寄席

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寄席(よせ)とは、日本都市において講談落語浪曲萬歳(から漫才)・過去に於いての義太夫(特に女義太夫)、などの技芸(演芸)を観客に見せる常設の興行小屋である。

概要[編集]

予約・席取りなどは必要が無く、全て自由席である。1日の中で入れ替えはできず、再入場はできない。

軍談(講談)の寄席。明治初年の姿と思われる
明治時代の寄席風景

講談が一番古い歴史を持つ。明治・大正期までは、落語や講談、浪曲、義太夫、祭文を主にかける寄席が存在し、明治末から大正にかけての活動写真館(のちの映画館)の爆発的な増加、ラジオの登場、興行系娯楽のライバルである小劇場や寄席全体の数が激減していく中で、東京では落語を主にかける寄席(色物席)のみが比較的多く残った[1]。現在は意味範囲が若干変遷し、落語・浪曲など番組の主演目以外の演目は色物と呼び、区別する。最後の演者(本来の「真打」)は基本的に落語であり、主任(トリ)と呼ばれ、その名前は寄席の看板でも一番太く大きな文字で飾られる。トリになれるのは基本的に真打の落語家のみだが、まれに真打以外の落語家や落語以外の演者がトリとなる場合がある。

浪花節の寄席での口演風景

歴史が長く、今もおなじみの色物演目には、音曲物まね(声色遣い)・太神楽曲独楽手品紙切り・(大正時代からの)漫談腹話術などがあり、下火になった演目にかっぽれ新内デロレン祭文源氏節八人芸(現在は見られない)。主に地域芸能としての道を行くものに八木節安来節江州音頭河内音頭)などがある。(西洋由来のコントは比較的新しい演目である。ストリップも参照のこと)多くは大道芸として野天やヒラキと呼ばれるよしず張りの粗末な小屋から始まり、寄席芸に転化していった。

浅草の寄席

経営や後継問題により数は減ったが、お座敷芸より連なる伝統的芸能を支える空間としての役割を果たしながら、「悪場所」「悪所」と呼ばれてきた都市文化の華としての地位を江戸時代初期から守っている。商店の広間や、自治体の市民会館などでも落語などの口演が行われ、「地域寄席」と呼ばれる。

定席とは、本来毎月休むことなく開演している寄席、程度の意味であるが、狭義の寄席として[2]東京では鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の四席のみとされ、落語関係者のみならず演芸関係者一同[3]が開設に尽力した国立演芸場や、実際は定席といって差し支えない永谷の演芸場も含めない場合が多い[4]

また「演芸場」「劇場」との名称の混乱が今も見られるが(劇場を表す「座」の扱われ方に象徴的である)、法律で定められた興行系娯楽は「劇場」「寄席」(あとは観セ物→「映画館」が独立[5])が種別であり、総称として「演芸場」があったが、実際の運用ではその壁を飛び越えたり[6][7]、また地方部の興行場においては「未分化」の状態であった[8]事の影響が未だに残っているのである[9]。大阪のマンモス寄席(角座)もその範疇に入るものである。

2006年9月15日に大阪天満宮横に、大阪では半世紀ぶりの寄席となる「天満天神繁昌亭」が開場した。

寄席が落語と切り離せないのは、落語家にとって寄席が修行の場であり芸を磨く唯一無二の舞台とされること、観客も贔屓の演者の成長と演者ごとの演出の違いを楽しむという点にあり、「完成品」を見せるホール落語と違い寄席落語には「未完成」なりの面白さ、真剣さがあるとされる(新宿末廣亭初代席亭の北村銀太郎の発言より)。[要出典]

歴史[編集]

寄席の起源は、一般的には江戸初期に神社寺院の境内の一部を借りて、現在の講談に近い話を聞かせる催し物が開かれていたもの(講釈場)である。ただ、これは不定期に催されるものであったようである。

これが原型となって、初めて専門的な寄席が開かれたのは、寛政10年(1798年)に江戸下谷にある下谷神社の境内で初代・三笑亭可楽によって開かれたものとされ、当神社には現在の定席四席による寄席発祥の石碑がある。当初は「寄せ場(よせば)」と[10]呼ばれ、後に寄席と呼ばれるようになった。

江戸では町方や新吉原、寺社境内などに[要出典]寄席が広まっており、江戸では乞胸と呼ばれる寄席と同様の芸能活動を行う都市下層芸能民がおり、しばしば寄席と対立した[要出典]。天保13年(1842年)2月には老中水野忠邦の主導する天保の改革の影響で規制を受け一時衰微するが、水野の失脚とともに復活する。幕末にかけて江戸を中心に大いに普及し、現代と違って娯楽が乏しかった時代、各町内に一軒は寄席があった。当時の演目は講談、落語の他、「役者声色、物まね、娘の浄瑠璃、八人芸、浮世節など芸人を集め[11]」ていた。

明治に入ると、芝居小屋(劇場)との区分の明確化・芸人鑑札制による状況把握・徴税が、維新後まもなくの1871年(明治4年)より続々と始まり[12][13]巡査による臨検席も設けられた[14]、落語中興の祖三遊亭圓朝の道具立ての芝居噺から素噺への転向(その語り口は速記され、二葉亭四迷言文一致体の発明に影響を与え、現代日本語の元となる)や、かっぽれ梅坊主が出演し、咄家による珍芸が流行(珍芸四天王)、新内が寄席の舞台に上がる。ほぼ同時期に、講談の大流行(泥棒伯圓と呼ばれた二代目松林伯圓など。自由民権運動演説と相互に影響を与え、政治講談も盛ん)、女義太夫の大流行(綾之助呂昇の登場)、自由民権活動家・浮世亭○○こと川上音二郎の登場(京都・笑福亭を本拠にした。壮士芝居(→新派劇)にその行動を定める前の時期である)、浪花節による席巻(大道芸から浪花亭駒吉による寄席芸としての確立)があり、東西で規模が大きな寄席も現れた。

明治40年ごろの東京の寄席[編集]

1907年(明治40年)に東京市が編集発行した地誌『東京案内』は、明治末の東京を知るのに右に出るものはないとされている著名な出版物[15]である。明治39年末時点の東京がわかる。

きめ細かく網羅的に東京の事物が挙げられている中に、寄席に関する記述もあり[16][17]、まず東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。 内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。 当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は、75軒。中には、有名な人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。 浪花節席は、30軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布している。 現在は消滅した義太夫専門の定席が3軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。 さらに、祭文[18]の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。 この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末廣亭(旧・堀江亭。浪曲・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる。

という内訳であるが、演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は[19]、かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという。

寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある[20]。これにより一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる。また各演目別事情・料金等についても触れられている。当時の寄席用語として、付近八丁の寄席の客を奪うほど人気のある芸人という意味で「八丁荒らし」がある(むろん褒め言葉である)。

明治から大正にかけての時期には、寄席で源氏節、八木節安来節[21][22]の全国的流行、関西においても河内音頭などが寄席の舞台に登場した。

上席下席の月2回入れ替え制だったものが、客の休日環境の変化[23]1921年(大正10年)6月、現在に至る10日間興行に変わる。

1926年(大正15年)当時の東京市内の寄席については、日本芸術文化振興会により、ネット上に地図が公開されている[24]

寄席名の後に「亭」や「席」をつけて呼ぶことが一般的であった。

上方の寄席(吉本による独占・チェーン化)[編集]

吉本興業の発祥の地。天満の寄席、第二文芸館

戦前に関西地方にあった落語の主な寄席は以下である。

  • 桂派の定席の寄席
    • 金沢亭(大阪・ミナミ法善寺)
    • 幾代亭(大阪・船場淡路町)
    • 林家亭(大阪・岸和田大工町
    • 瓢亭(大阪・西区新町)
  • 三友派の定席の寄席
  • 花月派(吉本興行部)
    • 第二文芸館(大阪・北区天神橋)
    • 芦辺館(大阪・松島)
    • 龍虎館(大阪・福島)
    • 松井座(大阪・梅田)
    • 都座(大阪・天神橋筋)

大正に入り吉本興業は多くの寄席を(紅梅亭や賑江亭等)買収し名前に「花月」を付けた。大阪だけでも20あまりの寄席を買収、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも寄席を展開した。 上方大阪)では明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ法善寺周辺には、北側に三友派の象徴であった「紅梅亭」、南側に桂派の象徴であった「南地金沢亭」(後に吉本興業(以下、吉本)が買収し「南地花月」)が存在ししのぎを削った。浪曲は、1907年(明治40年)桃中軒雲右衛門の関西巡演までは「浮かれ節」と呼ばれ、明治前半には浮かれ節専門の寄席(天満・国光席、松島・広沢館、千日前・愛進館など)が既に存在した。

他にもキタ北新地の「永楽館」(後に吉本傘下に入り「北新地花月倶楽部」)はじめ、上本町堀江松屋町新町松島大阪天満宮界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していた。その後吉本が寄席でいっそう漫才主体の番組構成をとったことや、桂春団治など落語家の専属契約を推し進め、自社の経営する寄席である「花月」のみの出演としたことなどから、上方落語の寄席文化は壊滅的打撃を受けた。

ラジオの登場・エンタツアチャコ[編集]

戦後は上方落語の復興機運が高まるとともに、ミナミ戎橋松竹が開場(千土地興行(後の日本ドリーム観光)が経営)。大阪唯一の落語中心の寄席として人気を博した。1957年に経営難から閉鎖された後は、大阪では地域の有志が寺や公民館、蕎麦屋などを会場に「地域寄席」という形で寄席文化を継承してきた(「田辺寄席」「岩田寄席」など)。その後六代桂文枝など落語関係者一同の長年の復活への努力が実って、2006年9月15日に大阪天満宮横に半世紀ぶりの寄席となる「天満天神繁昌亭」が開場した。

東京・大阪以外[編集]

横浜には、多数の寄席が存在し[25]しのぎを削っていた。関東大震災の際には京浜間の寄席で出演者、席亭側、客側それぞれに甚大な被害があったことが知られる[26]。後に消滅し、現在は2002年(平成14年)4月に横浜市が建てた横浜にぎわい座がその機能を継承している[27]

芸どころ[28]名古屋市大須演芸場は、出演者側の支持が厚く、閉鎖の危機を幾たびも乗り越えながら存続し続けてきた。2014年2月3日に強制執行を受け一時閉鎖[29]、その後家主の手で改修工事が行われ、運営体制を一新して2015年9月22日に再開された[30][31]

全国的には、おおむね各県庁所在地ごと程度に寄席が分布した[32][33]。今はテーマパークで有名な漁師町・浦安にも寄席が二軒存在し、芸に厳しい浪曲の難所として全国の浪曲師に名を響かせた[34]北海道にも明治から昭和初期まで多くの寄席が存在した。現在は2代目桂枝光が中心となった地域寄席「平成開進亭」などを開いている。仙台には明治から大正にかけて寄席が存在したが、一時期消えていた。2018年には常設の寄席が復活する予定[35]。他地域も同様に地域寄席形態は多数ある。

寄席で用いられる道具・用語[編集]

  • 高座(板):寄席の舞台の事。
  • 定席:1年中落語が聞ける所。狭義には新宿末広亭、上野鈴本演芸場、池袋演芸場、浅草演芸ホールの4か所。
  • 上下(かみしも):高座の右側、左側。客席から舞台を見て右が上手(かみて)左が下手(しもて)。
  • めくり:出演者の名前を書いた紙の札の事。高座の下手に置かれることが多い。
  • トリ:主任。興行の最後に高座に上がる人。本来は、その興行の給金を分配する人のこと。
  • 寄席文字(寄席字):めくりに書く文字の書体。紺屋栄次郎が歌舞伎の勘亭流と提灯文字を元に字体を作る。橘右近により存続し、寄席文字橘流家元を名乗る。
  • (のぼり):寄席や会場入口付近に立てられる、出演者の名前が書かれた大きな旗。
  • 行灯(あんどん):主な出演者を知らせるため、入り口付近に掲げられた提灯。
  • 出囃子:寄席の出演者が高座に上がる際に演奏される音楽。寄席ではお囃子さんが実際に演奏をしている。ホール落語等ではCDなどの音源が使われることも多い。
  • 下座(お囃子):出囃子を演奏する人。噺の種類によっては、噺の途中のBGMを演奏をすることもある。
  • 木戸口:寄席の入り口。見世物小屋や昔の芝居小屋と入場口の形態は同様であった。
  • 木戸銭:入場料のこと。
  • :一日毎の客の入りと演者の格に応じて支払われる給金。
  • 席亭:寄席の運営者や経営者の事。(浅草演芸ホールでは「社長」。)もともと席亭とは寄席自体を指し、主人を席亭主(または席主)と呼んだものが省略された。
  • お茶子:(上方の寄席特有の)楽屋で芸人を世話する役目の女性。高座で座布団をひっくり返す事も。
  • もぎり:入り口でチケットの半券を切る人。
  • 下足番(げそくばん):脱いだ履物の番をする人。畳敷きの客席が大半だった時代にあった役目。評判を多く聞くことから番組編成権を持つことも多かったという。
  • 五厘:席亭と芸人の間で出演を仲介する人(ブローカー)。割のうち、5厘を天引きしたためそう呼ばれた。他に寄席の事務員または会計士の意味として呼ばれる事もあった。現在の芸人事務所の事。
  • 金ちゃん:客の事。
  • つ離れ:(ひとつ、ふたつ、と数えると、ここのつ、とお、と10を超えると「つ」が付かなくなる事から)客数が一桁でなくなること。
  • 1足(そく):百(人)をそく、と言い換えて客数が百人くらいのこと。

主な寄席[編集]

東京[編集]

うち上野鈴本は落語協会のみ、浅草・新宿末廣亭・池袋は落語協会・落語芸術協会の定席となっており、それ以外の団体は「余一会」(奇数月・8月の31日に行われる特別興行)などを除き、原則として上記の寄席に上がることはできない。
うち上野と日本橋は落語芸術協会・落語立川流により、両国は円楽一門会により、落語の定席も催されている。一方、新宿はお笑いライブハウスとして使われることが多い。
  • 国立演芸場(東京・千代田区隼町) - 国が文化の振興のために設立。平成15年に独立行政法人に。通常は落語定席と同様に、落語協会と落語芸術協会が交互に出演。毎年ゴールデンウイークに各出演者団体が企画公演する「大演芸まつり」が開かれる。
  • 浅草木馬亭(東京・浅草奥山) - 浪曲定席。根岸興行部経営。木馬館1階。
  • 浅草フランス座演芸場東洋館(東京・浅草六区)- 浅草演芸ホールと同じ建物で、経営も同じく東洋興業株式会社。元ストリップ劇場。現在は色物の定席となっているが落語との混合番組も組まれており、また、毎年正月初席に落語協会の定席として浅草演芸ホールと併用される。
  • らくごカフェ (東京・神田神保町)- 若手を中心に毎日に近いペースで開催。
  • 池之端しのぶ亭(東京・池之端) - 三遊亭好楽が自宅を改築して開設。
  • 神田連雀亭(東京・神田須田町) - 古今亭志ん輔プロデュースによる、落語・講談の二つ目専門の寄席。

その他[編集]

  • 横浜にぎわい座横浜野毛) - 横浜市営。貸席と市民寄席を融合した形の寄席。現在の館長は桂歌丸
  • 三吉演芸場(横浜・南区)- 大衆演劇主体の劇場。年数回落語会が催されている。
  • 大須演芸場(名古屋・大須) - 2014年2月3日閉鎖。2015年9月22日に再開。
上方落語の定席
以下は寄席の匂いを消した寄席である。出し物のなかに落語・講談・浪曲はほとんど入らない。
その他、寄席として使われている劇場と、イベントホールの寄席。

かつてあった寄席で現存しないもの(戦後以降)[編集]

全国的には大正期をピークとして全国に存在した。しかし近年まで存在した寄席や歴史的に重要な寄席以外は、全国を網羅する形で個々の所在を確認できるような文献は存在しておらず、研究の進展が待たれる[36][37]

  • 東宝演芸場(東京・千代田区日比谷) - 東宝経営。顔付けは独自。
  • 新宿松竹文化演芸場 - (東京・新宿区新宿)松竹第一興行経営。色物主体。現在はシネコン新宿ピカデリーが立地。
  • 浅草松竹演芸場 - (東京・台東区浅草)松竹経営。色物主体だが、落語家が出演していた時期もある。
  • 東急文化寄席(東京・渋谷区渋谷) - 現在の渋谷ヒカリエの場所に立地していた東急文化会館の地下1階にあった映画館・東急レックスが、曜日限定で夜間のみ演芸興行を行っていた。テレビ番組『大正テレビ寄席』の収録も行われていた。
  • 楽天地演芸場(東京・墨田区錦糸町) - 東京楽天地経営。色物主体。
  • 本牧亭(東京・台東区池之端) - 講談定席。1952年(昭和27年)開業[38]2011年(平成23年)に閉場し、講談定席機能は木馬亭が引き継ぐ。
  • 人形町末廣(東京・中央区日本橋人形町) - 1970年(昭和45年)に閉鎖。現在は読売新聞関連企業のビルが立地。『金曜夜席』→『笑点』のセットのモデルとなった。
  • 喜扇亭(東京・中央区日本橋人形町) - 浪曲席。戦後は浪曲に加えて漫才等の色物席として存続するが1952年(昭和27年)頃に閉場。跡地は人形町今半[39]
  • 神田立花演芸場(東京・千代田区神田須田町) - 旧称立花亭。万惣神田本店の隣に立地していた。第四次落語研究会会場。戦前から経営状態がおもわしくなく、所有者が二転三転し一時期は元NHKアナウンサー松内則三も名義人であった。東宝名人会を開催していた東宝と契約していた時期もあり、寄席文字の橘右近が楽屋主任を務めた。全席畳敷きだったが末期に椅子席に改装した。1954年(昭和29年)11月に廃業[40]
  • 十番倶楽部(東京・港区麻布十番) - 関東大震災後から新網町の酒店2階で営業してきたが戦災で焼失し、1952年(昭和27年)出資者を募って場所を網代町に移して再開した。1955年(昭和30年)に映画館に転業。跡地(麻布十番会館)では現在でも「十番寄席」(地域寄席)が催されている[41]
  • 浅草末廣亭(東京・台東区田島町) - 1953年(昭和28年)6月下席から開場した。新宿末廣亭による経営で初公演は2代目桂小文治のトリ。国際通り沿いで美人座というストリップ劇場の2階に立地しており、正面右側のテケツ(切符売り場)で料金を支払って階段で2階へ上がる。定員は詰めて200人程度。全席畳敷きで左右の客席は桟敷席であった。客の入りが悪い上に、席亭いわく建物の持ち主が「サギ師みたいなやつ 」だったため1955年(昭和30年)3月下席限りで撤退した。現在は三平ストア・浅草店が立地[42][43]
  • まつみ亭(東京・荒川区三河島) - 京成電鉄新三河島駅前(現在の荒川区荒川[44])。1952年(昭和27年)開場[38]。駅前のマーケットの2階に寄席を設けた。前座が階段の窓から駅のプラットホームを見て、芸人の楽屋入りを確認していた[45]
  • ゆたか亭(東京・豊島区高田) - 通称「早稲田のゆたか」。都電早稲田停留場下車、神田川に掛かる豊橋(ゆたかばし)を渡って右手にあった。戦前から講談・色物席として営業し、東宝名人会を開催していた東宝と契約して戦後は落語も公演した。当時の席亭の本業は染色工場で現在も盛業中であり、東京の芸界では手拭いを注文する際に店名を「ゆたか」と通称している[46]
  • 桜亭(東京・台東区上野) - 上野駅に隣接する上野地下鉄ストア内に 1952年(昭和27年)8月開場。浪曲定席。客席200人。昼夜5日替わり。長く続かず閉鎖。
  • 栗友亭(東京・荒川区南千住)- 雑貨店の栗本商店2階を演芸場に改装した。駅前通り(通称コツ通り)に面していた。1955年(昭和30年)1月1日開場[47]、8月13日から浪曲席。公演内容は年代毎に落語や色物→浪曲→漫才主体と変遷した[45]1957年(昭和32年)4月漫才研究会と提携して同月19日に前夜祭を敢行、翌20日から漫才定席となる[48]1959年(昭和34年)閉場[49]。建物および栗友商店は現存。浪曲席時代は、毎日一定時間舞台を浪曲ファンに開放。折りからの浪曲天狗道場ブームに乗った形となった。春日三球・照代の春日三球は1957年(昭和32年)に栗友亭から売り出した漫才コンビ『クリトモ一休・三休』のクリトモ三休として芸界デビューした[50]
  • 目黒名人会(東京・目黒権之助坂) - 1960年代後半頃に開業したが経営不振で廃業予定だった。1971年(昭和46年)12月に7代目立川談志が元の経営者から引き継いで寄席の復活という選挙公約を実現し、出演者の顔付けの見直しや自身の独演会開催・若手による中入り前の中喜利の実施・トリの出演時間に1時間を割くなど、総合的にプロデュースしたが経営状態は好転せず数年で閉場した[51][52][53]。7代目立川談志が木村松太郎をカムバックさせた場所として記録されている。跡地はライブハウス目黒鹿鳴館
  • 若竹(東京・江東区東陽) - 5代目三遊亭圓楽が私財を投じて設立。1985年に開場し、1989年に閉鎖された。建物自体は現存。圓楽司会時代には『笑点』の収録が行われたこともあり、閉鎖後も借金・倒産ネタが頻繁に使われていた。
  • よしもと浅草花月(東京・台東区浅草) 吉本興業が2006年11月より常盤堂雷おこし本舗の雷5656会館5階「ときわホール」を賃借して演芸興行を行っていた。2015年7月公演終了。
  • 市川鈴本(千葉・市川市) - 上野鈴本演芸場の支店。1952年(昭和27年)開業。1954年(昭和29年) - 1955年(昭和30年)頃に大衆演劇の劇場に転業した[54]。市川市在住の正岡容らが活動した。市川市市川1-22[55]。現在の松代そばやの近くに立地[56]
  • 川崎演芸場(神奈川・川崎市京急川崎駅前) - 1952年(昭和27年)6月開場。経営母体であるダンスホールの川崎フロリダが入っていた川崎第二ビル(5階建て)3階に立地していた。面積70坪、全席畳敷き定員271名。1階のパチンコ店の店内を横切って奥のテケツ(切符売り場)で料金を支払いエレベータで3階まで上がる。開場1年半程で4階に開設されたローラースケート場の騒音が激しく客離れを招き、閉鎖後も客足が戻らなかった。1962年(昭和37年)3月25日が最終公演。2代目桂小文治が開場時のこけら落とし公演のトリ・最終公演のトリ共に務め、最後の演目は「たちきり」。閉場後はジャズ喫茶に改装された[57]
  • 相鉄演芸場(神奈川・横浜駅西口相鉄文化会館) - 敷地は現在相鉄ジョイナスの一部。
  • 富士劇場(愛知・名古屋納屋橋) - 納屋橋の西詰、広小路通の北側に位置していた。1961年閉館。
  • 京都花月(京都・新京極) - 吉本興業経営。
  • 富貴(京都・新京極)
  • 京洛劇場(京都・新京極) - 千土地興行(のちの日本ドリーム観光)経営。寄席としての営業期間はごく僅か。
  • 戎橋松竹(大阪・難波) - 千土地興行経営。
  • 歌舞伎地下演芸場(大阪・千日前) - 千土地興行経営。
  • 千日劇場(大阪・千日前) - 千土地興行経営。
  • なんば花月(大阪・千日前) - 吉本興業経営。
  • baseよしもと(大阪・千日前) - 吉本興業経営。現在はNMB48劇場
  • 道頓堀角座(大阪・道頓堀) - 松竹経営。上記の角座と同一立地であるが別物であった。
  • B1角座(大阪・道頓堀) - 松竹芸能経営。
  • 演芸の浪花座(大阪・道頓堀) - 松竹経営。1987年1月1日1階松竹邦画系映画館を改装して開場。2002年1月31日閉館。
  • ミナミのど真ん中ホール(大阪・道頓堀) - 松竹芸能が2002年4月より2003年12月までパチンコ店「四海樓道頓堀店」の4階を賃借して演芸興行を行っていた。
  • うめだ花月(大阪・梅田) - 吉本興業経営。
  • トップホットシアター(大阪・梅田) - コマスタジアム経営。
  • 京橋花月(大阪・京橋) - 吉本興業経営。KiKi京橋の5階に立地。現在は大衆演劇専門の「羅い舞座 京橋劇場」。
  • STUDIO210(大阪・通天閣地下) - 通天閣観光所有・松竹芸能運営。 - 旧称「通天閣歌謡劇場」。歌謡ショー専門だった劇場に、2008年5月に閉館したB1角座の代替として松竹芸能の演芸興行の拠点を移転し、2013年7月まで寄席興行と歌謡ショーの両方を行っていた。
  • 新花月(大阪・新世界
  • 寄席スタジオ笑福亭(大阪・吹田市) - 笑福亭鶴光の自宅に設置。
  • 神戸松竹座(神戸・新開地) - 松竹経営。
  • 寄席のパレス(神戸・兵庫駅前ガード下)
  • よしもと紙屋町劇場(広島・紙屋町) - 吉本興業がエディオン広島本店8階の催事場を使用して週末に演芸興行を行っていた。同店建て替えのため2017年4月に閉鎖。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 権田保之助「民衆娯楽論」『権田保之助著作集 第2巻』
  2. ^ 一般社団法人落語協会. “寄席ってなあに?”. 2014年2月26日閲覧。
  3. ^ 日本演芸家連合
  4. ^ 寄席小屋と呼ぶが、現在ではほとんどが小屋ではなく鉄筋鉄骨の建物である
  5. ^ 1900年代中期の東京の寄席における映画興行がp.71に一覧である。そこには現存する上野鈴本亭や、同時高名であった寄席が載っている。出典:上田学「寄席の映画興行における観客層」『日本映画草創期の興行と観客-東京と京都を中心に』早稲田大学出版部、2012年3月30日。p.67
  6. ^ 明治40年の桃中軒雲右衛門以来、浪曲がいち早く大劇場に進出した
  7. ^ 上田学『日本映画草創期の興行と観客』早稲田大学出版部、2012年3月30日。
  8. ^ #権田p.282-283
  9. ^ 昭和30年代半ばまで色濃く残っていたことは、宮崎学「ヤクザと芸能の世界」『ヤクザと日本』ちくま新書 p.112
  10. ^ 人が集まる場所という意味で、人足寄場と同様の用法である
  11. ^ 加藤秀俊「現代の寄席」『日本の古典芸能 9 寄席』
  12. ^ 参考:東京府寄席取締規則
  13. ^ 1873年(明治6年)9月13日 東京府、寄席取締につき指令。出典:小木新造『東亰時代』巻末年表
  14. ^ 1882(明治15年)2月 劇場取締規則公布 警察官、寄席に臨席開始。出典:倉田喜弘『明治・大正の民衆娯楽』巻末年表。
  15. ^ 復刻版付録「『東京案内』について」国会図書館司書・朝倉治彦
  16. ^ 上巻P.337~334
  17. ^ 同種のものに『東京百年史』に記載の1916年の寄席関係の数字
  18. ^ デロレン祭文→上州祭文と思われる
  19. ^ 出典:芸能史研究会編『日本芸能史7』
  20. ^ 現在の寄席は午後9時前後に終演
  21. ^ 吉本興業吉本せいが仕掛け人であったという。 出典:藤井宗哲『寄席 よもやま話』
  22. ^ 浅草木馬館は昭和52年までは安来節中心の常打ち小屋であった
  23. ^ 職人の休日が1,15日の月2回から週休に変わったこと、それに合わせて当時勃興した活動写真が金曜入れ替えを実施したこと 出典:唯二郎『実録 浪曲史』P.23
  24. ^ なお、この他の参考書籍として、三遊亭圓生(著) 山本 進(編集)『寄席切絵図』 isbn=9784790501541 がある。
  25. ^ 三遊亭圓生『寄席切絵図』
  26. ^ 関西の吉田久菊が横浜の浪花節定席「寿亭」の倒壊に巻き込まれ客約二百名とともに死亡した。同席していた寿々木米若はかろうじて脱出した 出典:唯二郎『実録 浪曲史』P.30
  27. ^ 横浜にぎわい座 ご利用の手引き(pdf)
  28. ^ このように呼ばれていた(落語・浪曲など複数の演目に亘る)
  29. ^ 中日新聞社 (2014年2月3日). “大須演芸場に強制執行 賃料滞納で建物明け渡し”. 2014年2月26日閲覧。
  30. ^ 日本経済新聞社 (2014年4月26日). “名古屋の大須演芸場、年内再開へ 建て替えず耐震補強”. 2015年11月22日閲覧。
  31. ^ 日刊スポーツ新聞社 (2015年9月21日). “大須演芸場が再開 桂文枝ら東西人気落語家がお練り”. 2015年11月22日閲覧。
  32. ^ 前橋・静岡・甲府・金沢などが三遊亭圓生「寄席切絵図」にも登場する
  33. ^ #権田p.276-279には大正10年と昭和4年の各道府県別の映画館、劇場、寄席、観物場の数の表が掲載されている。埼玉県と宮崎県、沖縄県以外はいずれかの時期で寄席はカウントされている。
  34. ^ 出演者の実力不足を見るや、2階席から小便をかけたという。出典:『浦安町誌(上)』、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』、三波春夫『歌芸の天地』、『実録 浪曲史』
  35. ^ 落語:「とにかく笑って…」仙台に常設寄席「花座」開場へ - 毎日新聞
  36. ^ レファレンス事例集の一例
  37. ^ 近い文献として三遊亭圓生『寄席切絵図』、全国の都府県別集計データとして権田保之助『民衆娯楽論』がある
  38. ^ a b 「年表」『本牧亭の灯は消えず―席亭・石井英子一代記』300頁。
  39. ^ 六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』32 - 33頁。
  40. ^ 六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』68 - 72頁。
  41. ^ 六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』155 - 158頁。Kissポート:港区探訪:人の温もりが残る街-麻布十番-2017年9月10日閲覧。「麻布十番の歴史」『麻布十番未知案内』2017年9月10日閲覧。
  42. ^ 北村銀太郎・冨田均 『聞書き・寄席末広亭』平凡社ライブラリー 、2001年、79頁。
  43. ^ 六代目三遊亭圓生『寄席切絵図』275 - 276頁。
  44. ^ 「らもの墓石は?」『粗忽長屋の隙間風』2005-3-262017年9月24日閲覧。新三河島駅周辺の旧町名は三河島町・尾久町・日暮里町だが(荒川区の町名#新旧町名対照表参照)、2005年当時南千住図書館で開催された企画展「平成16年度荒川ふるさと文化企画展 あらかわと寄席」のパンフレットの写しが掲載されており、以下引用 三河島(現荒川)のまつみ亭 引用終了。とある。
  45. ^ a b 「その三 昔の噺家・今の寄席」『現代落語論』167 - 194頁。
  46. ^ facebook噺家の手ぬぐい2017年9月9日閲覧。「23.山の手まわり」『小金井芦州啖呵を切る 2007年 06月 14日 』2017年9月10日閲覧。毎日新聞ニュース・情報サイト 2017年4月29日付 三遊亭圓歌さん 追悼 山の彼方で微笑む「小さな巨人」2017年9月10日閲覧。
  47. ^ 特定非営利活動法人粋と縁 「◆杉山六郎氏 コツ通り一口話Ⅰ 第12回 遊郭と映画撮影所」2017年9月24日閲覧。
  48. ^ 「【西条昇の演芸コレクション】昭和32年の漫才研究会の挨拶状と南千住・栗友亭のプログラム 」『西条昇の観て、笑って、飲んで、食べて、踊って日記』2017-05-262017年9月23日閲覧。
  49. ^ ACCほっとタウンNo.338 第246回 三遊亭歌る多2017年9月23日閲覧。
  50. ^ 春日三球 - 漫才協会2017年9月24日閲覧。
  51. ^ 「談志楽屋噺 虚々実々年表」『落語ファン倶楽部Vol.16』91頁。
  52. ^ 立川談四楼vs立川ぜん馬「沖縄政務次官クビ事件」『談志が死んだ 立川流はだれが継ぐ』84頁。
  53. ^ 立川ぜん馬「談志落語の三十年」『談志が死んだ 立川流はだれが継ぐ』312頁。
  54. ^ 「講談定席の誕生」『本牧亭の灯は消えず 席亭・石井英子一代記』103 - 105頁。
  55. ^ 市川市真間に存在したという記述を見かけるが誤りである。
  56. ^ 市川市文学プラザ『昭和の市川に暮らした作家』p.60
  57. ^ 「臨終・川崎演芸場」『落語美学』200-207頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]