黒田寿男

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黒田寿男

黒田 寿男(くろだ ひさお、1899年4月14日 - 1986年10月21日)は、日本の政治家弁護士1948年結成の労働者農民党の初代主席。元衆議院議員

来歴・人物[編集]

岡山県津高郡金川村(現・岡山市北区)出身。第六高等学校東京帝国大学法学部を卒業。在学中に新人会で活動し、法曹資格を得て後は自由法曹団労働運動農民運動を支援した。

1936年に行われた第19回衆議院議員総選挙に岡山県選挙区から全国農民組合の支援を受けて出馬。当選するものの翌1937年人民戦線事件加藤勘十とともに検挙、政界から追放の憂き目に遭った。

戦後、日本社会党の結成に参加。最左派として衆議院予算委員会理事・農林委員会委員を歴任するが、芦田均内閣の予算案に最左派の黒田ら6人が反対して造反したことを理由に、石野久男岡田春夫園田天光光園田直の妻)らとともに党から除名された。黒田ら除名処分を受けた議員は1948年労働者農民党を結成し、黒田は主席に就任した。結党宣言では社会党を「階級闘争を放棄し(中略)ブルジョア第三党に転落した」とマルクス主義の立場から痛烈に批判。一方、日本共産党には「日本民主革命のために闘いつつある」と一定の評価をしつつ、「独善的偏向をもち(中略)極左的闘争主義の傾向が見られ、この結果勤労大衆の利益は日本共産党だけでは確保されない」と結論づけた。1954年、黒田は代表団を率いて朝鮮戦争停戦後はじめて朝鮮民主主義人民共和国を訪れ、「朝鮮戦争の悲惨な現状と、祖国の独立と自由のために戦った朝鮮人民の英雄的な姿を日本国民に報告したい」と語り、日朝友好運動に貢献した。社会党・共産党との間の統一戦線を目指したが、園田らが党を離脱したりするなど党勢が伸び悩み、自らが支持基盤としていた日本農民組合では共産党との指導性をめぐって内部分裂が起きてしまい、結局1957年に労農党は解散、黒田らは社会党に復帰した。

その後、岡山県第1区にて日中国交回復直後の1972年の衆議院解散まで衆議院議員。総選挙での落選後に政界を引退し、後継として矢山有作が衆議院議員を3期務める。

日中友好協会会長などの要職を歴任した。毛沢東鄧小平周恩来などとも独自のパイプを築いていたといわれる。

1986年10月21日、急性肺炎のため死去[1]享年87。

脚注[編集]

  1. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)11頁

関連項目[編集]