前進座

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劇団前進座株式会社
Zenshinza Co.,Ltd.
「前進座」の代名詞でもあった前進座劇場(2008年撮影)
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 前進座
本社所在地 日本の旗 日本
東京都武蔵野市吉祥寺南町三丁目13-2[1]
設立 1937年3月20日[1]
業種 サービス業
法人番号 4012401011109
事業内容 演劇の興行、演劇、映画、放送等への出演[1]
代表者 大久保康雄[1]
資本金 1000万円[1]
従業員数 79人[1]
外部リンク 前進座
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前進座(ぜんしんざ)は、1931年5月22日に創立され、東京都武蔵野市を本拠とする日本歌舞伎劇団である。法人名称は劇団前進座株式会社で、同市吉祥寺南町三丁目13-2に事務所を置く。同地には本拠劇場「前進座劇場」(収容人員500、1982年 - 2013年)を有していた。吉祥寺南町二丁目4には劇団前進座ビルを保有し、前進座附属養成所を開設している。

特色[編集]

創立87年の歌舞伎劇団。(創設時、幹部ではない下級俳優が結成したことから)尾上菊五郎劇団と並び、市井の庶民・江戸っ子をリアルに描く世話物を得意としている。

歌舞伎・時代劇・現代劇・児童劇と多彩なレパートリーで、創設直後から「演劇のデパート」という異名をつけられていた。旗揚げ時から女優陣が多く所属するという異色の編成で、配役の一部を女性が演ずる歌舞伎を出すことも多い。

全国津々浦々を巡回公演しており、日本のはずれでも、地元草の根の観劇団体(演劇鑑賞会市民劇場など)の招聘に応じて第一線俳優が出向いて大劇場と同じ芝居をする。給与制をとっており、興行収入によって、座員の生活を保障する事が創立以来の理念。

自由民主党石橋湛山読売新聞務臺光雄のように保守派から、日本共産党やその心情的支持層、文学・芸能関係者ら(松本清張永六輔山田洋次山川静夫など)、あるいは演劇ファンまで、多種多様な層が前進座の贔屓になっている。

前進座を応援し次代を育てる会として、海音寺潮五郎大佛次郎井上靖松本清張水上勉ら五人の作家が発起人として1968年矢の会を創立、現在に続く。今は無いが「絶対修業」「翫右衛門のむち」という制度があり、出来が悪いと容赦なく鞭が飛んでいた。

創立メンバーの、四代目河原崎長十郎三代目中村翫右衛門五代目河原崎国太郎五代目嵐芳三郎六代目瀬川菊之丞藤川八蔵(藤川武左衛門)・坂東調右衛門ら、7人の劇団の代表的な俳優をさして七人の侍と呼んだ。創立メンバーは松竹と袂を分かった者たちであるが、1933年から現在まで松竹と業務提携関係にあり、毎年1月に南座で共同興行を行っている。

国立劇場は当初、前進座と武智鉄二の公演は拒否してきたが、『さんしょう太夫』は劇界および児童演劇分野の代表的な4賞を重ね、1977年7月国立小劇場で芸術祭賞受賞記念公演を行った。以後、毎年5月に国立大劇場にて公演を行っている。

施設と組織[編集]

現在のもの[編集]

  • 前進座機関誌『月刊前進座』
  • 前進座友の会(愛称『パル』)
  • 俳優養成機関「前進座付属養成所」
  • 前進座東京営業所(主に都内公演を担当)
  • 前進座名古屋営業所(主に名古屋近郊公演を担当)
  • 前進座京都営業所(主に南座公演、京都近郊公演を担当)
  • 前進座大阪営業所(主に大阪近郊公演を担当)
  • 前進座全国営業所(主に地方公演を担当)
  • 前進座映画放送部(主にテレビ・映画出演を担当)
  • 前進座宣伝部
  • 前進座劇場部
  • 前進座文芸演出部
  • 前進座総務経理部
  • 矢の会
  • 武蔵野市立南町保育園 (前進座の私営保育施設を市が受け継いだもの)

過去のもの[編集]

  • 劇場「前進座劇場」(収容人員500・本花道廻り舞台あり)
  • 集団住宅「前進座住宅」+稽古場「前進座演劇映画研究所」(両者は併設されていた)
  • 前進座児童演劇団

年譜[編集]

結成前夜[編集]

1930年
1931年
  • 1月 春秋座旗揚げ公演
  • 5月 春秋座解散、3派に分かれる。

旗揚げ[編集]

1931年
1931年
  • 6月 劇団前進座旗揚げ公演(東京二長町・市村座)。

長十郎体制[編集]

1931年
1932年
  • 市村座の提案で「忠臣蔵」を上演。興行成績は大成功。劇団発足後初めて経済的に潤う。以後歌舞伎に力を入れる
  • 5月 市村座が火事で消失。(再建せず)
  • 劇団前進座はJOAK東京放送局(NHKの前身)に劇団としてユニット出演 以降この形式が貴重な収入源となる
1933年
1934年
  • 2月 国太郎が「お染の七役」を復活(新橋演舞場)

この頃沢村いき雄らが退団

1935年 劇団前進座は日活映画と業務提携
1935年
  • 10月 劇団前進座「悲恋の白拍子」(大阪浪花座)中のラブシーンが警察官に咎められ、検挙されかかる
1936年 劇団前進座の江戸を舞台にした赤毛もの歴史劇「シーボルト夜話」を上演。成功を収める
  • 劇団前進座は歌舞伎十八番より「助六」を上演。長十郎の助六、翫右衛門の意休、国太郎の揚巻。長十郎は本水に浸かった。以後、歌舞伎十八番ものの上演に関しては宗家はぜんぶ許可)
1937年 
  • 劇団前進座は初めて真山青果作品を上演
  • 劇団前進座はPCL映画に劇団としてユニット出演 以降この形式が貴重な収入源となる

集団住宅と絶対修業[編集]

  • 1937年 劇団前進座は集団住宅を東京都武蔵野市吉祥寺に建設 創造(稽古)と生活(住居と食糧(田畑・養鶏))を統合した理想の場を得る
  • 1940年 「絶対修業」がスローガンとして現れる
  • 1941年4月 劇団の総会で「長十郎体制」「翫右衛門の鞭」が定まる
    • 「(四代目)鶴蔵の向こう鉢巻」も
  • 1941年-42年 映画と演劇で「元禄忠臣蔵」が大ヒット。時代物は軍国主義に歓迎された。座の歴史で唯一経営が潤い、贅沢な時期。

この非常時においてもっとも良心的な劇団であると激賞される

  • 1942年 失火で建物の一部を消失
  • 1945年 疎開しながら移動演劇を上演
  • 1945年終戦 劇団前進座は吉祥寺に戻り、9月にラジオ、11月に帝国劇場で公演
  • 1945年 四代目中村鶴蔵死去
  • 1946年 営業・裏方・設営・移動等を俳優自身が行う巡演“青年劇場運動”を開始 

当初は学校を廻っていたが、徐々に全国の労働組合で演ずることが増えてくる。

日本共産党[編集]

  • 1949年3月7日 劇団前進座座員71名が日本共産党に集団入党(のち4人追加)
  • 1952年5月24日 赤平事件
  • 1955年11月 翫右衛門帰国
  • 1960年2月 - 4月 劇団前進座は訪中公演
  • 1966年3月 宮本顕治毛沢東会談決裂。以降日中共産党が厳しい対立へ
  • 1966年8月 - 10月 劇団前進座は訪中公演 この時、中国共産党紅衛兵により台本を改変。同行の他幹部団員から故障が出るも、幹事長権限で強引に押し切る。
  • 1966年11月 劇団前進座は帰国凱旋公演(東京有楽町・よみうりホール)改変された台本のままで上演
  • 1966年12月 劇団前進座は歌舞伎十八番のうち鳴神をオーケストラ伴奏で行うという試みを実現(作曲團伊玖磨
  • 1967年8月 長十郎は日本共産党への離党届を郵送、自ら記者会見をして明らかに
  • 1967年8月 劇団前進座は幹部会を開くも決裂
  • 1967年9月 劇団前進座は座員総会で長十郎幹事長を解任。幹事に降格。新幹事長に五世国太郎。
  • 1968年 「株式会社前進座」設立
  • 1968年7月 劇団前進座は長十郎を除名

積極的な外部出演[編集]

  • 1969年 三船プロ制作『風林火山』に中村翫右衛門と中村梅之助が出演し、大ヒット。付属養成所開設
  • 1970年 映画放送部新設 以降、座員がテレビや映画や舞台の外部出演で大忙しになる。梅之助が『遠山の金さん捕物帳』に主演。1973年まで続く人気ドラマとなる。
  • 1973年 梅之助が日本テレビ『伝七捕物帳』に主演。1977年まで続く人気ドラマとなる。
  • 1977年 梅之助がNHK大河ドラマ花神』で主演。毎日放送のテレビドラマ「獄門島」(主演古谷一行)で、国太郎、翫右衛門と、河原崎長一郎(長十郎の長男)が共演。
  • 1980年12月 初めて東京・歌舞伎座に進出
  • 1981年8月 初めて東京・国立劇場大劇場に進出
  • 1981年12月 初めて東京・日生劇場に進出
  • 1982年 調右衛門死去
  • 1982年 翫右衛門死去
  • 1982年 全国からの「一億円募金」が実り、建設された前進座劇場が落成
  • 1985年 幹事長が国太郎から梅之助に交代
  • 1989年、鸚鵡籠中記を原案にした 『元禄御畳奉行の日記』を宣伝部から刊行
  • 1990年 五世国太郎死去
  • 1992年 新田次郎原作『怒る富士』を公演、伊奈半左衛門役の嵐圭史文化庁芸術祭賞受賞
  • 1992年 「劇団前進座株式会社」発足。組織を新会社に一本化。代表は梅之助、幹事長は圭史。
  • 1997年 第4回坪内逍遙大賞 受賞
  • 2003年 井上靖原作「天平の甍」を中華人民共和国(北京・上海・揚州)で公演。
  • 2010年 「歌舞伎十八番の内 鳴神」「狂言舞踊 茶壷」「法然と親鸞」をアメリカ合衆国(ロサンゼルス・サンフランシスコ・ホノルル)で公演。
  • 2011年 幹事長が圭史から藤川矢之輔に交代
  • 2016年 梅之助死去 

前進座劇場[編集]

概要[編集]

集団住宅を一部取り壊し、敷地の一部に前進座劇場を新設した。残りを武蔵野市に売却。市は、吉祥寺南町コミセンを建設した。

2012年3月2日、隣接する吉祥寺南病院の施設拡張に協力するため、病院側に前進座劇場の敷地を譲渡すること並びに、2013年1月の公演を以て劇場を閉鎖することを発表した[2]

2013年1月9日、前進座劇場ファイナル公演『三人吉三巴白浪』をもって閉館。30年にわたる劇場の歴史に幕を下ろした。新しい本拠地については、当面、慣れ親しんだ吉祥寺を軸に、既存の劇場で公演活動を継続していく[3]

公演の例[編集]

貸し会場としても使用していた。公演されたものは以下のとおり。

  • 松竹歌劇団公演(1983年、同年7月には歌舞伎座特別公演も行っている)
  • 志村けんのだいじょうぶだぁ舞台公演(1990年)
  • 会津士魂外伝・山本覚馬(1991年)
  • 「やっぱりコント55号」公演(1992年6月)
  • 舞台 (1993年、前進座で上演し、ロングラン公演)
  • 劇団そら 「スペースモンキー」 旗揚げ公演 (1993年9月)
  • 山ホトトギスほしいまま』(1993年11月、1995年7月・前進座劇場・立沢雅人演出作品)
  • 南青山少女歌劇団公演『放課後のトワイライトシュート』 (1994年12月21日 - 23日)
  • 劇団櫂創立二十五周年記念 第一回花柳辰日女舞踊会『櫂〜二十五年の波の音〜』(2001年5月)
  • SIMPLE SOUL(2002年、ジョビジョバの活動停止前最後の舞台)
  • 前進座劇場 『春告鴬(うぐいす)』(2003年、三松座)
  • ミュージカル『アルプスの少女ハイジ』(2003年)
  • SYU - RA 〜仕留めて候(2003年)
  • ヘロヘロQカムパニー「SYU-RA」(2003年)
  • Yo-Jin-Bo 蒼月城の魔剣 (2005年2月4日、5日)
  • 前進座創立75周年記念公演「佐倉義民伝」
  • ミュージカル『足長おじさん』(2006年7月15日)
  • 冠船流川田禮子芸歴70周年記念公演「川田禮子の世界」(2007年)
  • 龍の子太郎(2007年 製作が劇団前進座、脚色は山本響子 )
  • 四国八十八箇所 夢へんろ 〜どんな時も希望をすてず〜 (2007年6月、前進座の他松山市民会館中ホール。主催:みかん一座他)
  • アイドルマスター Radio For You! (2008年)
  • 解脱衣楓累 (2008年 大阪、名古屋、浅草と前進座で公演)
  • 鈴村健一の超人タイツ ジャイアント 微妙にスケジュールがあいませんでした〜SAKURAI〜/〜IWATA〜(2008年5月24日、25日)
  • 「歓喜〜よろこび〜の歌」(2008年11月22日 - 30日、2010年)
  • 八つ墓村 (2008年12月10日 - 14日、劇団ヘロヘロQカムパニー)
  • 月山が見ている(2009年 前進座ほか仙台・山形等で上演)
  • だいず岸尾だいすけ ソロイベント(2009年3月22日)
  • 舞台「桜SAKURAサクラ」(2009年3月25日 - 31日)
  • 「車椅子の結婚式」(2010年4月)
  • 100LIFE ワンハンドレッドライフ』(2010年4月23日 - 25日、オフィスインベーダープロデュース)
  • 舞台「GRIPPE PRODUCE Vol.2 デビルマン-不動を待ちながら-」 (2010年7月16日 - 19日 全7公演)
  • 悪魔が来りて笛を吹く (2010年8月8日 - 14日)
  • 劇団VitaminX 〜Legend of VITAMIN〜(2010年9月26日~10月4日 演出:なるせゆうせい
  • 兼崎健太郎 27th Birthday Event 2011東京公演(構成・演出・司会:伊勢直弘
  • 「gratitude〜Endless Love〜」(2011年)
  • Program vol.1 『堕天・神殿・遅咲きの蒼』(2011年4月27日~5月5日)
  • チョコレートガールズ2 ~チョコレートガールズVSアズキガールズ~(2011年2月9日~14日)
  • 劇団「秦組」 vol.4 らん―2011New version!!―(2011年5月22日~29日、企画製作:有限会社OFFICEBLUE)
  • 十六夜清心 ~花街模様薊色縫~(2011年7月)前進座劇場のほか新歌舞伎座などで公演。松井誠座長
  • 前進座劇場ヘロヘロQカムパニィ公演「修羅」「修羅 煉」小金丸大和

エピソード[編集]

赤平事件[編集]

1952年5月24日北海道赤平町で、劇団前進座の「俊寛」巡演(翫右衛門の俊寛)が警察ぐるみの組織で妨害され、巡演当日で観客も会場に集まっているのに上演の約束をキャンセルされた。会場で上演中止の挨拶を行ったことを家宅侵入罪として一行の一部を逮捕し、翫右衛門にも逮捕状を出して手配したという事件。その後翫右衛門は、一週間以上、警察から逃れて地下に潜る逃亡生活を送りながら、舞台にはちゃんと拵えをして俊寛として出るという離れ業を演じ、「神出鬼没の翫右衛門」と異名をとる。実際には、このとき演技についての論文も執筆していた。

翫右衛門の中国逃亡[編集]

太平洋地域平和会議[編集]

中国共産党の大衆組織が、1952年10月に、北京で国際会議「アジア太平洋地域平和会議」を開こうと全世界に呼びかけた。 親中派として知られる大山郁夫(戦前の労農党委員長)、日本社会党松本治一郎アナキスト神近市子マクロビオティックで知られる桜沢如一というメンバーが日本代表として訪中することが決まった。

  • この際、日本外務省パスポート発給を拒み、発給を要求する訪中団に対して民間防衛組織が外務省内で刃物で切りつける(9月19日)など、騒然たる状況であった

日本政府の拒否の態度が覆らないと見るや、9月下旬、突如数人の日本人が北京で発見され、それらの人が松本らに代わる日本代表団として会議に臨むことになった。その中の一人が翫右衛門だった。北京にいたのだ。結局、翫右衛門が松本の代理として会議参加を務めた。

猿之助訪中[編集]

1955年国慶節に中国で歌舞伎公演を行うべく2代目市川猿之助一座が大阪歌舞伎座社長松尾國三を帯同して訪中。11月7日、猿之助は翫右衛門を連れ立って帰国した。帰国に当たっては松本治一郎ら社会党だけでなく久原房之助ら財界人も含め身元引受人となった。翫右衛門は裁判にかけられ、有罪ではあったものの執行猶予を勝ち取った。

主な座員[編集]

第一世代[編集]

第二世代[編集]

第三世代[編集]

文芸演出部[編集]

主な出身者[編集]

主な映画[編集]

座として製作に関与した映画、座としてユニット出演した映画のうち、主なもの。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

(前進座歌舞伎役者の名跡)

関連人物

脚註[編集]

外部リンク[編集]