小澤征爾

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小澤 征爾
2015年
基本情報
出生名 小澤 征爾
生誕 (1935-09-01) 1935年9月1日
満洲国の旗 満洲国 奉天省奉天市
(現:遼寧省瀋陽市)
出身地 日本の旗 日本
死没 (2024-02-06) 2024年2月6日(88歳没)
日本の旗 日本 東京都世田谷区
学歴 桐朋学園短期大学
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
活動期間 1959年 - 2024年
配偶者 江戸京子(1962年 - 1966年)
入江美樹(1968年 - 2024年)
著名な家族 父:小澤開作
兄:小澤俊夫
弟:小澤幹雄
長女:小澤征良
長男:小澤征悦
公式サイト セイジ・オザワ 松本フェスティバル

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年昭和10年〉9月1日 - 2024年令和6年〉2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間[1]務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員[2]ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、小澤征爾音楽塾塾長・音楽監督、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者など[3]

人物・生涯[編集]

1963年

生い立ち[編集]

満洲国奉天省奉天市(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)で生まれる。父小澤開作歯科医師満洲国協和会創設者の一人で、同志で満洲事変の中心人物であった板垣征四郎石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した[4][5]。1941年3月に父を満洲に残したまま母や兄と日本へ戻り、東京府立川市の若草幼稚園に入園[6]する。1942年4月に立川国民学校へ入学[6]する。1945年に長兄でのち彫刻家になる小澤克己からアコーディオンピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価で譲られたピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄の克己と次兄の俊夫が3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年に父が友人とミシン会社を始め、神奈川県足柄上郡金田村へ転居[6]する。1948年4月に成城学園中学校へ入学[7]し、小田急小田原線新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学した[7][8]。中学ではラグビー部に所属して3番プロップで活動しつつ、豊増昇からピアノを習う[7]。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの雨の試合でスクラム時に右手人差し指を骨折してピアノを断念[9]する。1950年秋に東京都世田谷区[注 1]代田へ転居[11]し、以後1951年から1952年は東京都世田谷区経堂[12]、1952年から1955年は東京都渋谷区笹塚[12]、1955年から1959年は神奈川県川崎市幸区戸手町[12]、それぞれで育つ[11]

1950年代[編集]

1951年に成城学園高校へ進学して齋藤秀雄の指揮教室に入門し、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として1952年に入学[11]する。同門に秋山和慶山本直純羽仁協子、久山恵子がいる[13]。癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたり楽譜を投げつけられたりするなど体罰を日常的に受け、ストレスのあまり小澤は自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をした[14]。1955年に齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学音楽学部へ進学して1957年夏に卒業[15]する。夏期の卒業は、肺炎を患い卒業試験を受験できず[注 2]、のちに追試を受けて卒業が認められた事からであるが、療養期間中は仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだ[17]。このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが後になって大変役立った、と語る[17]

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団で指揮棒を振り始めて北海道演奏旅行で指揮者を担当[18]する。1957年12月に日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル『子供と魔法』で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める[18]。1958年に「フランス政府給費留学生」の試験を受けたが不合格となる[12]も、成城学園時代の同級生の父である水野成夫らの援助で渡欧資金を調達[19]する。

1959年2月1日から、スクーター、ギターとともに貨物船で単身フランスへ渡る。このとき、アシスタントの小澤を失うことを恐れた齋藤から渡欧に猛反対を受けたが、桐朋の父兄会や水野成夫らから支援を得て、約45万円相当の1200ドルを餞別として受けた[20]パリ滞在中の1959年に、第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位。ヨーロッパのオーケストラに多数客演。カラヤン指揮者コンクール第1位。指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンに師事。1960年、アメリカ・ボストン郊外で開催されたバークシャー音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)でクーセヴィツキー賞を受賞。指揮者のシャルル・ミュンシュに師事。1961年ニューヨーク・フィルハーモニック副指揮者に就任。指揮者のレナード・バーンスタインに師事。同年ニューヨーク・フィルの来日公演に同行。カラヤン、バーンスタインとの親交は生涯に渡り築かれた。

1960年代[編集]

1961年にNHK交響楽団(N響)の指揮者に招かれ指揮活動を開始[注 3]するが、感情的な軋轢のためN響からボイコットを受ける。小澤はたった一人で指揮台に立つという苦い経験をさせられ、指揮者を辞任[22]する。このため日本では音楽活動をしないと決めて渡米した。32年後の1995年1月にNHK交響楽団と共演した。

1964年、シカゴ交響楽団(当時の指揮者はジャン・マルティノン)によるラヴィニア音楽祭の指揮者が急病により辞退。急遽、ニューヨークにいた小澤が開催数日前に招聘され音楽監督として音楽祭を成功に収め、小澤の名声は全米に知れ渡る。シカゴ交響楽団とはRCAレーベル、EMIレーベルに複数の録音を残した。日本人指揮者が海外の一流オーケストラを指揮して海外の一流レコード会社からクラシック音楽録音を海外市場向けに複数発売したことは画期的な出来事であった。

1964年からはトロント交響楽団の指揮者に就任し1968年まで務める[23]。1966年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初指揮。

この時期は作曲家の武満徹と親交を大きく持ち、深い友情関係を築いた。武満の死後も武満作品を演奏する機会が多かった。

1970年代[編集]

1970年にはタングルウッド音楽祭の音楽監督に就任。同年サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し1976年まで務めた。

1972年には、フジサンケイグループによる突然の日本フィルハーモニー交響楽団の解散後、楽員による自主運営のオーケストラとして新日本フィルハーモニー交響楽団を創立。小澤は指揮者として中心的な役割を果たし、1991年に名誉芸術監督に就任、1999年9月から桂冠名誉指揮者となっている。1972年に日本芸術院賞を受賞している[24]

1973年、38歳のとき、前出のニューヨーク・フィルおよびシカゴ響と共にアメリカ五大オーケストラの一つに数えられるボストン交響楽団の音楽監督(第13代)に就任[23][注 4]。当初はドイツグラモフォンとの契約でラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。その後グスタフ・マーラー交響曲全集(『大地の歌』を除く)など、フィリップスへの録音を行った。日本のクラシックファンにとっては、日本人指揮者の演奏をアメリカから逆輸入する形で聴くこととなり、また日本人指揮者の演奏が国際的に有名なレーベルから発売されるのは初めてであった。またボストンでの活動が進むにつれウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとするヨーロッパのオーケストラへの出演も多くなる。

ボストン交響楽団の音楽監督は2002年まで務めたが、一人の指揮者が30年近くにわたり同じオーケストラの音楽監督を務めたのは極めて珍しいことといわれる[25][26]。その30年近くに及ぶ音楽監督期間中、少なくとも1978年3月、1981年秋、1986年、1989年にはボストン響を率いて来日し、日本公演を実施したほか、1979年3月には中国でも同楽団を率いての公演を行っている[23]

タングルウッドには、小澤征爾の功績を記念して日本の電気メーカーNEC、ソニー元社長の大賀典雄などの援助により“SEIJI OZAWA HALL”が建設された。

なお、アメリカを本拠にしての音楽活動が長かったため、アメリカ国内及び海外のマスコミでは「小澤征爾は日系アメリカ人(Japanese-American)」と記述する例もある[27]

1980年代[編集]

1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラ結成のきっかけとなる。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功を収める。1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始。このオーケストラでもフィリップスへの録音を多く行っており、今までにベートーヴェンブラームスの交響曲全集などを完成させている。

1990年代[編集]

1992年にベルリン・フィルから、楽団に功績のあった人物に贈られるハンス・フォン・ビューロー メダル英語版を授与された。

1998年に長野オリンピック音楽監督を務め、世界の国歌を新日本フィルハーモニー交響楽団と録音。長野オリンピック開会式では、小澤指揮によるベートーベン第九を演奏。開会式会場と世界5大陸の都市(北京ニューヨークシドニーベルリンケープタウン)を衛星中継で結び、歓喜の歌を世界同時合唱で結ぶ。同年、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受賞[28]

1999年、小沢征爾とサイトウ・キネン・フェスティバル松本実行委員会が、第47回菊池寛賞を受賞した。

2000年代[編集]

2002年1月、日本人指揮者として初めてウィーン・フィルニューイヤーコンサートを指揮。このコンサートは世界同時生中継され、CDの売り上げ枚数は100万枚を超えた。2002年シーズンにウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。

2005年暮れに体調を崩し、同年12月に白内障の手術を受けた。

2006年1月半ばには、東京都内の病院で帯状疱疹、慢性上顎洞炎、角膜炎と診断され、通院しながら静養していた。2006年1月27日にアン・デア・ウィーン劇場で上演される予定であったモーツァルトの歌劇『イドメネオ』の指揮はキャンセルされた。

2006年2月1日、ウィーン国立歌劇場音楽監督としての活動を一時休止。東京のオペラの森で指揮予定であったヴェルディ『オテロ』の公演もキャンセルすると発表した。

2006年6月、スイス西部モントルー近郊ブロネ英語版で開催された「スイス国際音楽アカデミー(: Seiji Ozawa International Academy Switzerland)」にて指揮活動を再開。また、7月20日には「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトVII」愛知県芸術劇場コンサートホール公演にてマーラーの交響曲第2番『復活』を指揮し、日本国内での指揮活動を再開した。2006年度のサイトウ・キネン・フェスティバル松本、2007年4月にベルリン・フィルを指揮をしている。

2007年、ウィーン国立歌劇場総監督ホーレンダー英語版の2010年勇退に伴い、音楽監督小澤征爾の同時退任が発表された。2010年シーズンからの総監督はドミニク・マイヤー英語版、音楽監督は、ウェルザー=メストの就任が発表された。

2008年、世界の音楽界に多大な影響を与えたことや、若手音楽家育成に尽力した功績が認められ、文化勲章を受章した[29]

2010年1月、人間ドックの検査で食道癌が見つかり治療に専念するために、同年6月までの活動を全てキャンセルすることを発表した[30]。食道全摘出手術を受け、同年8月に復帰。同年開催のサイトウ・キネン・フェスティバル松本は一部プログラムで代役を立て総監督として出演。

2010年代[編集]

2010年11月、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された[31]

2011年1月、悪化した腰の手術を受ける。

2012年3月7日、体力回復のため、1年間の指揮活動の中止を発表[32]

2012年8月31日、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(村上春樹との共著、新潮社)で小林秀雄賞受賞。

2013年4月1日、前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任[33]

2014年8月4日 長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)」が翌2015年から、小澤征爾の名を冠した「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に生まれ変わることになったことを、実行委員会が東京都内で記者会見して明らかにした。

2015年7月、ケネディ・センター名誉賞を受賞。日本人では初の受賞となる[34]

同年8月、セイジ・オザワ松本フェスティバル開催。腰椎棘突起および横突起骨折により、ベルリオーズオペラベアトリスとベネディクト』を降板[35]長野県名誉県民栄誉賞の第1号を受賞[36]

2016年2月、自らが指揮する歌劇『こどもと魔法』(ラヴェル作曲)を収めるアルバムが第58回グラミー賞最優秀オペラ録音賞を受賞した[37][38]

2016年3月、成城大学初となる名誉博士号を贈呈された。記念式典ではサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団メンバー、成城学園にゆかりのアーティスト達が集結し、『S.オザワ祝典アンサンブル』を結成した[39]

2016年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団により、名誉団員の称号を贈呈された[40]

2016年10月、名誉都民に顕彰される[41][42]2016 GQ Men of the Yearを受賞[43]

2018年12月5日、サントリーホールで行われたドイツ・グラモフォン創立120周年 スペシャル・ガラ・コンサートにて、サン=サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28を指揮。 (ヴァイオリン:アンネ=ゾフィー・ムター[44]

2020年代[編集]

2022年11月23日、キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)においてサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)を4年ぶりに指揮した。演奏ではそのとき、国際宇宙ステーション(ISS)「きぼう」でミッションにあたる宇宙飛行士の若田光一に向けて、ベートーヴェンの「エグモント序曲」のライブ配信が行われた。宇宙へのオーケストラ演奏のライブ配信は史上初であった[45]。なお、直後の同月25日・26日に行われたセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称: サイトウ・キネン・フェスティバル松本)30周年記念特別公演の指揮はアンドリス・ネルソンスが行った(25日公演のカーテンコールの際、車椅子に乗った小澤が登壇した)[46][47]

2024年1月23日、元妻である江戸京子が死去[48]。同年2月6日、東京都内の自宅で心不全のため死去[49]。88歳没[50]。訃報は9日に所属事務所から報じられた[49][51]

2024年2月6日、ボストン交響楽団は小澤を追悼し

「With great sorrow, the Boston Symphony Orchestra announces the death of its beloved Music Director Laureate, Seiji Ozawa.」[52]
訳「ボストン交響楽団は、深い悲しみとともに、敬愛する桂冠音楽監督、小澤征爾氏の逝去を発表します。」

と始まる長文で哀悼の意を公式サイトのトップおよび特集ページに掲載。一部抜粋「親切で思慮深い人道主義者、指揮台でのバレエのような優雅さと天才的な記憶力を兼ね備えた音楽の天才」「セイジは世界中のファンにとって、これらすべて、そしてそれ以上の存在だった。彼の遺産は、私たちの集団的、個人的な多くの思い出と、彼の忘れがたい録音を通して生き続けています。マエストロ・オザワのご家族、ご友人、そしてクラシック音楽界に深い哀悼の意を表します」と称え、偲んだ[53]。ほかにもベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ニューヨーク・フィルハーモニックシカゴ交響楽団や国内のオーケストラなど、世界中のオーケストラから追悼の声明が寄せられ、世界中の音楽家がメッセージを出した。音楽以外の分野からも、谷川俊太郎横尾忠則安藤忠雄黒柳徹子村上春樹らがコメントを出した。

訃報は国内外の多くのメディアで報じられ、ニューヨーク・タイムズワシントン・ポストガーディアンなどは長い追悼記事を出し、「東アジアのクラシック音楽家に対する偏見を払拭することに貢献した(ニューヨーク・タイムズ)」などと、その功績を讃えた。

受賞・栄典[編集]

親族[編集]

2015年、左から征悦(長男)、入江美樹(妻)、本人、ジョン・F・ケリー征良(長女)

1962年、井上靖[60]の仲人により、三井不動産社長江戸英雄の娘でピアニストの江戸京子と結婚。京子とは桐朋女子高校の第一期生同士[注 5]であり、当時から小澤は江戸家に入り浸りだったが、留学先のパリで再会し、結婚に至ったものである[61]。ただし英雄は「娘は強い性格で個性が強烈」との理由により、この結婚に最初から反対していた[61]。結局、二人は1966年に離婚したが、その原因について江戸京子は「ピアニストとして練習するにしても、自分が弾きたい時に弾けませんしね。主人が練習に疲れて家に帰って来て、もう音は聞きたくないという。その気持もわかりますしね。それで議論になると、結局は"オレが稼いでいるんだから、オレの意見を尊重しろ"ということで押し切られてしまう。いちばん単純な議論でやって来るんです。それなら、自分が経済力を持てば納得のいく生活が出来るんじゃないかと──」[61]と語っている。このほか、コンクール優勝後にスターとなった小澤が銀座のバーのマダムやモデルの入江美樹(後述)と浮名を流したのも離婚の一因だったと報じられた[61]。また、小澤は留学前に岳父の江戸英雄から約20万円(一説によると50万円)の経済的援助を受けていた[61]。このため、京子との離婚については、桐朋学園の関係者から「デビューまでは江戸家に経済的な負担をかけておきながら、目的を達したらサヨナラ」との非難も浴びた[62]。小澤がN響と契約したのは江戸京子との婚約中であり、若い小澤がN響の常任指揮者に抜擢された背景には、江戸英雄の政治力があったとも報じられた。江戸英雄が自民党の有力者を通じてNHKに工作を行い、前田義徳(NHK専務理事、のち会長)を通じ、小澤をN響の指揮者に雇うよう命令したとの説を、毎日新聞記者であった原田三朗は紹介している[63]

1968年、白系ロシア人貴族の血を二分の一引く[注 6]ファッションモデル兼デザイナーで一時的に女優としても活動していた入江美樹(小澤・ベラ・イリーン)と再婚[65]。美樹の母は料理研究家の入江麻木。美樹との間に生まれた娘の小澤征良はエッセイスト。同じく、息子の小澤征悦は俳優。NHKアナウンサーの桑子真帆は征悦の妻。またミュージシャンの小沢健二は甥にあたる。兄で健二の父・小澤俊夫は「小澤昔ばなし研究所」を主宰する口承文芸学者で筑波大学名誉教授。弟の小澤幹雄は俳優でテレビ・リポーターである。

甥の小沢健二を通じて、首相経験者の芦田均、松方正義、山本権兵衛、実業家の岩崎弥太郎、弥之助兄弟、医師の緒方洪庵、その弟子の福沢諭吉らと親戚関係にある。(詳細は松方正義の項参照)

指揮者齋藤秀雄の母方の祖母である前島久(ひさ。旧姓大津)は、小澤の母方の曽祖父である大津義一郎の実妹であり[66]、小澤は「僕は先生の弟子というより近かったわけです。親類だったからね」[67]と発言している。

NHK交響楽団との関係[編集]

N響事件[編集]

軋轢に至る経緯[編集]

小澤征爾とNHK交響楽団(N響)が初めて顔合わせしたのは、1961年7月の杉並公会堂における放送録音であった。翌1962年には、半年間「客演指揮者」として契約。当初は6月の定期を含めた夏の間だけの契約予定だったが、秋の定期を指揮する予定だったラファエル・クーベリックが出演をキャンセルしたため、12月まで契約期間が延長された。7月4日にはオリヴィエ・メシアントゥーランガリラ交響曲日本初演を指揮するなど小澤とN響のコンビは順調に活動しているかのように思えたが、10月2日の香港を皮切りとするシンガポール・マレーシア・フィリピン・沖縄への演奏旅行でN響と小澤の間に感情的な軋轢が生じ、11月の第434回定期公演の出来ばえが新聞に酷評された直後、11月16日にN響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。小澤とNHKは折衝を重ねたが折り合わず、N響の理事は小澤を「あんにゃろう」と罵り、N響は小澤に内容証明を送りつけ、小澤も1962年12月18日、NHKを契約不履行と名誉毀損で訴える事態となった[68]。このため、12月20日、第435回定期公演と年末恒例の「第九」公演の中止が発表された。

マニラ公演の失敗[編集]

このトラブルの原因について、小澤が遅刻を繰り返したためという説を八田利一が述べている[69]。原田三朗もまた、小澤が「ぼくは朝が弱い」と称して遅刻を繰り返し、しかもそのことを他人のせいにして謝罪しなかった[注 7]のがN響から反感を買った一因だったと述べている[71]。東南アジア演奏旅行における小澤はホテルのバーで朝の6時半まで飲み明かした状態で本番に臨み、マニラ公演で振り間違いを犯して演奏を混乱させ、コンサートマスターの海野義雄らに恥をかかせた上、「38度の熱があった」「副指揮者が来なかったせいだ」と虚偽の弁解を並べて開き直ったためにN響の信頼を失ったといわれる[72]。ただし小澤自身は

「副指揮者なしで、孤軍奮闘したぼくは、酷暑のこの都市で、首の肉ばなれのため39度の発熱をし、ドクターストップをうけたのだった。このような状態で棒をふったために、些細なミスを冒して[73]しまった。しかし、演奏効果の点では、全く不問に附していいミスであったとぼくは思う。それを楽員の一部の人たちは、ぼくをおとし入れるために誇大にいいふらし、あれは仮病であるとまでいった」[74]

と反論している。「一説によると美男子で鳴るコンサートマスターが、小澤が現れてからファンレターがめっきりへったため、アタマに来てアジったということだ」との報道もあった[75]

紛争の原因[編集]

後年、1984年の齋藤秀雄メモリアルコンサートを追ったアメリカのテレビドキュメンタリー(2007年9月にサイトウ・キネン・フェスティバルの企画として、NHKで放送された)で、小澤はこの事件の背景について「僕の指揮者としてのスタイルはアメリカ的で、いちいち団員に指図するやり方だった。でも日本での指揮者に対する概念はそうではない。黙って全体を把握するのが指揮者だ。この違いに加えて僕は若造だった」との趣旨の発言で振り返っている。しかし原田三朗はこの見解を否定し、

「アメリカで育ったような小澤の音楽と、ローゼンストック以来のウィーン楽派とシュヒターのベルリン・フィル的な訓練に慣れたN響の音楽観のちがいが、紛争の原因だという見解が当時、支配的だった。楽団員は若い指揮者をそねんでいるとか、もっとおおらかでなければならない、などという意見もつよかった。しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」[76]

と述べている。

社会問題に発展[編集]

この事件はN響にとどまらず政財界を巻き込む社会問題に発展し、青柳正美、秋山邦晴浅利慶太安倍寧有坂愛彦一柳慧石原慎太郎井上靖大江健三郎梶山季之曽野綾子高橋義孝武満徹谷川俊太郎團伊玖磨中島健蔵黛敏郎三島由紀夫村野藤吾山本健吉由起しげ子が「小澤征爾の音楽を聴く会」を結成し[77][78]、NHKとN響に質問書を提出すると共に、芥川也寸志・武満徹・小倉朗といった若手音楽家約10名が事件の真相調査に乗り出した[79]。小澤は活動の場を日本フィルに移し、翌1963年1月15日、日比谷公会堂における「小澤征爾の音楽を聴く会」の音楽会で指揮。三島由紀夫は『朝日新聞』翌1月16日付朝刊に「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて[80]」という一文を発表し、

「日本には妙な悪習慣がある。『何を青二才が』という青年蔑視と、もう一つは『若さが最高無上の価値だ』というそのアンチテーゼ(反対命題)とである。私はそのどちらにも与しない。小澤征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。もちろん彼も成熟しなくてはならない。今度の事件で、彼は論理を武器に戦ったのだが、これはあくまで正しい戦いであっても、日本のよさもわるさも、無論理の特徴にあって、論理は孤独に陥るのが日本人の運命である。その孤独の底で、彼が日本人としての本質を自覚してくれれば、日本人は亡命者(レフュジー)的な『国際的芸術家』としての寂しい立場へ、彼を追ひやることは決してないだらう」
「私は彼を放逐したNHK楽団員の一人一人の胸にも、純粋な音楽への夢と理想が巣食っているだろうことを信じる。人間は、こじゅうと根性だけでは生きられぬ。日本的しがらみの中でかつ生きつつ、西洋音楽へ夢を寄せてきた人々の、その夢が多少まちがっていても、小澤氏もまた、彼らの夢に雅量を持ち、この音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」

と、小澤を苦し紛れに擁護した。

和解の成立[編集]

結局、1月17日に黛敏郎らの斡旋により、NHK副理事の阿部真之助と小澤が会談し、これをもって一応の和解が成立した。しかし「あの時は『もう俺は日本で音楽をするのはやめよう』と思った」(先のドキュメンタリーでの発言)ほどのショックを受けた小澤が次にN響の指揮台に立つのは32年3ヶ月後、1995年1月のことであった。小澤は後年、N響とのトラブルが刺激になってよく勉強したとも述懐している[81]

32年ぶりの共演[編集]

1995年1月23日、サントリーホールにおいて小澤とN響は32年ぶりに共演を果たした。このコンサートは、日本オーケストラ連盟主催による、身体の故障で演奏活動が出来ないオーケストラ楽員のための慈善演奏会であり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチをソリストに迎え、以下の曲目を演奏した。

なお、小澤はこのコンサートを引き受けた理由として「ロストロポーヴィチから、いつまでもN響と喧嘩しているべきではないとたしなめられた」「(「小澤事件」を知る)昔の楽団員が退職したり亡くなったりしていなくなったから引き受けた」という趣旨の発言をしている。

NHK音楽祭2005[編集]

2005年10月26日には、小澤とN響はNHK音楽祭で再び顔合わせをした。マーカス・ロバーツ英語版を共演者に迎え、「子供たちのためのコンサート」と銘打たれたこのコンサートの当初発表されていた曲目は、次のような1時間で収まるプログラムであった。

しかし、打ち合わせが山場を越えた段階になっても、どういう曲目にするかは第5番以外は決まっていなかったようである。最終的には「『ラプソディ・イン・ブルー』は、よりジャズ的な要素が強いが内容は難解なピアノ協奏曲ヘ調に差し替えられ、それに伴って出演者もマーカス・ロバーツ単身ではなく、トリオそろっての来日となった。またNHKが千住明に依頼していたNHK放送80周年記念の委嘱作品『日本交響詩』の初演の場を探していたこともあり、結局以下のような2時間を超えるか超えないかという、「子供向け」にしては盛り沢山なプログラムになった。

  • ベートーヴェン:交響曲第5番(全楽章)
  • ガーシュウィン:ピアノ協奏曲 ヘ調
  • 千住明:『日本交響詩』

コンサートは小澤が時々演奏を止めて曲の解説をするスタイルであり、コンサートの最後は『さくらさくら』の大合唱で締めくくられた。

著書[編集]

単著[編集]

共著・対談[編集]

写真集[編集]

主な録音[編集]

レーベルは発売当時のものである。

ボックス・セット[編集]

  • コンプリート RCA&コロンビア・アルバム・コレクション (51 CD)
  • Seiji Ozawa Anniversary 2010 (Decca, 11 CD)
  • The Complete Deutsche Grammophon Recordings (50 CD)
  • The Complete Warner Recordings (25 CD)
  • 小澤征爾コレクション EMIレコーディングス (7 CD)
  • The Philips Years (50 CD)
  • German Masterworks (Decca, 15 CD)
  • 小澤征爾70歳記念BOX (71 CD&DVD)
  • ムター&小澤征爾 ドイツ・グラモフォン録音集 (10 CD)

初演記録[編集]

世界初演[編集]

世間が現代音楽を宣伝したおかげで、小澤も1980年代前半まではこの手の曲目をよく振った。また、邦人作曲家の作品も積極的に振った。特に盟友であった武満徹の楽曲の初演は多く手がけた。(各曲の括弧内は初演時のオーケストラ。)

日本初演[編集]

日本フィルハーモニー交響楽団読売日本交響楽団NHK交響楽団などと数々の日本初演も手がけている。

NHK交響楽団との日本初演[編集]

読売日本交響楽団との日本初演[編集]

日フィルとの日本初演[編集]

出演番組[編集]

ドキュメンタリー[編集]

  • マエストロ、マエストロ!カラヤン(1999年、フランス)
  • ロストロポーヴィチ 人生の祭典(2006年、ロシア)
  • ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(2019年、アップリンク)

エピソード[編集]

  • 成城学園中学時代には音楽部に属し、のちのソニー会長出井伸之らとカルテットを組んでいた[83]。小澤はピアノ、出井はヴァイオリン担当であった[83]。以来、2人は仕事とプライベートの両面で生涯の友人となった[83]
  • 息子の征悦をして、「(幼い頃、早朝にトイレのために起きて)親父の勉強部屋の前を通ると、もう勉強してるんですよね。あまりに集中しすぎて、自分が横に立っても気づかないくらい」[84]とまで言われた。楽曲について予習をする際、白地の五線譜に自ら各パートを書き写している。
  • そして、征悦は、あるとき、欧米において、自分のことは知らない人でも、父・征爾の名は殆どの人が知っていることに驚いたという。
  • 1972年6月、日本芸術院会館で日本芸術院賞授賞式に出席した際、経営危機だった日本フィルについて「皇室が交響楽団のパトロンになってほしい」と昭和天皇に直訴したこともある[85]
  • ボストンレッドソックスファンで、ボストン在住時に本拠地フェンウェイパークに足しげく通っていたところ、MLB関係者から全球場にフリーパスで入れるメダルを授与された。その後2012年7月11日に同球団から親善大使に任命されている[86][87]
  • ユージン・オーマンディはカラヤン、バーンスタインの時代を継ぐ有望な指揮者として、若き日の小澤をアバドメータマゼールケルテスとともに五指に数えていた[88]
  • 没した時点で、カラヤンと並びウィーンフィル・ニューイヤーコンサートを生涯で1度だけ指揮した指揮者となった。

小澤征爾役を演じた俳優[編集]

  • 野村義男(『ボクの音楽武者修行』、1982年)

CM出演[編集]

報道資料[編集]

  • 『読売新聞』2010年11月3日東京朝刊

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ その後、世田谷区には2019年時点でも居住[10]
  2. ^ ただし吉田秀和によると、このとき小澤が卒業できなかったのは「小澤にはまだ第九を教えていない。第九を勉強させないで指揮科を卒業させるわけにはいかない」との斎藤秀雄の意向によるものだったという[16]
  3. ^ NHKの音楽プロデューサー細野達也が小澤の日本フィルの指揮ぶりを聴いて「N響にも欲しい」と思い、N響副理事長の有馬大五郎や事務長の木村竜蔵を説得し、小澤の抜擢に至ったという[21]
  4. ^ なお、ボストン交響楽団を初めて指揮したのは同楽団音楽監督就任の約5年前にあたる1968年1月、同楽団のホームグラウンドであるボストン・シンフォニーホールで開催された同楽団公演に於いてのことである[23]
  5. ^ 高等学校音楽科に限って、男女共学である。
  6. ^ 美樹(ヴェラ)の父方祖父母は二人ともロシア人である[64]
  7. ^ N響事件の後、小澤は「指揮者は本当に大変なことをやっている」という言葉を繰り返すようになった[70]

出典 [編集]

  1. ^ 日本経済新聞「理想追い 曲折の29年間 時に反目、洗練と重みに磨き」
  2. ^ Liste der Ehrenmitglieder der Wiener Staatsoper
  3. ^ 「小沢征爾さん ウィーン・フィル名誉団員に 「どんな勲章よりうれしい」」『読売新聞』2010年11月3日 東京朝刊 33頁。
  4. ^ 岡崎久彦『百年の遺産:日本近代外交史73話』産経新聞ニュースサービス、2002年、181頁
  5. ^ ただし、母親の小澤さくらによれば、夫の開作がその命名を板垣に伝えたところ、「二人の名前を並べるなら石原のほうが偉いんだから『爾征』とつけなきゃいけない』と言われたらしい。小澤さくら『北京の碧い空を わたしの生きた昭和』58頁。
  6. ^ a b c 山田 2006, p. 20.
  7. ^ a b c 山田 2006, p. 23.
  8. ^ 小澤, 小澤 & 小澤 2022, p. 50.
  9. ^ 山田 2006, p. 24.
  10. ^ 市川三郷町議会だより(2019年11月1日発行 第57号)(2019年11月11日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
  11. ^ a b c 山田 2006, p. 25.
  12. ^ a b c d 小澤 2014, p. 164.
  13. ^ 山本 1999, pp. 40–42.
  14. ^ 山田 2006, p. 34.
  15. ^ 小澤征爾『ボクの音楽武者修行』
  16. ^ レコード芸術編『吉田秀和 音楽を心の友と』p.38(音楽之友社、2012年)
  17. ^ a b 広中平祐との対談『やわらかな心をもつ』p.54-55
  18. ^ a b 山田 2006, p. 41.
  19. ^ 小澤 2014, pp. 47–48.
  20. ^ 山田 2006, p. 44.
  21. ^ 原田 1989, pp. 190–191.
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参考文献[編集]

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  • 小沢幹雄編著『松本ブラームスが流れた日:小沢征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ』新潮社、1993年。
  • 「小沢征爾さん ウィーン・フィル名誉団員に 「どんな勲章よりうれしい」」『読売新聞』2010年11月3日 東京朝刊
  • 緒方優子「きょうの人 小澤征爾さん(77) 水戸芸術館館長に就任」『産経新聞』2013年4月5日付け、東京本社発行15版
  • 小池真一『小沢征爾 音楽ひとりひとりの夕陽』講談社+α新書、2003年。ISBN 978-4-06-272190-5
  • 遠藤浩一『小沢征爾:日本人と西洋音楽』PHP新書、2004年。ISBN 978-4-569-63776-1
  • 山田治生『音楽の旅人:ある日本人指揮者の軌跡』アルファベータブックス、2006年。ISBN 978-4-87198-539-0 
  • 中野雄『小澤征爾 覇者の法則』文春新書、2014年。ISBN 978-4-16-660985-7
  • 柴田克彦『山本直純と小澤征爾』朝日新書、2017年。ISBN 978-4-02-273732-8
  • 山本直純『紅いタキシード』東京書籍、1999年。ISBN 4487795265 
  • 齋藤秀雄講義録』(小澤征爾編)白水社、1999年。ISBN 978-4-560-03743-0
  • レコード芸術編『吉田秀和:音楽を心の友と』音楽之友社、2012年。ISBN 978-4-276-96222-4
  • 神保璟一郎『名曲をたずねて』角川文庫、1975年。
  • 岡崎久彦『百年の遺産:日本近代外交史73話』産経新聞ニュースサービス、2002年。
  • 入江麻木『バーブシカの宝石』講談社、1987年8月。ISBN 4-06-202906-5
  • 佐野之彦『N響80年全記録』文藝春秋、2007年。
  • 原田三朗『オーケストラの人びと』筑摩書房〈ちくまプリマー新書〉、1989年。ISBN 978-4480041340 
  • アルク出版企画編『小澤征爾大研究』p.231(春秋社、1990年)ISBN 978-4-393-93121-9
  • 「『小澤征爾』という虚妄」『新潮45』2000年10月
  • 『週刊文春』1962年12月24日号「N響の不協和音」
  • 『ゴシップ10年史』(三一新書)

外部リンク[編集]