岸田正記
岸田 正記 きしだ まさき | |
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![]() 海軍参与官時代 | |
生年月日 | 1895年12月1日 |
出生地 |
![]() [注 1] |
没年月日 | 1961年6月3日(65歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法学部卒業 |
前職 |
不動産業 百貨店経営 |
所属政党 |
立憲政友会 昭和会 立憲政友会革新同盟 日本進歩党 自由党 |
称号 | 法学士(京都帝国大学) |
配偶者 | 岸田和子 |
親族 |
息子・岸田文武 娘・玲子(宮澤弘の妻) 孫・岸田文雄、宮澤洋一 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1928年 - |
選挙区 | 旧広島1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1953年 - 1955年 |
岸田 正記(きしだ まさき、1895年〈明治28年〉12月1日[1] - 1961年〈昭和36年〉6月3日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員。元幾久屋百貨店主。 元衆議院議員岸田文武の父。元広島県知事宮澤弘(元内閣総理大臣宮澤喜一の実弟)の岳父。元科学技術庁長官岩動道行は妻・和子のいとこ[2]。衆議院議員で第100・101代内閣総理大臣の岸田文雄や参議院議員宮澤洋一などは孫。
経歴[編集]
西志和高等小学校卒業。1913年(大正2年)、広島県立広島商業学校卒業。広商時代の同級生に大木惇夫がいる。長崎高等商業学校[5]、京都帝国大学法学部卒業[3]。在学中の1922年(大正11年)高等文官試験行政科合格[6]。
先代経営の貸家業を継ぎ1933年(昭和8年)に幾久屋百貨店を創立[7]。
1928年(昭和3年)に立憲政友会公認で第16回衆議院議員総選挙に立候補して初当選し政界に入った[8]。以後6期連続当選、はじめは政友会に所属したが1935年(昭和10年)に昭和会が結党されると政友会を離党して昭和会に参加し、昭和会解党後の1939年(昭和14年)に政友会が分裂すると他の政友会出身の旧昭和会所属議員とともに政友会革新同盟に復党した。その間第1次近衛内閣の海軍参与官、小磯内閣の海軍政務次官、翼賛政治会国防委員長等を歴任した[3]。
戦後、日本進歩党の結党に参加するが公職追放。追放解除後の1953年(昭和28年)に衆議院議員に当選。代議士に復帰し1期務めたほか、自由党総務、幾久屋商事社長、穏田マンション社長を歴任した[3]。
人物像[編集]
宗教は真宗[4]。趣味は庭球、乗馬[4]。本籍は広島県賀茂郡西志和村[6] [注 1]。住所は広島市段原町[6]。
東京・千駄ヶ谷の穏田にあった岸田の邸宅は白亜の洋館で、「穏田マンション」と呼ばれた[9]。これは東京で「マンション」と呼ばれた初めての建物であった[9]。
1953年の総選挙での当選後、吉田茂首相(当時)から文部大臣か国務大臣(保安庁長官)への就任を打診されるも辞退し、財界からの要望を受け保守同士内紛の停止及び安定政権確立のため連携工作に携わった。[10]
家族・親族[編集]
岸田家[編集]
- 叔父
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 衆議院『第五十五回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1928年、26頁。
- ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』211頁
- ^ a b c d e 『政治家人名事典』170頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)キ・四五頁
- ^ 『小傳 岸田正記』(博文社、1983年)
- ^ a b c 『廣島縣紳士録』昭和八年版、八四頁
- ^ a b c 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9年)キ・七七頁
- ^ 広島1区 - 第16回衆議院議員選挙 - イチニ株式会社が運営するサイト・選挙ドットコム内のページ。
- ^ a b 「岸田俊輔広島銀行前会長と節子夫人」(上) 『週刊新潮』 連載「結婚記念日」 157
- ^ 『小傳 岸田正記』(博文社、1983年)140頁
- ^ 『小傳 岸田正記』(博文社、1983年)16頁
- ^ 猪野三郎監修『第十二版 大衆人事録』(昭和12年)東京・二四〇頁
- ^ a b c 『人事興信録. 10版』(昭和9年)キ六七
参考文献[編集]
- 猪野三郎監修『第十版 大衆人事録』(昭和9(1934)年)キ四五・七七頁
- 『政治家人名事典』(1990年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)170頁