第27回衆議院議員総選挙
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第27回衆議院議員総選挙 | |||
---|---|---|---|
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 | ||
解散日 | 1955年(昭和30年)1月24日 | ||
解散名 | 天の声解散 | ||
公示日 | 1955年(昭和30年)2月1日 | ||
投票日 | 1955年(昭和30年)2月27日 | ||
選挙制度 | 中選挙区制[注釈 1] | ||
改選数 | 467( 1) | ||
議席内訳 | |||
有権者 | 満20歳以上の日本国民 | ||
有権者数 | 4923万5375人 | ||
投票率 | 75.84%(1.62%) | ||
各党別勢力 | |||
党順 | 第1党 | 第2党 | 第3党 |
画像 | |||
党色 | |||
党名 | 日本民主党 | 自由党 |
日本社会党 (左派) |
党首 | 鳩山一郎 | 緒方竹虎 | 鈴木茂三郎 |
就任日 | 1954年11月 | 1954年12月 | 1951年10月 |
前回選挙 | 新党 | 199 | 72 |
選挙前議席 | 124 | 180 | 74 |
獲得議席 | 185 | 112 | 89 |
増減 | 61 | 68 | 15 |
得票数 | 1353万6043票 | 984万9457票 | 568万3312票 |
得票率 | 36.57% | 26.61% | 15.35% |
得票率増減 | 12.39% | 2.22% | |
党順 | 第4党 | 第5党 | 第6党 |
画像 | |||
党色 | |||
党名 |
日本社会党 (右派) | 労働者農民党 | 日本共産党 |
党首 | 河上丈太郎 | 黒田寿男 | 徳田球一[注釈 2] |
就任日 | 1953年1月 | 1948年12月 | 1945年12月 |
前回選挙 | 66 | 5 | 1 |
選挙前議席 | 61 | 5 | 1 |
獲得議席 | 67 | 4 | 2 |
増減 | 6 | 1 | 1 |
得票数 | 512万9593票 | 35万7611票 | 73万3121票 |
得票率 | 13.86% | 0.97% | 1.98% |
得票率増減 | 0.42% | 0.07% | 0.08% |
選挙状況 | |||
| |||
< 1953年1958年 > | |||
第27回衆議院議員総選挙(だい27かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1955年(昭和30年)2月27日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。
概要
[編集]1954年、第5次吉田内閣は総辞職し、12月10日、日本民主党の鳩山一郎を首班とする第1次鳩山内閣が成立した。首班指名選挙に当たって民主党と左右両社会党は、12月9日に党首会談で鳩山内閣成立後の早期衆議院解散に合意し、共同声明を発表した。また、民主党としても少数与党政権を一日も早く脱し、第一党ひいては安定多数を得たいところであった。
1955年1月24日に衆議院は解散された。この選挙で鳩山ブームは爆発的に盛り上がった。鳩山の陽性の人柄と、政権掌握間近にGHQによって公職追放となったことや、病魔に倒れた悲運に対する同情が集まり、民主党の候補者に票が集まった。
本総選挙においてNHK(日本放送協会)は、初めてテレビによる総選挙開票速報を行った[1]。また開局から1年半の日本テレビも開票速報を初めて実施した[2]。
選挙データ
[編集]内閣
[編集]解散日
[編集]解散名
[編集]公示日
[編集]投票日
[編集]改選数
[編集]- 467( 1)
選挙制度
[編集]- 奄美群島が1953年12月に米国より日本へ返還されたことに伴い、この選挙の前年(1954年)に新設された奄美群島選挙区(定数1)において補欠選挙が実施されている(1回目の投票では8名の立候補者全員が有効投票総数の25%に達しなかったため、再選挙を実施)。同選挙区は1992年の公職選挙法改正で鹿児島1区へ編入されるまでの約40年間、中選挙区制度下における唯一の小選挙区であった。
- 投票方法
-
- 秘密投票、単記投票、1票制
- 選挙権
-
- 満20歳以上の日本国民
- 被選挙権
-
- 満25歳以上の日本国民
- 有権者数
-
- 49,235,375(男性:23,556,833 女性:25,678,542)
同日実施の選挙等
[編集]- 国民投票
選挙活動
[編集]党派別立候補者数
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
党派 | 計 | 内訳 | 男性 | 女性 | 公示前 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
前 | 元 | 新 | ||||||
日本民主党 | 286 | 125 | 99 | 62 | 283 | 3 | 124 | |
自由党 | 248 | 171 | 52 | 25 | 246 | 2 | 180 | |
日本社会党(左派) | 121 | 72 | 6 | 43 | 119 | 2 | 74 | |
日本社会党(右派) | 122 | 60 | 19 | 43 | 115 | 7 | 61 | |
労働者農民党 | 16 | 5 | 2 | 9 | 15 | 1 | 5 | |
日本共産党 | 60 | 1 | 15 | 44 | 58 | 2 | 1 | |
諸派 | 37 | 7 | 3 | 27 | 36 | 1 | 1 | |
無所属 | 127 | 4 | 17 | 106 | 122 | 5 | 10 | |
合計 | 1,017 | 445 | 213 | 359 | 994 | 23 | 456 | |
出典:『朝日選挙大観』『北國新聞データベース』 |
選挙結果
[編集]党派別獲得議席
[編集]党派 | 議席数 | 増減 | 得票数 | 得票率 | 公示前 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
日本民主党 | 185 | 61 | 13,536,043 | 36.57% | 124 | ||
自由党 | 112 | 68 | 9,849,457 | 26.61% | 180 | ||
日本社会党(左派) | 89 | 15 | 5,683,312 | 15.35% | 74 | ||
日本社会党(右派) | 67 | 6 | 5,129,593 | 13.86% | 61 | ||
労働者農民党 | 4 | 1 | 357,611 | 0.97% | 5 | ||
日本共産党 | 2 | 1 | 733,121 | 1.98% | 1 | ||
諸派 | 2 | 1 | 496,614 | 1.34% | 1 | ||
無所属 | 6 | 4 | 1,229,081 | 3.32% | 10 | ||
欠員 | 0 | 11 | - | - | 11 | ||
総計 | 467 | 37,014,832 | 100.0% | 467 | |||
有効票数(有効率) | - | - | 37,014,832 | 99.13% | - | ||
無効票・白票数(無効率) | - | - | 323,189 | 0.87% | - | ||
投票者数(投票率) | - | - | 37,338,021 | 75.84% | - | ||
棄権者数(棄権率) | - | - | 11,897,354 | 24.16% | - | ||
有権者数 | - | - | 49,235,375 | 100.0% | - | ||
出典:総務省統計局 戦後主要政党の変遷と国会内勢力の推移 |
- 投票率:75.84%(前回比: 1.62%)
- 【男性:79.95%(前回比: 1.60%) 女性:72.06%(前回比: 1.62%)】
党派別当選者内訳
[編集]党派 | 計 | 内訳 | 男性 | 女性 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
前 | 元 | 新 | |||||
日本民主党 | 185 | 101 | 62 | 22 | 185 | 0 | |
自由党 | 112 | 81 | 25 | 6 | 111 | 0 | |
日本社会党(左派) | 89 | 68 | 4 | 17 | 87 | 0 | |
日本社会党(右派) | 67 | 50 | 9 | 8 | 63 | 0 | |
労働者農民党 | 4 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | |
日本共産党 | 2 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | |
諸派 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
無所属 | 6 | 2 | 2 | 2 | 6 | 0 | |
合計 | 467 | 308 | 104 | 55 | 458 | 0 | |
出典:『朝日選挙大観』 |
政党
[編集]- 2議席(1団体)
議員
[編集]当選者
[編集]日本民主党 自由党 日本社会党(左派) 日本社会党(右派) 労働者農民党 日本共産党 諸派 無所属
補欠当選等
[編集]自由民主党 日本社会党 日本社会党(右派)
年 | 月日 | 選挙区 | 選出 | 新旧別 | 当選者 | 所属党派 | 欠員 | 所属党派 | 欠員事由 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955 | 4.28 | 兵庫4区 | 繰上補充 | 元 | 堀川恭平 | 自由党 | 小畑虎之助 | 日本民主党 | 1955.4.20死去[4] |
5.19 | 愛知4区 | 元 | 小林錡 | 自由党 | 永田安太郎 | 日本民主党 | 1955.5.13死去[5] | ||
6.2 | 岩手1区 | 元 | 山本猛夫 | 日本民主党 | 野原正勝 | 日本民主党 | 1955.5.23被選挙資格喪失 | ||
- | 秋田1区 | (未実施) | 細野三千雄 | 日本社会党(右派) | 1955.6.25死去 | ||||
東京1区 | (未実施) | 安藤正純 | 日本民主党 | 1955.10.14死去 | |||||
埼玉3区 | (未実施) | 杉村沖治郎 | 日本社会党 | 1955.10.17死去 | |||||
1956 | 11.22 | 福岡1区 | 補欠選挙 | 元 | 簡牛凡夫 | 自由民主党 | 緒方竹虎 | 自由民主党 | 1956.1.28死去 |
元 | 中島茂喜 | 自由民主党 | 熊谷憲一 | 自由民主党 | 1956.10.9死去 | ||||
- | 埼玉1区 | (未実施) | 川島金次 | 日本社会党 | 1956.3.26死去 | ||||
香川1区 | (未実施) | 三木武吉 | 自由民主党 | 1956.7.4死去 | |||||
東京3区 | (未実施) | 三輪寿壮 | 日本社会党 | 1956.11.14死去 | |||||
愛知4区 | (未実施) | 伊藤好道 | 日本社会党 | 1956.12.10死去 | |||||
青森1区 | (未実施) | 小笠原八十美 | 自由民主党 | 1956.12.27死去 | |||||
1957 | 9.3 | 福島1区 | 再選挙 | 新 | 小松信太郎 | 日本社会党 | 鈴木周次郎 | 自由民主党 | 1957.7.25当選無効 |
- | 大分2区 | (未実施) | 重光葵 | 自由民主党 | 1957.1.26死去 | ||||
熊本1区 | (未実施) | 大麻唯男 | 自由民主党 | 1957.2.20死去 | |||||
奈良全県区 | (未実施) | 仲川房次郎 | 自由民主党 | 1957.6.6死去 | |||||
福島3区 | (未実施) | 鈴木直人 | 自由民主党 | 1957.9.20死去 | |||||
高知全県区 | (未実施) | 宇田耕一 | 自由民主党 | 1957.12.30死去 | |||||
1958 | 2.9 | 愛媛2区 | 補欠選挙 | 新 | 羽藤栄市 | 日本社会党 | 越智茂 | 自由民主党 | 1957.9.10死去 |
新 | 井原岸高 | 自由民主党 | 砂田重政 | 自由民主党 | 1957.12.27死去 | ||||
- | 千葉2区 | (未実施) | 竹尾弌 | 自由民主党 | 1958.2.8死去 | ||||
愛知3区 | (未実施) | 河野金昇 | 自由民主党 | 1958.3.29死去 | |||||
出典:戦後の補欠選挙 |
初当選
[編集]- 計55名
- ○:貴族院議員経験者
- ●:参議院議員経験者
- 日本民主党
-
- 22名
- 自由党
-
- 6名
- 日本社会党(左派)
-
- 17名
- 日本社会党(右派)
-
- 8名
- 無所属
-
- 2名
返り咲き・復帰
[編集]- 計104名
- 日本民主党
-
- 62名
- 自由党
-
- 25名
- 日本社会党(左派)
-
- 4名
- 日本社会党(右派)
-
- 9名
- 菊地養之輔(宮城1区)
- 細田綱吉 (茨城3区)
- 松尾トシ子(神奈川1区)
- 松岡駒吉 (東京2区)
- 堂森芳夫 (福井全県区)
- 田万広文 (香川2区)
- 松本七郎 (福岡2区)
- 田原春次 (福岡4区)
- 今村等 (長崎1区)
- 労働者農民党
-
- 1名
- 石野久男 (茨城2区)
- 日本共産党
-
- 1名
- 志賀義雄 (大阪1区)
- 無所属
-
- 2名
引退・不出馬
[編集]- 計11名
- 日本民主党
-
- 1名
- 古屋菊男 (山梨全県区)
- 自由党
-
- 7名
- 日本社会党(左派)
-
- 2名
- 日本社会党(右派)
-
- 1名
- 木下郁 (大分1区)
落選
[編集]- 計137名
- 日本民主党
-
- 24名
- 自由党
-
- 90名
- 日本社会党(左派)
-
- 4名
- 日本社会党(右派)
-
- 10名
- 労働者農民党
-
- 2名
- 諸派
-
- 5名
- 無所属
-
- 2名
記録的当選・落選者
[編集]- 最年少当選者 :石橋政嗣(左社・長崎2区) 30歳4ヶ月
- 最高齢当選者 :安藤正純(民主・東京1区) 78歳5ヶ月
- 最多得票当選者 :鳩山一郎(民主・東京1区) 149,541票
- 最少得票当選者 :二階堂進(自由・鹿児島3区) 24,748票
- 最多得票落選者 :野村専太郎(自由・東京1区) 63,316票
- 最多当選 :星島二郎(民主・岡山2区)14回(連続)、鳩山一郎(民主・東京1区)14回
選挙後
[編集]国会
[編集]- 衆議院議長選挙(1955年3月18日 投票者数:459 過半数:230)
- 衆議院副議長選挙(1955年3月18日 投票者数:460 過半数:231)
- 内閣総理大臣指名選挙(1955年3月18日)
- 内閣総理大臣指名選挙(1955年11月22日)
- 衆議院議決(投票者数:438 過半数:220)
- 鳩山一郎 (自民党) :288票
- 鈴木茂三郎(社会党) :150票
- 無効 : 4票
- 内閣総理大臣指名選挙(1956年12月20日)
- 衆議院議決(投票者数:441 過半数:221)
- 石橋湛山 (自民党) :291票
- 鈴木茂三郎(社会党) :150票
- 内閣総理大臣指名選挙(1957年2月25日)
- 衆議院議決(投票者数:407 過半数:204)
- 岸信介 (自民党) :276票
- 鈴木茂三郎(社会党) :129票
- 無効 : 2票
政党
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
民主党は、61議席を増やし第一党となった。自由党は選挙前より68名を減らし、党首脳や閣僚級の大物議員も多数落選した。
左派社会党が17名、右派社会党が1名議席を増加し、革新陣営は全議席の3分の1を超え、鳩山首相が公約としていた憲法改正の発議を阻止できることとなったことが注目される。また、左右社会党は選挙後の再統一を公約にしていたが、この選挙で左派の優位が確定した。
選挙後、3月18日に第22特別国会が召集され、鳩山一郎が内閣総理大臣に指名され、第2次鳩山内閣が組閣された。しかし特別国会冒頭、首班指名に先立ち正副議長の選任で、民主党は鳩山の盟友たる三木武吉を衆議院議長候補としたが、自由党と左右社会党が統一候補として益谷秀次を推したため、三木は議長の座を逸した。第2次鳩山内閣は民主党が第一党ではあるが、相変わらず少数与党であるが故、内政、外交ともに思わしい成果を上げることが難しく、三木は保守合同による自由民主党結成に動くことになる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 石川真澄・山口二郎著『戦後政治史』岩波新書、2010年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
- 上條末夫 (1990年3月). “衆議院総選挙における女性候補者” (PDF). 駒沢大学法学部研究紀要. 2020年2月閲覧。
- 神田広樹 (2014年6月). “戦後主要政党の変遷と国会内勢力の推移” (PDF). 国立国会図書館. 2019年10月閲覧。
- 佐藤令 (2005年12月). “戦後の補欠選挙” (PDF). 国立国会図書館. 2016年5月26日閲覧。
- 衆議院議員総選挙一覽. 第27回 - 国立国会図書館デジタルコレクション