栗山英樹

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栗山 英樹
北海道日本ハムファイターズ 監督 #80
NF-Hideki-Kuriyama20130309.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都小平市
生年月日 (1961-04-26) 1961年4月26日(55歳)
身長
体重
176 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 外野手
プロ入り 1983年 ドラフト外
初出場 1984年10月8日
最終出場 1990年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
栗山 英樹
生誕 (1961-04-26) 1961年4月26日(55歳)
日本の旗 日本東京都小平市
住居 日本の旗 日本北海道栗山町
教育 東京学芸大学
職業 プロ野球選手
プロ野球監督
野球解説者
野球評論家
スポーツジャーナリスト
大学教授
活動期間 1984 -
代表経歴 ヤクルトスワローズ選手(1984年 - 1990年)
テレビ朝日野球解説者(1991年 - 1992年、2001年 - 2011年)
TBSテレビ野球解説者(1993年 - 2000年)
TBSラジオ野球解説者(1993年 - 2011年)
スポーツニッポン専属野球評論家
東京学芸大学講師
白鴎大学教授(2008年 - )
北海道日本ハムファイターズ監督(2012年 - )

栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年4月26日 - )は、東京都小平市出身の元プロ野球選手外野手)、監督野球解説者評論家スポーツジャーナリストスポーツライター大学教授。マネジメント事務所は有限会社オフィスマリーン。

2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を務める。日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物は史上初めてである[1]

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[2]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。

創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて惜しくも関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。

東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。 東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した[3]。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃してプロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった[4]

プロ野球選手時代[編集]

1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。

さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[5]。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲーム出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。

またこのオフには若松勉(翌年から打撃コーチ補佐兼任)が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが[6]、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌1986年の5月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1番右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301をマークした。

しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため、長期入院を余儀なくされた。栗山はいつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供が自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは自分の甘さを恥じ、「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」という前向きな気持ちになれた、と後に語っている。

結局、翌1987年ユマキャンプには参加できず、開幕にこそ間に合ったが、調整不足のため打撃不振に陥ってレギュラーを外された。復活を期する栗山は再び若松の指導の下で猛練習を重ねて調子を取り戻し、1988年のユマキャンプで左足の肉離れを起こしてしまったため、この年の開幕には間に合わなかったものの、6月に復帰すると1番・中堅手に定着してヒットを量産。出遅れが響いて規定打席には33打席足りなかったが、打率.331を記録した。

1989年には開幕から中堅手のレギュラーに定着。当初は1番を打っていたが、ルーキーの笘篠賢治が1番に定着すると2番に回り、37犠打を記録した。前半は好守ともに絶好調で打率も3割以上を維持していたが、シーズン中盤になるとメニエール病の症状が再発するようになり、疲れもあってか8月以降は打率が急降下、スタメンの場合でも7番・8番に打順を下げての出場が多くなった。結局この年は打率.255に終わったものの、初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。

しかしメニエール病の症状はシーズン終了後もなかなか好転せず、満足な練習ができないまま次のシーズンに臨まざるを得なくなり、翌1990年野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一にレギュラーを奪われた。途中出場となった4月7日の開幕戦(対巨人)では大森剛の抜ければサヨナラという左中間の強烈なライナーをダイビングキャッチでアウトにする活躍を見せた。それでもメニエール病の症状に加えて古傷の右肘の故障も再発したため不振にあえぎ、レギュラーの座を奪い返すことはできなかった。

栗山には、自分は体力的にも技術的にも他の選手に劣るがその差を猛練習で埋めてきたという思いがあり、他の選手以上の練習ができなくなれば現役を続けることは無理だと考え、この年限りで現役を引退した。

引退後[編集]

1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日( - 1993年2001年以降)、TBSテレビTBSラジオ(1993年[7]以降。テレビ解説は2000年まで[8])に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。

2004年から白鴎大学助教授、2007年から准教授。2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた[9]。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鴎大学に籍を残している。

TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生

北海道栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、芝生学会より日本芝生文化大賞を受賞した。また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からはHBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。

2000年代以降は日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。

2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督古田敦也の引退により監督候補として有力視されたが実現しなかった。

2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置[10])。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。

2011年11月3日北海道日本ハムファイターズの監督就任(梨田昌孝の後任)が決定した[11]。契約期間は2年[11]11月9日には就任会見が行われた。背番号は三原脩への憧れにちなみ「80」となった[12][13]

日本ハム監督時代[編集]

2012年
監督就任1年目となった2012年はチームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫中田翔ら若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。なお、プロ野球史上初めてリーグ5球団のうち3球団(西武、ソフトバンク、楽天)に負け越して優勝した。クライマックスシリーズでもファイナルステージで福岡ソフトバンクホークスを無傷の4連勝(リーグ優勝チームのアドバンテージの1勝を含む)で降し、現役時代は出場経験がなかった日本シリーズへの出場権を獲得したが、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは2勝4敗で敗れ、日本一獲得はならなかった。日本シリーズ敗退後、栗山との確執が報道された投手コーチの吉井理人が退団した[14]。しかし、吉井は後に2016年から一軍投手コーチとして復帰している。
2013年
2年契約の2年目だったが、キャンプ直前の1月25日に糸井嘉男がトレードでオリックスバファローズに移籍が決まると、その翌日に球団は急遽栗山と2014年までの契約延長を発表した。高卒1年目の大谷翔平を二刀流で起用し、話題を集める。大谷は打撃でも期待に応え、投手では3勝を挙げるなど投打で采配に応えた。陽岱鋼盗塁王(球団史上初)、新外国人のミチェル・アブレイユ本塁打王のタイトルをそれぞれ獲得し、4番の中田も初の3割を達成するなど明るい話題が多かったが、吉川が前年から成績を大きく落とし、前年オフに移籍した田中賢介や糸井の穴埋めができず、また中田も骨折で終盤離脱するなど苦戦し、12年ぶり最下位でシーズンを終えた。前述の通り契約延長により、2014年も指揮を執る事となった。
クジ運が悪く、2013年10月25日のドラフト会議では、松井裕樹柿田裕太岩貞祐太を立て続けに外し続けた。競合ドラフトの同日3連敗は、2010年の当時オリックスの監督岡田彰布以来となった。
2014年
大谷が日本プロ野球初の同一シーズンでの10勝10本塁打を達成し、抑えに武田久が離脱したことで増井浩俊を起用し、これが当たり増井は抑えに定着した。最終的にチームは3位となり2年ぶりにクライマックスシリーズ進出を決めた。CSではファーストステージで2位のオリックスを2勝1敗で破り、ファイナルステージではソフトバンクと対戦したが3勝4敗で敗れた。
2015年
79勝62敗2分となり、リーグ優勝した2012年の勝率、勝利数を上回る好成績を残したが、この年のリーグ優勝チームの福岡ソフトバンクホークスには12ゲーム差をつけられ2位となった。クライマックスシリーズでは3位のロッテに1勝2敗で敗れた。
2016年
開幕から首位を独走したソフトバンクに一時最大で11.5のゲーム差をつけられながら、6月19日から7月11日まで球団新記録となる15連勝などで猛追。終盤9月のソフトバンク最終2連戦を2連勝するなどして逆転、9月28日の対西武戦に勝利し4年ぶりのリーグ優勝を果たした。クライマックスシリーズでもファイナルステージで2位のソフトバンクを4勝2敗で降し、4年ぶりに日本シリーズへの出場権を獲得した。そして、広島東洋カープと対戦した日本シリーズを4勝2敗で制覇し、球団としては10年ぶり3度目、自身としては初の日本一を獲得した。また、日本一を決めた第6戦は2009年に開場したマツダスタジアムで行われたため、同球場の初代胴上げ監督となった[15]。11月2日に1年契約を延長したことが発表された[16]

人物[編集]

独身結婚歴もない。また、監督就任当初は実際の自宅は東京にありながらも栗山町に生活拠点を置いていたが、2015年中に正式に栗山町に自宅を構えた。木田優夫GM補佐が言うには野球道具をコレクションする趣味があり、栗山町の家はコレクションの倉庫となってしまい、近くにもう一つ家を建てて住んでいるという。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1984 ヤクルト 2 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1985 29 18 18 9 5 1 0 0 6 1 1 0 0 0 0 0 0 1 1 .278 .278 .333 .611
1986 107 258 239 34 72 5 0 4 89 14 8 5 9 0 4 0 6 26 0 .301 .329 .372 .701
1987 72 99 92 13 18 1 1 0 21 5 0 1 3 0 3 1 1 7 3 .196 .229 .228 .457
1988 90 370 338 33 112 11 4 0 131 17 7 5 20 0 7 0 5 33 0 .331 .354 .388 .742
1989 125 484 420 49 107 18 3 2 137 26 4 4 37 4 17 2 6 34 5 .255 .291 .326 .617
1990 69 109 96 15 22 0 1 1 27 4 3 0 10 0 2 0 1 7 3 .229 .253 .281 .534
通算:7年 494 1339 1204 153 336 36 9 7 411 67 23 15 79 4 33 3 19 108 12 .279 .308 .341 .649

年度別監督成績[編集]

リーグ公式戦
年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
2012年 日本ハム 1位 144 74 59 11 .556 - 90 .256 2.89 51歳
2013年 6位 144 64 78 2 .451 18.5 105 .256 3.74 52歳
2014年 3位 144 73 68 3 .518 6.5 119 .251 3.61 53歳
2015年 2位 143 79 62 2 .560 12.0 106 .258 3.62 54歳
2016年 1位 143 87 53 3 .621 - 121 .266 3.06 55歳
通算:5年 718 377 320 21 .541 Aクラス4回、Bクラス1回
  • 2016年度シーズン終了時点
  • 順位の太字は日本一


ポストシーズン
年度 球団 大会名 対戦相手 勝敗
2012年 日本ハム パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークスパ・リーグ3位) 4勝0敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 読売ジャイアンツセ・リーグ1位) 2勝4敗=敗退
2014年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
オリックス・バファローズパ・リーグ2位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出

ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ1位) 3勝4敗=敗退
(※3)
2015年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ
千葉ロッテマリーンズパ・リーグ3位) 1勝2敗=敗退
2016年 パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1)
福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ 広島東洋カープセ・リーグ1位) 4勝2敗=日本シリーズ優勝
※1 クライマックスシリーズファイナルステージは6試合制で先に4勝したチームの優勝、リーグ優勝チームに1勝のアドバンテージ
※2 アドバンテージの1勝を含む。
※3 ディスアドバンテージの1敗を含む。

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 46 (1984年 - 1989年)
  • 4 (1990年)
  • 80 (2012年 - )

関連情報[編集]

著書[編集]

単著
  • 『栗山英樹29歳:夢を追いかけて』(池田書店、1990年4月、ISBN 4262143759
  • 『スポーツキッズのほうれん草:スポーツサイエンス・リポート』(全国朝日放送、1992年6月、ISBN 4881311778
  • 『夢は正夢』(扶桑社、1994年7月、ISBN 4594014739
  • 『復活:地獄を覗いた男たち(1994年10月、ベースボール・マガジン社)ISBN 4583031610
  • 『忘れちゃいけないものがある:スポーツを愛する人たちへ』(1996年8月、小学館ISBN 4093871914
  • 『栗山英樹のベースボールアカデミー』(2005年7月、出版芸術社ISBN 4882932717
  • 『栗の樹ファーム物語:栗山英樹、野球場をつくる:北の大地で育む"フィールド・オブ・ドリームス"』(2006年3月、マキノ出版)ISBN 4837670555
  • 『栗山英樹が選ぶアスリートたちの世界集』(2007年2月、学習研究社。「中学生のためのショート・ストーリーズ」第8巻として発行)ISBN 9784052026331 ※複数の著作家によるスポーツ選手の物語を栗山が選定したもの(「栗山英樹選」のクレジットあり)。
  • 『怪物前夜:"60億円の男"松坂大輔を育てた「嫌いにさせない」子育て術』(2007年3月、東京学参)ISBN 9784808007737
  • 『はるかなる甲子園:もう一つの高校野球物語』(2010年11月、日刊スポーツ出版社ISBN 9784817202826
  • 『覚悟 = Resolution:理論派新人監督は、なぜ理論を捨てたのか』 (2012年10月、KKベストセラーズ) ISBN 9784584134535
  • 『伝える。:言葉より強い武器はない』 (2013年4月、KKベストセラーズ) ISBN 9784584134849
共著
  • 『スポーツ新人類たちへ:軽やかにスポーツを語ろう:栗山英樹対談集』(ソニー・マガジンズ、1993年4月、ISBN 4789708020
  • 『栗山英樹のスポーツおもしろランド』シリーズ(保立浩司絵、小峰書店
    • 『スポーツと食べ物のひみつ』(1996年7月、第1巻)ISBN 4338134011
    • 『スポーツのうそ・ほんと』(1996年9月、第2巻)ISBN 433813402X
    • 『ためしてみよう!スポーツのふしぎ』(1996年11月、第3巻)ISBN 4338134038
    • 『うまくなるコツとひみつ 1:野球・陸上競技・バスケットボール編』(1997年1月、第4巻)ISBN 4338134046
    • 『うまくなるコツとひみつ 2:サッカー・バレーボール編』(1997年3月、第5巻)ISBN 4338134054
  • 『Get sports:テレビ朝日『ゲット・スポーツ』:野球を極める』(2003年5月、アスキー・コミュニケーションズ。南原清隆との責任編集)ISBN 4776200481
監修
  • 『言葉の魔球:野球名言集』(2005年10月、出版芸術社)ISBN 4882932849
  • 『我が子をプロ野球選手に育てる本:体・眼・心・食のスペシャリストが指導』(2005年10月、マキノ出版。立花龍司・真下一策・児玉光雄・海老久美子著)ISBN 4837670490
  • 『メジャーリーガーになれるか?!』(2008年7月、泉書房)ISBN 978486287020
訳書

連載[編集]

出演番組[編集]

テレビ[編集]

解説者のみならず、スポーツ情報番組を主体に司会者としても活動した。

テレビ朝日ANN系列各局
長島三奈とともに、スタジオ司会と全国高等学校野球選手権大会各都道府県代表校への大会中取材を担当。
コメンテーター兼リポーター。長嶋とともに、全国高等学校野球選手権大会地方大会を随時取材していた。
TBSテレビ
  • JAPAN MAJOR BASEBALL(1993年 - 2000年。解説)
  • JNNニュースの森(プロ野球年末総括やシーズン前の順位予想で出演した)
  • JNNスポーツ&ニュース(キャスター。本人の歌う『天使というより魔法使い』がエンディングテーマに使われた)
  • オールスター感謝祭(1993年4月3日、1993年10月9日、1994年4月2日、1994年10月1日、1995年4月1日、1995年9月30日、1996年3月30日、1996年10月5日、1997年3月29日、1997年10月4日、1998年3月28日)
  • スポーツマンNo.1決定戦(第8回芸能人サバイバルバトルまでのメインリポーター)
NHK総合テレビ

ラジオ[編集]

※特記ない限り、パーソナリティとしての出演。

TBSラジオ
HBCラジオ
FM NACK5
  • 栗山英樹 Dream Navigation
  • 栗山英樹 NEXT INNING
  • サタデー・オン・ザ・ウエー
  • ハロー・サンシャイン
  • ゲット・ユア・ドリーム
  • 夢の翼に
各地のAM局
STVラジオ
  • 栗山英樹の野球場に行こう!(2012年2月5日 - 。毎月第1日曜19:00 - 19:30の『ぞっこんほっかいどうアワー』枠で放送)

CM[編集]

音楽[編集]

  • 「好敵手/それぞれの旅」(1992年7月25日・シングル)※2曲ともさだまさしの作詞作曲。
  • 『フォー・シーズンズ』(1993年9月26日・アルバム)

ゲームソフト[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物で、リーグ制覇・クライマックスシリーズ制覇・日本選手権シリーズ制覇を達成したのも史上初である。
  2. ^ 栗山英樹『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』[要ページ番号]
  3. ^ 栗山英樹公式サイト”. 2012年2月11日閲覧。
  4. ^ https://thepage.jp/detail/20161031-00000001-wordleafs
  5. ^ 栗山英樹『栗山英樹29歳 夢を追いかけて』[要ページ番号]
  6. ^ 『1984ヤクルトスワローズファンブック』(ヤクルト球団、1984年)36頁
  7. ^ 『TBS50年史』資料編P234の「主なスポーツ番組解説者」に掲載されたプロ野球解説者の一覧より参照。
  8. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2001』(『ホームラン』2001年3月号増刊。日本スポーツ出版社発行)の解説者名鑑内では「TBSを卒業」という旨の記述をしているが、テレビ解説の活動先をテレビ朝日に移しただけで、TBSラジオでの解説者活動は引き続き行っていた。参考リンク:2001年当時のTBSラジオ『ザ・ベースボール』公式サイト内解説者一覧 - インターネットアーカイブ2001年4月13日付保存キャッシュより
  9. ^ 経営学部 経営専攻紹介 教員紹介 教員紹介詳細”. 白鴎大学. 2011年9月4日閲覧。
  10. ^ 高野連、元プロ栗山英樹さんの取材に特例許可”. 読売新聞 (2009年8月3日). 2011年10月17日閲覧。
  11. ^ a b 栗山氏 日本ハム新監督就任 「責任をひしひしと感じている」”. スポーツニッポン (2011年11月3日). 2011年11月3日閲覧。
  12. ^ 栗山新監督が背負う!三原魔術の「80」(1/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(2011年11月10日付記事)
  13. ^ 栗山ハム新監督“三原イズム”で勝つ! - デイリースポーツonline(2011年11月10日付記事)
  14. ^ 中日スポーツ:ハム激震 吉井投手コーチも退団 栗山監督との確執が原因 2012年11月5日
  15. ^ 2016年まで、現在のマツダスタジアムでセ・リーグ優勝監督・CS制覇チーム監督の胴上げが行われた事は一度も無く、同球場での日本シリーズ開催は2016年が初めてであった。尚、2016年の広島のセ・リーグ優勝の胴上げは東京ドーム(9月10日の巨人対広島戦)で行われた。
  16. ^ 栗山英樹監督契約延長のお知らせ北海道日本ハムファイターズ公式サイト 2016年11月2日配信
  17. ^ “栗山監督に正力賞「本当におこがましい。辞退したいくらい」”. スポニチアネックス. (2016年11月18日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/18/kiji/K20161118013745000.html 2016年11月18日閲覧。 
  18. ^ サンケイスポーツ (2014年7月3日). “テレ朝系SPドラマで栗山監督、美姫さん、工藤氏が友情競演!”. 2014年7月3日閲覧。
  19. ^ 参考:栗山英樹氏のサインボールをゲット!『ワースタ5』発売記念キャンペーン! - 『電撃オンライン』2001年4月25日付
  20. ^ 第一三共ヘルスケアホームページ内に掲載されていた、CM情報 - インターネットアーカイブ2008年9月17日付保存キャッシュ

参考資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]