中村歌右衛門 (5代目)

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ごだいめ なかむら うたえもん
五代目 中村 歌右衛門
Utaemon Nakamura V.jpg
屋号 成駒屋
定紋 祇園守 Narikoma-ya Gion-mamori inverted.png
生年月日 1866年2月14日
没年月日 (1940-09-12) 1940年9月12日(74歳没)
本名 中村榮太郎
襲名歴 1. 初代中村兒太郎
2. 成駒屋四代目中村福助
3. 五代目中村芝翫
4. 五代目中村歌右衛門
俳名 魁玉・梅玉・梅苔
出身地 江戸本所請地
四代目中村芝翫
河村たま
成駒屋五代目中村福助
六代目歌右衛門
当たり役
京鹿子娘道成寺』の白拍子花子
桐一葉』『沓手鳥孤城落月』などの淀君
助六所縁江戸桜』の三浦屋揚巻
楼門五三桐』の石川五右衛門
 他多数

五代目 中村 歌右衛門(ごだいめ なかむら うたえもん、1866年2月14日慶応元年12月29日) - 1940年昭和15年)9月12日)は、明治から大正、戦前昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号成駒屋定紋祇園守、替紋は裏梅俳名に魁玉・梅玉・梅苔。 大向うからは大成駒屋(おおなりこまや)の掛け声がかかった。本名は中村 榮太郎(なかむら ひでたろう)。

来歴[編集]

幕府の金座役人土方政五郎の子として江戸本所請地に生まれる。実母は野村かう、幼名野村榮次郎と称した[1]。1875年(明治8年)四代目中村芝翫の養子となり、初代中村兒太郎として1年後甲府三井座『伊勢音頭恋寝刃』(伊勢音頭)の油屋息子で初舞台[2]。1881年(明治14年)『須磨都源平躑躅』(扇屋熊谷)の桂子で四代目中村福助を襲名。生まれついての美貌と品のある芸風で東京・大阪で人気を集め、新進気鋭の若手として注目される。1884年(明治17年)『助六所縁江戸桜』では三浦屋揚巻に抜擢され、九代目市川團十郎の助六の相方をつとめる。以後、團十郎や五代目尾上菊五郎の相方を務める。1887年(明治20年)には井上馨邸で行われた天覧歌舞伎もつとめ、歌舞伎の次世代を担う旗手としての存在を確立する[注釈 1]。この頃はすでに鉛毒(後述)を発症して不自由な体に苦しめられていたが、程なく演技力で補うことに成功する。

1901年(明治34年)5月『六歌仙容彩』(六歌仙)の小町、『楼門五三桐』(山門)の石川五右衛門などで五代目中村芝翫を襲名。1904年(明治37年)3月、東京座で坪内逍遥作の『桐一葉』が初演された際には淀君をつとめて大評判となり、これが終生の当り役のひとつとなる。

『助六』の三浦屋揚巻
成駒屋四代目中村福助時代。豊原国周 画『江戸櫻』(1896年(明治29年)五月東京歌舞伎座上演)大判錦絵。

1911年(明治44年)11月、歌舞伎座『京鹿子娘道成寺』の白拍子花子ほかで五代目中村歌右衛門を襲名。

以後、歌右衛門は十五代目市村羽左衛門十一代目片岡仁左衛門とともに「三衛門」と呼ばれ、團菊左亡きあとの歌舞伎を支えた。また歌舞伎座幹部技芸委員長の要職も勤め、歌舞伎伝統芸能の発展と向上に尽力した。後には東京俳優組合の発足に寄与、これが大日本俳優協会に発展し、五代目はその初代会長をつとめている。

1931年(昭和6年)10月の歌舞伎座で鴈治郎と舞台を共にした『山門』の五右衛門が、東西成駒屋の火花を散らす舞台として有名。また、晩年の1936年(昭和11年)11月歌舞伎座で行われた「三代目中村歌右衛門百年祭」には東西の大看板が集まり、五代目は『日招きの清盛』で総勢90名の役者の真ん中に王者のように座して清盛をつとめたが、その立派さは後世の語り草となった(その舞台を収録したフィルムが発見されている)。

芸風・人物[編集]

『沓手鳥孤城落日』の淀君

晩年の写真(興行の日時詳細等不詳)。
成駒屋 中村家の墓

鉛毒で不自由になった身体を押して舞台に立ち「東西随一の女形」と呼ばれた。動かない身体を科白廻しの巧さで補って観客を陶酔させた。いくつかの当り役はレコードに吹き込まれて今日でも聴くことができる。

当り役は多く、時代物では『本朝廿四孝』「十種香」の八重垣姫、『鎌倉三代記』「絹川村」の時姫、『祇園祭礼信仰記』「金閣寺」の雪姫、『伽羅先代萩』の政岡、世話物では『助六』の揚巻、『籠釣瓶』の八つ橋、『新版歌祭文』「野崎村」のお光、新作では『桐一葉』『沓手鳥孤城落月』の淀君などがあり、これら女形の型が今日に至るまで手本となっている。

また立役では、前述の五右衛門のほか、若き日に明治天皇の天覧歌舞伎で勤めた『勧進帳』の義経、『寿曽我対面』の工藤、『』のウケ、『菅原伝授手習鑑』「車引」の時平、『双蝶々曲輪日記』「角力場」の濡髪なども堂々たる押しだしで見事にこなした。

五代目歌右衛門は淀君を生涯の当り役としたが、これをお家芸としてまとめたのが「淀君集」である。

東西歌舞伎の重鎮らしく、東京千駄ヶ谷の自宅は3000の敷地に200坪の屋敷、門から母屋まで30メートルもある壮大なもので、多数の使用人と警備の警官までおいていた。屋敷前のバス停も「歌右衛門邸前」だった。

芸談に『魁玉夜話』(安部豊 編)。子に早世した成駒屋五代目中村福助六代目中村歌右衛門がいる。墓所は多磨霊園

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 4月26日。『歌右衛門自傳』伊原敏郎編、秋豊園出版部、1935年、p.80

出典[編集]

  1. ^ 『歌右衛門自傳』伊原敏郎編、秋豊園出版部、1935年、p.13、p.15、p.341
  2. ^ 『歌右衛門自傳』伊原敏郎編、秋豊園出版部、1935年、p.33、p.341