若竹

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円楽党」の看板を掲げた若竹ビル(2009年12月撮影)

若竹(わかたけ)は、東京都江東区東陽円楽一門会が経営・使用していた寄席である。

概要[編集]

開設に至る経緯[編集]

1978年落語協会脱会した6代目三遊亭圓生が、ほとんどの一門弟子や孫弟子と共に落語三遊協会を設立したが、翌1979年9月3日に圓生が急逝したことから落語三遊協会は自然消滅し、翌1980年2月1日に総領弟子5代目三遊亭圓楽を除く、6代目三遊亭圓窓三遊亭圓彌三遊亭圓丈などは落語協会に復帰した[1]

圓楽は1980年大日本すみれ会1985年に落語円楽党、1990年円楽一門会に改名)を創立したが、圓楽一門は浅草演芸ホール鈴本演芸場新宿末廣亭池袋演芸場を原則使用することが出来ないため、圓楽は弟子達の稽古場を設けるため自らの私財を投げ打ち、1億4千万円の借金(総額6億円以上)をして1985年4月に寄席若竹をオープンした。

寄席のオーナーを席亭と呼ぶが、江戸時代に始まる落語の歴史上、一落語家が席亭を兼ねることは、極めて稀である。

円楽党以外の落語家にも門戸を開放していたが、落語協会幹部が若手に対して出演しないよう圧力をかけていた[2]

若竹オープン時、立川談志は「これはすぐに駄目になる」と周囲に漏らしていた。4年後、若竹が閉館すると圓楽は「松岡(談志の本名)の言う通りだった」と自らの失敗を認めた[要出典]

当時圓楽が司会を務めていた『笑点』(日本テレビ)では、年に何度か若竹で公開録画が行われていた。また閉鎖後も大喜利で「若竹の跡地」「(若竹の)借金取りに囲まれる」「弟子が潰した」等と頻繁にネタにされていた。このほか、大喜利の座布団10枚の賞品としてパラオに「第2若竹」を建設するという企画が放送されたことがある(獲得者は三遊亭小遊三。1999年6月20日・27日放送。小遊三が現地の人に落語を演じるものだった)。

閉鎖とその後[編集]

しかし若竹は、前述の演芸場とは違いターミナル駅から遠く、立地条件に恵まれなかった。また圓楽の弟子達は余興を優先し、若竹の出番をしばしば欠席した。圓楽自身も莫大な借金を返済するため、数多くのテレビ番組に出演し、若竹の高座を務めることが難しくなった。これらの理由で若竹の集客数は振るわず、1989年11月25日に閉館となった。閉館の記者会見は1989年11月9日、若竹の高座に一門の弟子を集めて行われたが、午後10時過ぎに始まり翌日午前1時半過ぎに終わるという異例の会見となった[3]。最終日の25日は5代目圓楽が『芝浜』を披露し万感の思いで終幕を飾った。

閉館後は1階の中華料理店(若竹はビルの2階にあった)が店舗を拡張して使用していたが、2017年現在はフィットネスクラブの「スマートフィット100」が入居している(1階はセブン-イレブン江東区役所前店が入居)。

現在円楽一門が使用している寄席はお江戸両国亭永谷商事所有)である。

関連商品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 共に落語協会を脱会した3代目古今亭志ん朝一門、7代目橘家圓蔵一門と2番弟子5代目月の家圓鏡(後の8代目橘家圓蔵)一門も復帰している。
  2. ^ 三遊亭円丈 「〈御乱心〉三遊鼎談」『師匠、御乱心!』〈小学館文庫〉、2018年
  3. ^ 川戸貞吉; 66-67 (平成2年11月1日). 雑誌「落語」平成元年度東京演芸界年譜. 弘文出版. 

関連項目[編集]

座標: 北緯35度40分23.3秒 東経139度48分57.5秒 / 北緯35.673139度 東経139.815972度 / 35.673139; 139.815972