コンテンツにスキップ

芦田均

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
芦田 均
あしだ ひとし
芦田の肖像写真
生年月日 1887年11月15日
出生地 日本の旗 日本 京都府天田郡宮村
(現・福知山市宮)
没年月日 (1959-06-20) 1959年6月20日(71歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都港区
出身校 東京帝国大学法学部仏法科卒業
前職 在ベルギー日本大使館参事官
所属政党立憲政友会→)
正統派立憲政友会→)
(無所属→)
翼賛政治会→)
日本自由党→)
民主党→)
国民民主党→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
法学博士(東京帝国大学・1912年
配偶者 芦田寿美
子女 長女:下河辺美世
次女:遠藤ルリ
長男:芦田治太郎(夭折)
次男:芦田富(海上自衛隊)[1]
親族 芦田鹿之助(父)[2]
下河辺三史(娘婿)
下河辺元春(孫)
下河辺晴三(孫)
サイン

内閣 芦田内閣
在任期間 1948年3月10日 - 1948年10月15日
天皇 昭和天皇

内閣 片山内閣
在任期間 1947年6月1日 - 1948年3月10日

日本の旗 第67・68代 外務大臣
内閣 片山内閣(副総理兼任)
芦田内閣(首相兼任)
在任期間 1947年6月1日 - 1948年10月15日

日本の旗 第13代 厚生大臣
内閣 幣原内閣
在任期間 1945年10月9日 - 1946年5月22日

選挙区 (京都府第3区→)
(京都府全府区→)
京都府第2区
当選回数 11回
在任期間 1932年2月21日 - 1959年6月20日
テンプレートを表示

芦田 均(あしだ ひとし、1887年明治20年〉11月15日 - 1959年昭和34年〉6月20日)は、日本外交官政治家位階従二位勲等勲一等学位法学博士東京帝国大学)。

衆議院議員(11期)、厚生大臣第13代)、外務大臣(第6768代)、内閣総理大臣(第47代)を歴任した。

概説

[編集]

外交官を経て政界入り。立憲政友会に所属して外務省とのパイプ役を務めた。軍国主義が広まる議会においてリベラリストとして活動した。戦後は自由党の結成に関与した後、離党して民主党を結党し、副総理を経て芦田内閣首班した。

生涯

[編集]

前半生

[編集]
1931年外交官時代

芦田は1887年11月15日京都府天田郡宮村(後に中六人部村を経て現在の福知山市)に生まれた。生家は豪農であった。社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナーであり、大学時代の同級生でもあった片山哲は、芦田の死後まもなく衆議院本会議で行った追悼演説で、芦田が政界に入るまでをこのように述べている。

芦田君は、(中略)元本院議員芦田鹿之助氏の次男として生まれ、長じて第一高等学校を経て東京大学法学部に学ばれました。(中略)在学中、すでに外交官及び領事官試験に合格せられたのであります。明治四十五年、卒業とともに、露国在勤の外交官補として赴任せられ、外交官生活の第一歩を踏み出されたのであります。その後、大使館三等書記官、外務書記官兼参事官、大使館一等書記官として欧州各国に歴任せられたのでありますが、(中略)昭和七年、ベルギー在勤の大使館参事官を最後として退官し、当時横暴をきわめておりましたる軍部外交と戦わんがために、直ちに立憲政友会に入党し、同年二月の第十八回衆議院議員総選挙京都府第二区から立って、みごと当選の栄冠を得られたのであります。 — 片山哲、「第32回国会 衆議院本会議 1959(昭和34)年6月24日」[3]

芦田は東京帝国大学を卒業後、1912年外務省に入り外交官となった。最初の勤務地ロシアではロシア革命に接し、1918年に赴任したフランスではパリ講和会議を目にしている。1925年には一等書記官として、日土間の国交樹立にともないトルコイスタンブールに開設された日本大使館[注釈 1]へ赴任した。1928年10月から1929年11月にかけて初代駐トルコ大使である小幡酉吉の帰朝にともない臨時代理大使を務め、この間に参事官へと昇格した[4]。トルコでの芦田は「海峡問題」(ボスポラス海峡ダーダネルス海峡の通航制度)やバルカン諸国などについて研究し、両海峡の通航制度史と当時の通航制度であったローザンヌ条約の問題点をまとめた学位請求論文「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」を執筆すると、母校である東京帝国大学に提出して1929年に法学博士[5]を授与された。なお、この論文は翌年『君府海峡通航制度史論』として出版されている。1930年からは駐ベルギー大使館勤務となり、1932年に退官して帰国すると政界へ転身した。

芦田は戦前・戦中を通してリベラルな政治姿勢で知られており、斎藤隆夫反軍演説の際には、牧野良三宮脇長吉らとともに除名に反対票を投じた。政友会解党後は鳩山一郎率いる同交会に入り、1942年第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で当選した。議会の外では言論人としても活躍し、外交官時代の『君府海峡通航制度史論』のほか、政治家への転身後も執筆活動を続け時局や外交に関する著書を多く発表している。政界入り後の1933年から1939年にかけてジャパンタイムズの社長を務めたほか、ダイヤモンド社石山賢吉などとも親交を持った。

戦後の活動

[編集]

1945年(昭和20年)10月1日安部磯雄賀川豊彦有沢広巳馬場恒吾らと自由懇話会を結成[6]

憲法9条と芦田修正

[編集]

戦後まもなく、衆議院帝国憲法改正小委員会の憲法改正草案の審議において、「芦田修正」と呼ばれる修正が行われた。この修正は芦田の試案などが重要なたたき台となっており、芦田の意図なども含め、後の憲法論議における重要な論点となっている。

芦田内閣の発足

[編集]
1945年10月9日幣原内閣の閣僚らと(後列右から3人目)
1948年3月10日芦田内閣の閣僚らと(前列右から3人目)

1948年3月、芦田内閣が発足した。芦田内閣においては戦後日本の基礎となる多くの法律が成立している。新憲法に基づく刑事訴訟法の全面改正や警察組織の抜本改革(旧警察法の制定)、国家行政組織法とそれに基づく中小企業庁石炭庁建設省海上保安庁水産庁経済調査庁といった各行政庁の設置法、教育委員会法日本学術会議法、警察官職務執行法行政代執行法地方財政法検察審査会法軽犯罪法風営法などがそれである。しかし、芦田自身が総理大臣として対応したのはインフレ対策や労働攻勢への対処であった。GHQは中道の芦田政権に好意的で、これらの課題を後押ししたが、政権は脆弱な政権基盤と野党自由党からの攻撃に苦慮し続け、独自の政策を打ち出す余裕は乏しかった。芦田は当時、誰が担当しても連合国の政策に沿う以外はなかったと書いている。これは一面の真理ではあるが、吉田茂首相が同じく占領政策の枠内にありながら、マッカーサーや、しばしば米国政府とも直接渡り合って自らの政策実現に尽力したような指導力を持ち得なかったという事情も大きかった。

前任者の片山が社会党委員長でかつ熱心なクリスチャンでありながら、昭和天皇の護持に心を砕いたのに対し、芦田は「新憲法になって以後、余り陛下が内政外交に御立入りになる如き印象を与えることは、皇室のためにも、日本のためにも良いことではない」と、憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任まもなく芦田は、これ以降閣僚の内奏を取り止める旨を奏上した。芦田自身は外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、鈴木一侍従次長は「陛下は外交問題について御宸念遊ばしてゐる(中略)外務大臣が内奏に見えないのか(中略)見えるなら土曜日でもよろしい」と、当時外務事務次官だった岡崎勝男に伝え、芦田は「御上の思召」なら行くべきと判断し宮中参内した。

芦田内閣の崩壊

[編集]

だが芦田内閣は約半年で、西尾献金問題と昭和電工事件で惨憺たる結末を迎えた。西尾献金問題では派生して政党創設問題が浮上して、芦田自身も証人喚問をされた。昭和電工事件で1948年10月に芦田内閣が総辞職し、芦田自身も収賄で起訴された。しかし、判決は「金をもらって昭和電工に対して便宜を図らせることを栗栖大蔵大臣に働きかけていた」ことは認定したが、「外務大臣の芦田には職務権限はない」として無罪だった。このことを受けて、1958年に刑法改正で斡旋収賄罪が設けられた。昭和電工事件で事情聴取された者は約2,000人、逮捕者64人(うち現職国会議員10人)。裁判の結果は有罪2名のみだった。

首相退任後

[編集]

政治家としては、1955年保守合同に参加、自由民主党の外交調査会長に就任。ハンガリー動乱の際にはソ連に批判的な立場から「日本ハンガリー救援会」を組織している。晩年の約10年は、史書を著す事に重点を置いた。『芦田日記』は占領期の歴史を当事者の立場で書く為の備忘録だった。1959年に『第二次世界大戦外交史』を病床で口述筆記により完成させた。同年6月20日、東京都港区白金の自宅にて死去。享年71。衆議院議員の在任中で、4日後の6月24日には衆議院本会議で片山哲により追悼演説が行われた。なお地盤は谷垣専一が引き継いだ。墓所は横浜市総持寺

著書『革命前夜のロシア』は、会話文を駆使した、ほとんど小説の趣がある回想録で、日本の現役政治家の著作としてはきわめて異色である。鴨下信一は『忘れられた名文たち』(文藝春秋、1998)で2頁半もの引用の後「ああ、これはそっくりチェホフだ。日本にはこういう文章を書く政治家もいたのである」と評している。

年譜

[編集]

栄典

[編集]

親族関係

[編集]

芦田はよく「私は丹波の百姓の息子で…」と言って吉田茂の貴族趣味・名門びいきに対抗していたが[10]、芦田家は農家といっても豪農(綾部藩の大庄屋)であり、父・鹿之助も衆議院議員を務めた政治家でもあった。均は寿美夫人との間に2男2女をもうけたが[11]、長女・美世(1919年生)([12]は日本鉱業(のちのジャパンエナジー)の社長を務めた下河辺建二の次男・下河辺三史[11][13][14]、次女・ルリ(1925年生)([12]は大蔵官僚の遠藤胖に嫁ぎ[13]、サチ、チサ、三郎を儲けた[15]。長男・治太郎(1922年生)[12]は9歳で早世[11]、次男・富(1924年生)([12]海上自衛隊に入った[11]、、なお娘にヤス子がいる[15]。富の妻は芦田と同じ外交官仲間の吉沢清次郎の次女で、吉沢の長女は大蔵省財務官や東京銀行会長を務めた柏木雄介の兄・柏木一郎に嫁いだ。吉沢の義父は鐘紡元社長の武藤山治で、妻の姉は中上川彦次郎の息子に嫁いだ。義兄は同じく鐘紡社長を務めた武藤絲治(山治の次男)である。

吉沢の長女の嫁ぎ先である柏木一郎の弟・雄介の妻は大日本明治製糖創業家一族の相馬敏夫(敏夫の義父は相馬半治)の娘で、相馬のもう一人の娘(柏木雄介夫人の姉)は大日本麦酒社長や高橋ユニオンズのオーナーも務めた高橋龍太郎の甥に嫁いだ。龍太郎の長男は住友銀行副頭取からアサヒビール社長へ転出した高橋吉隆で、次男・高橋敏夫の娘(吉隆の姪)は元衆議院議長で大蔵官僚出身の伊吹文明に嫁いだ。吉隆の妻は山口財閥の創業家出身で、その係累をたどれば一万田尚登につながる。また、吉隆の四女(龍太郎の孫娘)は野村證券の創業者一族である野村文英に嫁いでおり、芦田家は吉沢家・柏木家・相馬家・高橋家を通して野村財閥の創業家と縁戚になった。柏木雄介の義弟である相馬克美の義父は元東邦ガス会長の青木清で(青木の義父は元日銀総裁の結城豊太郎)、青木の妻の姉は藤山雷太の長男・藤山愛一郎に嫁いでいる。愛一郎の長男・藤山覚一郎はヤマサ醤油の濱口家から夫人を迎えており、愛一郎の長女はサクラクレパスの創業家に嫁いだ。

芦田の娘婿・下河辺三史の兄にあたる下河辺孫一(建二の長男)は下河辺牧場の創業者であり[13][14]、下河辺孫一の次女・牧子ドイツ文学者小澤俊夫に嫁いだ[13][14][16]ミュージシャンで元フリッパーズ・ギター小沢健二は俊夫・牧子夫妻の次男である[16]。小沢健二を通じて、首相経験者の松方正義、山本権兵衛、実業家の岩崎弥太郎・弥之助兄弟、政治家の後藤象二郎、医師の緒方洪庵、その弟子の福沢諭吉らと親戚関係にある。(詳細は松方正義の項参照) 小澤俊夫の弟・小澤征爾は有名な指揮者で、征爾の前妻・江戸京子はピアニストで三井不動産元会長の江戸英雄の長女である。しかし征爾は江戸京子と離婚した後、ファッションモデルの入江美樹と再婚。美樹夫人との間に長女でエッセイストの小澤征良、長男で俳優・タレントの小澤征悦をもうけている。

また下河辺三史・美世夫妻の長男で、芦田の孫にあたる下河辺元春国際政治学者進藤榮一とともに『芦田均日記』(全7巻 岩波書店)の編纂にあたったことで知られている[11]。下河辺元春の弟・下河辺晴三(三史・美世夫妻の三男)は音楽プロデューサーとなった[14]、なお元春の弟で晴三の兄は史郎である[15]

著書

[編集]

単著

[編集]
以下は改題新編

訳書

[編集]

日記

[編集]
岩波書店(1986年刊)
柏書房(2012年刊)

論文

[編集]
  • 墺太利滅亡史の考察」『史学』第19巻第4号、三田史学会、1941年3月、1-65頁、NAID 110007472208 
  • 最近の国際情勢」『建築雑誌』第675号、日本建築学会、1941年6月、418-425頁、NAID 110003778794 
  • 「ロシアのテロリスト」『文藝春秋』第28巻第3号、文藝春秋新社、1950年3月、144-153頁、NAID 40003427669 
  • 「ロシヤ皇后とラスプチン」『中央公論』第65巻第6号、中央公論社、1950年6月、144-155頁、NAID 40002401690 
  • 「永世中立不可能論」『文藝春秋』第28巻第11号、文藝春秋新社、1950年7月、2-7頁、NAID 40003427307 
  • 「W・チャーチルの教養」『新潮』第47巻第7号、新潮社、1950年7月、64-70頁、NAID 40001923320 
  • 「自由と平和のための闘い」『文藝春秋』第29巻第4号、文藝春秋新社、1951年3月、32-38頁、NAID 40003427492 
  • 「単独講和論の一盲点について――小野君への回答」『中央公論』第66巻第3号、中央公論社、1951年3月、87-89頁、NAID 40002402825 
  • 「国際情勢とわが国の地位」『日労研資料』第115号、日本労働研究所、1951年3月、3-6頁、NAID 40002800472 
  • 「日本は狙われている」『婦人公論』第37巻第4号、中央公論社、1951年4月、24-30頁、NAID 40003329579 
  • 「再軍備は是か非か――自由と平和を衛る軍備」『世界週報』第32巻第28号、時事通信社、1951年10月、16-18頁、NAID 40002148687 
  • 「安全保障と再軍備――米ソ戦の場合の日本」『東洋経済新報 別冊』第5号、東洋経済新報社、1951年10月、41-46頁、NAID 40002657626 
  • 「能見物」『観世』第19巻第1号、檜書店、1952年1月、5-6頁、NAID 40000562028 
  • 「自由と平和を衛る軍備は絶対に必要」『東邦経済』第13巻第2号、東邦経済社、1952年2月、23-24頁、NAID 40002636270 
  • 「政府の不手際な行動――安保条約の行政協定に就て」『東邦経済』第13巻第4号、東邦経済社、1952年4月、14-15頁、NAID 40002636700 
  • 「法学者はどう考えるか――戦争放棄と戦力」『世界』第77号、岩波書店、1952年5月、48-50頁、NAID 40002110577 
  • 「自ら守らざる民は滅ぶ」『経済時代』第17巻第6号、経済時代社、1952年6月、16-23頁、NAID 40000872965 
  • 「吉田は引退するか」『文藝春秋』第32巻第17号、文藝春秋新社、1954年11月、112-119頁、NAID 40003426429 
  • 「トインビー博士の偉業」『日本歴史』第80号、吉川弘文館、1955年1月、2-4頁、NAID 40003063316 
  • 「ソ連の対日要求は不当」『新政界』第2巻第1号、新政界社、1956年1月、NAID 40001908351 
  • 「新憲法の生れるまで」『中央公論』第71巻第5号、中央公論社、1956年5月、40-47頁、NAID 40002388466 
  • 「民主主義の新聞」『新聞研究』第62号、日本新聞協会、1956年9月、21-23頁、NAID 40001960538 
  • 「日ソ交渉についての二つの発言-慎重論の立場から」『世界』第131号、岩波書店、1956年11月、65-70頁、NAID 40002093943 
  • 「自由解放の精神――ソ連の東欧進入と衛星諸国」『経済時代』第21巻第12号、経済時代社、1956年12月、24-28頁、NAID 40000872738 
  • 「日本はどっちを向いている」『経済往来』第9巻第10号、経済往来社、1957年10月、117-128頁、NAID 40000844163 
  • 「ロシア・バレーの今昔」『文藝春秋』第35巻第11号、文藝春秋新社、1957年11月、NAID 40003426082 
  • 「「新思潮」の前後」『文学界』第12巻第1号、文藝春秋、1958年1月、NAID 40003394176 
  • 「核兵器時代の外交」『大陸問題』第7巻第3号、大陸問題研究所、1958年3月、10-29頁、NAID 40002299754 
  • 「日米開戦まで(1)――近衛内閣と国交の調整」『世界週報』第40巻第14号、時事通信社、1959年4月、62-74頁、NAID 40002125506 
  • 「日米開戦まで(2)――独ソ戦争」『世界週報』第40巻第15号、時事通信社、1959年4月、74-82頁、NAID 40002125511 
  • 「日米開戦まで(3)――英米の対ソ援助」『世界週報』第40巻第16号、時事通信社、1959年4月、72-74頁、NAID 40002125518 
  • 「日米開戦まで(4)――独ソ開戦と日本」『世界週報』第40巻第17号、時事通信社、1959年4月、76-83頁、NAID 40002125524 
  • 「日米開戦まで(5)――大西洋会談後の日本」『世界週報』第40巻第18号、時事通信社、1959年5月、70-83頁、NAID 40002125533 
  • 「日米開戦まで(6)――米、英、蘭の報復」『世界週報』第40巻第19号、時事通信社、1959年5月、78-83頁、NAID 40002125542 
  • 「日米開戦まで(7)――近衛ついに身をひく」『世界週報』第40巻第20号、時事通信社、1959年5月、72-83頁、NAID 40002125543 
  • 「日米開戦まで(8)――近衛より東条へ」『世界週報』第40巻第21号、時事通信社、1959年5月、78-83頁、NAID 40002125551 
  • 「日米開戦まで(9)――対日戦備と最後協定案」『世界週報』第40巻第22号、時事通信社、1959年5月、76-83頁、NAID 40002125559 
  • 「日米開戦まで(10)――一路破局へ」『世界週報』第40巻第23号、時事通信社、1959年6月、74-83頁、NAID 40002125497 
  • 「日米開戦まで(11)完――日米開戦の幕、切って落さる」『世界週報』第40巻第24号、時事通信社、1959年6月、78-83頁、NAID 40002125568 
  • 帝国議会における両院委員長報告 議事速記録全文」『政教研究所紀要』第1号、国士舘大学政教研究所、1974年4月、207-256頁、NAID 120005959011 

博士論文

[編集]
  • 「国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位」、東京帝国大学、1929年4月16日、NAID 500000486775 

評伝・研究

[編集]

関連作品

[編集]
映画
テレビドラマ

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1925年当時、各国大使館の多くはオスマン帝国時代の首都イスタンブールから移転しておらず、日本も新首都アンカラではなくイスタンブールに大使館を開設した。松谷『イスタンブールを愛した人々』、pp.140-142.
  2. ^ ただし、フランスの短編小説『青髭と七人の妻』は1912年に『雄弁』に掲載された作品に過ぎないという記録もある。松田義男編 (2003年4月28日). “芦田均著作目録”. http://ymatsuda.kill.jp/. 2019年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月25日閲覧。

出典

[編集]
  1. ^ 「経済交渉」から読み解く日米戦後史の真実
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 35頁。
  3. ^ 衆議院会議録情報 第032回国会 本会議 第2号
  4. ^ 松谷『イスタンブールを愛した人々』、p.130.
  5. ^ 国立国会図書館. “博士論文『国際法及国際政治ヨリ見タル黒海並ニ君府海峡ノ地位』”. 2024年4月25日閲覧。
  6. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、345頁。ISBN 4-00-022512-X 
  7. ^ 芦田均と 『ジャパン・タイムズ』―1930年代における日本の対外宣伝の一側面矢嶋光、名城法学 65(1・2) 23-54 2015年11月
  8. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  10. ^ 佐藤『閨閥』、p.292.
  11. ^ a b c d e 『池上彰と学ぶ日本の総理 30』、p.25.
  12. ^ a b c d https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-743
  13. ^ a b c d 佐藤『閨閥』、p.293.
  14. ^ a b c d 『財界家系譜大観』 第6版 - 第8版。
  15. ^ a b c 竹内正浩:「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇
  16. ^ a b 小谷野『日本の有名一族』、pp.47-49.
  17. ^ 第2集は金森徳次郎

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
公職
先代
片山哲
日本の旗 内閣総理大臣
第47代:1948年
次代
吉田茂
先代
幣原喜重郎
日本の旗 国務大臣副総理
1947年 - 1948年
次代
西尾末廣
先代
吉田茂
日本の旗 外務大臣
第67・68代:1947年 - 1948年
次代
吉田茂
先代
松村謙三
日本の旗 厚生大臣
第13代:1945年 - 1946年
次代
河合良成
先代
吉田茂
日本の旗 終戦連絡中央事務局総裁
第3代:1947年 - 1948年
次代
曽祢益
党職
先代
結成
日本民主党最高委員
初代 : 1954年 - 1955年
次代
自由民主党
先代
結成
民主党総裁
初代 : 1947年 - 1948年
次代
犬養健
先代
星島二郎
日本自由党政務調査会長
第4代 : 1946年 - 1947年
次代
大村清一