柳家小三治

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柳家 小三治(やなぎや こさんじ)は落語家名跡である。当代は10代目。

この名跡は中堅どころの位置付けであるが、「柳家(柳派)の出世名」といわれる。初代・5代目・9代目小三治が柳派の総帥・留め名である「柳家小さん」を襲名した一つ前の名となるからである[1][2]


10代目 柳家 小三治やなぎや こさんじ
本名 郡山 剛蔵(こおりやま たけぞう)
生年月日 1939年12月17日(76歳)
出身地 日本の旗 日本東京都新宿区
師匠 5代目柳家小さん
名跡 1. 柳家小たけ(1959年 - 1963年)
2. 柳家さん治(1963年 - 1969年)
3. 10代目柳家小三治(1969年 - )
出囃子 二上りかっこ
活動期間 1959年 -
配偶者 郡山和世
家族 郡山冬果(次女)
所属 落語協会
公式サイト 柳家小三治オフィシャルホームページ
主な作品
死神
野ざらし
百川
受賞歴
放送演芸大賞(1976年)
芸術選奨新人賞(1981年)
芸術選奨文部科学大臣賞(2004年)
紫綬褒章(2005年)
旭日小綬章(2014年)
重要無形文化財保持者(人間国宝)認定(2014年)
毎日芸術賞(2015年)
備考
落語協会理事(1979年 - 2010年)
落語協会会長(2010年 - 2014年)
落語協会顧問(2014年 - )

10代目柳家 小三治(やなぎや こさんじ、1939年昭和14年〉12月17日 - )は、東京都新宿区出身の落語家一般社団法人落語協会顧問。出囃子は『二上りかっこ』。定紋は『変わり羽団扇』。本名、郡山 剛蔵(こおりやま たけぞう)。まれに「高田馬場の師匠」とも呼ばれる。

人物[編集]

教師・教育者(小学校校長)の5人の子のうち唯一の男子として厳格に育てられる。テストでは常に満点を求められ、100点満点中95点を取ることすら許されなかった。その反発として遊芸、それも落語に熱中する。東京都立青山高等学校に進学。高校時代にラジオ東京の『しろうと寄席』で15回連続合格を果たす[5]。この頃から語り口は流麗で、かなりのネタ数を誇った。卒業後、教員育成大学である東京学芸大学への入試に失敗し、学業を断念。落語家を志し、5代目柳家小さんに入門した。

以後、5代目小さん門下で柳家のお家芸である滑稽噺を受け継ぎ活躍。噺の導入部である「マクラ」が抜群に面白いことでも知られ、「マクラの小三治」との異名も持つ。全編がマクラの高座もある[6][7]

落語協会会長6代目三遊亭圓生は大変に芸に厳しい人物で、前任の会長より引き継いだ者を真打にした以外は、実質上3人しか真打昇進を認めなかった。つまり、6代目圓生から真打にふさわしいと見做されたのは、6代目三遊亭圓窓・小三治・9代目入船亭扇橋の3人のみである[8][9]。小三治は17人抜き真打昇進という記録を作った[10]

上野鈴本演芸場初席における主任(トリ)の座を師の5代目小さんから1991年平成3年)に禅譲され、2013年(平成25年)まで維持した[11]

リウマチを持病に抱えながらも、現在も高座に上がり続ける[12]。落語協会会長5代目鈴々舎馬風が病気を理由に2期で勇退した後を受け、2010年(平成22年)6月17日開催の理事会において後任会長に就任[13]2014年6月、4代目柳亭市馬に会長職を譲って協会顧問に就任した[14]

夫人は染色家郡山和世[15]、次女は文学座に所属する女優郡山冬果。弟子に対する指導が厳しいことで知られ、出来が悪い弟子には「素質がない」「噺家をやめろ」と頭ごなしに発言したこともあったという。

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主な演目[編集]

主な持ちネタには『あくび指南』『うどん屋』『かんしゃく』『看板のピン』『金明竹』『小言念仏』『子別れ』『死神』『芝浜』『大工調べ』『千早振る』『茶の湯』『出来心』『転宅』『道灌』『時そば』『鼠穴』『初天神』『富士詣り』『百川』『やかんなめ』などがある。

芸風[編集]

面白くもなんともなさそうな顔のまま、面白いことを話す。飄々とした表情のまま、ぶっきら棒にしゃべる。

柳家の伝統通り滑稽噺を主なレパートリーとするが、師と同じく[16]、「あざとい形では笑わせない芸」を目標としている。落語(滑稽噺)は本来が面白いものなのできちんとやれば笑うはずであり、本来の芸とは無理に笑わせるものではなく「客が思わず笑ってしまうもの」だとの信念を抱いているからである。

ものまね[編集]

過去の落語家のものまねを得意とする。8代目三笑亭可楽などのものまねが時折高座で披露される。

芸論[編集]

指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンを「メリハリが効くというよりもあざといくらい派手な音を作り出す」「人を感心させようとして棒を振るから嫌いだ」と評すると同時に、「落語も同じだよ」と付け加えている。

同一の演目[編集]

寄席や落語会では、同じ演目を異なる芸人が続けて演ずることは絶対のご法度とされている。

永六輔が自らの主催するイベント「六輔その世界」のゲストに毒蝮三太夫と小三治を招き、両名に落語を演じてもらおうと企画した際、毒蝮は『湯屋番』を演じた。毒蝮は落語界の人間ではないが、7代目(自称5代目)立川談志の古くからの盟友であり、徹底的な指導を受けていた。その後に高座に上がった小三治は、直前までネタを決めていなかったが、毒蝮と同じ『湯屋番』を語り始めた。小三治も談志も同門(5代小さん門下)であり、文字として並べる限り『湯屋番』の内容はほとんど変わらない。しかし、プロとしての技術を駆使して全く別のやり方で『湯屋番』を語り、毒蝮よりもはるかに客を笑わせたという。演芸評論家・矢野誠一の著書『志ん生の右手』(河出文庫)では、この件を小三治自身が後書きで説明している。同じ噺をした理由は「毒蝮三太夫という人の後に落語家として噺をすることに抵抗があった」「毒蝮のやった噺とそれに対するお客さんの反応をみて、これは落語を聞かせる客じゃないな、ショウアップされた趣向を興味半分でのぞきに来てる客だな、と思った」ことであり、「せっぱつまった飛び降り自殺みたいなものです」「もう頼まれたって二度とやりませんが、ひとにも勧めません。それほど愚行です」と矢野への謝辞と共にコメントしている。

趣味[編集]

多趣味で知られる。

アウトドア[編集]

バイク[編集]

  • ヤマハ発動機ナナハン(XJ750E)を乗り回していた。当時寄席への出勤もバイクで、本人は上下のつなぎで寄席や落語会に現れていた。落語家仲間で「転倒蟲」(てんとうむし)というツーリングチームも作っていたが、40代のころに手首の腱鞘炎を起こしてからは乗らなくなった[17]
  • 「転倒蟲」メンバー

スキー[編集]

草野球[編集]

落語仲間で「ヨタローズ」というチームを組織していた。

インドア[編集]

俳句[編集]

3代目桂米朝などの落語家や落語を愛好する文化人らと「東京やなぎ句会」という俳句団体を組織しており、同会の名義で出版された著書もある。俳号土茶どさ)。

クラシック音楽[編集]

鑑賞も歌唱も好む。歌声はドキュメンタリー映画小三治』に収録されている。

オーディオ[編集]

「少しでもいい音で音楽を聴きたい」という思いからオーディオに凝り、一時期は専門誌でもコラムを連載するなどプロ並みの知識がある。自宅には高価なオーディオ機器が多数あった。

略歴[編集]

映画[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • 小三治(2009年、ドキュメンタリー映画『小三治』上映委員会=オフィス・シマ/ヒポコミュニケーションズ) ※各地の映画館を廻り上映された。

俳優活動[編集]

テレビ番組[編集]

落語中継[編集]

バラエティ番組[編集]

ドキュメンタリー番組[編集]

※この放送は『プロフェッショナル 仕事の流儀 第V期 噺家 柳家小三治の仕事』としてNHKエンタープライズよりDVD発売。

テレビドラマ[編集]

※小三治の二つ目昇進から妻との結婚、弟子とのトラブルまでの半生を題材としたもので、朝の連続ドラマとして放送された。ただし、小三治本人は出演していない。
  • 3年B組金八先生 第4シリーズ 第22話(1995年 - 1996年、TBS) - 藍染職人・岸田 役

ラジオ番組[編集]

LP・カセット・CD・DVD[編集]

多数リリースされているが、そのほとんどがソニーミュージックエンタテインメント京須偕充によってプロデュースされたものである。

著書[編集]

写真集[編集]

芸談・エッセイ[編集]

  • 『落語家仲間泣き笑い行状記〜読むだけで楽しくバイクの腕があがる』(1984年、交通タイムス社
  • 『落語家論』(2001年、新しい芸能研究室、文庫版:ちくま文庫

対談・インタビュー[編集]

速記集[編集]

マクラのみの速記集[編集]

  • 『ま・く・ら』(1998年、講談社文庫
  • 『もひとつ ま・く・ら』(2001年、講談社文庫)
  • 『バ・イ・ク』(2005年、講談社文庫)

寄稿[編集]

関連書籍[編集]

  • 噺家カミサン繁盛記(1998年、講談社文庫、著:郡山和世) ※夫人による著書。
  • 友あり駄句あり三十年 恥多き男づきあい春重ね(1999年、日本経済新聞社、編:東京やなぎ句会)
  • 師匠噺(2007年、河出書房新社、著:浜美雪) ※弟子柳家喜多八への小三治に関するインタビューを掲載。
  • 五・七・五 句宴四十年(2009年、岩波書店、編:東京やなぎ句会)
  • 楽し句も、苦し句もあり、五・七・五 五百回、四十二年(2011年、岩波書店、編:東京やなぎ句会)
  • 友ありてこそ、五・七・五(2013年、岩波書店、編:東京やなぎ句会)
  • なぜ「小三治」の落語は面白いのか?(2014年、講談社、著:広瀬和生
  • 前座失格(2015年、彩流社、著:藤原周壱) ※破門された元弟子の柳家小多けが著した暴露本

弟子[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 7代目(自称5代目)立川談志が前名時代に小三治という名を欲しがっていたというエピソードはよく知られるが、談志は襲名せずに後輩の当代(10代目)が襲名した。
  2. ^ 歴代小三治の全員が小さんになったわけではなく、廃業し落語協会事務員に転じた者もいるため、「実は小さんにも五厘(寄席の事務員)にもなる名前」とのギャグを当代小三治が使っている。
  3. ^ 6代小三治(内田留次郎)は19141915年(大正3年、大正4年)に3代目柳家小さん門下で柳家小志んを名乗り1917年(大正6年)2月に柳家小きんを経て、翌年3月に演芸会社で先代が蝶花楼馬楽を襲名したために小三治となった。将来を期待されたが、酒に溺れて1919年頃までの寄席の出番表などに名が見えるが若くして早逝した。
  4. ^ 8代目小三治(高橋栄次郎)は東京日本橋住吉町の生まれ、母は日本橋で有名な女髪結いであった。高等小学校卒業後横浜に奉公に出た。自宅の近所に4代目橘家圓喬が住んでいたので、よく子供の頃から可愛がられたという。最初3代目柳家小さんの門で柳家小ゑん1929年3月に真打昇進で小三治を襲名、柳家小三治が同時に2人存在する状態になる(7代目小三治が師匠・初代柳家三語楼と共に東京落語協会を脱会したのに対し4代目小さん一門が小三治側に名跡の返還を迫ったが、これに応じなかったため、4代目小さん一門側は新たな小三治(高橋)を誕生させた)。結局、7代目小三治が小三治を返上し、無関係ながら空き名跡だった林家正蔵(7代目)を襲名。2人小三治の異常事態は解消した。8代目小三治は出世も期待されたが折しも戦争が激化、終戦の混乱と持病の蓄膿症などもあり、師の4代目小さんの勧めで落語家を完全廃業し落語協会事務員となる。1977年(昭和52年)5月、事務員からも引退した。
  5. ^ 15回合格はこの番組の最高記録。その当時はニキビ顔だったため、「年頃亭ニキ助」の高座名を名乗る。
  6. ^ エッセイ風の落語・随談。『玉子かけ御飯』や『ニューヨーク一人旅』など。
  7. ^ まくらだけ集めた本やCDも発売されている。
  8. ^ 圓窓とは芸の上での好敵手であり、私生活では良き友人でもある。扇橋とは好敵手であるとともに、同門(5代小さん門下)の大親友である。扇橋とは東京やなぎ句会でも行動を共にする。小三治は扇橋との思い出話を高座で語ることも多く、扇橋は小三治への絶賛だけで高座を降りてくることも多数ある。この際の扇橋の演目名は『小三治をよろしく』。扇橋との仲の良さは映画『小三治』でも映し出されている。
  9. ^ 圓生がこの時真打昇進を極端に絞ったことが「滞貨」を大量に発生させ、真打昇進を巡る対立から落語協会分裂騒動につながった。
  10. ^ この「17人抜き」は「滞貨」の人数を表している。小三治の前任会長・5代目鈴々舎馬風も「滞貨」の一人であり、入門は馬風のほうが3年早かったが、真打昇進で順番を逆転された。
  11. ^ 当席は初席のみ三部構成となっており、1991年から2013年まで小三治は最後(第三部)の主任を務めた。先輩の3代目古今亭志ん朝は第二部の主任を務めていた。2014年、第三部の主任は小三治の弟子柳家三三に禅譲された。
  12. ^ 高座に置かれる湯呑み茶碗には、白湯ではなく漢方薬が入っている。
  13. ^ 馬風のマネージャーが執筆しているブログから2010年6月16日の記事を参照のこと。
  14. ^ a b 柳亭市馬 最年少52歳落語協会会長に 副会長に正蔵 スポーツニッポン 2014年6月26日閲覧
  15. ^ 小三治に紹介したのは林家木久扇。『ぼくの人生落語だよ』(ポプラ社)より。
  16. ^ 小三治は若手の時6代目三遊亭圓生に似ていると言われた。実際、小三治はもともと圓生への弟子入りを考えていた。しかし、門下の弟子たちがあまりにも圓生に似すぎており、ここに入ることは圓生のクローンとなるだけではないかと考え、弟子入りを辞めた。圓生の孫弟子・三遊亭鳳楽5代目圓楽の弟子だが、6代目圓生の下で内弟子修行をした)は、『落語ファン倶楽部 Vol.7』において、他門派でよく稽古に通ってきていたのは小三治と3代目志ん朝で、最も多かったのは小三治であったと述べている。小三治自身も素人時代に圓生が好きで真似ており、師匠・小さんの影響を受けるまでは圓生の弟子と間違えられたとマクラの中で語っている。
  17. ^ 5代目馬風が漫談のネタにしている。
  18. ^ 高校の一年後輩に仲本工事橋爪功がいる。
  19. ^ 連日長蛇の列が出来、立見で入れないほどの大入りであった。
  20. ^ 平成26年7月18日文化財保護審議会答申。同年10月23日文部科学省告示第157号による認定。
  21. ^ コーナー司会(小三治)が「横丁の月番」という設定。アシスタントを務めていたのが真打になる前の春風亭小朝で、「横丁の若様」と自称していた。小朝のキャッチフレーズの発祥である。
  22. ^ 1994年、番組700回記念大会にもOBチームメンバーとして佐藤陽子とペアで出演した。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]