新日本出版社

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株式会社新日本出版社
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
151-0051
東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目25番6号
設立 1957年2月21日
業種 情報・通信業
法人番号 2011001011545 ウィキデータを編集
事業内容 出版と販売及び書籍取次業
代表者 田所稔(代表取締役社長)
資本金 4000万円[1]
従業員数 26名
外部リンク https://www.shinnihon-net.co.jp/
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株式会社新日本出版社(しんにほんしゅっぱんしゃ)とは、日本出版社社会政治から絵本児童書まで扱う総合出版社。月刊「経済」の発行元。「平和の棚の会」に加盟。日本共産党系出版社である[2]

概要[編集]

志位和夫不破哲三宮本顕治など歴代日本共産党中央委員会幹部会委員長の執筆書や、日本共産党の機関誌であるしんぶん赤旗が編集した書籍を多く発行 [3]しており、また日本共産党の綱領の解説書なども発行している[4]。両親が日本共産党員で自身も高校生時代に入党した有田芳生1977年に入社し、1980年に上田日本共産党副委員長と小田実の対談掲載に関わった。しかし、掲載後に小田実が日本共産党批判した余波で、有田は査問自己批判書提出を強制され、1984年に新日本出版社を追放されている[5]。2022年に有田は毎日新聞で大卒後に「日本共産党系の出版社である新日本出版社に入社」したと明かしている[2]

 

出版書籍

社会科学の出版が主力を占めつつも、自然科学・教育書なども出版している。文学書は、小林多喜二宮本百合子の個人全集、『日本プロレタリア文学集』など、プロレタリア文学民主主義文学の作品が多い。1960年代には世界革命文学選、中国革命文学選というシリーズも出していた。

児童書では、反戦の立場からの戦争や平和をテーマにしたものも多い(原子爆弾を扱った『まっ黒なおべんとう』、八王子市空襲での機銃掃射を扱った『ランドセルをしょったじぞうさん』、アメリカ合衆国による水爆実験を扱った『トビウオのぼうやはびょうきです』など)。児童書の中には、毎年の全国読書感想文コンクールの課題図書に選定されるものもある。また観光ガイドブック的なものとして『秩父事件』がある。

1970年代には新日本選書新日本新書新日本文庫などのシリーズものも出していたが、1980年代に選書は撤退、1990年代に文庫が撤退、2002年を最後に新書の新刊は刊行されていない。

2000年代からは『ちい散歩』(テレビ朝日)を皮切りに放送番組分野にも進出。民放・NHKの番組関連書籍を多数手がける。

また、『ドボン&ウズ・メメス』の人気をきっかけとしてしんぶん赤旗掲載漫画も取り扱うようになった。日本最長寿4コマ漫画『まんまる団地』の選集も2014年、かねてから単行本を出してきた一声社に代わり刊行している。

マルクス著・エンゲルス編『資本論』を新日本新書版(全13冊、1982年~)、上製版(全5冊+索引、1997年)を刊行してきたが、エンゲルスの編集には誤りがあるとして、マルクス著・不破哲三編集『新版・資本論』を2019年から刊行している。

沿革[編集]

主な出版物[編集]

番組本[編集]

漫画[編集]

  • 『ドボン&ウズ・メメス』全3巻
  • 『とっておきまんまる団地』

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ [1]
  2. ^ a b c 日本共産党100年への手紙 | | 有田芳生” (日本語). 毎日新聞「政治プレミア」. 2022年6月7日閲覧。 “私は、共産党員の両親の下に生まれた。高校生の頃、上田耕一郎さん(後に副委員長)らの論文に感動して、70年に18歳で入党した。当時、機関紙「赤旗」は長大な論文がしばしば載り、政治経済から文学まで全世界を分析し尽くす知的興奮に満ちていた。私の入った立命館大など複数の大学は、(共産党系青年組織)日本民主青年同盟の同盟員が1000人以上。若々しい党だった。  大卒後は、共産党系の新日本出版社の編集者となった。党本部に出入りして、上田副委員長の部屋へもしばしばお邪魔した。”
  3. ^ トップページ>一般書>政治・社会・経済>政治・社会>日本共産党 - 新日本出版社公式サイト、2016年1月12日閲覧
  4. ^ [2]
  5. ^ a b c 日本共産党100年への手紙 | | 有田芳生”. 毎日新聞「政治プレミア」. 2022年6月7日閲覧。 “2回の査問の末、除籍処分に  風向きが変わったきっかけは、80年の「文化評論」に載せた上田副委員長と作家の小田実さんの対談だ。事前に宮本顕治委員長(当時)も了解した企画で、掲載号は完売したが、数カ月後、小田さんが公の場で、共産党を、市民運動などを自党に系列化する「既成政党」として批判した。小田さんと共産党の関係が悪化し、私まで党内で批判された。84年、長時間の「査問」(追及)を受けた末に自己批判書を書かされ、社を追われた。  ところが、2005年に小田さんと上田さんは雑誌で再び対談した。対立の総括や和解の経緯説明は一言もない。人生を変えられた者としては、どうしても解せなかった。”

外部リンク[編集]