増原惠吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
本来の表記は「增原惠吉」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。
増原 惠吉
Keikichi Masuhara May 18 1954 Yomiuri.png
防衛庁次長当時の増原
生年月日 1903年明治36年)1月13日
出生地 日本の旗 日本 愛媛県北宇和郡宇和島町
(現宇和島市
没年月日 1985年昭和60年)10月11日
出身校 東京帝国大学法学部
前職 内務官僚
所属政党 自由民主党
称号 勲一等旭日大綬章

当選回数 1
在任期間 1947年 - 1950年

内閣 第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間 1964年7月18日 - 1965年6月3日

内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 - 1971年8月1日

内閣 第1次田中内閣
第2次田中内閣
在任期間 1972年7月7日 - 1973年5月29日

選挙区 香川県選挙区
愛媛県選挙区
当選回数 4
在任期間 1957年 - 1977年
テンプレートを表示

増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年明治36年)1月13日 - 1985年昭和60年)10月11日)は、日本の内務防衛官僚、政治家。香川県知事(官選、公選)、参議院議員自民党[1]行政管理庁長官北海道開発庁長官防衛庁長官を歴任した。

経歴[編集]

愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で生まれた[2]。増原定蔵の次男[2][3]

宇和島中学校第一高等学校を経て1928年昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業[2]文官高等試験に合格して内務省に入省[1][2]警察畑を歩いたのち1946年(昭和21年)6月、香川県知事に就任した[2]。官選知事として終戦後混乱期の処理と南海大地震の復旧にあたり1947年(昭和22年)4月最初の公選知事に当選、香川大学の設置などに尽力した[2]吉田茂首相に請われ1950年(昭和25年)に知事を辞職して警察予備隊本部長官に就任[2]1952年(昭和27年)に保安庁次長1954年(昭和29年)に防衛庁次長になった[1][2]1957年(昭和32年)6月、香川地方区から参議院議員補欠選挙に初当選[2]1959年(昭和34年)の参院選からは愛媛地方区に移った[2]。香川補選から数えて連続当選4回、1977年(昭和52年)まで国会議員を20年間務めた[2]

行政管理庁長官、北海道開発庁長官、防衛庁長官などを歴任[1]。特に防衛庁長官は、第3次佐藤改造内閣で就任したが全日空機雫石衝突事故で1ヶ月足らずで辞任、第1次田中内閣で再び就任し第2次田中内閣で留任したが、増原内奏問題により再度辞任に追い込まれた[1][2]

1985年(昭和60年)10月11日、死去。享年83(82歳没)。

人物像[編集]

趣味野球相撲[3]宗教仏教[3]愛媛県宇和島市在籍[3]。住所は東京都渋谷区千駄ヶ谷[3]

長女は丸井グループ名誉会長青井忠雄に、三女は元国鉄スワローズ選手の佐々木重徳に嫁いだ。また三女は酒井佑子の名で歌人としても知られる。

家族・親族[編集]

増原家[編集]

愛媛県宇和島市東京都渋谷区千駄ヶ谷

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』566頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 郷土の先人 - 愛媛県立宇和島東高等学校近畿同窓会
  3. ^ a b c d e f 第二十一版 人事興信録(下)』(昭和36年)ま・四三頁
  4. ^ a b c d e f g h 第十六版 人事興信録(下)』(昭和26年)ま・二三頁

参考文献[編集]

  • 新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』(2003年、編集・発行 - 日外アソシエーツ)566頁

関連項目[編集]


議会
先代:
中山太郎
日本の旗 参議院内閣委員長
1977年
次代:
塚田十一郎
先代:
新谷寅三郎
日本の旗 参議院地方行政委員長
1960年 - 1961年
次代:
小幡治和
公職
先代:
中曽根康弘
西村直己
日本の旗 防衛庁長官
1971年
1972年 - 1973年
次代:
江崎真澄
山中貞則
先代:
佐藤栄作
池田勇人(臨時代理)
日本の旗 北海道開発庁長官
1964年 - 1965年
次代:
福田篤泰
先代:
山村新治郎 (10代目)
日本の旗 行政管理庁長官
1964年 - 1965年
次代:
福田篤泰