筑紫哲也

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筑紫 哲也
Tetsuya Chikushi.png
ホワイトハウスのルーズベルトルームで
筑紫哲也 NEWS23』収録時の筑紫哲也。
(1998年10月19日)
生誕 1935年6月23日
日本の旗 日本大分県日田市
死没 (2008-11-07) 2008年11月7日(満73歳没)
日本の旗 日本東京都
教育 早稲田大学政治経済学部経済学科
職業 ジャーナリスト
ニュースキャスター
活動期間 1959 - 2008
代表経歴

朝日新聞記者(1959 - 1984)
朝日ジャーナル」編集長(1984 - 1987)
朝日新聞編集委員(ニューヨーク駐在、1987 - 1989)
TBS筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター(1989 - 2008)
日本記者クラブ賞受賞(2008年)

立命館大学客員教授
週刊金曜日」編集委員 など
配偶者 筑紫房子
子供 筑紫拓也長男
筑紫ゆうな(次女)

筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年昭和10年)6月23日 - 2008年平成20年)11月7日)は、日本ジャーナリストニュースキャスター。 

朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)、立命館大学客員教授、市民団体・自由の森大学「学長」等を歴任。また、雑誌週刊金曜日』編集委員、『潮賞』(雑誌 『』)「ノンフィクション部門」選考委員も務めていた。

来歴[編集]

生い立ちと朝日新聞社時代[編集]

1935年昭和10年)、大分県日田市生まれ。静岡県立沼津東高等学校及び東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。

大学在学中は合唱団「グリークラブ」に所属していた。卒業後は朝日新聞社に入社、政治部記者、琉球(現在の沖縄)特派員、ワシントン特派員、外報部次長、編集委員などを歴任した。政治部時代には当時内閣総理大臣三木武夫の番記者を務め、自民党ハト派との人脈と親交を広げた。入社同期に轡田隆史がいる。

朝日新聞外報部デスクとして『さて今週は、閑話・徹子と記者クラブ』(1977年(昭和52年)11月6日放送)にゲスト出演した後、1978年(昭和53年)4月から1982年(昭和57年)9月までテレビ朝日日曜夕刊!こちらデスク』のメインキャスターを務めた。同時期、朝日新聞社のCMで『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ番組『夕刊タモリ!こちらデス』(現在の『タモリ倶楽部』の前身)の司会者だったタモリと共演した。

司会者を務めていた頃、“宇宙人と交信しました”というニュースを伝えた。伝えた日は1979年(昭和54年)4月1日だった。エイプリルフールのジョークとして伝え、すぐに「ウソです」と言ったが、直後に抗議の電話が殺到し、生放送中に抗議の電話に応対する事態となった。この件については後に新聞スポーツニッポン1979年(昭和54年)4月3日付け)で取り上げられた。

1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)まで、雑誌『朝日ジャーナル』の編集長を務めた。「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」の連載で、当時の若者のリーダーたちにインタビューし、対談を通じて時代の気分を探ろう・表し出そうと試みた。この連載などで新人類なる言葉は世に広がった。シリーズ「日常からの疑問 こんなものいらない」の代表記事は『現代無用物事典』および『こんなものいらない事典』(いずれも新潮社)として出版され、話題を呼んだ。1984年4月からTBSラジオで筑紫哲也ニュース・ジョッキーのパーソナリティを務める。

ニューヨーク勤務の1989年(平成元年)夏、再度TBSからの打診[1]を受け朝日新聞社を退社。同年10月に『筑紫哲也 NEWS23』を開始することとなる[2]

『筑紫哲也 NEWS23』キャスターとして[編集]

1989年(平成元年)10月から、TBSのニュース番組『筑紫哲也 NEWS23』(現・NEWS23)のメインキャスターを務める。評論(特にコラムコーナー「多事争論」)が人気を集める。ウォルター・クロンカイトを尊敬しており、クロンカイトに倣って『NEWS23』のエンディングでは決め台詞「―では、今日はこんなところです。」を使用していた[3]

彼のジャーナリストとしての社会的な発言には、毀誉褒貶・賛否両論あったが、ニュースキャスターとしての手腕はこの番組で確実となり、以降は『ニュースステーション』のキャスター・久米宏と並び民放ニュースキャスターの顔として広く認知された。久米宏とは平日夜のニュース番組の視聴率を激しく争ったが「広島東洋カープのファン」という共通点があったため、日刊スポーツの企画で1991年(平成3年)の西武ライオンズとの日本シリーズを仲良く観戦している。

1993年(平成5年)、『筑紫哲也 NEWS23』のキャスターとしての業績に対して、第30回ギャラクシー賞・テレビ部門個人賞を受賞[4]

1995年(平成7年)のいわゆる「TBSビデオ問題」(TBSのワイドショー3時にあいましょう』のスタッフがオウム真理教幹部に坂本堤へのインタビュー映像を事前に視聴させた事実が発覚。坂本堤弁護士一家殺害事件の一因であるとして、TBSへの非難が集中した)では、『筑紫哲也NEWS23』でTBSの対応に疑問を呈し続けた。当時のTBS社長磯崎洋三が過ちを認めた1996年(平成8年)3月25日の記者会見の後、その日の「多事争論」にて『TBSは今日、死んだに等しいと思います』と発言し、TBSを批判した[5]

1998年(平成10年)11月19日には、訪日したビル・クリントンアメリカ大統領をTBSの『筑紫哲也NEWS23』に招いてタウンホールミーティング風のインタビューとディスカッションを行った。

2003年(平成15年)4月10日福岡ドーム井上陽水武田鉄矢らが中心となって開催されたコンサート「ドリームライブ in 福岡ドーム」のオープニングで「多事争論」の収録を行った。

国会議員年金未納問題を批判していたが、2004年(平成16年)5月13日放送分の『NEWS23』で、自身の年金未納が発覚(1989年から92年6月までの2年11か月)を謝罪し、翌日から一時期番組の出演を見合わせた[6]

2005年(平成17年)9月11日、TBSで放送の第44回衆議院議員総選挙特別番組(開票速報)『乱!総選挙2005』で、メインアンカーとして参加し、元『ニュースステーション』の久米宏とは14年ぶりの共演となった。「乱!総選挙2005」の視聴率は、民放で第1位だった。

晩年[編集]

2007年(平成19年)5月14日放送の『NEWS23』で初期の肺癌であることを告白[7]、治療に専念するため『NEWS23』への出演を一時休業した。同年10月8日には休業後初めて番組に復帰。以降はスペシャルアンカーとして数ヶ月おきに番組へ出演。最晩年には出演時にニット帽をかぶるようになった。

2008年(平成20年)に「テレビジャーナリズムの確立に多大の貢献をした」として日本記者クラブ賞を受賞。

2008年(平成20年)11月7日午後、肺癌のため東京都内の病院で死去した。享年74(満73歳没)[8]。真裏の報道番組同士のライバル関係にあった久米宏古舘伊知郎らが自らの番組でその死を悼んだ[9][10]ほか、追悼特別番組が放送されるなどその死は大きく報じられた。法名は無量院釋哲也。2008年(平成20年)12月19日、東京都内のホテルで別れの会が行われた。

没後[編集]

死去後の遺産相続の際に7000万円の申告漏れを東京国税局から指摘され、そのうちの海外口座の4000万円は意図的な資産隠しを行ったとされ重加算税を含む約1700万円の追徴課税となった[11]

2013年1月、BS-TBSにおいて、ドキュメンタリー『筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅』が放映されることとなった[12]

スタンス・評価[編集]

リベラル派文化人の代表的存在だが、報道姿勢について賛否が分かれることも多かった。その一方で野村秋介と親交があり、それを阿川佐和子に驚かれたことがあるように、保守的姿勢の人物に対しても許容している側面があり[13]、これ以外にも筑紫と親交の深かった保守系の政治家やジャーナリストも多く、筑紫の葬儀には保守派の大物議員や有名ジャーナリストの参列も見られた。元内閣総理大臣小泉純一郎はイラク戦争でアメリカを支持していたので対極の立場にあったが、上杉隆によれば、プライベートでは首相官邸に小泉を訪ね、オペラ談義に花を咲かせることもあったのだと言う[14]

肯定的評価[編集]

  • 鳥越俊太郎堺屋太一田原総一朗立花隆らはオピニオンリーダー、ジャーナリストとしての筑紫を高く評価している。
  • 大田昌秀(元沖縄県知事)は朝日新聞記者の時代から沖縄問題を積極的に報道し続け、『NEWS23』の番組内でも何度も在日米軍基地問題を取り上げた筑紫の死に際して「沖縄にとってかけがえのない恩人を失い、大きなショックを受けている」とコメントを発表した。
  • 『NEWS23』でサブキャスターを務めた草野満代は「テレビの世界では、ドキュメンタリー番組をコンスタントに作り続けることが難しい状況が続いています。でも『NEWS23』ではよく、20分くらいのドキュメンタリーを入れこみました。ほかのニュースをカットしてでも、ドキュメンタリーを伝える場を守り続けたのが筑紫さんです」と評している[15]
  • 井上陽水は「日曜夕刊!こちらデスク」で自身の楽曲「傘がない」の歌詞の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」を取り上げた回を視聴し「ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と感じたことを話している。それもあって同番組の最終回に出演し、「傘がない」を含んだ3曲を歌唱した。その後も井上は「NEWS23」に楽曲提供をしたり、筑紫と麻雀をするなど、親交を深めていった。なお、筑紫と井上には政治や家庭などの立ち入った話はしないという暗黙の了解があった。井上は「筑紫さんの功績のひとつは、ユーモアの大切さを意識されていたことだと思います。この真面目な国では、深刻そうに語ることが求められて、ちょっとした笑いや諧謔(がいぎゃく)も『不真面目だ』とか言って、許されないところがありますから。ユーモアを口にしたり受け止めたりするには、余裕がないとできません。番組では、『なかなか面白い冗談を言うな』という感じではかならずしもなかったのですが、ユーモアがもつ可能性に注目していた、という意味で特別だったと思います」「政治家なんかにしてもね、筑紫さんならということで出演した方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。鷹揚で優しいからなのか、どんなものでもまずは肯定しようとするスタンスがあったようにも思います」「筑紫さんは『観察者』だったと思います。へたに才能があると『演者』になろうとして、観察者にはなれない。自分が演じるのではなく、演じている誰かを見たり、世の中に紹介したりするという意味で、観察者のプロだったといえるのかもしれません」と評している[16]

否定的評価[編集]

  • 保守派論壇からは筑紫が出演した番組の報道姿勢と合わせて特攻隊[17]北朝鮮による日本人拉致問題に関する言動などで[18]強い批判を受けることが多かった。
  • 吉本隆明は、テレビキャスターの筑紫や久米宏は、自分を棚上げにして、キレイごとやカッコいいことをいって、そのうえ他人にはキツイことばかり要求しているとし、「民衆の味方です」みたいな顔して発言をしているが、果たして筑紫や久米が普通の民衆なのか或いは民主主義が身についているかといえば、そうではないと批判している[19]
  • 上杉隆等は筑紫の打ち立てた功績は揺るぎないものであるとしながらも、ジャーナリストの頂点まで上り詰めた晩年の筑紫に関しては、議論で追い詰められても反論しようとしなかったり、思想信条による議論よりも友情を優先するようになっていたことに対して批判的にとらえている[14]
  • 田中康夫とは『朝日ジャーナル』時代に「若者たちの神々」最終回で対談し、これがきっかけとなり「ファディッシュ考現学」の連載を依頼した。筑紫の「現場主義」に田中は影響を受けたものの、その後は距離が開くようになり特に田中が厳しい評価を下していた細川護熙内閣に対して、筑紫が無批判であったことに関して「筑紫哲也朽ちたり」と評した。その後筑紫からの取材に関しての直接の返答はなく[20]、「どう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。」と著書内で記すのみであった[21]。その後田中は何度か筑紫と対面する機会があったことが日記から分かるものの、筑紫が亡くなった前後の「ペログリ日記」にも筑紫死去に関しての言及はなかった[22]。一方で筑紫は『NEWS23』内などでその後も田中を応援し続けていたことや、2人に引き続き親交が存在したことを記す人物もいる[23]
  • 元首相の森喜朗は、月刊誌『Will』にて自らの内閣がマスコミに叩かれた背景として、自身の所属していた福田派の敵対派閥と懇意にしている官邸記者達が多かったことを一因に挙げ、続けて筑紫がある結婚式で「今日は、森前総理も見えていますが、森政権時代、我々も『森を潰せ』という戦略で少しやりすぎだったと思っています。一国の総理とメディアの間には、ある程度の緊張感が必要で、ある程度の批判はする。しかし、森さんについてはやりすぎたという反省がある」と述べ、森は「何をいまさら」という気分だったと述べている[24]
  • 筑紫の「沖縄=戦争と基地の悲劇の島」という沖縄観はステレオタイプという批判がある。日本経済新聞社元那覇支局長大久保潤篠原章の共著『沖縄の不都合な真実』(新潮新書2015年、142-143p)「第6章本土がつくったオキナワイメージ」では、琉球史研究の第一人者で副知事だった高良倉吉が、「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りに振る舞うクセが付いてしまった」と発言して、筑紫の沖縄観が沖縄県内で定着した結果、戦争基地も被害者の視点だけで語り、自立に向けた議論を阻み、「日本はなんとかしろ」という依存体質や陳情文化が一般人にも蔓延したことを解説したこと、「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」という言葉を、戦後60年の取材中に地元の複数人から聞いたことが触れられている。沖縄に家系を持つ与那原恵は、『迷惑な沖縄愛』という小論を別冊宝島Real『筑紫哲也「妄言」の研究』に寄稿し、News23でも何度も特集された95年の米兵による少女暴行事件の抗議集会は自発的に集まった人が多数を占めたが、沖縄人に強く訴えかけた大きな理由は、被害者が「少女」』だったこと、沖縄のこの種の集会は、中学生高校生の少女が作文を読み上げるが、この集会でも普天間高校女子高生が作文を読み、彼女は数年間にわたってNews23に取材されることになったが、筑紫に仮託された「沖縄の少女」というイメージに縛られるのはいやだろうな、と述べている。また、筑紫が沖縄を愛するのは、自分は無知な少年だったから軍国少年に染め上げられてしまったのだという戦争を止められなかった大人への恨みを重ねることができるのは、沖縄を象徴する「少女」であり、無垢で清らかな自分と日本と米国の大国の論理で振り回されてしまう被害者としての沖縄という感覚を共有できると思っているからだが、沖縄戦の実相は複雑であり、また沖縄は複雑な感情や打算がうずまく島でもあり、人間の暮らしとはそういうものであり、沖縄ではかつての左翼的言説に人々がなびかなくなっており、左翼が沖縄に仮託して、自分たちの言いたいことを言っているに過ぎないことに気づいてしまったこと、そして、この先も沖縄に関心を持ち報道していくなら、沖縄の現実や複雑な思いや変化を正確に見て、筑紫が沖縄人に好かれていないという事実も直視すべき、と述べている。

自己のスタンス[編集]

  • 田勢康弘によると、筑紫は「少数派であること、批判されることを恐れずに、多様な意見や立場を登場させることで、社会に自由な風気を保つこと」を自身の報道姿勢としていた。2008年、筑紫が病床から『NEWS23』スタッフへ向けて送った手紙にこの考えが表されている[25]

(以下、全文)

近ごろ「論」が浅くなっていると思いませんか。

その良し悪し、是非、正しいか違っているかを問う前に。

ひとつの「論」の専制が起きる時、

失なわれるのは自由の気風。

そうならないために、もっと「論」を愉しみませんか。

2008年夏 筑紫哲也

  • 田原総一朗から「右翼から諸悪の根源だとこてんぱんにいわれてますね」と冷やかされた際に「それを名誉に思わなければいけません」と答えるなど、自己のスタンスを貫いた。

その他[編集]

2006年(平成18年)9月下旬にリニューアルされた『筑紫哲也NEWS23』において、TBSは朝日放送アナウンサーで、当時TBSラジオBATTLE TALK RADIO アクセス」のナビゲーターをしていた山本モナを採用したが、リニューアル直後に、山本は民主党衆議院議員細野豪志との不倫写真週刊誌フライデー2006年(平成18年)10月13日号にスクープ掲載された。これについて筑紫は彼女への言及をテレビではしなかったが、フライデー発売日の番組打ち合わせの席で、筑紫はスタッフに対し「あいつはもうここに入れるな」と激怒しながら言った、と後に複数の週刊誌で報じられている。

NPO活動中の辻元清美に政界入りを勧めたことでも知られる[26]。彼女の政治団体に夫人名義で寄付を行っていた(平成13年9月14日付官報・号外196)。辻元議員の秘書給与流用問題の際には、夫人名義で献金している事実を公表せずに辻元を擁護するかのような発言を番組内で繰り広げたため、後に辻元本人と共に批判の的となった。

縁戚[編集]

父の従兄弟(父方の祖母の妹の子)に、田中小実昌がいる。

瀧廉太郎との縁[編集]

瀧廉太郎は大伯父(滝の妹・トミが筑紫の祖母)。筑紫自身はかつて「私には音楽の才能がないので、私が『瀧廉太郎の親戚』であるということを非常に戸惑っていた」と述懐している。筑紫は1993年から、竹田市にある瀧廉太郎念館の名誉館長を務めていた。

人物[編集]

ヘビースモーカー[編集]

ハイライトマルボロの赤を1日3箱吸っていたヘビースモーカーだった。肺癌になって禁煙した後も「一服できないと面白くない」「百害あって一利なしと言うけど、文化は悪徳が高い分、深い。(たばこ喫煙は)人類が発明した偉大な文化であり、たばこの代わりはありませんよ。これを知らずに人生を終わる人を思うと、何とものっぺらぼうで、気の毒な気がしますね」「癌の原因はストレスで、たばこはきっかけにすぎない」と語った[27]

出演[編集]

『NEWS23』以後、TBSと専属契約を結んでおり、基本的にテレビ出演はTBS系列の放送局に絞っていた。ただし、フジテレビトリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』にVTR出演したり、年に1回テレビ朝日の特番にゲスト出演していた。

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

映画[編集]

著書[編集]

  • 『筑紫哲也の 乱世を生きよ!―大変な時代を生きるヒント』(日本経済新聞社ISBN 4532162424
  • 『筑紫哲也の この「くに」のゆくえ』(日本経済新聞社)ISBN 4532161924
  • 『沖縄がすべて』(照屋林助との共著。河出書房新社ISBN 4309011721
  • 『筑紫哲也の世世世(ゆーゆーゆー) パート3』(沖縄タイムズ社)ISBN 4871271382
  • 『日本23時―今ここにある危機』(小沢書店)ISBN 4755103428
  • 『マイ・アメリカン・ノート ポトマックの両岸』(朝日新聞社)ISBN 4022602678
  • 『メディアの海を漂流して』(朝日文庫)ISBN 4022603402
  • 『若者たちの神々』1〜4(朝日新聞社) - 1984年から1985年の若者たちの“神々(20-40代)”50人との対談集。
  • 『若者たちの大神』(朝日新聞社) - 1986年から1987年の若者たちの“大神(50代以上)”22人との対談集。
  • 『新人類図鑑』1・2(朝日文庫) 1986年刊 - 対談時10-20代の若者34人との対談集。
  • 『元気印の女たち』(すずさわ書房) 1987年刊 - 39人の活躍する女性たちとの対談集。

筑紫を批判する文献[編集]

関連項目・人物[編集]

  • 筑紫哲也 NEWS23
  • 忌野清志郎
  • 和田アキ子 - 生前親交が深く、筑紫のことを『てっちゃん』という愛称で呼んでいた。
  • 野村秋介 - 思想的には正反対だが友人として交流があった。
  • 久米宏 - 「筑紫哲也 NEWS23」のライバル番組「ニュースステーション」のメインキャスター。平日最終版のニュースの概念を大変革させた人物。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 筑紫拓也さん(1) 23キャスター就任、悩む父の背中を押した - 特集 - BOOK asahi.com(朝日新聞社) 2010年11月5日
  2. ^ 『ニュースキャスター』(筑紫哲也著、集英社新書2002年)、『無名記者の挽歌』(中島清成著、中央公論新社2009年
  3. ^ 大阪地区の毎日放送ラジオ部門であるMBSラジオで放送された『諸口あきらのイブニングレーダー』で諸口あきらが使用した例がある
  4. ^ 第30回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  5. ^ 筑紫哲也 (1996年3月26日), “News23 多事争論 3月25日(月)「坂本弁護士事件とTBSの問題」” (プレスリリース), NEWS23, http://210.174.204.116/news23/old/onair/taji/s60325.html 2010年4月12日閲覧。 
  6. ^ 「筑紫哲也氏も2年11ヵ月 番組で陳謝」『毎日新聞』2004年5月14日
  7. ^ 筑紫哲也 (2007年5月14日), “News23 多事争論 5月14日(月)「がんを生きぬく」” (プレスリリース), 筑紫哲也NEWS23, http://www.tbs.co.jp/news23/old/onair/taji/s070514.html 2007年5月14日閲覧。 
  8. ^ “筑紫哲也さん死去 NEWS23前キャスター 73歳”. asahi.com (朝日新聞社). (2008年11月7日). http://www.asahi.com/obituaries/update/1107/TKY200811070335.html 
  9. ^ “久米宏氏「後ろに筑紫さんがいたから安心」”. スポーツニッポン. (2008年11月9日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/11/09/01.html 
  10. ^ 古舘、TV番組で“先輩”筑紫さん偲ぶ SANSPO.COM
  11. ^ 筑紫哲也氏の遺産で申告漏れ…nhk 2011/7/7
  12. ^ 筑紫哲也 明日への伝言〜「残日録」をたどる旅
  13. ^ 女神(5)阿川佐和子さん ニコニコ顔に負けて、つい… asahi.com
  14. ^ a b 筑紫哲也氏は本当に賞賛すべきジャーナリストだったのか」『週刊上杉隆』ダイヤモンド社HP 2008年11月13日
  15. ^ 女神(2)草野満代さん オンエア3秒前まで雑談していた asahi.com
  16. ^ 井上陽水さん(1) 筑紫さんの一言から生まれた「最後のニュース」asahi.com
  17. ^ 「特攻隊を「自爆テロリスト」呼ばわりした「筑紫哲也」」、『週刊新潮』2004年10月14日号、新潮社、 145-146頁。
  18. ^ 西村幸祐「拉致家族と『朝日新聞』&筑紫哲也氏の深すぎる溝」(『反日の構造』 ISBN 4569639968 所収)など。
  19. ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』 ぶんか社、1999年8月。ISBN 978-482110684475頁
  20. ^ 田中康夫「ゲンチャリにまたがって」『神戸震災日記』所収、新潮社、文庫版181ページ ISBN 978-4101434087
  21. ^ 筑紫哲也『ニュースキャスター』、集英社新書版200-202ページ ISBN 978-4087201451
  22. ^ 筑紫死亡前後のペログリ日記
  23. ^ 及川健二のパリ修行日記 2009年10月1日
  24. ^ 森喜朗(聞き手大下英治)「「失言問題」、朝日新聞を叱る」『WiLL』2007年9月P51-52
  25. ^ WEB多事争論 - 筑紫哲也メッセージ
  26. ^ “『多事争論』貫き、戦後日本の姿追う 筑紫哲也さん死去”. asahi.com (朝日新聞社). (2008年11月8日). http://www.asahi.com/obituaries/update/1107/TKY200811070401.html :辻元清美が自宅を訪れた際に、開口一番で「やれ」(出馬しろという意味)と言い切られた。「泥船だからこそ乗れ。市民の政党に変えろ」。その後、ジャーナリストの領分を逸脱しているとの批判もあったが、「おれには政治家辻元清美の製造元責任がある」と言い続けた。
  27. ^ “特集ワイド:がんと闘う筑紫哲也さんに聞く”. 毎日jp (毎日新聞). (2007年11月27日). オリジナル2007年11月29日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071129202011/http://mainichi.jp/select/jiken/graph/20071127/ 2015年3月9日閲覧。 

外部リンク[編集]