松沢雄蔵

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松沢 雄蔵
まつざわ ゆうぞう
生年月日 (1910-12-03) 1910年12月3日
出生地 日本の旗 山形県最上郡真室川村
没年月日 (1983-06-12) 1983年6月12日(72歳没)
出身校 満蒙学校本科
前職 真室川村長
所属政党無所属→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章
正三位

内閣 三木内閣
在任期間 1974年12月9日 - 1976年9月15日

選挙区 旧山形2区
当選回数 9回
在任期間 1955年2月28日 - 1980年5月19日

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松沢 雄蔵(まつざわ ゆうぞう、1910年12月3日 - 1983年6月12日)は、日本政治家自由民主党衆議院議員(9期)、第39代行政管理庁長官真室川村村長1981年勲一等旭日大綬章1983年正三位

来歴・人物[編集]

山形県最上郡真室川村(現・真室川町)に、300年以上続く庄屋の三男として生まれる。旧制新荘中学校(現・山形県立新庄北高等学校)を経て、満蒙学校本科を卒業[1]1935年南満州鉄道の系列会社である同和自動車工業に入社、1940年昭和通商に転じる。1941年より同社の支那代表部に勤務、大戦中は中国大陸で過ごした。

戦後の1947年、真室川村長に当選[1]。当時は豪雨による河川の氾濫が相次ぎ、水害克服のため奮闘、県庁や中央官庁にも度々陳情を行った。地元選挙区の代議士であった池田正之輔は、松沢の陳情に快い返事をしていたが、中央官庁からは水害救済について手が回ってこないため、改めて関係省庁を訪れると、池田が引き受けたはずの救済策について、担当者は何も聞かされていなかったことが判明した。このようなことが遠因となり、後に山形保守政界において松沢-池田は宿敵の間柄として認知されるに至る。

1952年、陳情の成果が上がらないことに業を煮やし衆議院議員総選挙への立候補を決意。社会党から公認を得ようとするも失敗(注:右派社会党左派社会党のいずれに働き掛けたかは不明。両方か?)、無所属で旧山形2区から出馬するも、得票数8位で落選した。続く1953年にも7位落選。1955年にようやく、根本龍太郎川島正次郎ラインの引きで日本民主党の公認を得て当選[1]、以後当選9回(当選同期に愛知揆一田村元椎名悦三郎唐沢俊樹高村坂彦渡海元三郎丹羽兵助など)。

保守合同後は岸派川島派椎名派中川派に所属。建設政務次官、自由民主党副幹事長などを歴任。また米価値上げを強硬に主張するベトコン議員として名を馳せ、農業者年金の生みの親ともいわれた[1]

1974年12月9日三木内閣行政管理庁長官として入閣するが、1976年9月15日内閣改造により同長官退任。

1980年5月19日衆議院解散ハプニング解散)により議員辞職し政界を引退。選挙地盤は山形県議であった近岡理一郎が引き継いだ[2]

このほか山形テレビの発足にあたっては調停人を務めた[3]

1983年6月12日死去。72歳没。

衆議院議員選挙歴[編集]

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『新版山形県大百科事典』p.638
  2. ^ a b 「ドン亡き後の”乱戦山形知事選を読む”史上初の保守乱立知事選 山新・山交グループの彷徨 小田桐誠」『創』1993年3月号
  3. ^ 「山形のドン 「服部天皇死去後の波紋」山形テレビをめぐる暗闘の背景(下) 小田桐誠」『創』1992年5月号

参考文献[編集]

  • 『官報』1981年5月8日 号外 35 叙位・叙勲
  • 『官報』1983年6月20日 本紙 16912 叙位・叙勲
  • 山形放送株式会社新版山形県大百科事典発行本部事務局編 『新版山形県大百科事典』 山形放送、1993年。
議会
先代
高橋英吉
日本の旗 衆議院法務委員長
1971年 - 1972年
次代
谷川和穂
先代
砂原格
日本の旗 衆議院逓信委員長
1967年 - 1968年
次代
古川丈吉
先代
田口長治郎
日本の旗 衆議院社会労働委員長
1965年 - 1966年
次代
田中正巳
公職
先代
細田吉蔵
日本の旗 行政管理庁長官
第39代:1974年 - 1976年
次代
荒舩清十郎