海老名香葉子

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海老名 香葉子(えびな かよこ、1933年10月6日 - 、84歳、本名:同じ、旧姓:中根)は、日本のエッセイスト、絵本作家、作家。株式会社ねぎし事務所代表取締役。

初代林家三平の妻として、夫の死後も一門の中心として活動する。

来歴・人物[編集]

東京府東京市本所区竪川町(現・東京都墨田区立川3丁目)出身。生家は釣り竿の名匠「竿忠」[1]

落語一家のおかみさんとして[編集]

第二次世界大戦中、静岡県沼津市の叔母宅に疎開した[1]。当時は国民学校の5年生だったが、その最中に起きた東京大空襲で、父である竿忠の3代目・音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす(三兄で4代目を継いだ中根喜三郎のみ生き延びる)。身寄りを亡くしたため、終戦・帰京後は[2]親戚をたらい回しにされるが、父の知人で釣り好きで知られた3代目三遊亭金馬に引き取られる。金馬家に七代目林家正蔵の妻が出入りしていた関係から、その実子であった初代三平と結婚し、以後三平の芸能生活を陰からサポートした。また、長女・海老名美どり、次女・泰葉、長男・九代目林家正蔵、次男・二代目林家三平と、4人の子供をもうけた。

しかし1980年、夫・初代三平が癌で死去した。二代三平はこの時まだ小学4年生であった。以後は惣領弟子であった林家こん平を支え、自らも一門の精神的支柱となり、通常は師匠が死ぬと一門は解散となる落語界にあって、今日に至るまで一門存続を可能ならしめている。こん平の弟子・林家たい平がこん平に弟子入りを希望した際も、正式に弟子入りをするまでの間、香葉子はたい平に対して自宅で住み込み修行をさせている。ただ、二代三平が父の名を襲名した時点で、「従来の三平一門」は解散となり、以後「三平一門」は二代三平の一門を指すこととなるので、新たな形での夫一門の結束を模索している。そのひとつとして、夫を顕彰する「ねぎし三平堂」を設けた。

長年、家族・一門のマネジメントを行う個人経営の「ねぎし事務所」があり、夫の死後は先頭に立ってその運営を担っていた。2007年には法人化され、代表取締役となった。

一個人としての活動[編集]

自身の戦争体験を絵本などにまとめ、平和の尊さを訴えている。講演活動やテレビ出演も多い。また、週刊誌などで人生相談の回答者としても活躍している。

政治的には平和の尊さを訴える立場から、日本共産党の支持者として名を連ねており、2006年11月の「赤旗まつり」では、党書記局長・参議院議員市田忠義とトークショーを行い、日本国憲法第9条の堅守を訴えた。戦争を回避するために、何よりも重要なものと考えている。一方で2006年10月には、政府の教育再生会議委員に就任した(2008年1月末で解散)。また、産経新聞の読者ファンクラブ「ウェーブ産経」の幹事を務めており、同クラブ10周年記念会報(平成23年春、第26号)で産経新聞にエールを送っている。

文筆はエッセイにとどまらず、増位山太志郎のヒット曲『そんな夕子にほれました』の作詞も手がけている。

かつては上記の戦争体験やその家庭的な雰囲気からコメンテーターとしてワイドショー等に出演することが多かったが、別のバラエティー番組で長男である正蔵の箸の持ち方が指摘されて以来その教育方針を問われ、ワイドショーへの出演は控えている状態である。

最近ではいくつかの自治体の観光大使等を務め、それぞれの土地のPRを行っている[5]。現在ではたいとう観光大使[6]穴水町名誉町民[7][2]、石川県観光大使[8]を務めている。過去には第4期燦々ぬまづ大使を務めていた。

家族[編集]

峰竜太は長女の夫で、その長男下嶋兄は孫。国分佐智子は次男の妻(2011年3月22日に入籍)。春風亭小朝は次女の元夫で、その離婚を巡ってはマスメディアを賑わせる騒動となり、次男の二代三平襲名にも影を落とす結果となった。

現在も自宅は大家族主義であり、2人の息子とその家族、2人の息子が正式に取った入門したての弟子(行儀見習い)と暮らしている。これは初代三平と結婚した時以来の伝統である。

主な著作[編集]

主な出演[編集]

テレビ番組[編集]

ほか多数

映画[編集]

  • 涙の数だけ笑おうよ(2016年9月3日、ドキュメンタリー映画) [9]

テレビコマーシャル [編集]

演じた女優[編集]

脚注[編集]

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外部リンク[編集]