永六輔

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永 六輔
(えい ろくすけ)
誕生 永 孝雄(たかお)
1933年4月10日(81歳)
日本の旗 日本 東京府東京市
職業 放送作家
タレント
作詞家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 早稲田大学第二文学部中退
代表作 大往生』(1994年)
主な受賞歴 菊池寛(2000年)
ギャラクシー賞45周年記念賞(2008年)
毎日芸術賞特別賞(2013年)
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永 六輔(えい ろくすけ、1933年昭和8年)4月10日 - )は、日本の元放送作家作詞家で、現在はラジオ番組パーソナリティタレント随筆家である。本名、永 孝雄(えい たかお)。

角刈り頭と細長い顔がトレードマーク血液型はAB型[1]

長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)、麻理の長男で孫の育乃介は俳優。藤本義一とは遠戚である。

略歴[編集]

1933年(昭和8年)、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日外国人17代目と自称[2]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[2]。このため戦時中は「チャンコロ」「シナポコペン」と呼ばれ、いじめを受けた[2]。東京・下谷区(現在の台東区)の国民学校に通っていた1944年昭和19年)、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在の小諸市)の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。

1946年長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。 

この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[3]1952年早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学第二文学部史学科を1954年に中退。

以後、ラジオ・テレビ番組企画演出や、ピアニスト作曲家中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[4]佐渡島独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。

ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[5]

1958年には、石原慎太郎江藤淳谷川俊太郎寺山修司浅利慶太黛敏郎福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。

1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。

1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。

1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。

2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。

2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。

趣味は旅と読書で、特に旅に関しては1年中どこかに出掛けている。スポーツではラグビーが好きである。

音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[6]

2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ[7]、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが[8] [9]2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けている[10][11]2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された[12][13]。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになってきている。2011年10月20日、永六輔に近いおすぎはパーキンソン病でなくバセドウ氏病だとラジオで語っている。

パーキンソン病の影響で歩行困難になっており[12]2006年奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術[11]。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いている。2012年1月17日に退院。リハビリは継続して行っている。

2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。

作詞家活動[編集]

1959年、作曲家の中村八大からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める[14]。この年、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に1961年坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国スキヤキ・ソングとタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。しかしラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。

永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。

作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる[15]。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている[16]。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。

永は1974年野坂昭如小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年(平成15年)に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。

テレビ出演[編集]

テレビ番組の出演は、テレビ朝日の『徹子の部屋』、よみうりテレビの『遠くへ行きたい』、NHKの『視点・論点』、山梨放送の旅番組、朝日ニュースターの『痛快!おんな組』、そして不定期にあるドキュメンタリー番組の案内人しかテレビ出演をしないとされている(他にNHKの特別番組においてVTR出演することもある)。

かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにもかかわらず途中で退場したことがあり、これを境にテレビへの出演に消極的になったとされている(なお他のテレビ番組でも途中退場したことがある)。

全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある。

永がラジオを主体に活動するようになったのは、元々テレビカメラに取り囲まれるのとドーランを塗って出るのを嫌がっていたのに加え、ちょうどテレビにワイドショーが登場し、その手法に早くから幻滅を覚えてしまったことが原因であるといえよう。しかし、テレビというメディア自体は否定しておらず、後に深夜番組『2×3が六輔』に出演して、自分の存在を確かめさせた(本人談)。また、上記の通り現在は殆どテレビに出ないにもかかわらず旅先で会った人から「いつもテレビで見てます」と声をかけられることはラジオやエッセイなどで度々ネタにしている。

ラジオ出演[編集]

それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが1959年放送開始の『昨日の続き』(ラジオ関東)にて初めて出演することとなる。この番組は当時としては珍しい台本無しのフリートークで進められる番組で、番組そのものは1971年まで続いた(ただし永六輔は途中で降りた)。1966年に『夢であいましょう』が終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の首都圏のラジオ局では最近は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。ちなみに、自身担当のラジオ番組では、番組挨拶をせずにオープニングトークに入る事が多い。

朝日放送中部日本放送琉球放送で仕事をしたことがあるが、個人的付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から、琉球放送は親交のあった灰谷健次郎が居を構えていた事から)。また、この他にも永六輔を尊敬しているパーソナリティは多い。

TBSラジオでかつて放送されていた『土曜ワイド』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている[17]。しかしのちに永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われたため、当時はかなり恨んでいたという[18]。現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みはもっておらず、『大往生』がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演しているほか、2010年1月2日には『久米宏 ラジオなんですけど』にゲスト出演している。

映画出演[編集]

その他の活動[編集]

舞台監督としても活躍していた時代があり、現在でも自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしている。ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介する程である。「彼女の言う事に僕は逆らった事がない」というのが口癖。 なお、永は同じ演出家でも蜷川幸雄のアンチでもある。

初めてテレビ出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」だそうである。自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとの事。しかし、文藝春秋で書いていることについて「あいつらに人質にとられているようなものですよ」と半ば自嘲気味に語っている。[21]

物柔らかく高めの声音が今上天皇に似ていて、永自身も今上の即位前から冗談の種にしている。NHKラジオ第一話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。その一方、永のものまねをした者もいる( →永七輔)。自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。

「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している。

2003年8月9日にNHKで生放送された『思い出のメロディー』において、自身が作詞した「こんにちは赤ちゃん」がヒットした社会背景を巡り、「浩宮が赤ちゃんを産んで、その方がまた赤ちゃんを産んで」等のアドリブ発言をした。どよめく会場と、それに驚いた司会進行役の宮本隆治アナウンサーが言い直したが、NHKに抗議が相次いだ[22]。 2006年11月19日日比谷公会堂で開かれた『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪 共謀罪 憲法改悪 緊急市民集会」に参加し、「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌う。また当日、この集会にて皇室コントが演じられ、産まれたばかりの赤ん坊である悠仁親王を「猿のぬいぐるみ」に仕立てて放り投げたり、前立腺癌を以前今上天皇が患ったことが笑いのネタにされた。このことについて、週刊新潮の取材に永は「車が渋滞して遅れ、3時半に到着したから、そのコント自体見てもいないし、全然わからない。だから『週刊金曜日』に聞いてほしい」とコメントした。このコントのほか、趙博が歌う天皇侮辱ソングを称揚したことがある[23]

信条[編集]

  • アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブ(インターネット)や電子メール携帯電話など最先端のものを避けてきたが、AMラジオが付いた携帯電話端末が出たのを機に、携帯電話を所持するようになった(但し、電子メール機能は利用したことがないほか、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している)。
  • 伝統的建築復権運動を進めている。最近の日本建築は建築基準法によりボルトで締めなければならないそうで、ボルトで締めず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのになぜそういう建築を認めないのかと憤慨している。また、最近になって伝統的な職人の服装の復権を呼びかけている。
  • 佐渡を舞台として活動する伝統芸能をもとにした和太鼓集団である鼓童を積極的に取り上げ、『土曜ワイド』でも佐渡から生放送したことがある。
  • かつては自動車を運転していたこともあったが、「人をひきたくない」と思うようになり、運転しなくなった[24]
  • 2007年頃問題となった義務教育機関における学校給食費未払い問題を最初に取り上げたといわれる[要出典]。かつては生活苦からやむにやまれず払えないという人がほとんどであったが、最近は意図的に払わないケースも出ていると嘆き、「学校給食はただではありません、ちゃんと払いましょう」と呼びかけたが、テレビのワイドショー番組・報道バラエティ番組が取り上げる様になると、「何ですべて意図的と決め付けるのでしょう」とテレビでの取り上げ方を批判する発言をしていた。永はやむにやまれず払えない人まで強制的に払わせようとしていると見ていて、そういうやり方に憤慨しているとのこと。
  • しんぶん赤旗日本共産党推薦人に名前を連ねたり、党が主催するイベントや支持団体の講演者として度々講演[25]している。また、日本共産党中央主催の赤旗まつりでは色紙展に出品するのが恒例となっている。それゆえ権力者の如き振る舞いを見せる者を嫌っていて、たとえ付き合いのある相手でもそういう振舞いを見せれば袂を分かって批判する。代表的な例では青島幸男が東京都知事時代、官僚と対決する公約を破っていると指摘した。野坂昭如を青島が罵倒していたことで、青島批判したケースや、田原総一朗石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している[26]
  • 同じく日本共産党の支持者であった井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に賛同している[27]が、永の「九条以外は憲法改正してもいい」という考えの賛同メッセージが消されているため、最近は距離を置いている。なお井上とは不仲にならず亡くなるまで親交は続いていたという。
  • 反捕鯨運動には、日本の伝統文化としての捕鯨を守る立場から一貫して批判的である。シーシェパードなど実力行使を伴う反捕鯨運動をテロリストと批判している[28]
  • 「ご先祖様は大事だが、先祖を奉れと強要する人がいてよろしくない」、「何何をしないと不幸になるという人がいて不快」という発言をラジオ番組ですることが多い。
  • 吉本新喜劇はもちろん、運営元の吉本興業を「江戸笑芸(お笑い)を否定する存在」として敵視している。このことから、吉本の元会長の林正之助は、永を苦手としていた(これは、林と暴力団との黒い交際も関係しているといわれる)。他にもオール巨人のスパルタ教育に関しても批判している。ただし桂三枝(現・6代目文枝)はかつて永が来阪する際に鞄持ちをしていた[29]。また吉本のタレントではないが、江戸笑芸を必ず放送するNHKに対し、「民営化しろ!」、「腐ったヤクザな放送局」など、散々文句を言うやしきたかじん(たかじんは単にNHK嫌いであり、永の事を直接批判していない。詳しくはやしきたかじんの項目を参照)に対しても(本人曰く「罵倒までして江戸笑芸を否定する存在」)敵視している。しかし、上方文化そのものを批判しているわけではなく、かつては新宿駅西口地下広場で桂ざこばと反戦フォーク集会ならぬ反戦噺会を開いていたことがある。また、豊竹咲大夫のように『土曜ワイド』に時々ゲスト出演する人もいる。

出演しない放送局[編集]

文化放送とニッポン放送[編集]

文化放送ニッポン放送には自身と政治思想・信条が違うとの理由から長らく出演していなかったという説がある[30]が、両社が共同出資し設立したフジテレビの番組には出演していたことがある。しかし徐々に疎遠になり、次女の麻理がアナウンサーとして入社すると、「公私混同を避けるため」との理由から出演しなくなったが、実子がフリーになって長く経った2011年10月23日・30日放送の『ボクらの時代』に出演した。

もっとも1982年(昭和57年)6月12日、文化放送などで放送されていたさだまさしのセイ!ヤングに出演したことがある[31]。また、2002年頃、文化放送制作のナイター中継にゲスト出演したことがあるが、これは同局で野球解説をしている豊田泰光がパーソナリティを務めた番組にゲスト出演したのがきっかけである。

1994年(平成6年)8月25日、ニッポン放送『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』にゲスト出演[32](TBSラジオの『土曜ワイド』でも高田文夫の年賀状が読み上げられたことがある)。生放送中に、放送禁止用語を述べ、局関係者を慌てさせた。ちなみに、高田文夫は若い頃に永六輔の『パック・イン・ミュージック』を熱心に聴いていたそうである[33]

その10年後、2004年(平成16年)7月15日のニッポン放送開局50周年特別番組に録音出演した。「他の局の人から見たニッポン放送」というコーナーの2人のゲストのうちの1人だった(もう1人のゲストは、元・文化放送アナウンサーの吉田照美)。ニッポン放送側からの度重なる出演依頼を断りきれなくなったから、と述べている。これには同コーナーのホスト役を務めた同局アナウンサー・上柳昌彦が、学生時代からの永のラジオ番組リスナーだったことが大きい。その後、2011年(平成23年)4月22日にもニッポン放送に出演した。

その他にリスナーとして、『欽ちゃんのドンといってみよう!』に投稿していたこともある[34]

読売テレビと朝日放送[編集]

読売テレビの『遠くへ行きたい』には、永の趣味である旅番組であるために出演をしていて、番組開始時はレギュラー出演していたが、その後は不定期出演になった。さらに、1980年代後半には国鉄分割民営化に反対する新聞の意見広告に出たため、スポンサー(さらには分割民営化を推進した政府)との関係で出演しなかった時期もある。ただし、現在は出演回数は少なくなっているものの再び出演するようになっており、番組制作会社であるテレビマンユニオンとの関係も基本的には良好である。

また、朝日放送に関しても同局でラジオパーソナリティを務める道上洋三と親交があり、道上が永の番組に出演し、永も『おはようパーソナリティ道上洋三です』が東京から放送された際に、ゲスト出演したことがある。この他にも『米朝よもやま噺』にも出演している。

毎日放送[編集]

1963年(昭和38年)10月改編で、MBSテレビはNETからネット受けしていた江戸笑芸番組『大正テレビ寄席』を打ち切って自社が企画段階から関わった吉本新喜劇の中継番組『サモン日曜お笑い劇場』に差し替えた(大正テレビ寄席打ち切り事件)。

この時の理由は、「関西では江戸笑芸が受け入れられにくく、テレビ寄席の視聴率が低迷するのは予想できたことだった」(MBS社長高橋信三のコメント)というものだったが、永は「吉本興業とMBSが結託して江戸笑芸を否定しようとしている」と猛反発し、両社に対する攻撃を開始した。

その後、MBSが当初はNETへネットし、その後東京12チャンネルへ移動させた『芸能わらいえて 目で見る百年史』では永が司会に就任、『選抜高校野球中継』のレポーターも務めるなど関係が極度に悪化することは避けられたが、1980年代に入ると両者の関係は徐々に縮小し、永はMBS制作番組に出演しなくなっていった。『誰かとどこかで』ではネットスポンサーのCMだけがMBSに流れるようになった。

2011年9月6日、MBS、中部日本放送(CBC)、TBSは共同で開局60周年記念番組『御三家ラジオ』を制作、つボイノリオ浜村淳とともに久しぶりとなるMBSラジオへの出演を果たす。しかし、この番組はあくまでもTBSが主導したものであり、これによって永とMBSの関係が直ちに完全修復した訳ではなかった。

評価[編集]

生活文化として江戸の文化・風俗を再評価させたり、在野の芸人を世間に紹介したり、絶滅の危機に瀕していた尺貫法を再び世間に認知させたり、日本人の感覚では常識という考えが同じ日本に住むいわゆる在日の人々にしてみれば侮辱であると主張していた事など、大抵の人々が関心を持たない事を取り上げた事で高齢者を中心として評価する声がある。

主な楽曲の一覧[編集]

作詞を手がけた主な楽曲。いくつかの曲には永自身が歌った盤もある[35]

著書[編集]

  • 『一人ぼっちの二人』えくらん社 1961 のち中公文庫 
  • 『あの日のあなた』桃源社 ポピュラー・ブックス 1963
  • 『一流の三流 ラジオ・テレビこんにちは』サンケイ新聞出版局 ヒット・ブックス 1964
  • 『わらいえて 芸能100年史』朝日新聞社 1965
  • 『誰かとどこかで 一九六六年の三六五人』雪華社 1967
  • 『芸人その世界』文芸春秋 1969 のち文庫 
  • 『芸人たちの芸能史 河原乞食から人間国宝まで』ドキュメント=近代の顔 番町書房 1969 のち文春文庫 
  • 『幕末の素顔 日本異外史』毎日新聞社 1970
  • 『極道まんだら』文芸春秋 1971 のち文庫 
  • 『役者その世界』文芸春秋 1971 のち文庫、岩波現代文庫  
  • 『われらテレビ乞食』白馬出版 1971
  • 『貴女と二人で』白馬出版 1972 のち中公文庫 
  • 『終りのない旅』日本交通公社 ベルブックス 1972 のち中公文庫 
  • 『遠くへ行きたい 下町からの出発』文芸春秋 1972 のち文庫、講談社+α文庫  
  • 『みだらまんだら』山下勇三絵 文芸春秋 1972
  • 『六輔その世界』話の特集 1972
  • 『あなたのひとりごと』絵:吉村祥 サンリオ出版 ギフト・ブック 1973
  • 『タレントその世界』文芸春秋 1973 のち文庫  
  • 『妻一人娘二人猫五匹』中央公論社 1973 のち文庫 
  • 『懐かしい恋人たち 映画とのめぐり逢い』大和書房 1973
  • 『一泊二食三千円』中央公論社 1974 のち文庫 
  • 『奇人変人御老人』文芸春秋 1974
  • 『亜香ちゃん』文芸春秋 1975
  • 『おしゃべりまんだら』文芸春秋 1975
  • 『大日本大絶讃』大和書房 1975
  • 『僕のいる絵葉書』中央公論社 1975
  • 『死にはする殺されはしない』話の特集 1976
  • 『クジラとカネ売ります 計量法現行犯は訴える!!』講談社 1977
  • 『四苦八苦映画百本』中央公論社 1977  
  • 『明治からの伝言 若々しい老人たち』文芸春秋 1977 のちちくま文庫 
  • 『スターその世界』文芸春秋 1978
  • 『二人三脚七転八起』中央公論社 1978 のち文庫 
  • 『旅行鞄はひとつ』日本交通公社出版事業局 1978
  • 『せきこえのどに浅田飴』話の特集 1979
  • 『冗談ばっかり 沖縄ジァン・ジァンの五日間』講談社 1981 のち文庫 
  • 『六輔十一人四方山話 対談集』中央公論社 1981
  • 『寿徳山最尊寺』三月書房 1982
  • 『次郎長伝・伝・伝 あの芸能座上演台本』話の特集 1982
  • 『テレビファソラシド』集英社 1982
  • 『熱弁詭弁東京弁雄弁駄弁安全弁 :爆笑浅田飴生体実験記録』講談社 1982
  • 『変だと思いませんか?』PHP研究所 1982 のち文庫 
  • 『僕は寺の子・坊主の子 寿徳山最尊寺』三月書房 1982
  • 『アイドルその世界』文芸春秋 1983
  • 『こんな旅もある 六輔発あなた行き』主婦と生活社 1983
  • 『東奔西走大絶讃』読売新聞社 1983
  • 『六輔からの親展』中央公論社 1983
  • 『東奔西走大感動 旅と味とステージと』読売新聞社 1984
  • 『この本ください!』講談社 1985
  • 『暴力団ならびに田舎ッペェ諸君!』講談社 1985
  • 『六・八・九・の九 坂本九ものがたり』中央公論社 1986 のち文庫(副題を正題に)
  • 『無名人名語録』講談社 1987 のち文庫、決定版「無名人語録 聞いちゃった!」新潮文庫 
  • 『普通人名語録』講談社 1988 のち文庫 
  • 『なんといううまさなんというへた』講談社 1989
  • 『評論家ごっこ』講談社 1989 のち文庫 
  • 『一般人名語録』講談社 1990 のち文庫 
  • 『真紅の琥珀』講談社 1991(小説)のち文庫  
  • 『六輔流旅人生』講談社 1991 のち+α文庫 
  • 『三歩下がって師の影を飛ぶ』講談社 1993 「わが師の恩」文庫 
  • 『もっとしっかり、日本人』日本放送出版協会 1993 のちライブラリー、ヴィレッジブックス  
  • 『大往生』岩波新書 1994
  • 『大語録天の声地の声』講談社+α文庫 1994
  • 『どこかで誰かと』旅行読売出版社 1994 のち講談社文庫 
  • 『逢えてよかった! 僕のメディア交遊録』朝日新聞社 1995 「永六輔のメディア交遊録」文庫 
  • 『こんにちは赤ちゃん』作・絵 すえもりブックス 1995
  • 『南無阿弥陀仏』三月書房 1995 のちハルキ文庫 
  • 『二度目の大往生』岩波新書 1995
  • 『終 大往生その後』朝日新聞社 1996 のち文庫 
  • 『職人』岩波新書 1996
  • 『せきこえのどに六輔』山下勇三絵 飛鳥新社 1996
  • 『あの町この人その言葉 「誰かとどこかで」より』朝日新聞社 1997
  • 『学校ごっこ』日本放送出版協会 1997
  • 『芸人』岩波新書 1997
  • 『たかがテレビされどテレビ』倫書房 1997
  • 『商人(あきんど)』岩波新書 1998
  • 『結界 越えてはならないことがある』マガジンハウス 1998 「言っていいこと悪いこと 日本人のこころの「結界」」光文社知恵の森文庫
  • 『沈黙は金曜日』飛鳥新社 1998 「壁に耳あり」講談社文庫 
  • 『土曜日に逢いましょう』毎日新聞社 1998
  • 『もっともっとしっかり、日本人』日本放送出版協会 1998
  • 『悪党諸君』青林工藝舎 1999 のち幻冬舎文庫   
  • 『僕が[エイ]だった頃』小学館 1999
  • 『藝その世界』文春文庫 1999
  • 『昭和 僕の芸能私史』朝日新聞社 1999 「さよなら芸能界」文庫、のち光文社知恵の森文庫 
  • 『あなたに伝えたい 手話はどこまで話せるか』大和書房 2000
  • 『あの世とこの世』朝日新聞社 2000 のち文庫 
  • 『沖縄からは日本が見える』祥伝社 2000 のち光文社知恵の森文庫 
  • 『永六輔・職人と語る』小学館 サライ・ブックス 2000 のち文庫 
  • 『お家繁盛町繁盛 町はいま、人はいま、この国はいま…』ベストセラーズ ワニのnew新書 2000
  • 『夫と妻』岩波新書 2000
  • 『親と子』岩波新書 2000
  • 『新・無名人語録 死ぬまでボケない智恵』飛鳥新社 2000
  • 『想像力と創造力』毎日新聞社 2000
  • 『「無償」(ただ)の仕事』講談社+α新書 2000
  • 『永六輔のえいっ!』扶桑社 2001
  • 『永六輔の芸人と遊ぶ』小学館・サライブックス 2001
  • 『おしゃべり文化 会う人はみんな僕の薬』講談社+α新書 2001
  • 『嫁と姑』岩波新書 2001
  • 『六輔の遠近メガネ 続・結界』マガジンハウス 2001 「学校のほかにも先生はいる」祥伝社黄金文庫 
  • 『生き方、六輔の。』矢崎泰久構成 飛鳥新社 2002 のち新潮文庫 
  • 『妻の大往生』中央公論新社 2002 のち文庫 
  • 『明るい話は深く、重い話は軽く』光文社知恵の森文庫 2003
  • 『一浴厄除温泉に行こう! いい湯、いい町、いい話』ベストセラーズ 2003
  • 『想像力と創造力 3 ラジオで見えるニッポン』毎日新聞社 2003
  • 『人はなぜ歌うか 六輔流・日本音楽史』日本放送出版協会 2003 NHK人間講座
  • 『いのち 昔からのいのち今ここにあるいのち明日うまれるいのち』坪谷令子絵 理論社 2004
  • 『老い方、六輔の。』矢崎泰久構成 飛鳥新社 2004
  • 『叱る、だけど怒らない』光文社知恵の森文庫 2004
  • 『伝言』岩波新書 2004
  • 『畠のラジオ』家の光協会 2004
  • 『あの世の妻へのラブレター』中央公論新社 2005 のち文庫 
  • 『「学校ごっこ」六輔、その世界史 六輔が活写する日本人の原点』日本文芸社 パンドラ新書 2005
  • 『気楽に生きる知恵』飛鳥新社 2005
  • 『死に方、六輔の。』矢崎泰久構成 飛鳥新社 2005
  • 『話す冥利、聞く冥利』光文社知恵の森文庫 2005 
  • 『ボケない知恵 永六輔の無名人語録より』飛鳥新社 2005
  • 『赤坂檜町テキサスハウス』大竹省二写真 朝日新聞社 2006
  • 『世間にひと言心にふた言』光文社知恵の森文庫 2006 
  • 『あなたの「いのち」をいただきます 先生といえば親も同然、親といえば先生も同然』ヴィレッジブックス 2007
  • 『庭説法 歌えばお経・話せば法話』本願寺出版社 2007 西本願寺の本
  • 『上を向いて歩こう年をとると面白い 人は歌と生きている!』さくら舎 2012
  • 『永六輔のお話し供養』小学館 2012
  • 『男のおばあさん 楽しく年をとる方法』大和書房 2013
  • 『男のおばあさん 2 (元気に笑って暮らすコツ)』大和書房 2013
  • 『無名人のひとりごと』金曜日 2013

共著・編著[編集]

  • 『誰かが誰かに』吉村祥共著 山梨シルクセンター出版部 1968
  • 『街=父と子 おやじ永忠順との優雅な断絶』毎日新聞社 1969 のち角川文庫 
  • 『女=父と子 わが家のおんな百年史』毎日新聞社 1970 のち角川文庫 
  • 『旅=父と子 おやじ永忠順と訪れる見知らぬ横丁』毎日新聞社 1970 のち角川文庫 
    • 『新編父と子』永忠順共著 ちくま文庫
  • 『七円の唄 TBSラジオ『誰かとどこかで』より』崎南海子共編 読売新聞社 1972
  • 『妻は夫にさからいつ夫は妻をいたぶりつ』永昌子共著 学習研究社 1974
  • 『七円の唄 TBSラジオ『誰かとどこかで』より 追伸』崎南海子共編 読売新聞社 1974
  • 『市街電車』中田安治共著 駸々堂ユニコンカラー双書 1977
  • 『父と娘だけで…』永千絵共著 中央公論社 1980
  • 『誰かとどこかで 七円の唄』崎南海子共編 中央公論社 1981
  • 『はがき万葉集』崎南海子共編 立風書房 1984
  • 『第一生命広報部長からの手紙』下保進共著 講談社 1990 のち文庫 
  • 『第一生命教育部長からの手紙』下保進共著 講談社 1992 のち文庫 
  • 中村八大『ぼく達はこの星で出会った』黒柳徹子共編 講談社 1992
  • 『自転車一辺倒 風と彩と人生と』加藤一共著 講談社 1995
  • 住井すゑと永六輔の人間宣言 死があればこそ生が輝く』光文社 1995 のち知恵の森文庫
  • 『I 愛 eye よってたかって目の勉強・7年後』ピーコ共編著 講談社文庫 1996 
  • 『永六輔の特集』矢崎泰久,坂梨由美子編 自由国民社 1996 話の特集ライブラリー
  • 『一言絶句 幻の創句ふたたび』選著 光文社 1997 「一言絶句 「俳句」から「創句」へ」知恵の森文庫
  • 『あがペ・ボランティア論』助世夫健共著 光文社 1997
  • 『七円の唄誰かとどこかで』1-3 崎南海子,遠藤泰子共編著 朝日出版社 1997-99 
  • 『旅に生きる、時間の職人』福原義春共著 求龍堂 1997 福原義春サクセスフルエイジング対談
  • 『平田医師と永六輔の生きかた講座』平田亮一共著 三笠書房 知的生きかた文庫 1997
  • 『人生万歳』瀬戸内寂聴共著 岩波書店 1998 のち新潮文庫 
  • 『逢いたい』TBS土曜ワイドラジオTOKYO共編 大和書房 1999
  • 『言わねばならぬッ!』三波春夫共著 日本放送出版協会 1999
  • 『日本人対朝鮮人 決裂か、和解か?』辛淑玉共著 光文社 1999
  • 『生きているということは 七円の唄誰かとどこかで』崎南海子,遠藤泰子共編著 朝日出版社 2000
  • 『ことづて 七円の唄誰かとどこかで』崎南海子,遠藤泰子共編著 朝日出版社 2001
  • 『世なおし直訴状』野坂昭如,小林亜星共著 文藝春秋 2001
  • 『読めば読むほど。 子どもたちを<本好き>にする本』永千絵,永麻理共著 くもん出版 2001
  • 『ラジオを語ろう』秋山ちえ子共著 岩波ブックレット 2001
  • 『めぐりあい 七円の唄誰かとどこかで』崎南海子,遠藤泰子共編著 朝日出版社 2002
  • 『あの世心得。』編著 文春ネスコ 2003
  • 『北から、南から 永六輔の「誰かとどこかで」』崎南海子,遠藤泰子共編著 朝日出版社 2003
  • 『愛しい人へ 逢いたい 第2集』TBSラジオ土曜ワイドラジオTokyo共編 大和書房 2004
  • 『歌の力 音楽療法の挑戦!』荒井敦子共著 PHP研究所 2004
  • 『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』矢崎泰久聞き手 飛鳥新社 2006
  • 『この日、集合。 「独話」と「鼎談」』井上ひさし,小沢昭一,矢崎泰久共著 金曜日 2006
  • 『遊びの道巡礼 平身傾聴裏街道戦後史』小沢昭一共著 ちくま文庫 2007 
  • 『色の道商売往来 平身傾聴裏街道戦後史』小沢昭一共著 ちくま文庫 2007 
  • 『バカまるだし』矢崎泰久共著 講談社 2007 のち文庫 
  • 『ふたりの品格』矢崎泰久共著 講談社 2008 のち文庫 
  • 『ふたりの秘密』矢崎泰久共著 ソニー・マガジンズ 2009
  • 『いい医者いい患者いい老後 「いのち」を見つめる二人旅』内藤いづみ共著 佼成出版社 2010
  • 『ぢぢ放談』矢崎泰久共著 創出版 2010
  • 『ははははハハハ』矢崎泰久共著 講談社文庫 2010
  • 『七円の唄 永六輔の誰かとどこかで』崎南海子共編 TBSサービス 2011
  • 『日本に生まれてよかった!』ケン・ジョセフ共著 徳間書店 2011

テレビ番組の一覧[編集]

ラジオ番組の一覧[編集]

CM出演の一覧[編集]

  • 浅田飴
    • 1970年から13年おきに出演。唯一のテレビCM。所ジョージから「僕らから見たら永さんって『浅田飴のおじさん』というイメージしかわかない」と指摘されたというエピソードがある[37]。本人は「13年おきのCM出演は続けます。」と述べている。[38]
  • 桃屋

雑誌・新聞連載の一覧[編集]

  • 現在連載中の雑誌・新聞
    • 週刊金曜日(月1連載・無名人語録)
    • 創 (雑誌)(ぢぢ放談)
    • 毎日新聞東京版(週1回・土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界(同名のラジオ番組と連動した連載))
  • 過去連載していた雑誌
    • サライ(江戸小物に関する連載企画を持っていた)
    • 話の特集(月刊誌・1967年の創刊から1995年の休刊まで連載(無名人語録を連載))

脚注[編集]

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  1. ^ TBSラジオの『永六輔の誰かとどこかで』の中で話した。
  2. ^ a b c 永六輔さんとワンコリアを語る。
  3. ^ 佐藤有一 『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。
  4. ^ 永六輔 『職人』 岩波書店〈岩波新書〉、157-168頁。
  5. ^ 永六輔「八七六倒転輔35」『キネマ旬報』1976年6月上旬号、p.123
  6. ^ 『誰かとどこかで』2010年11月11日放送分
  7. ^ 「永六輔『回らないろれつ』『激やせ15キロ』の孤独生活」『週刊女性』2009年7月14日号
  8. ^ 篠田博之篠田博之のメディアウォッチ 週刊誌を読む:「老い」に率直な感想 永さんら世代の長い活躍願う高野孟のTHE JOURNAL内 2009年8月6日
  9. ^ 「永六輔×矢崎泰久のぢぢ放談 第5回」『創』2009年9月10月合併号、pp.128-129
  10. ^ 「永六輔×矢崎泰久のぢぢ放談 第16回」『創』2010年11月合併号、p.130
  11. ^ a b 永六輔が自宅で転倒し骨折 昨年は衝突事故で軽傷と災難続き msn産経ニュース 2011年11月18日
  12. ^ a b ヒューマンドキュメンタリー 永六輔 戦いの夏 テレビマンユニオン公式サイト内
  13. ^ ヒューマンドキュメンタリー 永六輔 戦いの夏 NHKワールドプレミアム
  14. ^ 永六輔 『大往生』 岩波書店〈岩波新書〉、1994年、122頁 (1992年の『話の特集』8月号からの再録)
  15. ^ 『放送80年 それはラジオからはじまった』NHKサービスセンター
  16. ^ 永六輔 『大往生』 岩波書店〈岩波新書〉、1994年、120頁 (『話の特集』1992年8月号の再録) ・ 124頁 (毎日新聞1992年6月16日の再録)
  17. ^ 久米麗子・久米宏『ミステリアスな結婚』にて
  18. ^ 永六輔 「テレビマンだった父より」『東京新聞』1987年5月21日 (『たかがテレビ されどテレビ』 倫書房、1997年、60-62頁 所収)が、愚痴ひとつこぼさず黙々とレポートし続けていたと、執筆当時フジテレビのアナウンサーであった次女麻理への手紙というスタイルで明かしていた。
  19. ^ 春男の翔んだ空”. 日本映画データベース. 2013年5月13日閲覧。
  20. ^ 大往生”. Movie Walker. 2013年5月13日閲覧。
  21. ^ 新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、皇室寸劇封印事件で同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。
  22. ^ 2003年9月25日 國民新聞
  23. ^ 2001年TBS系『筑紫哲也 NEWS23』にて
  24. ^ 『土曜ワイドラジオTOKYO』2010年11月20日放送分。
  25. ^ 『憲法フェスティバル』2006年5月13日 日本共産党実行委員会
  26. ^ 雑誌『ラジオライフ』復刊号のインタビュー
  27. ^ 『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』 TBSラジオ、2009年10月3日。
  28. ^ 『誰かとどこかで』 TBSラジオ、2008年3月25日。また、『土曜ワイド』内の『TBSラジオショッピング』では、普段はあまり口をはさむことはないが、鯨の缶詰が商品である時には積極的に発言する。
  29. ^ 席亭桂三枝の落語的日常 久しぶりの2011年5月23日 (月)
  30. ^ ただし、文化放送ホームページの「番組史」によれば、1960年に「永六輔の僕でよかったら」が放送されている。
  31. ^ 『さだまさしラジオ・ヴァラエティ CD全16巻』(ユーキャン制作・発売)にも収録されている。
  32. ^ 『高田文夫のラジオビバリー昼ズ そんなこんなで20年』白夜書房、P31。
  33. ^ 『ラジオDEパンチ』VOL02、白夜書房、p6。
  34. ^ 「土曜ワイド」2011年6月4日放送分。
  35. ^ アルバム『六輔 その世界』(EMIミュージック、2002年)他。
  36. ^ 永六輔 『たかがテレビ されどテレビ』 倫書房、1997年、241-246頁。
  37. ^ 永六輔 「十三年ぶりに出演したテレビCF」『東京新聞』1996年10月4日(『たかがテレビ されどテレビ』 1997年、72頁 所収)。
  38. ^ 永六輔が浅田飴のCMに出演したのは1970年1983年1996年である。キャッチフレーズは「咳・こえ・喉に浅田飴」であり1996年版ではでたらめの外国語調でキャッチフレーズを述べている。

関連項目[編集]