春風亭梅橋

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春風亭 梅橋(しゅんぷうてい ばいきょう)は、落語家の名跡。現在は空き名跡となっている。

  1. 初代春風亭梅橋 - 元は2代目三遊亭小金馬(梅橋を名乗る前に、小金馬から改名し、曲亭馬きんとなっていた)。後の7代目雷門助六。本名、島岡大助。
  2. 2代目春風亭梅橋 - 元は初代柳亭小痴楽。本名、三村良弘。本項にて詳述。

初代が7代目助六を襲名してから初代小痴楽が2代目梅橋を襲名するまでの間に、春風亭ではないが梅橋を名乗った落語家に、鶯春亭梅橋がいる。また雷門助六になる梅橋以前に、松竹楼や鶯遊亭、桂などの亭号で何人か梅橋を名乗った落語家がいる。


2代目 春風亭(しゅんぷうてい) 梅橋(ばいきょう)
本名 三村 良弘(みむら よしひろ)
生年月日 1934年10月1日
没年月日 (1984-01-25) 1984年1月25日(49歳没)
出身地 日本の旗 日本東京都
師匠 4代目柳亭痴楽
名跡 1. 柳亭痴太郎(1954年 - 1957年)
2. 初代柳亭小痴楽(1957年 - 1969年)
3. 春風亭梅橋(1969年 - 1984年)
出囃子 梅は咲いたか
活動期間 1954年 - 1984年
配偶者 初代春風亭笑橋
所属 日本芸術協会→落語芸術協会

2代目 春風亭 梅橋1934年昭和9年〉10月1日 - 1984年〈昭和59年〉1月25日)は、東京都出身の落語家。本名は三村 良弘出囃子は『梅は咲いたか』。

妻は元東京あんみつ娘のメンバーで、後に6代目春風亭柳橋の門下で初代春風亭笑橋を名乗っていた元女流落語家である。

来歴・人物[編集]

東京京橋の刺繍屋の長男。義務教育終了後の1954年(昭和29年)1月4代目柳亭痴楽に入門し、師匠の旧名柳亭痴太郎と名乗る。1957年(昭和32年)5月に二つ目に昇進し、柳亭小痴楽に改名(初代小痴楽)。

1965年(昭和40年)から日本テレビで始まった『金曜夜席』の大喜利メンバーに7代目立川談志によって抜擢される。翌年の1966年(昭和41年)に『金曜夜席』が日曜の夕方に枠移動して『笑点』となった後も、レギュラーとして引き続き出演した。

即興でなぞかけを作ることを得意としていたほか、ブラックユーモアなどで人気を集めており、談志の評価も高かった。

1969年(昭和44年)4月真打昇進し、春風亭梅橋と改名。以後、順風満帆な人生を送るかに見えたが、『笑点』の番組路線を巡って談志とレギュラーメンバーが対立したため、同年3月30日の放送をもって梅橋を含む当時の回答者5人全員が番組を降板することになる。レギュラー出演最後の日に真打昇進披露口上が番組内で行われたが、大喜利の後に収録されたため番組内で「梅橋」と呼ばれることはなかった。他のレギュラー全員が後に番組に復帰したのに対し、梅橋は5人の中で唯一番組に復帰しなかった。これは桂歌丸によれば、当時降板直後に新設された東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の演芸番組にレギュラー加入したため、『笑点』に復帰するのが難しかったからだとされている[1]

朝から酒を呑んだり、酔っ払って高座に上がったりするなど酒浸りの生活が続いたため、仕事が激減。所属していたプロダクションも解雇される。後に糖尿病腎臓を患い、アルコール依存症を治療する専門の精神病院へ入院するなど闘病生活を送っていたが再起叶わず、1984年(昭和59年)1月25日、食道静脈瘤破裂により、49歳で死去。墓所は青山霊園[2]

エピソード[編集]

  • なぞかけの才能は突出しており、特にブラックユーモアのネタを作れば談志をしてうならせる鋭敏な感性の持ち主であった。[1]一例として、
    • ビールとかけて、てんかん持ちの嫁との初夜ととく」「その心は?」「抜いたとたんに泡吹いた」
    • ヤクザ喧嘩とかけて、おっぱいととく」「その心は?」「すったもんだで大きくなった」
    • ウグイスとかけて、弔いととく」「その心は?」「なくなくうめに行く」 など
  • 新宿末廣亭出演の待ち時間に近くのデパート「伊勢丹」の屋上のペット売場に通い、九官鳥に「三越、三越」と話すように仕込んでしまい[2][1]、数日後、その九官鳥が伊勢丹の売場から消えてしまった(一説には、斜向いの「三越」の売場に移されたとも)。噺家特有のヨタ話のようにも思われるが、黒柳徹子エッセイやトークなどでこの話をしており、(梅橋の仕業かはさておき)この九官鳥は実在した。
  • 酒が原因のトラブルは数多く[1]、テレビの生放送に酔っ払って出演し、こっぴどく叱られ所属していたプロダクションから解雇されたこともあった。東京12チャンネルの『日曜ワイド笑』の最終回に、師匠の痴楽とともに出演した梅橋はかなりの酩酊状態で、挙句の果てに師匠の痴楽に寄りかかって居眠りをしてしまうトラブルを起こした。このことで梅橋はおろか、師匠の痴楽にまでクレームが入る事態となり、梅橋は全てのテレビ局から干されるなど、タレントとしての致命傷につながったとされる[2]
  • 身体にいいとの理由で酒はビールしか飲まず、腹が出ても「ボデイビール」と洒落のめしていた。「少し位体が悪くても、ビールを飲むと治っちゃう。早い話、俺にとっては薬なんだ。健康保険で売らねえかな」との言葉を残している[2]アルコール使用障害が酷くなって医者に通うようになると、断酒のアドバイスに「酒を断って治すのは当たりめえだ。好きな酒を飲みながら治すのが医者じゃねえか。」と言って医者を困らせた。
  • 小痴楽時代、師匠痴楽を怒らせてしまい、「小痴楽の名前を取り上げる」という騒ぎになったが、「そこまでするのは大げさだ。『小』の字だけ取ってくれ」と言い放った。
  • 1973年(昭和48年)秋、痴楽が大阪で倒れて入院すると、枕元に駆けつけ「俺に禁酒を進めるからこうなったんです。」と嫌味を言うので、痴楽は「見舞いに来たのか、殺しに来たのかわからねえ。」とこぼした。
  • 晩年は仕事が激減したことで、馴染みの飲み屋を回って、得意の謎かけを披露し、酒を飲ませてもらう状態であったと言われている[2]

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b c d ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』115ページ
  2. ^ a b c d e 白夜書房 白夜ムックNo.65 「笑芸人」Vol.2 「祝35周年 笑点大研究」より。