大須演芸場

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大須演芸場
Osu Engeijo, in Naka, Nagoya, Aichi (2016-04-23) 01.jpg
情報
完成 1962年
開館 1965年10月1日
客席数 250人(閉鎖前) / 約181人(再開後)
用途 寄席
運営 一般社団法人大須演芸場
所在地 460-0011
愛知県名古屋市中区大須二丁目19番39号
位置 北緯35度9分35.3秒 東経136度54分2.8秒 / 北緯35.159806度 東経136.900778度 / 35.159806; 136.900778座標: 北緯35度9分35.3秒 東経136度54分2.8秒 / 北緯35.159806度 東経136.900778度 / 35.159806; 136.900778
アクセス 名古屋市営地下鉄鶴舞線大須観音駅から徒歩3分
外部リンク http://www.osuengei.nagoya/

大須演芸場(おおすえんげいじょう)は、愛知県名古屋市中区大須二丁目にある寄席劇場大須観音のすぐそばにある。中京圏で唯一の寄席として知られる。

概要[編集]

落語色物などを毎日上演する常設の寄席である。木造の2階建てで1階は椅子、2階は座敷席となっている[新聞 1]。座席数は2014年までは1階:約150席、2階:約80席の計250席だったが[1]、2015年の再オープン後は1階:131席、2階:48席の計179席に減少した[WEB 1]ビートたけし明石家さんまらがまだ売れない駆け出し時代に出演している。客が少ないことでも有名で[2][3][4]、客が1人しかいない中で上演されることもあった[5]

常に経営難で、大須演芸場の苦境を知って、古今亭志ん朝が独演会を開いて応援するなど、救いの手をさしのべる人たちによって閉鎖の危機を乗り越えたことでも知られる[新聞 2]

戦後の名古屋でほぼ唯一の常打ちの寄席だった。名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才手品浪曲などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われ、大須大道町人祭の会場としても使われていた。

2015年9月22日一般社団法人としてリニューアル開場し、毎月1日〜10日の上席のみ寄席を開催 残りの11日〜末日は貸席として演芸に関する催し物、非公開の企業セミナーなどとしても利用が可能。 現在は大入り袋が出るなど順調に継続中。

沿革[編集]

大須演芸場パノラマ撮影

前身は大正期から同地とその南側までの1区画[6]にあった映画と演劇の中規模劇場だった港座。戦後の1947年に再開されてからはストリップ劇場になり、1957年からの日本映画を上映する大須劇場を経て、最後はストリップ劇場の「港ミユウジック」となっていた。ストリップの合間にはコントが上演されていた[7][WEB 2][8][新聞 3]。この港座時代にショーやコントの台本を書くスタッフとして住み込みで働いていた中には後に脚本家となる山田信夫がいた[9]

1963年に港座が閉館して建物の半分は取り壊され、残った楽屋部分を改築し、1965年10月1日に落語とコントと漫才を上演する寄席として、樋口君子を席亭に大須演芸場がオープンした。ストリップ小屋の経営者の夫が死んだことがきっかけの衣替えだった[WEB 2][10][新聞 3]。戦前の名古屋には多数の演芸場があったが空襲によって焼失し、戦後は納屋橋の富士劇場が1年ほど営業していた程度で、約20年ぶりに出現した名古屋の常打ち寄席だった[11]

開館当初は、三遊亭圓生柳家小さん[12]三笑亭夢楽横山やすし・西川きよしコント55号チャンバラトリオなど著名な落語家や人気芸人が出演[13]。開場当初は、31日には演芸余一会という落語会を開催していた[14]

1966年7月21日からはレギュラーの中継録画番組『東西お笑い大須寄席』の放送が名古屋テレビでスタート。1967年1月からは『東西デラックス寄席』の番組名となり[15]1968年8月から司会が東京二・京太から内海カッパ今宮エビスに交代。日曜日の午後に放送されていた[16]

開場して数年は毎月大入り袋がでる大盛況ぶりで[17]、これに刺激されて大須が開場した翌年の1966年には中村区に中村演芸場が、今池には今池演芸ホールが開場したが、中村は半年で、今池は約20日間で閉鎖した[18]。1967年1月には地元の資産家が近くに新たに定員234名のシネラマ演芸場を開設したことから、危機感を抱いた樋口は芸人を拘束して出演機会を増やしシネラマへ出演できなくしようと新たな演芸場を開設した。1967年3月1日に名古屋市中川区の尾頭橋に誕生した尾頭演芸場がその姉妹館である。しかし立地条件の悪さから定員140名の尾頭は集客がうまくいかず、常打ちをやめて同年6月から全指定席の日曜寄席にし、最終的には9月で閉館になった。シネラマ演芸場を6月限りで閉鎖に追い込むことには成功したが、尾頭演芸場の失敗で赤字を抱え、大須演芸場の資金繰りにまで窮するようになった[新聞 3][19]。そして大須演芸場は再び名古屋唯一の常打ちの寄席になった[20]

樋口君子の後を継いで1973年11月1日より席亭となったのが、以後40年以上にわたって席亭を務めた名古屋市中区出身の足立秀夫である。足立は大阪の不動産業で財産を築き、生来の寄席好きから芸能プロダクションも経営していた人物。樋口から依頼で不動産会社と芸能プロダクションを閉め、運営資金として1億円を用意し、名古屋へ戻って経営を引き継いだ[21]

大須演芸場の地権者は大須観音で、営業権を取得した足立は建物も購入しようとしたが、前の経営者による税金滞納のため国・県・市や金融業者から差し押さえられていることが判明したために購入は断念して、建物は賃貸で運営していくことにした[22]

足立が席亭になった当初は運営資金の1億円があったことから、東西の人気芸人を呼んで繁昌していたが、その出演料は高く、また大勢のスタッフを雇っていたためにその人件費の負担が大きかった。放漫経営、丼勘定で赤字の興行が続き[新聞 4]、資金難に陥ると従業員もどんどん辞めていき2、3名となった。ギャラの高い有名芸人も呼ぶことが出来なくなり[23]、ギャラの安い芸人や新人芸人しか呼べなくなって、客席には閑古鳥が鳴くようになった[新聞 4]

この時代には、後に有名になった芸人が若手時代に出演しており、漫才コンビのB&Bが1972年にここで初舞台を踏んだ。ツービートはこの大須演芸場からの出演依頼がきっかけとなって誕生した。当初はビートきよしが他の相方とコンビを組んで出演する予定だったが立ち消えとなり、急遽誘ったのがビートたけしである[24][新聞 5]。ビートたけしは下積み時代に大須演芸場で経験した思い出話を語ることがある[25]。(詳細はツービートの該当記事を参照)。楽屋化粧前の台の裏側には1975年に書かれたであろう明石家さんまの落書き(サイン)があり、そこには「今日も客なし 明日は?」と書かれている[新聞 6]。なお、当時のツービートのギャラは2人合わせて1日4千円、明石家さんまのギャラは1日1000円であったという[26]。この他にも泉ピン子、笑福亭鶴瓶らが新人時代に出演した[新聞 6]

足立が経営を引き継いだ2年後の1975年についに資金が底をつき[27]、以後は入質して運営資金を捻出していた[28]。1978年頃にはその質草もなくなって金融業者から借金するようになった[29]。1978年6月には借金2千万円で経営難が報じられた[新聞 7]。翌月には事実上倒産したとされて、大須商店街の商店主らを中心に新会社を設立して、名古屋演芸場として再発足することで話がまとまりかけたが、最終的には流れた[新聞 8][新聞 9]

打開策として芸人のギャラを削減するため、1978年8月1日より売り上げに応じてギャラを配分する割り興行のスタイルをとった[30]。対外的には席亭の足立が資金繰りのため行方知れずで不在とし、芸人たちによる自主興行という形で危機をアピールして[新聞 9]マスコミの注目を集めたが、実際には席亭の足立が裏で全てを仕切っていた。表向きに興行主として表に出ていたのは吉本新喜劇出身のコメディアン奥津由三で、奥津のつてで藤田まことディック・ミネが自主興行時代に友情出演した[新聞 4][新聞 9][新聞 10][新聞 11]

その後、1979年頃からの漫才ブームで一息つくも1981年後半から再び客足が落ち、1983年8月から芸人の自主興行の形の割り興行から元の寄席経営のスタイルに戻した[31]

その後も経営難の連続で、1985年には3年間の家賃滞納で最初の強制執行を受けた[新聞 1]。このときは話し合いで9月1日より未払いの家賃を毎日1万円払うことで合意して営業を継続[32]。『中日新聞』で強制執行による閉鎖危機を大きく報じられ、強制執行にはマスコミが殺到。これが逆に宣伝となって、1986年の冬まで漫才ブーム以来の大入りが続き、そのおかげで借金を返済できた[33]。 同年には東海テレビが支援に乗り出し、2月26日から寄席を中継録画した『名古屋爆笑寄席 大須演芸場」を毎月最終火曜日の深夜0時30分から1時にレギュラーで放送した[新聞 12]

1987年から再び1日の来客数が10名未満という閑古鳥状態に戻り[34]1990年代には東西の大物の好意の出演で窮状を救われた。1990年からの10年間、3日連続で古今亭志ん朝は格安の出演料で独演会を引き受け[新聞 6][35]ミヤコ蝶々1993年からの3年間をノーギャラで出演した[新聞 6][36]。特に志ん朝の独演会は東京では行われないため[37]、立ち見が出るほどの盛況で、東京在住の作家の小林信彦やエッセイストの中野翠はわざわざこのためだけに泊まりがけで名古屋に滞在するほどであった[2][38]

漫才コンビの正司敏江・玲児も、1985年3月と1991年の2度にわたって大須演芸場を助けようと連日出演。志ん朝や蝶々と並んで足立が苦境を救ってくれた恩人と呼ぶ存在である[39]。正司敏江は、2014年1月の閉鎖を知ったときも、大阪での舞台をキャンセルして、大須演芸場に駆けつけ10日間の正月興行に参加した[新聞 13]

2000年になり建物の所有者の負債を処理するため演芸場の建物は競売にかけられ、舞台美術を手掛ける地元企業が所有権を落札。新たな建物所有者とは月額30万円の賃貸契約で営業が続いた[新聞 14]

平日の客入りは10人程度前後で、売上は1万円から2万円[新聞 2]。芸人の出演料の3万円を支払うと赤字で、その穴埋めのために専属芸人の営業斡旋(「出張演芸」と称す)や席亭自らの講演料等によって、興行収入の減少を補っていた[新聞 1]

建物の所有者は地権者に土地代を払いながら、大須演芸場の家賃滞納に悩まされ続け、2011年には30万円の賃貸料を20万円に値下げしたが、芸人への支払いを優先して賃貸料は支払われず滞納は改善されなかった。大家側は貸し小屋事業では収益を確保できていながら未払いを続けているとみて強制執行の申し立てをし、2014年2月3日に建物明け渡しの強制執行がなされ、営業が終了した[新聞 14][新聞 2]。席亭の足立は以後も同演芸場の住居部分に居住していたが、2月25日に近隣のマンションに引っ越したため[新聞 15]、3月3日に正式に所有者に建物が引き渡された[新聞 16]

営業終了翌日の2月4日に高須克弥が席亭の足立に対する営業支援を表明するが[新聞 17]、所有者側はそれを断り、5月始めまでに建物の現状確認を行った上で耐震等の補強工事を行い、新たな席亭を立てて「年内に新生演芸場の第2幕が開けられる状態にこぎ着けたい」との意向を示し、新たな席亭による営業再開に意欲を見せた[新聞 16]

2015年6月 最高顧問に初代林家三平の妻・海老名香葉子を迎えて[新聞 18]、同年9月22日に再オープンすると発表した[新聞 19]

2015年9月には「一般社団法人 大須演芸場」を設立。社団法人理事による合議制により演芸場を運営。

歴史[編集]

番組[編集]

2014年2月以前[編集]

落語、曲独楽、ものまねなどの演芸を中心に、休日には演歌も上演。毎月ごとに出演者・演目が入れ替えられ、出演者は月中でも交替することがあった。1 - 10日を上席、11 - 20日を中席、21 - 30日を下席とし、原則として10日間同じ番組だが、出演者の都合(病欠、営業、テレビラジオなど他の仕事など)によって変更する場合があった。

開演は平日が12時から2回公演、土日祝日は11時から3回公演。いずれも出演者は同じで、入れ替え無しの出入り自由。客入り具合で途中打ち切りもあり。3回公演の場合、3回目に全員が出ない場合がある(2回半公演)。一組の持ち時間はおよそ20分で、6組2時間が一公演の標準。1 - 2か月に1度くらいの割で不定期で18時開演の夜席が行われていた。

2008年までは7月にはスーパー一座の『大須オペラ』を、12月には『大須師走歌舞伎』を上演していた。毎年9月には落語芸術協会による『芸協まつり』が実施されて、浅草演芸ホール新宿末広亭、また、テレビでおなじみのメンバーが出演していた。この他、本公演以外に各種イベント会場として使用されることもあった。

2006年の4、5月には、今池の大衆演劇専門劇場(今池アカデミー劇場)閉鎖に伴い、貸し小屋となり大衆演劇が上演された。

2015年9月以後[編集]

落語、漫才、講談、色物をメインとしている。定席寄席は毎月1 - 10日で、毎月ごとの出演者・演目入れ替えは2014年2月以前を踏襲している。出演者は定席寄席期間中でも交替することがある。

番組編成は11時(第一部)および14時30分開演(第二部)の2回公演が基本である。一時期寄席期間中の金曜日のみ夜席(18時開演)が行われて3回公演となったこともあるが、中止となった。出演者は一日同じだが、一部と二部で出演順が変更になる場合がある。一組の持ち時間はおよそ15~20分、7組2時間30分(休憩15分を含む)が一公演の標準であり、2014年2月以前と比べて1組多く、30分延長されている。

東京(落語協会円楽一門会)・大阪(上方落語協会)に所属する落語家・芸人が招聘されることが多くなっているが、名古屋を拠点とする落語家・芸人も引き続き出演するなど、東西の枠にこだわらない編成となっている。地元名古屋芸人の出演枠は原則2組用意されており、名古屋よしもと所属芸人と、大須演芸場をホームグラウンドとする芸人・落語家がそれぞれ1組ずつ出演する。ただし、落語協会・上方落語協会の襲名・昇進披露興行の場合は、名古屋よしもと芸人1組のみの出演となる。

なお、定席においては、落語芸術協会の所属の色物芸人は時折出演がある。落語家は2018年9月に春雨や風子が定席初出演となった[47]落語立川流所属の落語家は、2018年7月1日~3日に立川龍志トリとして初出演した。

毎月11 - 末日と定席寄席期間中の18時 - 21時30分までは貸席としており、独演会や演劇、舞踊、コンサートにも開放される。

主な出演者[編集]

以前は大須演芸場専属の落語家ならびに色物芸人が主に出演。東京や上方からも客演があった。現在は東京・上方からの客演がメインとなっている。

レギュラー出演者[編集]

2015年9月以後[編集]

現在、名古屋を拠点とし、定期的に大須演芸場に出演する落語家・芸人。

など

2014年2月以前[編集]

かつて、大須演芸場を拠点としていた落語家・芸人。

タクマ
コント・漫談。初期は「涙・笑隊(るいれんしょうたい)」というタクマ&メグ&モモコの3人組コントとして大須演芸場専属になる。テレビ愛知と中日新聞社主催の第1回「コントコメディーコンクール優勝」。トリオ解散後はタクマがピン芸人として出演していた。現在はイリュージョンを中心のマジシャンとして、また、ラジオパーソナリティとして、中京圏を中心に活動している。長らく同場への出演から遠ざかっていたが、2016年7月に独演会を開き、22年ぶりに大須演芸場出演を果たした[WEB 7]
多嶋ゆきお
コミックマジック。なげやりな口調で客の少なさを愚痴りながら、テレビで見た事のある様な演目を披露するが、オチはテーブルマジックでも大技を演じる信念を持って演じていた。待ち時間の間にロビーで犬を抱いている事が多い。2005年死去。
伊東かおる
大分県出身の名古屋弁漫談家。「名古屋弁を全国に広める会(名全広)」会長。もともとはボーイズやコントユニットのメンバーとして東京でも活動し、浅草松竹演芸場にもレギュラーで出演していた。2007年7月8日死去。
大東両
居合い切りが出来た唯一の紙切り師。また、アニメ『機動戦士ガンダム』に登場する全てのモビルスーツを切ることができた。浪曲師・寿々木冨士若は同一人物。2006年6月6日死去。
なごやのバタやん
バタやんこと田端義夫公認のものまね。2010年11月21日死去。
波たかし
漫談家。東京の軽演劇出身で三波伸介門下。伊東かおると組んでの漫才・コントも行う。
ふしぎ光
手品師。
大須くるみ (三遊亭笑くぼ)
落語家、ダンサー。愛知県出身。天狗連の女流漫才師出身。稲垣流社中の舞踊家、パフォーマーとして、それまでのキャリアのほとんどを大須演芸場と共に過ごしたが、主任を長年勤めていた師匠(1989年入門)である三遊亭歌笑の東京復帰とともに上京して活躍の場を移し、以降は愛知と東京を行き来し活躍している。
伊勢元気
三重県出身のコメディアン・漫談家・喜劇俳優・劇団主宰者。元々は吉本興業ホリプロに在籍していた (昭和45年入社の間寛平木村進と同期) が大阪→東京と流転を重ね、大須を本拠地と定めて活躍している。マルセ太郎+間寛平と並び、猿のモノマネで有名。映画『お姐ちゃんお手やわらかに』(1975年4月26日公開、ホリプロ+東宝)に当時在籍していたコントチーム『てんつくてん』の一員として出演している。[48]
かつら竜鶴
三味線漫談、民謡愛知県警察本部警察官、カメラ店経営、芸人と多彩な経歴を持つ。
東英治
一輪車・手品。自分の歌う『チンライ節』をBGMに手品を演じていた。
柳家小三亀松
日本都々逸協会会長。ボーイズ出身の元落語家。愛知県出身、在住。柳家三亀松の名前弟子。2009年死去。
雷門小福
名古屋出身。東京落語の亭号のひとつ「雷門」をなのる一党ではあるが、デビュー以来ずっと名古屋で活動していた艶笑落語を得意とする落語家。東京の協会等には属さず、フリーの芸人として自身のプロダクションを持っていた。得意ネタは「花色木綿」(=「出来心」)など。2012年4月7日死去。
雷門福三(元・チャーリー)
落語家。小福門下。俳優としても活動。大須で駄菓子屋バー「チャーリーズ」を経営している。
桂福若
上方落語家。犬山市在住のためか、「名古屋の落語家」としてカウントされていない。桂福團治は師匠で実父。従姉の泉ピン子も大須演芸場に出ていたことがある。阪神優勝時に、初めて道頓堀川に飛び込んだ人物とされる。2013年以降『愛国落語』を標榜して賛否両論の物議を醸し出した。
ひとみちゃん
漫談家・司会者。名古屋市出身、在住。艶歌シャンソニエ家元。無慈悲なパイプ所属。自作の艶歌を織り交ぜたバーレスクショーを意識した老若男女が楽しめるオリジナルの芸題で出演。
四代目三遊亭歌笑
落語家。1985-2004年の長きに渡り、同劇場の主任を勉め、東西の落語家との橋渡し役をつとめた。2016年以降の大須演芸場では、年に一度貸館で独演会を開催。

主な客演者[編集]

古今亭志ん朝
江戸落語の名人。席亭の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行っていた。小林信彦は、毎年その公演を聞きに名古屋まで出かけていた。2001年10月1日死去。
二代目露の五郎兵衛
上方落語の名人。定期的に露の五郎兵衛一門が出演していた。2009年3月30日死去。
南けんじ
東京の漫談家、司会者。最晩年の拠点として出演を続けた。ネタは時事漫談と浅草での思い出ネタが多かった。
三代目三遊亭圓丈
地元名古屋出身の落語家として、大須演芸場のことを常に気にかけており、足立席亭時代の末期は回数が減ってしまったものの、年1回程度は高座に上がっていた。2015年以降も、旧・新大須演芸場ともに定席に出演し続けている数少ない出演者。
桂珍念
上方落語家。桂文珍門下。客演として頻繁に出演していた。
二代目快楽亭ブラック
落語立川流。2011年1月より3年間、自宅のある東京から随時「出張」する形で、拠点としていた。上述の通り、強制執行が行われる直前まで大須の高座で演じ続けた。
荒川キヨシ・小唄志津子
戦前から大阪で活躍した阿呆陀羅経でお馴染みの古老のコンビ。舞台は大阪中心だったが晩年大須で活動する。大阪市西成区山王の「てんのじ村」に住んでいた。
東洋小勝
1912年生まれ。戦前の16歳の頃に『チャップリンのそっくりさんコンテスト』で優勝して芸界入りし、後に奇術師に転身。戦後は曲芸(太神楽玉乗り)に転身し舞台は大阪中心だったが、晩年大須を拠点として活動する。決まりギャグは『曲芸はパランス!!!!』(原文ママ)。荒川キヨシ・小唄志津子と同じく、てんのじ村に住んでいた。尚、宝塚映画の『河内風土記 おいろけ説法』(1961年 久松静児監督、森繁久彌主演)に出演したことがある。
河内文春・尾乃道子
戦前から大阪で活躍した音頭取り系漫才の古老のコンビ。長らく大阪中心だったが1980年代の晩年大須で活動する。かつてわらわし隊第4回北支那班のメンバー。当時は河内家美代次・文春という芸名だった。
Wコミック
花島二郎
東京演芸協会所属 人形漫談(腹話術)客演として出演。エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンロー、恐竜のジョイ、紙切り〜猫のミッシェル、宇宙人レインボーマン・ダン、ジミー・ザ・キッド等々毎回6体以上のパペットを持ち込み、毎回演目を変えて演じていた。
杉のぼる
大阪在住の川上のぼるに憧れて腹話術人形師になった、師匠を持たない芸人で長年大須演芸場に出演していた。『銭形金太郎』(テレビ朝日系)のスペシャルには欠かせない存在。
奥津由三
吉本新喜劇、コマ新喜劇に出演していたコメディアン。「チャボチャボ!!」のギャグで有名。

スタッフ・その他[編集]

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大須演芸場裏方。1993年、18歳で大須演芸場に惚れ込み、足立席亭(当時)に頼み込んで演芸場で働き始める[49][WEB 8]。舞台進行・お茶子としてのみならず時には出演者としても登場する活躍ぶりで[WEB 9]、愛称「姫」「姫ちゃん」として出演者に可愛がられる。2015年に経営母体が変わって再開後も、引き続きお茶子として勤務している[WEB 10]。既婚。

料金[編集]

いずれも、2015年11月現在。当日券。特別興行の場合などには変更あり。

  • 一般:3,000円
  • シニア(65歳以上):2,700円
  • 学生・身障者:2,400円
  • 大須応援団友の会:2,500円
  • 小学生以下:2,300円

1980年12月から半年で5,000円、1年で9,000円(学生割引、老人優待券あり)の定期券が存在したが[新聞 21]、2年ほどで廃止になった。

所在地[編集]

  • 愛知県名古屋市中区大須2-19-39

アクセス[編集]

脚注[編集]

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WEB[編集]

  1. ^ 貸席案内 - 大須演芸場
  2. ^ a b らくだの寝床 東海らくご事情 「大須演芸場2代目席亭・足立秀夫」(愛知) まいまいクラブ 2011年8月18日
  3. ^ 望月勝美: “名古屋「大須演芸場」が待望の復活!”. エンタメ特化型情報メディア スパイス. イープラス (2015年9月24日). 2018年7月18日閲覧。
  4. ^ ぐっさん家”. 東海テレビ放送 (2018年1月1日). 2018年7月18日閲覧。
  5. ^ 明石家さんま:25年ぶり東海テレビ出演へ 思い出の名古屋・大須演芸場を訪れる”. MANTAN WEB (2017年12月13日). 2018年7月18日閲覧。
  6. ^ ナゴヤにたけしがやってきた”. 東海テレビ放送. 2018年7月15日閲覧。
  7. ^ タクマ大須演芸場独演会の報告 - タクマのHAPPY TIMES!!(東海ラジオホームページ内)2016年7月18日投稿
  8. ^ 大須演芸場お茶子生活”. つぶあん日記. Livedoor blog (2013年8月16日). 2018年7月20日閲覧。 “私め如きの事ですが、8月15日で大須演芸場お茶子生活20周年を迎えてしまいました。(略)18歳の夏、何を血迷ったか大須演芸場で働きたいと思ったのであります。”
  9. ^ 雷門獅篭 (2011年6月8日). “快楽亭ブラック&姫”. youtube. 2018年7月20日閲覧。
  10. ^ 大須演芸場大改造”. つぶあん日記. Livedoor blog (2015年2月13日). 2018年7月20日閲覧。 “P.S 新生大須演芸場でも、お茶子として働く事になりました。”

新聞[編集]

  1. ^ a b c 大須演芸場が来年2月閉鎖、出演者やファンから惜しむ声 (1/2ページ) サンケイスポーツ 2013年12月14日
  2. ^ a b c d 名古屋の大須演芸場、存亡の危機 賃料滞納で引き渡しへ 朝日新聞 2013年11月16日
  3. ^ a b c 「終幕の時 大須演芸場の40年 (1) 夢かなう」『中日新聞』2014年1月22日付
  4. ^ a b c 「終幕の時 大須演芸場の40年 (2) 閑古鳥鳴く」『中日新聞』2014年1月23日付
  5. ^ ビートたけしさん、大須演芸場に 「におい、36年前と同じ」 毎日新聞中部夕刊 2013年8月30日
  6. ^ a b c d e 大須演芸場が来年2月閉鎖、出演者やファンから惜しむ声 (2/2ページ) サンケイスポーツ 2013年12月14日
  7. ^ 「芸どころの寄席 風前のともしび 大須演芸場」『中日新聞』1978年6月21日付夕刊
  8. ^ 「名古屋演芸場が発足 経営難の大須演芸場を継承 松鶴、夢楽ら中心に 8月上席開場めざす」『中日新聞』1978年7月20日付夕刊
  9. ^ a b c 「笑いの灯を消すな 倒産の大須演芸場 "芸人管理"で再発足」『中日新聞』1978年8月2日付
  10. ^ 「藤田まことさん友情出演 大須演芸場 自主公演200日目に」『中日新聞』1979年1月20日付
  11. ^ 「大入り299円寄席 ディック・ミネさん男気の友情出演」『中日新聞』1979年5月27日付
  12. ^ 「笑いの殿堂 電波も支援 大須演芸場 月1回、寄席放送 東海TVがレギュラーで」『中日新聞』1986年2月5日付夕
  13. ^ ありがとう大須演芸場 青木さん、正司さん 朝日新聞 2014年1月31日
  14. ^ a b 大須演芸場:日本一客入らない演芸場 大家の温情裏切った 毎日新聞 2014年2月3日
  15. ^ 愛知)大須芸人、それぞれの道 足立席亭が引っ越し - 朝日新聞デジタル・2014年2月26日
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文献[編集]

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  42. ^ 「執行官到着」を前提としたサヨナラ興行であり、客は拍手で執行官を迎え入れた。執行官に「待ってました!」 大須演芸場、切ない幕切れ(朝日新聞、2014年2月3日2014年2月15日時点のアーカイブ
  43. ^ 出張演芸 のだ家” (2015年). 2018年7月15日閲覧。 “さて、このたび社名を従来(平成26年1月末まで)の 「なごやお笑い寄席 大須演芸場」から「出張演芸 のだ家」と変更いたします運びと相成りました。(略)※現在の大須演芸場とは一切関係はございません。”
  44. ^ 大須演芸場(投稿・記者会見への御礼)”. facebook (2015年6月15日). 2018年7月18日閲覧。 “こけら落とし公演のポスター画像あり”
  45. ^ (大須演芸場)2018年8月1日~3日のネタ帖”. Instagram. 2018年10月15日閲覧。
  46. ^ 平安桜・和希 (2018年8月3日). “市長と一緒に大須演芸場の舞台へ”. 『平安桜』カネ無しコネ無しビンボー旅芸人の奮闘記. ameba blog. 2018年10月15日閲覧。
  47. ^ 江戸住吉踊りの一員として出演。この時の他の出演者は全員落語協会所属。
  48. ^ お笑い劇団伊勢”. 2018年11月11日閲覧。
  49. ^ 雷門獅篭 (2012年12月20日). ご勝手名人録 寄席を仰天させた12人の破天荒者たち. ぶんか社. pp. 110-113. 

参考文献[編集]

  • 関山和夫『寄席見世物雑志 名古屋寄席興行史』泰文堂、1968年 - 1967年から1968年にかけての大須演芸場を含む毎月の寄席評あり
  • 足立秀夫『え〜泣き笑いを一席… -- 大須演芸場涙の20年』郷土出版社1993年10月 ISBN 4-87670-055-9) - 二代目席亭による回顧録
  • 雷門獅篭『ご勝手名人録 寄席を仰天させた12人の破天荒者たち』ぶんか社、2012年12月 ISBN 9784821143481- 足立席亭時代末期の大須演芸場出演者を紹介
  • 加藤浩『落語小僧ものがたり 席亭志願再々』彩流社、2018年1月 ISBN 9784779124396 大須生まれの落語プロモーターの半生記。1章・2章に初期の大須演芸場の思い出が書かれている。

外部リンク[編集]