松本治一郎

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松本 治一郎
まつもと じいちろう
1920年代中頃の松本治一郎
生年月日 1887年6月18日
出生地 日本の旗 日本 福岡県那珂郡金平村
没年月日 (1966-11-22) 1966年11月22日(79歳没)
出身校 錦城中学校中退
前職 松本組社長
全国水平社中央委員会議長
初代部落解放同盟執行委員長
初代日本中国友好協会会長
所属政党社会大衆党→)
翼賛政治会→)
(無所属→)
日本社会党→)
(無所属→)
左派社会党→)
日本社会党
親族 甥・松本英一
養孫・松本龍(英一の長男)
姪の長女の夫・楢崎弥之助
姪の孫・楢崎欣弥

在任期間 1947年5月20日 - 1949年2月24日
議長 松平恒雄

選挙区 全国区
当選回数 4回
在任期間 1947年5月3日 - 1949年2月24日
1953年5月3日 - 1966年11月22日

選挙区 福岡県第1区
当選回数 3回
在任期間 1936年2月21日 - 1945年12月18日
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1953年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙で当選したときの松本治一郎、世界通信より

松本 治一郎(まつもと じいちろう、1887年明治20年〉6月18日 - 1966年昭和41年〉11月22日)は、日本政治家実業家。部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟からは「部落解放の父」と呼ばれる[1]堂々たる顎髭の風貌から「オヤジ」と呼ばれ親しまれた[要出典]。元参議院副議長。

経歴[編集]

福岡県那珂郡金平村(現在の福岡市東区馬出)に生まれる。出生名は松本 次一郎[2]。父・次吉(村会議員)、母・チエの末子(五番目の子)で、上には兄二人(上から治七、鶴吉)、姉二人がいた[3]。治一郎は後年、60歳のとき「私は被圧迫部落貧農の子として生まれた」と語っている[4]。父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業(履物下駄雪駄など)の製造・販売)にも取組んだ[4]。次吉はそれら履物の原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売る仲買の仕事をして現金収入を得ていた[4]。次吉は村全体が貧しい中で、よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた[4]

1900年に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園や京都の旧制干城中学校(後に廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を中退。

1907年大連へ渡り、大道易者や偽医者として生計を立てる。1910年、日本総領事に強制送還されて帰国。

1911年、土建業松本組を創業。配下には高松弥太郎などの九州きっての暴れん坊たちが揃っており藤田五郎の「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。

1921年、筑前叫革団を結成。同年、福岡藩初代藩主黒田長政三百回忌に際して半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。

1923年、九州水平社の委員長となる。1925年全国水平社中央委員会議長に就任。

1926年より福岡連隊差別事件への糾弾闘争を指導。また被差別部落民が苦しんでいるのは徳川幕府に責任があるとの思想から、1927年徳川家達公爵への爵位返上勧告闘争を指導。のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって懲役4ヶ月の実刑判決を受け、下獄する。なお、この闘争に影響された人物(浜嘉蔵)が後に徳川邸に放火し、全焼させている(徳川事件)。

1929年、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。

1936年から衆議院議員(当選3回)。当選早々に衆議院で「不当に特権を得ている華族の存在が部落民が不当な差別を受ける原因であり部落解放のためには華族制度を廃止すべし」と質問した(当時は二・二六事件の直後であり、陸軍大臣伯爵寺内寿一であった)[5]

1940年斎藤隆夫反軍演説による衆議院議員除名に反対し、本会議を欠席。所属する社会大衆党党首の安部磯雄鈴木文治片山哲西尾末広水谷長三郎らとともに、書記長麻生久により党員除名処分となる。

1942年、衆議院議員に翼賛政治体制協議会推薦で当選。これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが[6]鳩山一郎三木武吉といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本が公職追放された際にも「翼賛会推薦議員」というのが理由の一つになっている。

1946年、翼賛議員であったことから一旦公職追放されるが、連合国軍最高司令官総司令部からの「松本と尾崎行雄の2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除[6]GHQと密接につながり、巨万の富を蓄えた特殊慰安施設協会(RAA)の経営陣の一人であった[7]。しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣吉田茂の妨害によって第22回衆議院議員総選挙への立候補届出には間に合わず、翌年の第1回参議院議員通常選挙に立候補することになる[6]。その間に部落解放全国委員会委員長に就任する。

1947年、参議院議員で初当選(当選4回)。初代参議院副議長に就任。日本社会党左派の平和同志会の領袖として知られた。資金や運営の面でも貢献は大きく、資金力では平野力三と並んで社会党の双璧とされ、終戦直後の社会党左派の議員会合はよく治一郎の東京事務所を使用しており酒や食事の費用もすべて治一郎が持っていたという(もっとも、本人の当時の日常の食事は雑炊古米だった)[8]。なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「部落出身の自分を議長にしないために保守派の連中が緑風会をつくって第一党にしてそこから議長(松平恒雄)を出した。衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来衆議院議長が社会党の松岡駒吉になったように、私が部落出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」と徳川夢声との対談で語っている。

1948年1月21日、参議院初代副議長時代、天皇への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した(カニの横ばい拒否事件[9]。しかし、その後で内閣総理大臣となった吉田によって、再度公職追放される(この時はレッドパージ)。1951年に追放解除。

1953年日本中国友好協会初代会長に就任。

1955年、部落解放全国委員会を部落解放同盟と改称し、初代執行委員長に就任。

1964年勲一等授与の対象者に選ばれたが拒否。

  • 「権力と闘ってきた私を、なんと考えておるのか。天皇から叙勲式とか親授式とか、そんなことができるなら、この松本の闘争は存在しなかったはずだ。勲章を欲しがり、権威をふりまわそうとする。この考えが部落差別を残すことにつながっている」(勲一等拒否の弁)[10]

1966年に死去するまで、部落解放運動の中心人物であり続けた。

墓所は青山霊園解放運動無名戦士墓

人物像[編集]

「偽医者」問題[編集]

大連滞在当時、松本が「大日本国一等軍医監」を名乗って偽医者を続けていたことにつき、部落解放同盟は『松本治一郎伝』の中で「行く先々で近代的医療から見放された人々から歓迎され」た[11]と記しているが、金靜美は「もし、松本治一郎が、日本帝国主義者の中国侵略に批判的であったなら、『大日本国一等軍医監』と自称することはできなかっただろう」「松本は、日本侵略軍に所属する医者であるかのようにふるまい、中国民衆を『治療』し、金銭を得ていた。あやまった『医療』は、しばしば人命にかかわることがある。松本はなぜ、中国では、このような詐欺をおこない、日本ではおこなわなかったのだろうか」[12]と松本の中に中国人に対する差別意識があると批判している。もっとも、松本自身は「私は打診聴診はできないけれども、視診なら今でも自信がある」と後年自称していたという[13]

戦争協力問題[編集]

1942年4月、福岡県第一区の候補に翼賛政治体制協議会から推薦されて立候補したときは、選挙公報の中で「仕事の為には汗を流せ、人の為には涙を流せ、御国の為には血を流せ」「お互は飽くまで米英を打倒し、アングロサクソンの世界制覇を覆滅すべく、一億一心国を挙げて老も若きも鉄火の一丸となり、如何なる困難の中にも突入し且つ此れを突破して、必勝不敗の態勢を完成せねばなりませぬ」と挨拶した[14]。 翼賛議員としては、東條政権による朝鮮人徴兵法案(「兵役法中改正法律案」)の法制化に賛成(1943年2月12日)。1943年6月14日、天皇主義的な議員集団「八日会」の結成に発起人の一人として参加[15]中野正剛赤尾敏らと共に結成式に出席し、「激励的発言」をおこなった[16]

大東亜戦争」の開始日(1941年12月8日)に由来する名称を持つこの八日会の「信条」は、「我等は一切の行動を国体の本義に発す」「我等は大詔を奉戴し断じて戦ひ断じて勝つの信念を以て行動す」というものであった。帝国議会予算委員としては戦時予算の全てに賛成するなど積極的に戦争協力していたが[17]、敗戦後は突如として軍国主義を指弾する側に転じ、「私は戦争中は全水運動と共に、反戦的な言葉をつねに洩らし戦争の負けることを語つていた」[18]、「私はいつも反戦的な思想を表明していたわけであつた」「私は根つからの反軍国主義者であり、民主主義者である」[19]と語るようになった。

1953年1月1日ビルマラングーンでひらかれたビルマ社会党主催のアジア社会党大会歓迎市民大会で日本社会党左派の代表者として演説。このとき「日本は経済的発展をとげるにつれて、自からが天皇制フアツシズムによつて侵略者にかわり、あの悪魔のような戦争をまき起しアジヤの多くの国に多大の犠牲と損害とをあたえたのであります。勿論、われわれ社会主義者はこの戦争に対して反対したのでありますが」[20]と述べ、やはり自らの戦争協力の過去を偽った。

この点について、吉本隆明1971年6月3日、「6・3政治集会(共産同政治集会)」(豊島公会堂)での講演で次のように批判している。

部落解放同盟やその同伴者は、蔭でこそこそ悪口をたたきながら、真正面から戦いを挑むことができないわけです。

部落解放同盟が、戦争中に、ごく普通の生活者以上に、如何に積極的に戦争遂行のイデオロギー的尖兵と化したかという問題を何ら反省せず、ほうかぶりして、ぬけぬけと戦後にやって来て、『差別解放運動ひたすら数十年』などという神話をつくりあげ、いまだに『言葉の使い方が悪い』などというつまらぬことを摘発して、もともと何の存在価値もない進歩知識人を脅すことを商売にしているというような閉鎖性を自ら作り出しているのです。

もちろん、解放同盟の心理的規制(ママ)というのは、よく理解できるのですけれども、しかし、最も差別されて、かつ、最も閉鎖的であるが故に、その衝動性が、逆に普通より以上に、権力に迎合していこうとする、いわば、『逆転の契機』というものを持っているという問題に対して、何ら反省なく、自然に戦後にすべりこんでいることが重要な問題だと僕には思われます。

問題は、論理的一元論、ないしは、差別構造自体を内部から固定化し共同化しようとすることのなかに、『理念の逆転』の契機がふくまれていることです。[21]

福岡空港利権問題[編集]

板付飛行場(今の福岡空港)の拡張を予想して周辺の土地を買占め、それを空港用地として国に貸し付けた。地権者の筆頭である松本一族らへの地代総額は年間80億円にも達するという[22]。福岡空港の土地建物借料は日本全国の空港の中でも突出して高額である[23]

暴力団との関係[編集]

明治時代から福岡に暖簾を張っていた暴力団「梅津会」の初代梅津高次郎の舎弟分であった[24]。梅津は福岡県水平社の初代委員長であり、博多毎日新聞社襲撃事件(1916年6月、部落民400名以上が博多毎日新聞社の記事に憤激して同社を襲撃し、ガラスを割り、活字台をひっくりかえし、机や椅子を投げる騒ぎとなって印刷工一人を負傷させ、騒擾罪で検挙され、47人が有罪判決を受け、首謀者3人が懲役1年の実刑となった事件)の中心人物でもある。

批判[編集]

松本は生前、第10回部落解放委員会全国委員会会議(1955年8月27-28日)で大阪府連代表の錦織喜一から「松本天皇制を打倒しない限り、部落解放運動の民主化はありえない」と批判されたことがある[25]岡映もまた「正直言って私は戦後の松本委員長を見てきて、錦織と同じ気持ちにさせられていた。それは、たとえば関東地方を支配していた『エタ頭』弾左衛門をほうふつとさせ、今日の民主的な運動の指導者の人物像からはほど遠いものがあった。また、松本委員長自身も強調していた『人間による人間支配を打破する』ことが、組織内でも委員長自身によって踏み破られていることへの嫌悪感は、錦織喜一ならずとも、大会などでの横暴な場面を見るにつけたれもが抱いたのである」、「松本治一郎委員長は神格化され、水平運動における特等席、すなわち、彼が口汚く悪罵してきた天皇と同じ高御座(たかみくら)に座してきた」[25]と述べている。

一族[編集]

生涯を通じて独身であり、もちろん妻子はいなかった。博多芸者を落籍して妾宅を構え、腹心の者にも絶対の秘密にしていたが、やがて水平社同人に妾の存在が露見して話題にされ「この問題の段になると主義主張の手前、何となく恥しそうな顔をするとの話があった」[26]と伝えられる。

甥の松本英一を養子として迎え、自身が創業した土建業松本組を継がせている。英一は治一郎の没後に参議院議員となった。英一の子・松本龍は元衆議院議員。その弟・松本優三は松本組社長。

また、衆議院議員の楢崎弥之助は被差別部落出身ではなかったが治一郎の姪の長女と結婚[27]。その息子が衆議院議員の楢崎欣弥である[27]

治一郎の妹は、治一郎の片腕で全国水平社書記局長、部落解放全国委員会書記長を務めた井元麟之と結婚[28][29]野本武一の長女は井元の甥と結婚している[28]

なお、治一郎の姪は松本組支配人の山田本蔵の妻[30]。本蔵の妹が北原泰作の妻である[30]

さらに、松本吉之助(全九州水平社の指導者、福岡県議会議員)の妻の叔父は柴田啓蔵(全九州水平社創立者のひとり)の父である[31]。また松本吉之助の姉婿は花山清(全九州水平社創立者のひとりで福岡県議会議員)である[31]。花山清の親類に全九州水平社の高丘松蔵がおり、松蔵の妻は松本治一郎の実妹である[31]

語録[編集]

  • 「不可侵不可被侵(侵さず侵されず)」[32]
  • 貴族あるところ賎族あり。」[33]
  • は飲まない。タバコは吸わない。バクチをしない。妻帯しないし、女性を買わないネクタイをしない」(この五戒を若い頃は別として生涯堅持したという)[34]
    • 若い頃は酒豪かつヘビースモーカーであったが、三十代半ばの頃の拘留を機に「獄中では人間の欲望は敵である、社会運動をやる者は万年被告の心構えが必要」と禁酒禁煙に踏み切った[35]
  • 「権力と闘ってきた私を、なんと考えておるのか。天皇から叙勲式とか親授式とか、そんなことができるなら、この松本の闘争は存在しなかったはずだ。勲章を欲しがり、権威をふりまわそうとする。この考えが部落差別を残すことにつながっている」(勲一等拒否の弁)[10]
  • 「私の闘ってきた相手は君ではない。君の背後にあるものだ。君が悪かったと反省しているならそれでよい」(戦後になってわびを入れてきた元刑事に)[36]

選挙歴[編集]

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第1回参議院議員通常選挙 1947年4月20日 全国区 日本社会党 415,494 ' 4/258 - -
第3回参議院議員通常選挙 1953年4月24日 全国区 左派社会党 368,985 ' 7/234 - -
第5回参議院議員通常選挙 1959年6月2日 全国区 日本社会党 426,586 ' 22/123 - -
第7回参議院議員通常選挙 1965年7月4日 全国区 日本社会党 548,022 ' 27/99 - -
当選回数4回 (参議院議員4)

著作[編集]

  • 『第六十九特別議会闘争報告書』北原泰作、1937年1月。全国書誌番号:44056495 
  • 『部落解放への三十年』近代思想社、1948年9月。 NCID BN04360047全国書誌番号:46013338 全国書誌番号:48006021 
  • 『西欧・北アフリカ・中近東をめぐりて ――民族解放のいぶき――』解放新聞社、1956年6月。 NCID BA31733724 
  • 『松本治一郎対談集 不可侵不可被侵』解放出版社〈部落解放新書 1〉、1977年3月。 NCID BN03104303全国書誌番号:77017014 

作品[編集]

銅像[編集]

  • 福岡県部落解放センター(福岡市)

脚注[編集]

  1. ^ 【建設】松本龍氏落選の衝撃~建設業界の変化に左右された福岡1区”. ネットアイビーニュース (2012年12月20日). 2015年5月24日閲覧。
  2. ^ 徳川公爵暗殺陰謀事件の大審院判決(1926年(れ)第1974号)に「土木請負業治一郎事 松本次一郎」とある。『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、329頁。
  3. ^ 福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』20頁。
  4. ^ a b c d 福岡県人権研究所著『西日本人物誌(16) 松本治一郎』21頁。
  5. ^ 高山文彦「水平記」下巻、P29、新潮文庫
  6. ^ a b c 「世界伝記大事典5 日本・朝鮮・中国編」(ほるぷ出版、1978年
  7. ^ 『正論』2011年9月号「折節の記」
  8. ^ 「松本治一郎伝」P276~278
  9. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、24頁。ISBN 9784309225043 
  10. ^ a b 「松本治一郎」P252
  11. ^ 『松本治一郎伝』p.24
  12. ^ 金、pp.451-452
  13. ^ 「松本治一郎」P48
  14. ^ 金『水平運動史研究──民族差別批判』pp.352-353
  15. ^ 金、pp.637
  16. ^ 『特高月報』1943年6月分、pp.36-39
  17. ^ 金、pp.355-359
  18. ^ 1947年の発言。松本治一郎「荊冠旗は血に染む 水平社運動廿五年」、『政界ジープ』ジープ社、1947年9月、p.6
  19. ^ 1948年の発言。松本治一郎「衆議院より参議院へ」、松本治一郎・部落解放全国委員会『部落解放への三十年』近代思想社、1948年、p.204、p206
  20. ^ 松本治一郎「全アジア水平運動のために ビルマからインドへ」(一)、『部落』第40号、1953年2月、pp.9-10
  21. ^ 講演「『世界─民族─国家』空間と沖縄」(『敗北の構造―吉本隆明講演集』弓立社、1989年)
  22. ^ 正論』2011年9月号「折節の記」
  23. ^ グラフで見る空港別収支の内容
  24. ^ 『公安百年史: 暴力追放の足跡 : 極左・極右・暴力団総会屋資料の最新版』453ページ(公安問題研究会、1978年)
  25. ^ a b 岡映『荊冠記』第二部「黎明」232-233頁
  26. ^ 『部落問題・水平運動資料集成』第1巻、217頁。
  27. ^ a b 岩尾清治『遺言・楢崎弥之助…命ひとすじ』p.50
  28. ^ a b 丸山友岐子『解放への飛翔』(部落解放同盟埼玉県連合会)181頁
  29. ^ 井元 麟之(読み)イモト リンシコトバンク
  30. ^ a b 『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』286頁
  31. ^ a b c 松本吉之助『筑豊に生きる』220頁
  32. ^ 部落解放新書1・松本治一郎対談集(解放出版社)
  33. ^ 井上清/北原泰作・著『部落の歴史―物語・部落運動解放史』理論社。同文中で“人間神を作るために人間獣が作られる”と解説されている
  34. ^ 「松本治一郎」P49
  35. ^ 「松本治一郎伝」P82
  36. ^ 「松本治一郎」P200

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

議会
先代
創設
日本の旗 参議院副議長
初代:1947年 - 1949年
次代
松嶋喜作
その他の役職
先代
創設
日本の旗 日本中国友好協会会長
初代:1953年 - 1967年
次代
黒田寿男