田原春次
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田原 春次(たはら はるじ、1900年(明治33年)7月28日[1] - 1973年(昭和48年)7月14日[1])は、日本の政治家、部落解放運動家。衆議院議員(7期)。
来歴
[編集]福岡県京都郡行橋町(現行橋市)の被差別部落の出身[2]。田原寅次郎の長男[3][4]。豊津中学校(現・育徳館高校)卒業[5]後、早稲田大学に入学し学生団体 黎民創生会の一員として活動した[6]。1922年、早稲田大学専門部法律学科を卒業[3]。翌年渡米しミズーリ州立大学に留学。1924年、福岡日日新聞社に入り同社海外特派員として北米中米南米に滞在[3]。
1928年、帰朝[3]。同年4月東京朝日新聞社に転じ1930年8月まで在社[3]。その後、全国大衆党に入党。機関誌主任になる。農民運動にも参加した。1937年の第20回衆議院議員総選挙で福岡県第4区から社会大衆党公認で立候補して衆議院議員に初当選[7]。戦後は日本社会党の結成に参加し、1946年の第22回総選挙で再選されたが[7]、その後、公職追放となる[8]。追放解除後、1952年の第25回総選挙で福岡県第4区から出馬して再選され、以後、第27回、第29回から第31回総選挙まで再選され、衆議院議員に通算7期在任した[7]。また。1960年から部落解放同盟福岡県連委員長を務めた[1]。1969年に政界を引退。1973年に没した。
人物
[編集]宗教はキリスト教[4][9]。趣味はスポーツ、映画[4]、読書など[3][9]。住所は福岡県北九州市門司区[3][9]、東京都八王子市台町[4]。
家族・親族
[編集]- 田原家
- 父・寅次郎[3][4]
- 妻・ハル子[3]あるいはハル[4](1904年[3]あるいは1903年[4] - ?)
- 長女[3][9]
- 二女[3][9]
- 三女[4][9]
- 長男[3][9]
- 二男[4][9]
- 弟・吉川兼光(衆議院議員)[10]
脚注
[編集]- ^ a b c 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』386頁。
- ^ 『賎民の後裔』215頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『早稲田大学紳士録 昭和15年版』496-497頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年11月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第15版 下』タ20頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年5月12日閲覧。
- ^ “出版:「反骨の礎」ぜひ知って 行橋の郷土史研究家・小正路さん 「堺利彦と葉山嘉樹」出版”. 毎日新聞西部本社. (2021年5月23日)
- ^ 朝治武 2013, pp. 91–94.
- ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』365頁。
- ^ 公職追放の該当事項は「興亜総本部南方局第二部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、612頁。NDLJP:1276156。 )
- ^ a b c d e f g h 『大衆人事録 第二十三版 西日本編』た499頁。
- ^ 『増補 新豊前人物評伝』284頁。
参考文献
[編集]- 朝治武『差別と反逆 平野小剣の生涯』筑摩書房、2013年。ISBN 978-4-480-88529-6。
- 早稲田大学紳士録刊行会編『早稲田大学紳士録 昭和15年版』早稲田大学紳士録刊行会、1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 広瀬弘『大衆人事録 第二十三版 西日本編』帝国秘密探偵社、1963年。
- 北原泰作『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』筑摩書房、1974年。
- 中村十生『増補 新豊前人物評伝』新豊前人物評伝刊行会、1978年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
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