看板のピン

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看板のピン(かんばんのぴん)は、古典落語の演目の一つ。看板の一とも表記する。

サイコロ賭博を題材とした噺で、東西で演じられる。

あらすじ[編集]

演者はまず、サイコロの由来について、以下のようにもっともらしく語る。

  • サイコロは、釈迦が説教をする際、人集めのために賭場を開くことを思いつき、その道具として考案したもので、試みはうまくいき、釈迦は賭博の収益で祇園精舎という寺を建てた。だから博打の金を寺銭といい、負ける事を「お釈迦になった」という。

博徒たちが、チョボイチに興じているが、動く金額が少ないため、退屈し始めている。そこへ彼らの親分が現れ、博徒たちは胴元になるよう頼む。親分はこれを承諾する。親分が壺ざるを振って伏せたところ、サイコロがきちんと中に入らず、ピン(=1)の目が出たサイコロが壺ざるの外に転がってしまっているが、「さあ、いくらでも張って(=賭けて)来い。年をとって、目がかすみ、耳が遠くなったが、お前たちには負けない」と言い、気づくそぶりを見せない。それに気づいた博徒達は、全員があり金をピンの目に賭ける。

親分は「みんな揃ったな。では、このサイは片付けよう」と、見えていたサイコロを取り除いてしまう。「これは看板(=見せかけ)のピンだ。壺の中に、本当のサイがある。俺の見立てでは、5が出ているだろう」こう言って親分が壺ざるを上げると、サイコロは親分の言った通り5の目を出していたので、博徒たちは驚く。親分は賭け金を博徒達に返し、「賭けごとなどというものは、こういう具合に、どんな汚い手を使われるかわからない。これにこりたら、もう博打(ばくち)なんてするのではないぞ」といい、賭場を去る。

この場に居合わせて、強く感心したひとりの男は、親分の真似をして儲けようと、他の賭場へ向かう。男が胴元になり、1の目が出たサイコロを壺ざるの外へこぼし、「年をとって、目がかすみ、耳が遠くなったが……」とつぶやいてみせると、周りの者が「お前はまだ26だろう」とからかいつつ、こぼれたサイコロに気づく。賭け子の全員が1に賭ける。男が「これは看板のピンだ。壺の中に、本当のサイがある。俺の見立てでは、5が出ているだろう」と言って壺を上げると、

「中もピンだ」

バリエーション[編集]

  • 親分でなく、彼らとは無関係の、かつて博徒として鳴らした年輩の男を誘う演じ方がある。

関連項目[編集]

主人公が他人の言動を真似して失敗する噺。