて当選した。

2005年9月26日参議院財政金融委員長に就任するも、12月に検診を受けて胸腺がんに侵されていることがわかり、2006年1月25日同委員長の職を辞した。同年5月22日の参議院本会議でがんに罹患していることを公表、がん対策基本法の早期成立を訴えた。

2007年7月29日第21回参議院議員通常選挙は病状を理由に選挙区からの出馬は困難として、比例区へ転出。議員の職責を全うする事が困難であるにも関わらず引退しなかった事に一部から批判があったものの、比例区で民主党が圧勝したこともあり再選された(得票数67,612票・党内当選者の中では20位で最下位)。その後も酸素吸入器などを装着しながらも登院し、病床につくまで最後まで活動を続けた。国会議事堂登院中は、野党を超え、医師免許を持つ国会議員達が、山本の万一の体調の急変に備えていた。

2007年12月22日午後11時50分、胸腺がんのため、癌研究会有明病院緩和ケア科(向山雄人部長)で死去[1]。58歳没。

2008年1月12日天満別院(大阪市)で告別式が行われ、小沢一郎代表菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長といった民主党幹部、江田五月参議院議長平松邦夫大阪市長らが参列し、小沢は弔辞で「山本氏は格差を放置拡大してきた昨今の政治に真っ正面から戦い続けて生きた」「がんに侵されながら、不屈の精神で法の成立に心血を注がれた。参議院での代表質問は、憲政の歴史に深く刻まれるだろう。代表として本当に誇りに思う」などと述べた[2]

同年1月23日に、山本と共にがん対策基本法自殺対策基本法成立に向け、与野党の垣根を越えて共闘した過程や、国会論戦を通じて親交のあった、元厚生労働大臣自由民主党参議院議員会長尾辻秀久が参議院本会議場にて哀悼演説を行った。

その中で山本が自らの病を告白し、がん対策基本法の早期成立を訴えた、2006年5月の参議院本会議での代表質問を引用し「すべての人の魂を揺さぶった。今、その光景を思い浮かべ、万感胸に迫るものがある。あなたは社会保障の良心だった」「自民党にとって最も手強い政策論争の相手だった」と称賛し、「先生、今日は外はです。寒くありませんか」と落涙しながら演壇から呼びかけ、その功績を讃えた。

政策[編集]

略歴[編集]

文献[編集]

著書
  • 『議員立法 : 日本政治活性化への道』第一書林、1998年6月、ISBN 4886461409
  • 『救える「いのち」のために――日本のがん医療への提言』朝日新聞社、2008年1月、ISBN 978-4-02-250388-6
訳書
  • 『老後 : その時あなたは』リンダ・K.ジョージ著、西下彰俊共訳、思索社、1986年1月、ISBN 4783511179

脚注[編集]

  1. ^ 向山雄人著;生きる力がわく「がん緩和医療」、53頁、講談社、2009。議員在籍中にがんで死去した国会議員には、2006年5月12日に膵臓がんで死去した衆議院議員亀井善之、2002年9月1日に胃がんで死去した参議院議員今井澄などがいる。
  2. ^ 民主党山本議員告別式 小沢代表が弔辞「誇りに思う 朝日新聞、2008年1月12日。
  3. ^ mネット、2004年2月 国会議員への民法改正に関するアンケート
  4. ^ 12月28日第21回参議院議員通常選挙時に次点(21番目)だった大石尚子繰り上げ当選となった。

外部リンク[編集]